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試し読み

【「発見!角川文庫70周年記念大賞」これぞ!名作1位】パウロ・コエーリョ『アルケミスト』試し読み

◎これぞ! 名作1位

羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドへ旅に出た。錬金術師の導きと様々な出会いの中で少年は人生の知恵を学んでゆく。
マララ・ユフザイやオバマも愛読する、全世界で8500万部のベストセラーになった夢と勇気の物語。

 
 

 
 少年の名はサンチャゴといった。少年が羊の群れを連れて見捨てられた教会に着いたのは、あたりがもう薄暗くなり始める頃だった。教会の屋根はずっと昔に朽ち果て、かつて祭壇だった場所には、一本の大きないちじくの木が生えていた。
 少年はそこで一夜を過ごすことに決めた。彼は羊の群れが、壊れかけた門を通って中に入るのを見とどけてから、夜中に羊が迷い出さないように、何本かの棒を門にわたした。その地方におおかみはいなかったが、以前、一頭の羊が夜の間に外に迷い出たため、少年は次の日一日、その羊を探しまわらなければならなかった。
 少年は上着で床のほこりをはらうと、読み終ったばかりの本をまくらにして横になった。この次はもっと厚い本を読むことにしようと、彼は独り言を言った。そうすれば、もっと長く楽しめるし、もっと気持ちのいいまくらになるだろう。
 少年が目を覚ました時、あたりはまだ暗かった。見あげると、半分壊れている屋根のむこうに星が見えた。
「もう少し、寝ていたかったな」と少年は思った。彼は一週間前に見た夢と同じ夢を、その夜も見た。そしてその朝もまた、夢が終る前に目が覚めてしまった。
 少年は起きあがると、柄の曲った杖を手にして、まだ寝ている羊を起こし始めた。彼は自分が目を覚ますと同時に、ほとんどの羊たちも動き始めるのに気がついていた。それはまるで彼の生命いのちから湧き出る不思議なエネルギーが、羊たちの生命に伝わるかのようだった。彼はすでに二年間、羊たちと一緒に生活し、食べ物と水を求めて、田舎を歩きまわっていた。「羊たちは、僕に慣れて、僕の時間割りを知ってしまったみたいだ」と彼はつぶやいた。ちょっと考えてから、それは逆かもしれないと気がついた。自分が羊たちの時間割りに、慣れたのかもしれなかった。
 しかし、羊たちの中には、目が覚めるのに、もう少し時間がかかるものもいた。少年は一頭ずつ、名前を呼びかけながら、杖で羊を突っついて起こしていった。彼はいつも、自分の話すことを羊が理解できると、信じていた。それで、時々羊たちに、自分がおもしろいと思った本の一部を読んでやったり、野原での自分のさびしさや幸せを、話してやったりした。時には自分たちが通り過ぎた村で見たことについて、自分の意見を聞かせることもあった。
 しかし、このところの数日間は、少年はたった一つのことしか、羊たちに話していなかった。それはある少女のことだった。あと四日で到着する村に住む商人の娘のことだった。その村へは、まだ、一度しか行ったことがなかった。それは去年のことだった。その商人は呉服屋の主人で、だまされないために、いつも自分の目の前で、羊の毛を刈るように要求した。友達がその店のことを教えてくれたので、少年はそこへ、羊を連れていったのだった。

    ☆

「羊の毛を売りたいのです」と少年は商人に言った。店が忙しかったので、商人は少年に、午後まで待つように言った。そこで少年は、店の入口の階段にすわると、本をかばんの中から取りだした。
「羊飼いが本を読めるなんて、知らなかったわ」と、少女の声が、うしろから聞こえた。その少女は、アンダルシア地方の典型的な容姿をしていた。かすかにムーア人の征服者たちのことを思い出させる、流れるような黒髪と、黒い瞳をしていた。
「ふだんは、本より羊の方からもっと学ぶんだよ」と少年は答えた。二人は二時間も話した。その間、彼女は自分は商人の娘で、村の生活は毎日が同じことのくり返しだ、と言った。羊飼いの少年は、アンダルシアの田舎のことを話し、彼が泊まった他の町のニュースを伝えた。それは羊と話すより、ずっと楽しかった。
「どうやって、読み方を習ったの?」と話の途中で、彼女が聞いた。
「他の人と同じさ」と彼は言った。「学校でだよ」
「あなたは字が読めるのに、なぜ羊飼いをやっているの?」
 少年は彼女の質問に答えるのをさけて、口の中でぶつぶつ言った。彼女には決して理解できないだろうという気がしたからだ。彼は自分の旅の話を続けた。すると、彼女は賢そうなムーア系の黒い瞳を大きく見開いて、こわがったり、驚いたりした。時間がたつうちに、少年は、その日が終らなければいいと願っている自分を発見した。そして彼女の父親がずっと忙しくて、自分を三日間待たせたらよいのにと思った。彼は自分が、今までに経験したことのないような気持ちになっているのに気がついた。それは、一カ所にずっと住みつきたいという希望だった。黒髪の少女と一緒にいれば、自分の毎日は決して同じではないだろうと、彼は思った。
 しかし、ついに商人が現われて、少年に四頭の羊の毛を刈るように頼んだ。彼は羊の毛の代金を支払い、少年に来年もまた来るようにと言った。

    ☆

 そして今、少年は、あと四日で、その同じ村に戻るところだった。彼は興奮し、同時に不安だった。たぶん、少女はもう彼を忘れてしまっただろう。たくさんの羊飼いが、羊毛を売りに村を通り過ぎてゆくのだ。
「それでも平気さ」と彼は羊たちに言った。「他の場所にも少女はいるのだから」
 しかし、彼は心の中で、平気ではない、と知っていた。そして、船乗りや、行商人たちと同じように、羊飼いもまた、自由な旅の喜びを忘れさせる誰かがいる町を、いつか必ず見つけることを、知っていた。
 夜が明け始めた。羊飼いの少年は、羊を追って太陽の方向へ進んだ。「羊たちは、何も自分で決めなくてもいいんだな」と、少年は思った。おそらく、それが、いつも自分にくっついている理由なのだろう。
 羊たちの興味はと言えば、食べ物と水だけだった。アンダルシアで一番良い牧草地の見つけ方を少年が知っている限り、羊たちは彼の友達でいるだろう。そう、彼らの毎日はいつも同じ日の出から日没までの、限りなく続くように思える時間だけだった。彼らは若い時に本を読んだこともなく、少年が都会のようすを話しても何のことかわからなかった。彼らは食べ物と水さえあれば満足していた。そのかわり、彼らは羊毛と友情、そしてたった一度だけだが、自分の肉を気前よく与えてくれた。
 もし僕が、今日、すごく残忍な男になって、一頭ずつ殺すことにしたとしても、ほとんどの仲間が殺されてしまってから、彼らはやっと気がつくのだろう、と少年は思った。彼らは僕を信頼していて、もう自分たちの本能に従うことを忘れている。それは僕がいつもおいしい草のあるところへ連れてゆくからだ。
 少年は自分の考えに驚いた。いちじくが生えている教会にいた悪い霊にとりつかれたのかもしれない。その悪い霊が、自分に同じ夢を二度も見させて、自分の忠実な仲間に不満を感じさせたのだ。彼は昨夜の夕食の時に残したぶどう酒を少し飲んでから、上着の前をかき合わせた。これから何時間かたつと、太陽が頭の真上にきて気温が高くなり、羊の群れを連れて平野を進むことができなくなることを、少年は知っていた。それは夏の間、スペイン中が昼寝をする時間だった。猛暑は日暮まで続き、それまでは上着をかかえていなければならなかった。上着の重さに文句を言おうとした時、彼は、上着があるからこそ、明け方の寒さをしのげるのだと思いなおした。
 僕たちは変化にそなえておかなければならないのだ、と少年は思った。すると、上着の重さと温かさが、ありがたく感じられた。
 上着には目的があった。そして少年にも目的があった。彼の人生の目的は旅をすることだった。二年間アンダルシアの平原を歩きまわって、彼はその地域のすべての町を知っていた。今度少女に会ったら、羊飼いの身で、どうして本が読めるようになったのか、彼女に次のように説明しようと思っていた。少年は十六歳まで神学校にいた。彼の両親は少年を神父にして、あまり豊かでない農家の自慢にしたかった。彼らは羊と同じように、ただ食べ物と水を得るために、一生懸命働いてきた。少年はラテン語とスペイン語と神学を学んだ。しかし、彼は小さい時から、もっと広い世界を知りたいと思っていた。そのことの方が、神を知ったり、人間の原罪を知ることより、彼にとっては重要だった。ある日の午後、家族のもとに帰った彼は、勇気をふりしぼって、自分は神父にはなりたくない、自分は旅がしたいのです、と父親に言った。

    ☆

「息子よ、世界中から旅人がこの町を通り過ぎていったではないか」と父親が言った。「彼らは何か新しいものを探しに来る。しかし、帰る時も、彼らは基本的には来た時と同じままだ。彼らは城を見るために山に登る。そして、私たちが今もっているものより、昔の方が良かったと、結論づけるだけなのだ。彼らは金髪だったり、肌の色が黒かったりもする。だが、ここに住む人たちと、基本的には同じ人間なんだよ」
「でも僕は、彼らが住む町の城を見たいんです」と少年は説明した。
「旅人たちは私たちの土地を見て、自分もずっとここに住みたい、と言うんだよ」と父親は続けた。
「でも僕は、彼らの住む土地を見たいんです。彼らがどうやって生活しているかも見たいんです」と息子は言った。
「ここに来る人たちは、とてもたくさんお金を持っているから、旅をすることができるのだよ」と父親が言った。「私たちの仲間で、旅ができるのは羊飼いだけだ」
「では、僕は羊飼いになります!」
 父親はそれ以上、何も言わなかった。次の日、父親は三枚の古いスペイン金貨が入った袋を少年に与えた。
「これは、ある時野原で見つけたものだ。これをおまえに残す遺産の一部にしようと思っていた。しかし、これで羊を買いなさい。そして野原に行きなさい。いつかおまえにも、私たちの田舎が一番良い場所で、ここの女性が一番美しいとわかるだろう」
 父親は少年を祝福した。少年は父親の目の中に、自分も世界を旅したいという望みがあるのを見た。それは、何十年もの間、飲み水と食べるものと、毎晩眠るための一軒の家を確保するために深くしまいこまれていたものの、今もまだ捨てきれていない望みだった。

    ☆

 地平線が赤く染まった。その時、突然、太陽が顔を出した。少年は父親との会話を思い出して、幸せな気持ちになった。彼はすでに多くの城を見、多くの女たちに出会っていた。(しかし、何日か後に会うことになっている少女に匹敵する者はいなかった)。彼は一枚の上着と、他の本と交換できる一冊の本、そして羊の群れを持っていた。しかし、最も大切なことは、少年が日々、自分の夢を生きることができることだった。もし、アンダルシアの平野にあきてしまったら、羊を売って、船乗りになることもできた。海にあきてしまう頃までには、多くの町を見、他の女たちに会い、幸福になる他のチャンスにもめぐり合っているだろう。神学校では、僕は神様を見つけることができなかったと、朝日が昇るのを見ながら、少年は思った。
 少年は、できるだけまだ通ったことのない道を旅するようにしていた。彼はその地方を何度も訪れたことがあったが、今まで一度も、その見捨てられた教会に行き当ったことはなかった。世界は大きくて、無尽蔵だった。しばらく羊たちに、行き先を自由にまかせておけば、彼は何かおもしろいものを見つけ出した。問題は、羊たちは毎日新しい道を歩いているということに、気がついていないことだった。彼らは新しい場所にいることも、季節の移り変わりさえも知らなかった。彼らが考えることは、食べ物と水のことだけだった。
 人間も同じかもしれない、と少年は考えた。僕だって同じだ。あの商人の娘に会ってから、他の女の人のことを考えたこともないのだから。太陽を眺めながら、タリファの町には正午前に着けるだろうと、彼は計算した。そこで、今持っている本をもっと厚い本と交換し、びんを新しいぶどう酒で満たし、ひげをそって、髪を切ってもらおう。彼は少女と会う準備をしなければならなかった。他のもっと大きな羊の群れを連れた羊飼いが、自分より先に町に着いて、彼女に結婚を申し込んだ可能性については、考えたくなかった。
 少年は太陽の位置をもう一度たしかめながら、夢が実現する可能性があるからこそ、人生はおもしろいのだ、と思った。そして、歩く速度を早めた。彼はその時、タリファに夢を解釈してくれる老女がいることを、思い出した。

    ☆

 老女は奥の部屋へと、少年を招き入れた。そこは色のついたビーズのカーテンで、居間と仕切られていた。部屋には一つのテーブルとイエスの像と、二つのいすがあった。
 その女性はいすにすわると、少年にもすわるように言った。それから、少年の両手を自分の手にとると、静かに祈り始めた。
 それはジプシーの祈りのように聞こえた。少年は以前、道でジプシーに出会ったことがあった。ジプシーたちも旅をしていたが、彼らは羊を連れてはいなかった。ジプシーは人をだまして生活しているといううわさだった。また、悪魔と協定をむすんでいるとも言われていた。子供を誘拐して、彼らの不思議なキャンプへ連れてゆき、奴隷にするといううわさもあった。少年は幼い頃、ジプシーに連れてゆかれるのではないかと、死ぬほど恐れていた。老女が彼の両手をにぎった時、幼い頃のその恐怖がよみがえった。
 でもこの人は、イエス様の像をかざっているのだから、と少年は考えて、自分を安心させようとした。彼は、自分の手がふるえて、老女にこわがっていることをさとられるのがいやだった。そこで心の中で、お祈りの言葉をとなえた。
「これはおもしろい」と老女は少年の手から目をはなさずに言うと、黙ってしまった。
 少年は緊張した。彼の手がふるえ始め、老女はそれに気がついた。彼は急いで手をひっこめた。
「僕は手相を見てもらいに来たんじゃありません」来なければよかったと後悔しながら、彼は言った。少年はお金を払って何も聞かないで帰った方がいいと、とっさに考えた。そして、同じ夢をくり返し見たことを、あまり気にしすぎたのだと思った。
「夢のことを知ろうとして、ここに来たのだね」と老女が言った。「夢は神のお告げだよ。神がわれわれの言葉を話す時には、わしは彼が何と言ったか解釈することができるのさ。しかし、神が魂のことばを話す時、それがわかるのはおまえだけさ。でも、いずれにしても、お代はいただくよ」
 まただまそうとしている、と少年は思った。しかし彼は、いちかばちか試してみることにした。羊飼いはおおかみに出会う時も、かんばつの時も、いつもいちかばちか冒険してみるのだ。それが羊飼いの人生がおもしろいゆえんだった。
「同じ夢を二度見たのです」と彼は言った。「夢の中で、僕は羊と一緒にいました。すると一人の子供が現われて、羊と遊び始めました。大人がそんなことをするのは、僕は嫌いです。羊は知らない人をこわがるから。でも子供たちは羊をこわがらせずに一緒に遊ぶことができるんです。どうしてかわかりませんが。動物たちがどうやって人間の年齢を知るのか、僕にはわかりません」
「おまえの夢のことをもっと話しなさい」と老女が言った。「わしは料理をしに戻らなくてはならないからね、おまえはあまりお金がなさそうだから、おまえのために、あまり時間はかけられないよ」
「その子供は、かなりの時間、僕の羊たちと遊んでいました」と少年は少しうろたえながら話し続けた。「すると突然、その子は、僕の両手をつかむと、僕をエジプトのピラミッドまで連れていったのです」
 彼はしばらく待って、この老女がエジプトのピラミッドのことを知っているかどうか知ろうとした。しかし老女は何も言わなかった。
「それで、そのエジプトのピラミッドのそばで」と、少年はエジプトのピラミッドという言葉を老女が理解できるように、ゆっくりと話した。「その子供は僕に言いました。『あなたがここに来れば、隠された宝物を発見できるよ』そして、その子が正確な場所を教えようとした時、僕は目を覚ましてしまったんです。二回ともね」
 老女はしばらく、何も言わなかった。それから彼女はもう一度、彼の手をとると、注意深く手のひらを見つめた。
「今はお金をもらわないよ」と老女が言った。「だが、もしおまえが宝物を見つけたら、その十分の一をわしにおくれ」
 少年は笑った。うれしかった。宝物の夢のおかげで、持っているお金を使わずにすむことになったのだ!
「では、夢を解釈して下さい」と少年が言った。
「まず最初に、わしに約束しなさい。わしがこれからおまえに言うことの代価として、宝物の十分の一をくれると約束するかね」
 羊飼いの少年はそうすると約束した。老女は、イエスの像を見てもう一度誓うように要求した。
「その夢はこの世の言葉だよ」と彼女は言った。「だから、わしは解釈できる。だが、解釈はとてもむつかしい。だから、おまえの見つけるものの一部をもらう資格があるのさ。
 わしの解釈は次の通りだよ。おまえはエジプトのピラミッドに行かねばならない。ピラミッドのことは一度も聞いたことがないが、おまえにそれを見せたのが子供だったのなら、それはあるということだ。そこでおまえは宝物を見つけてお金持ちになるのさ」
 少年はびっくりし、それから怒りが湧いてきた。こんなことのためなら、この老女のところに来る必要はなかったのだ! しかしその時、少年はお金を払わなくてもいいことを思い出した。
「そんなことを言ってもらうために、時間をむだにするんじゃなかった」と少年が言った。
「おまえの夢はむつかしいと、さっき言っただろう。人生で簡単に見えるものが、実は最も非凡なんだよ。賢い人間だけがそれを理解できるのさ。わしは賢い人間ではないから、何か技術を学ばなければならなかったのだよ。手相を読む技術とかをね」
「では、エジプトにはどうやって行くの?」
「わしはただ夢を解釈するだけさ。それをどう実現するかは知らないよ。だからこうして娘に養われているというわけさ」
「もし僕がエジプトに行けなかったらどうなるの?」
「わしがお代を払ってもらえなくなるのさ。そんなことはよくあることだよ」
 そして、おまえさんのために、時間をずい分とむだにしてしまった。もう行きなさいと老女は言った。
 少年は失望し、もう二度と夢は信じないことにしようと決めた。彼は、しなくてはならないことがいくつかあることを思い出した。そして、市場に食べ物を買いに行き、自分の本をもっと厚い本と交換してから、広場にベンチを見つけると、買ってきた新しいぶどう酒の味見をした。その日はとても暑く、ぶどう酒は気持ちをさわやかにしてくれた。羊たちは、町の門の近くの友人が持っている家畜小屋にいた。少年はその町に知り合いがたくさんいた。それが彼にとっての旅の魅力だった。彼にはいつも新しい友人ができたが、すべての時間を彼らと過ごす必要はなかった。神学校にいた時そうであったように、同じ友人といつも一緒にいると、友人が自分の人生の一部となってしまう。すると、友人は彼を変えたいと思い始める。そして、彼が自分たちの望み通りの人間にならないと、怒りだすのだ。誰もみな、他人がどのような人生を送るべきか、明確な考えを持っているのに、自分の人生については、何も考えを持っていないようだった。
 彼は、羊と一緒に平原に戻るのは、太陽がもっと沈んでからにしようと思った。今日から三日後、あの商人の娘と会うのだ。
 彼は新しく手に入れた本を読み始めた。第一ページ目に、葬式について書いてあった。登場人物の名前はむつかしすぎて発音できなかった。僕がいつか本を書く時には、一度に一人の名前だけをあげ、読者が何人もの名前を憶えなくてもすむようにしよう、と少年は思った。
 やっと本に集中できるようになると、その本がだんだん好きになった。その葬式は雪の日にとり行われていて、彼は寒さの感覚を思い出してそれを楽しんだ。読んでいると、一人の老人が少年のそばにすわり、彼に話しかけた。
「あの人たちは何をしているのかね?」とその老人は広場にいる人たちの方を指さして聞いた。
「働いているのです」と少年はぶっきらぼうに答えた。自分は読書に集中したいと思わせるためだった。
 実際は、少年はあの商人の娘の前で、羊の毛を刈ることを考えていた。そうすれば、彼がむつかしいことのできる人だと、彼女はわかるだろう。彼はすでに何度も何度もその場面を想像していた。少年が、羊はうしろから前の方に毛を刈ってゆくのだと説明するたびに、少女は感心するのだった。少年は羊の毛を刈りながら話すために、おもしろい話をいくつか憶えようとした。そのほとんどは本で読んだものだったが、自分の経験のように話そうと思っていた。彼女は字が読めないのだから、その違いには絶対に気がつかないだろう。
 一方、さっきの老人は相変わらず、何とかして彼と話そうとしていた。そして、疲れてのどが乾いているので、ぶどう酒を一口もらえないだろうか、と少年に頼んだ。自分を一人に放っておいてほしいと思いながら、少年は自分のびんをさし出した。
 しかし、その老人は話をしたがった。そして少年に、何の本を読んでいるのかとたずねた。少年はいじわるをして、他のベンチに移りたかったが、父親から、年長者には敬意をもって接するように教え込まれていた。そこで彼は、本を老人の方にさし出した。それには二つの理由があった。第一に、少年はその題名をどう発音するのかよく知らなかった。第二に、もし老人が読み方を知らなければ、きっと恥ずかしく思って自分から他のベンチに行ってしまうだろう、と思ったからだ。
「フーム」と老人は言い、まるで奇妙なものでも見るかのように、本のあちこちを眺めまわした。「これは重要な本だ。でも本当にいらいらする本だな」
 少年はショックを受けた。老人は字が読めるのだ。そしてすでに、その本を読んでいたのだ。そしてこの老人が言うように、もしこの本がいらいらする本であるならば、少年にはまだ他の本と交換する時間があった。
「この本は、世界中のほとんどの本に書かれていることと同じことを言っている」と老人が言った。「人は自分の運命を選ぶことができない、と言っているのだよ。そして最後に、誰もが世界最大のうそを信じている、と言っている」
「世界最大のうそって何ですか?」と、すっかり驚いて、少年は聞いた。
「それはこうじゃ、人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。それが世界最大のうそじゃよ」
「そんなことは、僕の人生には起こらなかったよ」と少年が言った。「両親は僕に神父になってほしかったんだ。でも僕は羊飼いになると自分で決めたのさ」
「その方がずっとよい」と老人が言った。「おまえは本当に旅をすることが好きだからな」
「この人は僕の考えていることを知っているぞ」と少年は思った。その間、老人は本をパラパラとめくっていた。もう少年に返したくないようだった。その男の着ているものが、見慣れぬものであることに少年は気がついた。老人はアラブ人のように見えた。アラブ人はこの地方ではあまりめずらしくなかった。アフリカはタリファからたったの二、三時間のところだった。船で狭い海峡を渡ればいいだけだった。アラブ人はよくこの町を訪れ、買いものをしたり、一日に何回も変わったお祈りをあげたりしていた。
「あなたはどこから来たのですか?」と少年が聞いた。
「そこら中からだよ」
「誰もそこら中からは来ませんよ」と少年が言った。「僕は羊飼いです。そこら中に行きましたが、僕は一つの場所から来ました。古い城のある町からです。そこが僕の生まれ故郷です」
「それならば、わしはセイラムで生まれたということだ」
 少年はセイラムがどこにあるか、知らなかった。しかし、自分がものを知らないように見えるのがこわくて、聞いてみようとはしなかった。少年はしばらくの間、広場にいる人々の方を眺めた。人々は行ったり来たりして、みんなとても忙しそうだった。
「それでセイラムはどんなところです?」と何かヒントをつかもうとして少年がたずねた。
「いつもの通りだよ」
 まだヒントは得られなかった。セイラムがアンダルシアにはない、ということはわかっていた。もしあったとしたら、今までに聞いたことがあるはずだった。
「セイラムで、あなたは何をしていたのですか?」と彼はなおも聞いた。
「わしがセイラムで何をしていたかだって?」と老人は笑った。「そうさ、わしはセイラムの王様さ」
 人は妙なことを言うものだと少年は思った。時には、何も言わない羊たちと一緒の方がずっと良い。もっと良いのは、本と一緒の時だ。本は自分が聞きたいと思う時に、信じられないような物語を話してくれる。しかし、人と話していると、彼らはあまりに変なことを言うので、会話をどう続ければいいのか、わからなくなってしまう。
「わしの名はメルキゼデックだ」と老人は少年に言った。「おまえは羊を何頭持っているのかね?」
「十分持っています」と少年が答えた。老人が自分の人生についてもっと知りたがっているのが、彼にはわかった。
「そうなるとじゃ、それは問題だ。おまえがもう十分な羊を持っていると思うのなら、わしはおまえを助けられないな」
 少年はだんだんいらいらしてきた。自分は助けてくれと頼んでもいなかった。自分のぶどう酒を飲みたいと頼み、会話を始めたのは老人の方だった。
「本を返してください」と少年は言った。「僕は今から羊たちを集めて、出かけなければなりません」
「おまえの羊の十分の一をわしにおくれ」と老人は言った。「そうすれば、どうやって隠された宝物を探せばいいか、教えてあげよう」
 少年は夢のことを思い出した。すると突然、すべてが明らかになった。あの老女は僕から代金をとらなかった。しかし、もしかしたらこの老人は彼女の夫かもしれない。そして、ありもしない宝物の情報と交換に、もっとたくさんのお金をとろうとしているのだ。この老人もきっとジプシーなのだろう。
 しかし、少年が何も言わないうちに、老人はかがみこんで一本の棒を拾うと、広場の砂の上に何か書き始めた。老人の胸から明るい光が反射し、あまりの明るさに、少年は一瞬目が見えなくなった。老人はその歳にしては非常にすばやい動作で、マントでその光をおおい隠した。視力が元に戻ると、少年は老人が砂の上に書いたものを読むことができた。
 その小さな町の広場の砂の上には、少年の父親の名前と母親の名前と、彼が通った神学校の名前が書かれていた。また、まだ少年が知らない商人の娘の名前と、これまで少年が誰にも話したことがないこともいろいろ書かれていた。

    ☆

「わしはセイラムの王様さ」とその老人は言っていた。
「どうして王様が羊飼いの僕と話をするのですか?」と、少年は当惑しながらたずねた。
「いくつかの理由がある。しかし一番重要なのは、おまえが自分の運命を発見したということだ」
 少年は人の「運命」がどういうものかわからなかった。
「おまえがいつもやりとげたいと思ってきたことだよ。誰でも若い時は自分の運命を知っているものなのだ。
 まだ若い頃は、すべてがはっきりしていて、すべてが可能だ。夢を見ることも、自分の人生に起こってほしいすべてのことにあこがれることも、恐れない。ところが、時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ」
 老人の言っていることはどれも、少年にはあまり意味のないことのように思われた。しかし、彼は、その「不思議な力」が何か知りたかった。もし、商人の娘にそのことを話したら、きっと彼女は感心してくれるだろう。
「その力は否定的なもののように見えるが、実際は、運命をどのように実現すべきかおまえに示してくれる。そしておまえの魂と意志を準備させる。この地上には一つの偉大な真実があるからだ。つまり、おまえが誰であろうと、何をしていようと、おまえが何かを本当にやりたいと思う時は、その望みは宇宙の魂から生まれたからなのだ。それが地球におけるおまえの使命なのだよ」
「したいと思うことが、旅行しかないという時もですか? 呉服屋の娘と結婚したいという望みでもですか?」
「そうだ。宝物を探したいということでさえそうなのだ。『大いなる魂』は人々の幸せによってはぐくまれる。そして、不幸、羨望、嫉妬によってもはぐくまれる。自分の運命を実現することは、人間の唯一の責任なのだ。すべてのものは一つなんだよ。
 おまえが何かを望む時には、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ」
 二人ともしばらく黙ったまま、広場と町の人々をながめていた。先に口を開いたのは老人だった。
「おまえはなぜ、羊の世話をするのかね?」
「旅がしたいからです」
 老人は、広場の一角にある自分の店のショーウィンドウの横に立っているパン屋を指さした。「あの男も、子供の時は、旅をしたがっていた。しかし、まずパン屋の店を買い、お金をためることにした。そして年をとったら、アフリカに行って一カ月過ごすつもりだ。人は、自分の夢見ていることをいつでも実行できることに、あの男は気がついていないのだよ」
「羊飼いになればよかったのに」と少年は言った。
「そう、彼はそのことも考えたよ」と老人が言った。「しかし、パン屋の方が羊飼いより、立派な仕事だと思ったのさ。パン屋は自分の家が持てる。しかし、羊飼いは外で寝なくてはならないからね。親たちは娘を羊飼いに嫁にやるより、パン屋にやりたがるものさ」
 商人の娘のことを考えて、少年の心はズキンと痛んだ。彼女の町にもパン屋がいるにちがいない。
 老人は話し続けた。「結局、人は自分の運命より、他人が羊飼いやパン屋をどう思うかという方が、もっと大切になってしまうのだ」
 老人は本をパラパラとめくると、開いたページを読み始めた。少年は待っていた。やがて、自分がさっきされたように、老人に話しかけた。「あなたはなぜこのようなことを僕に話すのですか?」
「それは、おまえが運命を実現しようとしているからだよ。それに、今、もう少しですべてをあきらめようとしているからだ」
「あなたはそういう時にいつも現われるのですか?」
「いつもこうだとは限らないが、わしは必ずいろいろな形で現われるのだ。時には一つの解決法とか、良い考えとなって現われることもある。別の時には、危機一髪という時に、ものごとを起こりやすくしてあげることもある。もっと他のこともいろいろとしているが、ほとんどの場合、人はわしがやってあげたということに気がつかないのだよ」
 老人は一週間前、ある鉱夫の前に現われざるを得なかったこと、しかも、一つの石になって現われた話をした。その鉱夫はすべてを捨てて、エメラルドを探しに行った。五年間、彼はある川で働き、エメラルドを探して、何十万個という石を調べた。その鉱夫はあと一つ、たったもう一つの石を調べれば、エメラルドを発見するという時点で、すべてをあきらめようとしていた。彼は自分の運命を追求するために、すべてを犠牲にしていたので、老人は手を出すことにした。彼は石に身を変え、鉱夫の足元にころがった。鉱夫は五年間もみのりのない年月への怒りといらだちから、その石を拾いあげると投げつけた。しかし、力まかせに投げたために、その石が当った石が砕けた。すると、壊れた石の中に、世界中で最も美しいエメラルドが入っていた。
「人は、人生の早い時期に、生まれてきた理由を知るのだよ」と老人がある種の皮肉をこめて言った。「おそらく、人がこんなにも早い時期にそれをあきらめるのは、そのせいだろう。しかし、それはそうなるべくしてなっているのさ」
 少年は老人に、宝物についてあなたは何か言っていましたね、とたずねた。
「宝物は流れる水の力によって姿を現わし、また同じ流れによって姿を隠すのだよ」と老人は言った。「もしおまえの宝物について知りたかったら、羊の十分の一を私によこしなさい」
「宝物の十分の一でどうでしょうか?」
 老人は失望したようだった。「まだ手に入れていないものをあげると約束して始めたのでは、おまえはそれを手に入れたいとは思わなくなるだろうね」
 少年は、ジプシーに宝物の十分の一をあげる約束をすでにしたことを、彼に話した。
「ジプシーはそういう約束をさせる専門家だよ」と老人はため息をついた。「とにかく、おまえは、人生のすべてには代価が必要だということを学ぶことができてよかったではないか。光の戦士が教えていることはそれだからね」
 老人は本を少年に返した。
「あした、今日と同じ時刻に、おまえの羊の十分の一を連れておいで。そうすれば、隠されている宝物の見つけ方を教えてあげよう。ではさようなら」
 老人は広場の角をまわって、姿を消した。


(このつづきは本編でお楽しみください)
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