単行本時に共感度96%(ブクログ調べ)を叩き出し、圧倒的支持を得た椰月美智子さんの『明日の食卓』。どこにでもある普通の家族に起こり得る光と闇を描き切った本作が、満を持して映画化されます!
フリーライターの石橋留美子を菅野美穂さん、シングルマザーの石橋加奈を高畑充希さん、専業主婦の石橋あすみを尾野真千子さんが熱演。それぞれ小学校3年生の「石橋ユウ」を育てる母たちの行く末は――?
5月28日からの映画公開に先駆け、3つの「石橋家」が良くわかる冒頭部分を公開します。
>>第5回へ
◆ ◆ ◆
酒を飲むと、母や加奈たちに暴力を振るう父親から逃げるようにして大阪に来たのは、加奈が小学一年生のときだった。
普段はおとなしくてやさしい父だったが、酒が入るとそこらじゅうのものを投げつけ、母をめちゃくちゃに殴った。母を守ろうと、止めに入った加奈や三つ下の弟にまで手を上げた。小さな弟が父に突き飛ばされて、ぽーんと飛んでいったのを覚えている。
加奈の額には小さな
当時のことは薄ぼんやりとしか覚えていないが、なんの抵抗もしない母を殴り続ける父は、人間ではないように加奈の目に映っていた。人ではないなにかが乗り移って、その何ものかの命令を、父は忠実に守っているように思えた。
その後、母は女手ひとつで加奈と弟の
食事作りや洗濯は、ほとんど加奈が担っていた。日常生活で不自由だと思うことはさほどなかったが、とにかく冬が寒かったことだけは覚えている。こたつだけでは、
加奈は勉強が好きだったし、保育士になりたいという夢もあったが、進学はあきらめた。自分の希望を
商業高校を卒業後、加奈は運送会社に事務員として就職した。寮が完備されているのが、なによりの魅力だった。狭いアパートで、母と当時まだ高校生だった弟と三人で暮らすことに、それぞれがストレスを感じていた。
同じ職場で、運転手として働く
加奈のつわりはひどく、安定期になっても一向におさまらなかった。仕事も休みがちとなり、これ以上職場に迷惑はかけられないと、加奈は運送会社を退職した。英明も、奥さんには家にいてもらいたいタイプで、仕事を辞めることに賛成してくれた。
今思えば、あの頃がいちばん幸せだったかもしれないと、加奈は思う。体調の悪い加奈を気遣って、英明は率先して家事を手伝ってくれたし、生まれてくる子の将来を考えるのはたのしかった。
出産は大変だった。四十時間もかかり、帝王切開の準備をはじめようとしたところで、ようやく勇が生まれた。産後も体調は思わしくなく、
「好きな人ができたから離婚したい」と、突然英明が言い出したのは、ようやく加奈の体調も戻ってきて、勇へのいとしさも増してきた頃だった。
「加奈のことも大事やけど、
と英明は言った。聞けば、愛美というのは、加奈のあとに運送会社に事務員として入った女だった。
「そんな勝手、許されへんわ。勇がおるねんで」
「知らんがな。お前が勝手に産んだんやろ」
勇のことは英明もかわいがってくれていたので、その言葉は衝撃だった。
「あんたの子やっ」
「今は愛美がいちばんなんや。一緒におらんと死んでしまう。誰がなにを言っても無駄や」
英明は悪びれる様子もなく、そう言った。
英明は、十万円だけ置いて出て行った。家賃とおむつ代でひと月で消えた。養育費も慰謝料ももちろんない。しばらくは働いていたときの貯金を切り崩して生活していたが、家賃が払えなくなり、加奈は勇を連れて母が住む実家のアパートに転がり込んだ。弟の正樹は高校を卒業して、九州に就職していた。
その頃の母は、とても疲れていた。仕事を減らし、家にいるときは横になっていることが多かった。もともと、加奈の結婚は早すぎると言って反対していた母だ。妊娠がわかった際、子どもを
保育園に片っ端から申し込み、空きがあったところに勇を入園させた。勇が保育園に行っている間に、実家近くのスーパーで働いたが、急な呼び出しや、勇が熱を出して休むことも多く、収入は小遣い程度にしかならなかった。母は母なりに勇をかわいがってくれたが、体調のこともあり、子どもの声を嫌がる日も増えていった。
加奈は一念発起して、勇の就学を機に引っ越しを決めた。その際、消費者金融でお金を借りた。敷金礼金を払って、勇の入学準備をし、最低限の生活の場を整えた。
加奈はとにかく働くことを第一の目標として、勇との新しい生活をスタートさせたのだった。
土曜日は化粧品会社が休みなので、コンビニで朝の六時から十二時までのシフトだ。人手が足りないときは、夕方や夜に入るときもあるけれど、基本は午前中で終わる。日曜日は一日、休みをとっている。
月収は、手取りで二十三万円ほどだ。雇用保険は化粧品会社のほうで引かれている。児童手当と児童扶養手当がおよそ四万円。所得を制限すれば、児童扶養手当は多くもらえるが、その分生活費は減る。働けるうちは働いて稼ぎたいと、加奈は思う。
家賃が六万八千円。返済ローンが七万円。金利は思った以上に膨れ上がっていた。今年から返済金額を大幅に増やしたので、あと二か月で完済できる予定だ。
母子家庭は六割が年収二百万円未満の貧困層だと、このあいだ大和田さんからもらった新聞に書いてあった。古紙をもらってもいつもは読むことはしないが、たまたま目に入った記事だった。加奈は貧困家庭で育ったという自覚はなかったが、おそらく自分はそうだったのだろうと思った。
また、貧困は連鎖しやすいとも書いてあった。その背景には、離婚や虐待があるとあった。加奈はその記事を読んだとき、冗談じゃないと思った。そんなことには絶対にさせないと思った。一人親は、裕福ではない家庭が多いかもしれないが、勇にひもじい思いだけはさせたくない。
生活するうえで、お金はなによりも大事だ。なにをするにもお金がかかる。身体が動くうちはたくさん働きたい。働いて働いてお金を貯めて、勇が望めば大学にも行かせてやりたい。目下の目標は、車の購入と貯金百万円だ。まだまだ及ばないけれど、この調子で働いていけばいつか必ず達成できると、加奈は思う。
仕事を終えて帰ると、アパートの前の空き地で、勇がサッカーボールを蹴っていた。
「勇くん、ただいま」
大きな声で手を振ると、勇も手を振って返した。
「今日、サッカーやろ。ご飯作るから、そろそろ家入り」
勇は「わかったー」と言って、それでもまだボールを蹴っていた。
勇は三年生になってから、サッカーをはじめた。地区のサッカークラブなので、学校とは直接関係ないが、月、水、金、土と小学校のグラウンドで練習がある。日曜日は練習試合が多く、保護者の当番制ということもあり、加奈はこのために、日曜の仕事を入れないことにしたのだった。
勇は幼いときからボールを蹴るのが好きで、一年生の頃からサッカークラブに入りたいと言っていたが、三年になるまで待ってもらった。申し訳ないけれど、とてもそんな余裕はなかった。
少しずつ貯金して、サッカーボールやユニフォームやスパイクを、この春ようやく買ってあげることができた。
勇をサッカーの練習に送り出して、加奈はたまった家事をした。掃除をし、買い物に行って、冷凍保存できるおかずをいくつか作った。色柄の洗濯物も週末に片付ける。
「あれま、勇くんのTシャツ、こんなにくたびれてしもたわ。新しいの買わんとなあ」
三年生になって、勇の身長はぐんぐん伸びはじめている。洋服にも下着にも靴にもお金がかかるが、勇の成長はなによりうれしい。
世の中の三十歳の女性が、どんな生活をしているか加奈は知らない。加奈は、ここしばらく服も靴も新調していなかった。美容院にもひさしく行っていない。毎日、鏡もろくに見ていなかった。
加奈は洗面所に立って、鏡に映った自分に無理やり笑いかける。
「うわあ、こりゃえらいおばはんやなあ。三十歳にはとても見えへんなあ」
今日はこれから勇のサッカーの迎えに行き、そのまま一緒に買い物に行こうと思っている。加奈はひさしぶりに化粧をして、髪を整えた。試供品の化粧品やシャンプーやヘアクリームは、必ずもらうことにしている。
「これで少しは見られるやろか」
眉毛を描いて口紅を塗り、加奈は鏡に向かってつぶやいた。
最近、勇はますます別れた夫に似てきた。似てきたなあとは思うが、英明のことを思い出すことはなかった。なんの感情もなかった。英明が幸せに暮らしていたとしても、たとえ事故に遭って死んでいたとしても、加奈にはまったく関係のないことだった。
加奈はファンデーションを塗った頰を、両手でぴしゃりと
「さあ、勇くん、これからさらのスニーカーと長靴と上履き買いにいこな。服も、なんやええのあったら買うたろな。ひさしぶりに外で夕飯でも食べよか!」
鏡のなかの自分に元気よくそう言ってみたら、自然と笑顔になった。
明日の日曜は、サッカーの練習試合だ。加奈の当番になっている。おっきなおにぎり作ったるでえ! と、アパート中に響くような声で言ってみる。
西の空に、夕暮れ間際の薄いオレンジ色が広がっていた。
(このつづきは本書でお楽しみください)
▼椰月美智子『明日の食卓』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321806000298/