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ハラハラする!1位
常識外れのマル暴刑事と極道のプライドを賭けた闘い。
2018年映画化で話題の警察小説。
プロローグ
呉原東署の会議室は、殺気立っていた。
ドアの外には呉原市暴力団抗争事件対策本部、と書かれた紙が貼られている。
部屋には七十名近い捜査員が集結していた。所轄の東署副署長をはじめとする幹部、暴力団係の係員と各部署から搔き集められた署員、県警捜査四課暴力団担当の捜査員ならびに管区機動隊員だ。みな、闘技開始を前にした闘犬のような面構えで、部屋の前方を見つめている。
副署長の訓示が終わり、捜査の指揮をとる捜査二課長が立ち上がった。
課長は睨むように目を細め、椅子に座る捜査員たちを見やった。
「いま、副署長からの訓示にもあったように、東署管内では組織暴力犯罪が多発している。拳銃不法所持、大麻、覚せい剤の使用および売買、違法賭博などが日常的に行われ、暴力団同士の抗争事件が頻発している状態だ。やつらのせいで治安は乱れ、善良な市民の安全が脅かされている。実際、二週間ほど前に、一般市民が発砲事件に巻き込まれ、尊い命を落とした。悲劇を未然に防げなかった我々の責任は重い。しかし──」
語気を強め、言葉を区切る。
「やつらの暴挙も、今日で、終いじゃ」
捜査員たちの表情が、さらに引き締まる。なかには、緊張のためか唾を飲み込んでいる者もいる。
呉原東署に置かれた呉原市暴力団抗争事件対策本部は、暴力団関連事務所の一斉捜索を計画していた。いま行われている会議は、最終の打ち合わせだ。
課長は家宅捜索の手筈を念入りに説明すると、目の前にある長机に両手をつき、身を乗り出した。
「これだけ大掛かりな捕り物じゃ。相手が大人しゅうしとるはずがない。万が一のこともある。念のため各自、防弾チョッキを装着するように」
防弾チョッキ、という言葉に部屋の空気が一気にきな臭くなる。課長は捜査員たちをねめつけた。
「ええか。組員をひとりでも多く引致しろ。公務執行妨害、銃刀法違反、麻薬所持、賭博場開張図利、なんでもええ。今回のガサ入れでできるだけ多くの引きネタを摑むんじゃ。やつらを片っ端から刑務所へぶち込んだれ!」
課長は腕時計で時間を確認した。朝の六時五十分。七時に署を出発する計画になっている。
課長は長机に両の手を強く叩きつけると、捜査員たちを激励した。
「この一斉捜査には、警察の面子がかかっとる。腹ァ括ってやっちゃれい!」
課長の怒声にも似た号令を合図に、捜査員たちは一斉に立ち上がった。部屋の隅に置かれている段ボールから、防弾チョッキを摑み会議室を出ていく。
捜査員たちが慌ただしく動くなか、ひとりだけ身じろぎしない男がいた。部屋の後方で、椅子の背にもたれている。
若い刑事が、悠長に構えている男に駆け寄った。
「班長、どうぞ」
差し出した刑事の右手には、防弾チョッキがあった。左手には自分用のチョッキを持っている。
班長と呼ばれた男は、ジッポーのライターを手で転がしながら、余裕の笑みを浮かべている。
「そう急くな。慌てる乞食は貰いが少ない言うじゃろうが」
「いや、しかし……うちの班の者はみな、もう駐車場で待機しています」
出遅れて、他の班に手柄をとられることを危惧しているのだろう。かといって、上司に苦言を呈することもできず、若い刑事は口ごもった。
男は、部下の心内を察しているらしく、諭すように言った。
「組長の本宅や組の事務所は、他のもんに任せちょったらええ。どっちも所詮、城でいうたら二の丸、三の丸じゃ。わしらが狙うんは本丸よ」
「本丸、ですか」
部下は怪訝な表情を浮かべた。本丸がなにを意味するのかわからない、といった顔だ。
男はジッポーのライターの蓋を、開けては閉め、閉めては開けた。辺りに、カチカチという小気味良い音が響く。ジッポーには、狼の絵柄が彫り込まれていた。
男は蓋を閉じると、彫り込まれた狼の絵柄を、愛おしげに手で擦り、つぶやくように言う。
「いまどき本宅や事務所に、道具なんか置いとりゃあせん。殴り込みに備えて身につけちょるかもしれんが、さて、それもどうかのう」
「どういうことでしょう」
男は声を潜めた。
「今日の手入れがむこうに……」
男は言いかけてやめ、「まあ、そりゃあ、ええ」と苦虫を嚙み潰したかのように、唇を歪めた。
部下は目を見開くと、眉根を寄せて囁いた。
「漏れちょる……いう、ことですか」
うーん──男は呻きながら曖昧に首を振り、語気を強めた。
「どのみち、道具は組の武器庫に置いちょる。秘密の隠し場所っちゅうやつよ」
部下は興奮した様子で、身を乗り出した。
「その場所を、班長は御存じなんですか」
男はライターから部下に目を移すと、片手でジッポーの蓋を開いた。
「まあ、の」
部下の顔が見る間に紅潮する。
男はライターの蓋を勢いよく閉じると、ズボンのポケットに入れて立ち上がった。
「行くぞ」
部下が手にしている防弾チョッキには目もくれず、男はまっすぐ出口へ向かった。
一章
──日誌
昭和六十三年六月十三日。呉原東署捜査二課配属初日。
午後一時半より、大上巡査部長と管区パトロール。
午後一時四十分。赤石通りパチンコ店『日の丸』。
午後六時半。尾谷組事務所を訪ねる。尾谷組若頭、一之瀬守孝から、加古村組系金融会社社員失踪事件について情報収集。
【画像】
午後八時。栄通り「小料理や 志乃」。
昼下がりのアーケード街は、蒸すような熱気に包まれていた。
道の脇に違法駐輪されている自転車を避けながら、日岡秀一は尻ポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭った。
広島県内は、五日前に梅雨入りしたばかりだ。しかし、一向に雨が落ちてくる気配はない。むしろ、照りつける日差しは、すでに梅雨明けのような強さを放っている。
港に面している波恵地区は、沖から吹いてくる海風のおかげで少しは暑さが和らぐが、アーケード街は駅を挟んで北側の鉾田地区にある。このあたりは海から離れていることに加え、建ち並ぶ商業ビルのせいで風通しが悪く、暑さが外へ逃げていかない。さらに、アーケード街は天井をビニールで覆われているため、さながらビニールハウスのようだ。
日岡はハンカチをポケットに戻すと、胸ポケットから一枚のメモを出した。手帳を破った小さな紙には、呉原東署から待ち合わせに指定された店までの地図が描かれていた。二課の課長、斎宮正成が書いてくれたものだ。が、線を適当に引いただけで、とても地図とは呼べない代物だった。ところどころに書かれている商店名だけを頼りに、目的地へ向かっていた。
日岡は今日、呉原東署へ赴任してきたばかりだ。所属は捜査二課。東署の二課は暴力団係と知能犯係に分かれている。日岡は暴力団係に配属された。刑事になって初めての配属先が二課の暴力団係、それも抗争事件が頻発する呉原市管内というのは、かなり異例の人事だ。刑事がひとり急に依願退職し、人員に穴が開いたからだと、上司から聞かされた。
──遣り甲斐はある。手柄を立てれば、出世の道も開けるぞ。
本部の幹部は、そう言って日岡の肩を叩いた。
出世はともかく、遣り甲斐があるのは嬉しかった。これまで務めた機動隊員の日々の仕事は訓練が主で、たまの応援出動くらいしか、現場に出る機会はなかった。その分、刑事になるための勉強はできたが、遣り甲斐こそが、日頃から日岡の求めて止まないものだ。
呉原市を訪れるのは二度目だった。小学生のころ、臨海学校で呉原湾の小島で遊んだことがあるだけだ。
日岡は広島市の出身だ。大学も広島だし、警察官拝命後の交番勤務も広島市内だった。他の街に住んだことはない。食い物が美味く、娯楽や買い物にも不便を感じたことがない街に、日岡は満足していた。呉原市は広島市から在来線で三十分の距離だが、自分が住んでいる街より小さな街へ、わざわざ足を運ぶことはなかった。この辺りに土地鑑はない。
メモに書かれた距離と実際の道のりがまったくかみ合わない地図を頼りに、店を探す。通行人に声をかけようかと思ったが、警官が道を訊ねるのも憚られた。
自力で待ち合わせ場所の喫茶店コスモスを探し当てたのは、約束の一時を十五分も過ぎたころだった。
地図には四角いマークの横にコスモスとだけ書いてあるので、頭から一戸建ての店だと思いこんでいたが、実際には雑居ビルの一階のテナントだった。それならそうと、ビル名を書いてくれればよかったのに、と心で毒づく。
コスモスは古い店だった。入り口の横にあるウィンドウには、メニューの写真が飾られているが、開店当初のままかひどく色褪せている。空いているスペースに置かれている舶来品の雑貨も、アンティークと呼ぶには中途半端で、単にそこに放置されている古びた生活用品、という感じだ。
色褪せた木製のドアを開けて、なかに入る。ドアの上に取り付けられているベルの音とともに、冷房の効いた空気が全身を包んだ。
カウンターのなかにいた初老の男がゆっくりと顔をあげ、丸眼鏡の奥から日岡を見た。
「いらっしゃい」
言葉では歓迎しているが、声にはまったく愛想がない。
店内は薄暗くて狭かった。カウンター席が五つと、四人掛けのテーブルがふたつしかない。店主の趣味なのか、店の至る所に観葉植物が置かれていた。ただでさえ狭い店内がさらに窮屈に感じられる。
日岡は観葉植物のあいだから店内を見渡した。
客はひとりしかいない。中年の男性客だ。男はステンドグラスが嵌められた小窓の傍のテーブルについている。広げた新聞に隠れて顔はよく見えないが、年恰好といい、この人物が待ち合わせの相手に間違いない。
日岡は男が座っているテーブルに近づくと、新聞越しに声をかけた。
「失礼ですが、大上さんでしょうか」
声をかけられた男は、ゆっくりと新聞を下ろした。目が日岡を捉える。粘るような視線は、値踏みをする質屋の店主のようだ。が、目つきは違った。相手を真正面からひたと見据える鋭い眼光は、明らかに刑事のそれだった。
男が自分の新しい上司であることを直感する。日岡は姿勢を正した。
「時間に遅れて申し訳ありません。自分は今日から呉原東署に赴任してきた──」
名乗ろうとしたとき、男はいきなり椅子から立ち上がり、無言で日岡のワイシャツの胸ぐらを摑んだ。そのまま引き摺り下ろし、自分の向かいの席へ乱暴に座らせる。椅子に倒れ込んだ日岡は、驚いて男を見上げた。男はテーブルに身を乗り出し、上から日岡を睨んだ。
「極道みてえに、べらべら口上たれてんじゃねえ」
凄みの利いたかすれ声に、思わず怯む。男は日岡を極道呼ばわりしたが、身なりを見る限り、男の方がよほど極道に近かった。襟の開いた黒シャツを着て、少しダブついた白いズボンをはいている。頭には、ベージュのパナマ帽を被っていた。腕に嵌めているごつい腕時計と、ベルトのバックルが薄暗い店内で銀色に光っている。
男は椅子にゆっくりと尻を戻すと、苦々しげな顔で舌打ちをした。
「わしが誰かもわからんうちに、身元を明かす馬鹿がおるかい。人違いじゃないけ良かったもんの、わしがもし手配中の被疑者じゃったら、どうするんなら。相手がシャブ中の極道じゃったら、刺されとるかもしれんのど、おう」
どうやら人違いではなさそうだ。
「申し訳ありません」
日岡は椅子に座り直すと、今日から自分の直属の上司となる男に、挨拶と詫びを兼ねて頭を下げた。
男の名前は大上章吾。呉原東署捜査二課主任、暴力団係の班長だ。今年で四十四歳になると聞いている。今朝、呉原東署へ出勤し課員に挨拶をしたが、直属の上司となる大上の姿はなかった。課長の斎宮に欠勤かと訊ねると、大上が出勤するのはいつも昼近くで朝から机にいることは滅多にない、との答えが返ってきた。
日常ならいざしらず、赴任初日の部下と顔合わせしないのはあまりに常識がない、と思ったのだろう。斎宮は卓上の警電から大上のもとへ電話をかけ、何時に出勤するかを訊ねた。大上の返事は、午後一時に赤石通りにある「コスモス」へ来るように新米刑事に伝えてくれ、というものだった。
大上は県警内部で、凄腕のマル暴刑事として有名な人物だった。暴力団絡みの事件を多数解決し、警察庁長官賞をはじめとする警察表彰を何度も受けている。百回にも及ぶ受賞歴は、広島県警では現役トップだと聞いている。
が、輝かしい経歴の反面、誉められない処分歴も数多く持っていた。受賞歴もトップだが、訓戒処分も現役ワーストとの噂だ。
大上は任官してからの大半を、暴力団を手掛ける二課で過ごしてきたが、一度、別な部署へ飛ばされている。刑事の任用試験に合格し、広島北署捜査二課へ配属となった十年後、いまから十三年前に県警警備部の機動隊に平隊員として左遷されたのだ。きっかけは、第三次広島抗争事件だった。当時、北署で暴力団抗争事件捜査の先鋒となっていた大上に、警察内部の情報を暴力団関係者へ流したのではないか、という疑惑が浮かんだのだ。
公安やマル暴が、エスと呼ばれる内通者を飼っている事実は、捜査関係者なら誰もが知っている。使えるエスをどのくらい持っているかで、刑事としての腕が決まると言っても過言ではない。公安やマル暴の刑事は、エスを上手く使い、犯罪組織と上手に渡り合って事案の解決に結びつける。
しかし、犯罪組織と警察組織という関係のバランスを崩してしまうと、事件を解決する上で必要な捜査とはいえ、世間やマスコミからは、暴力団との癒着、という言葉で非難を浴びる。北署は大上に降りかかった疑惑がマスコミへ漏れることを回避するため、先手を打って大上を機動隊へ飛ばした。
機動隊に所属してから三年後、大上は再び広島北署へ戻った。が、四年後に現在所属している呉原東署の二課へ異動させられる。同じ二課への異動だが、県庁所在地の所轄から地方の所轄へ移ることは事実上の左遷と言えた。
飛ばされた理由は、人権派で知られる弁護士とのトラブルだった。弁護士は、同居する内縁の妻に刺し傷を負わせた暴力団組員を、人権を盾に擁護した。暴力団員も人の子であり、当然、守られるべき人権がある、というのが弁護士のスタンスだった。それに対して大上が、ヤクザに人権はない、と嚙みついたのだ。女を刺すような外道を擁護するやつも外道と同類だ、とまで言い切った。頭に血が上った弁護士は、行き過ぎた暴力的取り調べがあったとして、大上を特別公務員暴行陵虐罪で訴える、と息巻いた。大上と弁護士の衝突はマスコミの知るところとなり、北署は弁護士の顔を立て、事を収めるために大上を地方に左遷した。
大上の噂は、日岡が県警に採用されたころから耳にしていた。聞こえてくる話はすべて物騒なもので、暴力団員から二度襲撃を受け、相手を半殺しにしたとか、自らも重傷を負って入院した、との噂もあった。新米警官にとってはとにかく遠い存在で、刑事任用試験に受かったときにはまさか、県警にその名が轟く噂のマル暴刑事の下で働くなどとは、思ってもみなかった。
大上はシャツの胸ポケットからショートピースを取り出した。慣れた手つきで口にくわえる。
日岡は煙草を吸わない。両手を膝の上に揃えて、大上が口火を切るのを待った。
と、いきなり頭を叩かれた。
「なに、ぼさっとしとるんじゃ! 上が煙草を出したら、すぐ火つけるんが礼儀っちゅうもんじゃろうが!」
日岡は仰天した。キャバレーのホステスや極道じゃあるまいし、なぜ自分が上司の煙草に火をつけなければいけないのか。納得できないながらも、テーブルにあった店のマッチで煙草に火をつける。
大上は煙を深く吸いこみ、食べ終わったナポリタンの皿をどけて椅子にふんぞり返った。
「先輩が煙草をくわえたら、すぐに火をつける。灰皿を用意する。二課の刑事のイロハのイじゃ」
刑事のイロハが先輩の煙草に火をつけることだなど、聞いたことがない。
釈然としないまま小さく頭を下げると、大上は涼しい顔で持論をぶった。
「ええか、二課のけじめはヤクザと同じよ。平たく言やあ、体育会の上下関係と一緒じゃ。理屈に合わん先輩のしごきや説教にも、黙って耐えんといけん。これにはのう、まっとうな理由があるんで。ヤクザっちゅうもんはよ、日頃から理不尽な世界で生きとる。上がシロじゃ言やあ、クロい鴉もシロよ。そいつら相手に闘うんじゃ。わしらも理不尽な世界に身を置かにゃあ……のう、極道の考えもわからんじゃろが」
配属が決まってから、日岡は呉原市内の暴力団の組織図や幹部の顔写真付き前歴カードを頭に叩き込んだ。ヤクザの情報は徹底的に身につけるつもりでいたが、二課の刑事は果たして、その流儀にまで従わなければいけないのか。甚だ疑問に思う。が、上司の考えに反論することもできず、日岡は自分の考えを吞み込んだ。
大上は大きく紫煙を吐きだすと、日岡に訊ねた。
「お前、名前は」
自分の部下になる人間の名前を記憶していないことに驚く。日岡は冷静を装い答えた。
「日岡です。日岡秀一です」
「しゅういち?」
大上がわずかに眉根を寄せた。
「どがな字を書くんなら」
「秀でるに数字の一、です」
大上は顎を撫でると、口角をあげた。
「ほうか。ええ名前じゃのう」
日岡は自分の名前が好きではなかった。どこにでもある平凡な名前だ。他人から褒められた記憶はない。にもかかわらず、大上はいい名前だと言う。意外だった。
曖昧な追従笑いを浮かべる日岡を無視して、大上は質問を続けた。
「歳は」
「二十五です」
「東署へ来る前はどこにおったんない」
「交番勤務を一年、機動隊を二年務めました」
ということは、とつぶやき大上は天井を見上げた。
「大卒採用か。刑事に成り立て、二課もはじめて、ちゅうことじゃの」
日岡が、はい、と答えると、大上ははじめて笑顔を見せた。笑ったといっても楽しくて漏らした笑みではない。なにかを企んでいるかのような笑いだ。
「ほうか、ションベン臭い生娘か。なら、なーんも知らんでも、しゃあないのう」
口にする言葉ひとつひとつに、品がない。
大上は煙草を灰皿で揉み消すと、氷がすっかり溶けたアイスコーヒーを飲み干し腰を上げた。日岡も慌てて立ち上がる。
「マスター、わしのコーヒーチケットまだあったよのう。今日の分、それで切っといてくれや」
カウンターの隅に座っていたマスターは、はいよ、と愛想のない声で答えると、壁に立てかけているコルクボードから、コーヒーチケットを二枚はぎ取った。一枚いくらなんだろう。四百円として二枚で八百円。ナポリタンセットとしては妥当な額か。
大上はパナマ帽を阿弥陀に被りなおすと、日岡の肩に手を回して引き寄せた。
「まあ、わしの下についたんもなにかの縁じゃ。わしが二課の掟を、みっちり教えちゃる」
やることなすこと、刑事とは思えない。これから自分はこの男のもとで、どのような捜査をしていくことになるのか。不安を抱きながら、日岡は大上に続いてコスモスを出た。
店を出ると大上は、眩しげにあたりを見渡し日岡に訊ねた。
「車はどこに停めたんじゃ」
日岡は虚を衝かれた。コスモスの裏手には駐車スペースがあった。
署から運転してきた覆面パトカーは、桜みなと公園の駐車場へ置いてきた。桜みなと公園はアーケード街の入り口にあり、コスモスから歩いて十分はかかる。斎宮から手渡された地図を信じるならば、コスモスはアーケード街の入り口からすぐの場所にあるはずだった。が、実際には店までかなりの距離があった。
日岡は反射的に身構えた。おそらく大上は、煙草の件と同様に、気の利かない後輩の頭を叩きつけるはずだ。こんな炎天下に先輩を歩かせるとは、どういう了見だ。大上ならそう言うだろう。一喝を喰らうに違いない。
日岡はどつかれる前に頭を下げた。
「すみません。俺、車とってきますんで、ここで待っといてください」
走りだそうとした日岡の背中を、大上が引き止めた。
「まあ、ええわい。腹ごなしにぼちぼち歩いてこうや」
予想していなかった答えに、一瞬たじろいだ。が、すぐに、安堵の気持ちが湧いてくる。これでまた汗だくにならずにすんだ。さすがの大上にも、わずかばかりの仏心はあるということか。
「承知しました。お供します」
日岡はそう言うと、大上の背後に回った。大上の後ろをついていくためだ。日岡が大上の背を見ながら立っていると、大上は勢いよく振り返り、日岡の頭を叩いた。
「なにしとるんじゃ、わりゃァ。われが先じゃろうが!」
一般的なマナーとして、上役に随行するとき部下は後ろにつく。なぜ、下の自分が先を歩かなければいけないのか。
戸惑っている日岡の肩を摑むと、大上は自分の前に立たせて背を押した。
「極道の世界じゃのう、下のもんが先を歩くんじゃ。面倒な奴とぶつかりでもして、親分や兄貴分になんかあったら、指が飛ぶけんのう」
先輩の露払いをするのも、大上が言う二課の掟のひとつなのだろう。二課の礼儀はなにからなにまでヤクザ流で、世間の礼儀とは違うらしい。覚えるまで苦労しそうだ。
「なにぼさっと突っ立っとるんじゃ。さっさと行かんかい!」
後ろから再び頭をどつかれる。日岡は叩かれた勢いで前のめりになりながら、アーケード街を歩き出した。
善良な市民は別なようだが、多少なりとも裏の世界を齧っていると思われる者のあいだでは、大上の顔は広く知れ渡っているようだった。
アーケード街を歩いている一般の主婦や、物珍しげにあたりを眺めながら歩いている観光客は大上を見ても反応しないが、髪を巻いた水商売風の女性やチンピラ然とした柄の悪い若者は、大上に気づくと恭しく目礼するか、媚びるようにぺこぺこ頭を下げて通り過ぎていく。大上はというと、誰に対しても気さくに声をかけたり、手をあげたりして返事をしていた。
大上の指示に従い大通りから一本奥にある路地裏に入る。しばらく歩くと、背後から大上に呼び止められた。
「おい、ちょっと寄ってくぞ」
振り返ると、大上がパチンコ店のビルの裏口から、店内に入るところだった。
店内パトロールか。日岡はパチンコ店『日の丸』の看板を目に焼き付け、大上に続いて店に入った。
平日の日中だというのに、店内は混んでいた。生活費を入れあげて打っているような真剣な顔もあれば、明らかに暇つぶしとわかる気の抜けた表情も散見された。
誰かを捜しているのだろうか。大上は通路を歩きながら、打っている人間の顔をたしかめている。
壁際の通路にさしかかったとき、大上が急に足を止め、台の陰に身を隠した。
「どうしたんですか」
後ろから小声で訊ねる。
大上は通路の奥に顔を向けたまま、日岡に囁いた。
「あそこに男がおるじゃろう。ほれ、赤い開襟シャツの短髪じゃ」
日岡は大上の肩越しに、通路の奥を覗いた。端から三つ目の台に、大上が口にした風貌の男がいた。歳は三十前後、この時季でも長袖の人間はいるが、男には明らかに、特別の事情がありそうだ。腕に彫り物をしているか、やばい注射痕でもあるのだろう。横柄な態度と身体から滲み出ている剣吞な雰囲気から、堅気でないことはわかる。険しい顔をしているところを見ると、かなり負けが込んでいる様子だ。
「あの赤シャツですね」
目視で確認したことを告げる。
そうじゃ、そいつじゃ、と大上は肯くと、信じられない言葉を口にした。
「あいつに因縁つけい」
日岡は目を見開いて大上を見た。警官が酔っ払いやチンピラから絡まれることはよくあるが、逆は聞いたことがない。赤シャツが誰であろうと、今は大人しくパチンコを打っているただの市民だ。こちらから喧嘩を吹っ掛けるような真似は論外だろう。明らかな服務規律違反だ。
躊躇っていると、大上は日岡の尻を膝で蹴り上げた。
「なにもたもたしとるんじゃ。さっさと行かんかい」
声は抑えているが、語気は強かった。大上は本気だ。日岡が言うことを聞くまで、尻を蹴り続けるだろう。わかっていたが、それでも身体は動かなかった。
大上は動こうとしない日岡の耳元に口を近づけると、先ほどとは打って変わった優しい口調で囁いた。
「大丈夫じゃ、一戦交えそうになったら、わしが出ていっちゃる。安心せえ」
本当ですか、と日岡は目で問うた。大上は大仰な作り笑顔で、大きく肯いた。
日岡は因縁をつける理由もわからないまま、赤シャツに近づいた。空いている隣の席に座り、尻ポケットに入れていた財布から千円札を取り出す。
玉を弾きながら機会を窺っていると、幸か不幸か赤シャツの方からきっかけを作ってきた。
派手な演出のリーチが外れた赤シャツは、忌々しげに舌打ちをくれた。小刻みに揺らしていた脚を組みかえる。その拍子に、赤シャツの脚が日岡の脛にあたった。赤シャツは詫びる代わりに、日岡に毒づいた。
「兄ちゃん。幅、取り過ぎじゃ。もちっと行儀良うせんかい」
同業者かよほどの無鉄砲でなければ、ひと目で堅気じゃないとわかる赤シャツの言いなりになるところだろう。が、日岡には大上からの命令がある。斜に構えて赤シャツを睨んだ。
「そっちこそ、短い脚どけとけや」
赤シャツの形相が変わる。片眉をあげ、日岡を睨んだ。
「おっ、誰に向かって口を利いとるんじゃ、われ!」
日岡は鼻で笑った。
「そりゃ、ここにおる三白眼の短足によ」
「なんじゃと、こら!」
怒鳴ると同時に赤シャツは椅子から立ち上がり、日岡の胸ぐらを摑みあげた。額に血管が浮いている。
ふたりの様子を見ていたのだろう。若い店員がすぐさま駆け付け、赤シャツと日岡のあいだに割って入った。
「おふたりとも、楽しく遊んでいる方のご迷惑ですから、どうか穏便に……」
ふたり、と言いながら、店員の顔は赤シャツに向いていた。
警察にでも通報されたら面倒だと思ったのか、赤シャツは店員を押しのけると、こっちこいや、と再び日岡の胸ぐらを摑んだ。力ずくで出口へ連れていかれる。外へ出たら、すぐさま一戦がはじまりそうな勢いだ。
日岡は目で大上を探した。一戦交えそうになったら出ていくと言った本人は、涼しい顔で通路の反対側にある台を打っていた。
赤シャツは日岡を引き摺るようにして外へ出ると、店と隣接する駐車場に連れ込んだ。
フェンスと車の陰になって、表通りから見えない場所までくると、赤シャツは日岡の身体を突き放し、間をとった。身体をほぐすように肩や首を回しながら、日岡をねめつける。
「この辺じゃあ見ん顔じゃが、どこのもんなら、おおっ」
威嚇するように、声を潜めて言う。
「どこのもんでもよかろうが。喧嘩に能書きはいらんわい」
大上の真意がわかるまでは、言われたとおり突っ張るしかない。
「上等じゃ、こら! 礼儀ちゅうもんを教えちゃるけん、こいや!」
赤シャツは唇を舐めると、嬉しそうに口角をあげた。
ここまでくれば、一戦交えるしかない。相手は筋者だ。下手に手加減すれば、こちらが大怪我を負う羽目になる。
日岡は右手を脇腹に添えると、左手を握りしめ前に出し、正拳突きの構えをとった。
「ほう、空手か」
小馬鹿にするように、赤シャツが笑う。
空手をはじめたのは中学のときだ。高校、大学と松濤館流に学び、三段の免状を取得している。もっとも、伝統派の松濤館では、極真空手のようなフルコンタクトは禁止されている。そもそも空手を学ぶ者にとって、喧嘩は御法度だ。相手に大怪我を負わせる可能性があるのだから当然だろう。裁判でも格闘家の拳や蹴りは、ときに凶器と看做される。日岡に実戦の経験はない。
「構えだけはいっちょ前じゃの。じゃが空手なんぞ、しょせんお遊戯よ。ヤクザの喧嘩がどがあなもんか、いっぺん教えちゃる!」
言い終わるや、赤シャツは地面にしゃがみ込んだ。地面に敷き詰められている砂利を摑み、日岡に向かって投げつける。
日岡は咄嗟に目を瞑り、両手の拳で顔を防御した。素早く後ろへ退く。が、間を置かず、赤シャツの強烈な蹴りが腹部を襲う。脇腹に激痛が走った。
あまりの苦痛に膝が折れる。
前のめりになったところを、鼻に膝がしらが炸裂する。
衝撃で脳がぐらつき、鼻血が噴き出した。
痛みに耐えかね、地面に膝をつく。立ち膝をついた日岡の髪を摑むと、赤シャツは腹部に蹴りを連発した。黒光りするエナメルの靴先が、容赦なく腹に減り込む。
息ができなくなり、酸素を求めて喘いだ。
気道を確保するため、顔をあげる。刹那、鉄のように重いパンチが、顔面を捉えた。頭が真横に持って行かれ、そのまま崩れ落ちる。光景が反転して、視界に空が映った。
光が点滅する眼前に、空を背にした赤シャツの顔が現れた。仰向けに倒れた日岡を上から覗き込み、口を歪めて笑う。
「口ほどにもないのう。もちいと骨がある、思うたが。まあ、ええ。今日はこの辺で勘弁したる。じゃが、その前に──」
赤シャツは傍にしゃがむと、寝返りをさせるように、日岡の身体を横たえた。
「汚れた靴のクリーニング代、貰うとかにゃあのう」
赤シャツの手が尻に伸びる。尻ポケットを探り、財布を抜き取ろうとしている。
考えるより先に、身体が反応した。
足首を摑み、力任せに引く。赤シャツが体勢を崩す。もんどり打った。
そのまま身体を捻り、右腕を思い切り後ろに振った。
裏拳が顔面を捉えた。瞬時に手首を返す。裏拳打ちの基本だ。
すぐさま立ち上がり、腹部を蹴り上げる。
下段回し蹴りで、鳩尾を狙った。
低く呻きながら、赤シャツがのたうち回る。
松濤館の稽古どおり、腰を入れ、足首を返す。息の続く限り蹴った。
赤シャツの口から、血の混じった嘔吐物が激しく噴き出す。
息が切れた。
限界だった。
膝に手を置き、肩で何度も息を吸う。ヒューヒューと、気道を空気が通り抜けた。
「こん外道……」
気がつくと、赤シャツが立ち上がっていた。
膝が震える足で、前屈みになりながら、じりじりと間を詰めてくる。
右手には、匕首が握られていた。
目が血走っている。
「ぶち殺しちゃる!」
左手に持った鞘を放り投げ、赤シャツは両手で匕首を握った。臍のあたりで構える。
自分が殺されるかもしれない恐怖を感じるのは、初めてだった。足が動かない。赤シャツの全身から立ちのぼる殺気に気圧されている。
警棒も拳銃も身につけていなかったことを後悔する。警察手帳を取り出し、身分を明かしたところで、赤シャツの殺気が削がれるとは思えない。だが、このままでは大事になる。
日岡は手帳に手を伸ばした。
「よーし、そこまで!」
突然、駐車場に声が響いた。
大上だ。
駐車場の入り口からこちらに向かって、ゆっくりと歩いてくる。
安堵で、腰が抜けそうになった。
大上の名前を呼ぼうとしたとき、先に赤シャツが口を開いた。
「ガミさん……」
口を開け、呆然と大上を見ている。
大上は火のついた煙草をくわえながら、両者の健闘を讃えるように、パチパチと手を叩いた。
「はいはい、そこまで。試合終了」
赤シャツは大きく息を吸うと、不貞腐れたように唾を吐き出した。
「やれんのう……、間が悪いわい」
大上は赤シャツの言葉を無視し、足で煙草を踏み消すと日岡に声をかけた。
「日岡、大丈夫か」
刃物を持ったヤクザに喧嘩を売らせておいて、大丈夫もクソもないだろう。だいたい、喧嘩になりそうになったら、止めに入るという約束ではなかったのか。
日岡は呆れながら、嫌みを吐き出した。
「ええ。誰かさんのおかげで、なんとか」
「まあ、そう怒るなや」
大上はにやりと笑うと、日岡に視線を向けたままいきなり赤シャツの横っ面を張った。
「なにするんっすか!」
赤シャツに顔を向け、ねめつけながら大上は怒鳴った。
「銃刀法違反! 日岡、何年ない!」
意味がわからず、目で問いかける。
「馬鹿たれ、罰条上限じゃい!」
法定刑のことを言っているのか。日岡は咄嗟に、大学時代に勉強した刑法総論の当該ページを思い浮かべた。
「武器としての刀剣類の携帯は、たしか懲役二年だったかと」
大上が再度、赤シャツの頰を張りながら怒鳴る。
「暴行罪!」
血が出ているので、傷害罪だろう。そう思ったが、日岡は上司への指摘を避けた。
「上限は懲役二年です」
赤シャツは啞然とした顔で口を開いている。わけがわからない、といった表情だ。その赤シャツの頰がまた、小気味いい音を立てた。
「公務執行妨害!」
さすがに言い掛かりだ。が、淡々と法定刑を述べる。
「懲役三年」
「よし! 締めて何年ない!」
えー、と言いながら頭の中で計算する。
「締めて、懲役七年ですね」
大上が犬歯を見せて笑った。
「ほう、ちょっとした殺人刑と同じじゃのう」
赤シャツが頰を引き攣らせて笑う。
「ガミさん。なんの冗談っすか」
「苗代。冗談じゃ、ありゃせんど」
真顔に戻った大上の眼が光る。
「お前んところの若頭がやっとる闇金。従業員がひとり消えたらしいのう」
苗代というのが赤シャツの名前らしい。頰が小刻みに痙攣している。笑みを浮かべる余裕はないようだ。
「なんの話ですか。俺は知らんですよ」
苗代は目を伏せ、顔を逸らした。大上は上体をかがめ、下から覗き込むように苗代の顔を見た。そのまま顔を近づける。息がかかる距離だ。堪らず、苗代が後ずさる。
大上は上体を反らすと、傾いだパナマ帽を右手で直した。
「まあ、ええじゃろう。今日のところは堪えたる」
硬かった苗代の表情が緩んだ。痙攣が止み、頰に赤みが差してくる。
じゃがのう──言いながら大上はポケットからハンカチを取り出した。
「こりゃあ、預かっとくで」
大上はハンカチで匕首の持ち手を包み、苗代の肩に手を置いた。苗代が諦めたように手を離す。
「日岡。鞘ァ捜して持ってこい」
ズボンのポケットから白手袋を取り出し、地面に目を凝らす。十メートルほど離れた場所に鞘が見つかった。
駆け寄り、手袋を嵌めた手で摑み上げた。
見つけた鞘を差し出すと、大上は匕首を鞘に収め、ビニール袋にしまった。
「のう、お前の指紋がついちょる」
大上は苗代に向けてビニール袋を掲げると、嬉しそうに口角をあげた。
苗代は溜め息をつき、盛大な舌打ちをくれた。
いつでも引っ張れる、という無言の圧力だった。
自分は、苗代に圧力を加えるための、餌にされたのだ。これが大上流の、捜査の手法なのだ。
(このつづきは本編でお楽しみください)
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