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試し読み

【試し読み】文庫化記念! 大ヒット『悪い夏』著者・染井為人による戦慄のダークサスペンス『黒い糸』冒頭を大ボリューム特別公開

悪い夏』が映画化&大ヒット中の染井為人さんの最新作『黒い糸』の文庫化を記念して、大ボリュームの試し読みを掲載します!
結婚相談所で働くシングルマザーの亜紀と、小学校教師の祐介。彼らの周りで次々と起きる異常犯罪の数々――。街に潜む“化け物”の正体とは? 現代社会のタブーと不条理に挑む、著者渾身のサスペンスをお楽しみください!

染井為人『黒い糸』試し読み



 それでは息子を呼んできますので、と古希を過ぎた母親が席を立った十数秒後、「よけいなことをすんじゃねえっ」という怒声が上がり、壁がドンッと鳴った。その振動が居間にも伝わり、やれやれこのパターンか、とひらやまは顔をしかめた。
 となりに座るけんしんは、口を半開きにしてあつに取られている。彼は先週に中途採用で入社したばかりの二十七歳で、今日が初めての現場体験なのである。
 亜紀はそんな見習い社員に苦笑して見せてから、窓の向こうの庭に目をやった。そこには寒空の下、鎌を手に雑草を刈る父親の姿がある。
 この父親は、先ほど亜紀たちが家を訪ねると、玄関で入れ替わるようにサンダルをつっかけた。「できればお父様もご一緒に」背中にそう告げたものの、「そういうのはうちのに任せてるから」と父親は振り返ることもしなかった。
 子に甘い母親に、無関心な父親、そんな両親のもと、自由気ままに暮らす四十七歳の息子。
 そしてこの息子、この家庭に嫁いでくれる女を探し出すことこそ、亜紀の仕事だった。
 亜紀が結婚相談所でアドバイザーを始めたのは九年前、三十歳のときだった。きっかけは五年連れ添った夫と離婚したことで、所得の必要に迫られたからだ。
 当時まだ三歳の息子がいて、彼を女手一つで食べさせていくためには、男並みに稼ぐことができて、なおかつ拘束時間の短い仕事と、条件は緩やかではなかった。
 最初は安直に水商売をしようと思った。ただ、冷静に考えてやめた。年齢からしてどの道長く続かないと思ったのと、まだ幼い子どもを深夜保育に預けることに後ろめたさを覚えたからだ。
 そんなとき、とある結婚相談所から、自宅に一本の営業電話が掛かってきた。ふだんの亜紀であれば、この手の勧誘は「間に合ってます」の一言で受話器を置くのだが、このときはちがった。そうかこういう仕事もあるのか、と興味が湧いたのだ。
 亜紀は話に乗ったフリをして、自宅で面談を組んだ。翌日、家にやってきたのは電話相手とは別の、自分よりやや年上の女の結婚アドバイザーだった。
「離婚歴があろうと、お子さんがいようと、引け目を感じることはまったくありません。そうしたことを気になさらない方も多いですし、男性側にだってシングルファザーがいます。なにより、平山さんほどの容姿があれば、チャンスは山ほどあります」
 アドバイザーは世辞を述べ、笑顔を振りまいた。亜紀はその一挙手一投足を観察していた。そして、これなら自分にもできそうだと思った。
「もしも、わたしが入会したら、あなたはいくら報酬をもらえるんですか」
 アドバイザーはきょとんとした顔つきになった。
「月に休みは何日? 一日の労働時間は?」
 客ではないと察したアドバイザーは、一瞬だけ落胆した顔を見せたものの、その後はあけすけに実態を教えてくれた。「実を言うとね、わたしもバツ一のシンママ」アドバイザーは白い歯をこぼして言い、同時に笑い声を上げた。つい先ほどまで、少し優柔不断な、だけども穏やかな夫がいると、もっともらしいことを語っていたのだ。
「うちの会社はそういう人多いよ。だからある程度融通を利かせてくれるし、がんばればそこそこ稼げるから、やってみなよ。きっと、あなたは向いてる気がする」
 三日後、亜紀はこの会社の名刺を持っていた。
 もっとも、最初の数年はうまくいかなかった。収入が安定し始めたのは三十五を過ぎたあたりからだ。仕事に慣れてきたというのもあるだろうが、一番の要因は自分の年齢が上がったからだと亜紀は分析していた。結婚アドバイザーは平たくいえばなこうどなので、若い女がいくら結婚の素晴らしさや、独身の不安などを訴えても説得力に欠けるのだ。
 亜紀が腕時計に目を落としたとき、ようやく母親が居間に戻ってきた。その後ろには上下スエット姿の息子もいた。ふて腐れた顔に青ひげが広がっている。
 この息子は、亜紀の来訪を知らされていなかった。これはけっして珍しい話ではない。テレフォンアポインターが面談の約束を取りつけるのは大抵母親で、当人は亜紀のようなアドバイザーが家にやってきて、初めて事を知るのである。母親からすると、結婚相談所の人が来ると事前に通達しても拒絶されるため、それならばとば口からプロに任せてしまおうという魂胆なのであった。もっとも、テレフォンアポインターがそのように誘導するというのもある。
 なにはともあれ、当人からすればいきなりそんなちんにゆう者が現れて、要らぬ節介を焼かれるのだから、不機嫌になるのも無理はない。
 その息子が母親と並んで、亜紀の対面に座った。亜紀は卓上にパンフレットを広げ、改めて会社の紹介を始めた。
 亜紀の勤める株式会社アモーレは、設立が平成元年で、全国に店舗が九つあり、従業員の数は社員・パートを含め約百五十名の、中規模の結婚相談所だった。実績として、これまでのべ四千人の会員を成婚に導いており、業界内で“もっとも会員に寄り添う結婚相談所”という評価をいただいている――と、これは自分たちで勝手に言っていた。
 母親はうんうんと、しきりにうなずいて耳を傾けている。一方、当人である息子は仏頂面を保ったまま、亜紀とは目も合わせようとしない。
 だが、亜紀が分厚いファイルバインダーを取り出し、開いて見せると、その顔つきに変化があった。そこには女性の顔写真と、プロフィールが掲載されているのである。
 ここに掲載されている女性たちは、実際にアモーレに登録をしていて、その中から容姿を基準に選抜された会員たちだ。「でも実在しないんでしょ」と言われたときのためにそうしているのだが、当人たちはこれを知らない。亜紀が仕事を始めてもっとも驚いたのは、この業界の個人情報保護の概念の希薄さだ。
 息子は前のめりでたるんだあごさすり、品定めをするように目を凝らしている。先ほどとは打って変わった態度に、内心苦笑してしまう。
「ここに掲載されているのはほんの一部で、ご入会後は弊社サイトから、多くの会員様のプロフィールを閲覧することができるんですよ」
 息子はあいまいに頷いて見せ、かわりに母親が口を開いた。
「うちの子もけっして若くはないでしょう。だからあんまり高望みはできないなってわかってるの。親としては健康体の女性なら、それで十分」
「それだけがご条件なら、星の数ほどお相手はいますよ」
 あくまで見合いを申し込む相手が、という意味だ。その先はわからない。当然、相手にだって選ぶ権利はある。
「いかがでしょうか? 気になった方などおられましたか」
 亜紀がたずねると、息子は小首をひねり、「とくには」と初めて口を開いた。
「そうですよね。いきなりそうかれても困りますよね。でも、あえて選ぶとすれば?」
 亜紀は微笑みを崩さずに、なお迫った。ここで本人に選ばせることが肝なのだ。
 息子はうーんと低くうなり、「まあ、この人とか」と、ひとつの写真を指差した。
 選ばれたのは、千葉市在住の三十一歳、とある工務店で事務員をしている女だ。
 この女は結構な確率で、初見の男から気に入られる。写真からもわかるくらい、大きな胸をしており、本人もそれを強調して写っているからだ。ただし、この胸は人工的なものだった。また、目頭を切開しており、鼻と顎にはプロテーゼも入っている。どうしてそんなことを亜紀が知っているのかというと、この女を入会させたのが亜紀で、それは二年前のことなのだが、その当時と明らかに別人だからだ。
 いずれにせよ、この女がこの息子を選ぶことは、天変地異が起こらぬ限りありえない。『大卒』『年収一千万円以上』『四十歳以下』というのが、女の絶対条件だからだ。そのすべてをこの息子はクリアしていない。
「たしかにこちらの方は、同性のわたしから見ても、とても素敵だと思います」
 亜紀が同意を示すと、となりの母親が「そおう」とまゆをひそめた。
「この方はたしかに美人さんかもしれないけれど、ちょっとお化粧が濃いんじゃないかしら。髪もだいぶ明るいし。それにここの『毎年、海外旅行に連れて行ってくれる方』っていうのが、ちょっとどうなのかなって気もするけれど」
 それぞれ、プロフィールの最後に、相手に求める一文を載せているのだ。にしても先ほどの「健康体の女性なら――」という台詞せりふはどこへ消えたのか。
「だいたいあなた、海外旅行どころか、国内にだってどこも行きたがらないじゃない」
「そんな詳しく見てねえもんよ」
 息子が鼻にしわを寄せて言い返す。
 きっと写真だけで選んだのだろう。男は大抵そうだ。「男の人からすると、風俗嬢を指名すんのと変わんないのよ」これは入社したばかりの頃に先輩が放った台詞で、当時はそんなことないだろうと思ったが、今なら大いに頷ける。
「お母さんは、こちらの女性なんかがいいなって思ったけどね」
 母親が指差したのは、黒髪で化粧気がなく、純朴そうなふうぼうをした二十八歳の女だ。
「なんだかあいきようがあっていいじゃない。こういう子に来てもらえたら、お母さんは助かるけど」
 この女のことも亜紀は知っていた。たしかに明朗で、感じのいい人物だった。
 ただし、この女からすればなにが悲しくて、年収が四百万円程度の、取り立てて秀でたもののない、年相応のルックスをしたおっさんのもとに嫁がなくてはならないのか、となるのは必至で、それがわからないのはこの親子だけなのだ。
 結婚相談所の会員とその親に共通するのが、恐ろしいまでのバランス感覚の欠如だった。つまり、身の丈に合った相手を選ぶことができないのである。
 女は男に学歴と収入を求め、男は女に若さと容姿を求める――端的にいえばこうで、そこにのつとって考えれば、この息子に合うのは、十人並みの容姿をした、四十歳以上のパート勤めの女だ。そうじゃないと、この息子が腰を下ろしたシーソーの平衡が保たれない。
 そう、結婚はシーソーなのである。まず初めに、自分と相手の体重を見極め、次に腰を下ろし、そして慎重に地面から足を浮かせてみる。ここから微調整を図り、平衡になれば成婚、浮き沈みすれば破談となる。ここでいう微調整とは、身もふたもないことを言ってしまえば妥協だ。自分の求める理想と、目の前の現実との差異に、どれだけ目をつぶれるか。それができないようなら、どんなところへ行こうが、なにをしようが、結婚など到底できない。
 大前提、“あなたの理想の相手はすでに誰かのもの”なのである。亜紀はこれを拡声器を使って、全世界に向けてシャウトしたい。
 それから一時間ほど話し込み、最終的にこの息子は、入会の申込書にサインをした。もっとも、本人は最後まで「あんまり面倒なことはしたくねえなあ」とぼやいており、そんな息子の背中を押したのは、やはり母親だった。「お願い。お母さん、あなたが独りだったら死にきれないもの」と、切実なひとみで息子に訴えていた。おそらく、入会費と月会費を支払うのは、この母親になるのだろう。

「ああいう感じなんですね。勉強になりました」
 社用車のエンジンが掛かり、発進したところで、ハンドルを握る謙臣が嘆息交じりに言った。
「ふふふ。面食らっちゃったでしょう。わたしたちは、ああいうご家庭を相手にしていかなきゃならないの」
 助手席の亜紀が、エアコンの暖房を操作しながらこたえた。日は出ているものの、二月初旬なので、ちょっと放っておくだけで、車内は冷蔵庫より冷えてしまう。
「でもあの男性、うちに入会したからといって結婚できるんですかね」
「さあ、それは本人次第。もちろん入会してもらった以上、こちらはがんばるけど、本人が前のめりできてくれないと、どうにもならないから」
「なるほど。ただ、こんなことを言ったら、あれなんですけど、たとえ本人にやる気があっても……」
「あの男性を気に入る女性会員がいるのかって」
「はい。そもそも見合いの場まで、たどり着けるのかなって」
「そこがわたしたちの腕に掛かってるのよ。たとえばあの男性が、女性会員のA子さんと見合いをしたいって、所望したとするでしょ。そうしたら、わたしたちはA子さんを必死に説得して、見合いの場に行ってもらうの」
「説得したら、行ってくれるものなんですか」
「人によるかな。ちなみに、わたしの必殺の口説き文句は、『タダでしい料理が食べられると思えばいいじゃないですか』なんだけどね」
 亜紀がそう答えると、謙臣は並びのいい歯をのぞかせて、肩を揺すった。
 会員同士の見合いの場の食事代や、その後のデート代は、基本的に男性側が負担するというのがアモーレのルールだった。男女平等が叫ばれて久しい世の中にあって、時代遅れなのかもしれないが、こうじゃないと現場はく回らないのだから仕方ない。
 現に女性は無職、無収入でも会員になれるが、男性はきっぱりお断りしている。たとえ入会させたとしても、相手など見つけられるはずがないからだ。
 その点、女性は無職だろうが、多少の借金があろうが、容姿さえ優れていれば、拾い手はいくらでもあるのだから、男女間における需要と供給は、理不尽かつ残酷なもので成り立っている。
「ねえ、どうして土生くんは、結婚アドバイザーなんかになろうと思ったの」
 千葉北ICを降りて、国道16号に入ったところで、亜紀が訊いた。ここから会社があるまつまでは、あと一時間ほど掛かる。
「いやあ、親父が就職しろしろって、うるさくて。それでたまたま手に取った求人誌にアモーレの求人が出ていたんで、ここなら勤怠も緩そうだし、まあいいかなって……すみません。めちゃくちゃ不純な動機で」
「ううん。正直でよろしい。でも、そっか。土生くんの実家って、お寺なんだもんね。そりゃ、お金はたんまりあるのか」
 行きの車内で、謙臣の実家は、なり市にあるせいしよう寺という寺院だと聞かされていた。彼の父親がそこの住職らしい。ちなみに、母親は謙臣の三つ歳下の妹が生まれてすぐ、亡くなってしまったそうだ。
「まあ、お金がないことはないですね」
「あら、否定しないんだね」亜紀は苦笑した。
「だって、あるのにないという方が嫌味じゃないですか。でも、お寺だからというよりは、その周辺の土地を持っているので、そっちの収入の方がはるかに大きいんですけどね」
「ふうん。なんにしろうらやましい話」亜紀は肩をすくめた。「もし、土生くんがうちの会員になったらヤバいと思うよ。女性会員が一斉に群がっちゃう」
「そんなことないですよ――と言いたいところですけど、きっとそうなんでしょうね。ただ実家が金持ちってだけで」
 いや、それだけじゃない。この二十七歳の男は容姿もいいのだ。身体つきこそきやしやなものの、顔立ちはお世辞抜きで端整だった。こうして横顔を見ていても、額、鼻、あごのラインがれるほど美しい。いわゆる黄金比というやつだ。亜紀も若いときに出会っていたならば、アプローチを掛けていたかもしれない。
「でもさ、土生くんはいつかお父さんの後を継いで、お坊さんにならないといけないんじゃないの」
「なりませんよ、そんなの」謙臣はとんでもないと言わんばかりに、大きくかぶりを振った。「ですから、親父がいつか引退したら、適当な住職に来てもらって、寺の運営を任せようと思ってるんです」
「ふうん。そんなにお坊さんになりたくないんだ」
「ええ、絶対に。だってぼく――」謙臣が細めた横目を向けてくる。「頭の形が悪いんです」
 亜紀はあはははと、声に出して笑ってしまった。
 謙臣は裏表のない、おもしろい男の子だ。
 ただ、きっと長続きはしないだろうなと思った。結婚アドバイザーは基本的に女性の方が向いているし、業務内容だってけっして楽ではない。面倒な会員の相手をしなくてはならないし、理不尽なクレームを受けることも日常茶飯事だ。まちがっても金持ちのハンサムが、道楽でやるような仕事ではない。
 それから話は、謙臣の少年時代にまでさかのぼった。彼は小学校の卒業文集で、将来の夢について「お坊さんじゃなければなんでもいい」と書いたらしく、亜紀は再び笑ってしまった。
「うちの息子も最近、同じ題材で卒業文集を書いたらしいのね。で、なんて書いたのっていたら、サラリーマンって言われちゃって、がっくりきちゃった。まだユーチューバーって書いてくれた方がマシ」
「これまた現代っ子ですねえ」と謙臣が肩を揺する。「ところで卒業文集ってことは、もしかして息子さん、六年生ですか」
「うん。そう」
 すると、謙臣は意外そうな顔で、助手席をいちべつしてきた。
「なに、そんな大きい子どもがいるようには見えないって?」
 亜紀は冗談めかして言ったのだが、謙臣は真剣な顔で、「はい。超意外でした。そもそも平山さんって、全然お母さんって感じがしないんですよね」と答えた。
 ああ、これはモテるわ、と改めて思った。そして罪深い男だなとも思った。こういう台詞せりふをさらっと口にできてしまうのだから。
「いるのよ。甘ったれな男の子が」
「男の子は甘ったれくらいが可愛いじゃないですか」
「わたしは女の子の方がよかったんだけどね。男の子は手が掛かるから大変」
「ふつう逆を言いません?」
「ふつうはね。うちはだんがいないから、男の子のことがよくわからないのよ」
「ああ、なるほど。けど、女の子は危険も多いし、それはそれで大変だと思いますよ。だってほら、二ヶ月くらい前にもうちの営業所の近くで、女の子の誘拐事件があったじゃないですか」
 一瞬、心臓が跳ねた。運転席に目をやる。
「あ、そういえば、あの誘拐された女の子もたしか、六年生じゃなかったでしたっけ」
 その女の子、うちの息子のクラスメイトなの――と、言おうとしてやめた。
 正直、あの事件のことはあまり話題にしたくない。身近で起きた悲劇だけに、亜紀もひどく胸を痛めたのだ。しばらく夜も眠れなかったほどだ。
 結局、いまだ被害女児は発見されていない。親御さんの気持ちを思うと、やりきれない。
 それから一時間を経て、十六時過ぎに会社に帰着した。
「運転おつかれさま。ありがとう」シートベルトを解きながら礼を告げた。
「こちらこそ、勉強させていただきありがとうございました」
「助手席に乗ることなんて滅多にないから、新鮮だった。運転しないでいいって楽ね」
 亜紀の勤務する松戸営業所は駅近にあり、ここを拠点に、千葉県のほぼ全域に向けて営業車を駆る毎日を送っていた。たまに茨城や埼玉にも遠征することがあり、そうしたときは、まるで運送ドライバーのような一日を送ることとなる。車の運転は嫌いじゃないが、五時間以上ハンドルを握っていると、さすがに疲労がまる。
 亜紀がオフィスに足を踏み入れると、「おめでとう!」と所長のが立ち上がって言い、拍手が沸き起こった。つづいて従業員が列を成し、亜紀がそこを通って、一人ひとりと握手を交わしていく。
 アドバイザーは客の入会を決めて帰社すると、戦地から戻った兵士のようにして出迎えられる。これはアモーレの昔からの習わしで、初めの頃は気恥ずかしさと興奮を覚えていたが、今となってはめたもので、ポーズで行っているに過ぎない。後日キャンセルを食らうことも多いので、クーリングオフ期間外となるまでは、安心できないのだ。
 亜紀が自分の席に着くと、「平山さん、今月調子いいじゃん」といなあつが声を掛けてきた。四つ年上の稲葉もまたアドバイザーで、入社もほぼ同時期だった。そういうわけもあって、バチバチではないものの、ライバルとして意識している存在だ。
「わたしは今日も空振り。もう、やんなっちゃう」
 稲葉がため息をついて、肩をすくめる。
「先月は稲葉さんがよくて、わたしがダメだったじゃない。運は平等に巡ってもらわなきゃ」
「にしたって、最近はツキがなさ過ぎ。先週決まったところも、今から断りの電話を入れなきゃいけないし」
「あ、もしかしてニートちゃんだった?」
「ビンゴ。源泉徴収票出してってお願いしたら、『実は……』ってこうなわけ。その前の女だって透析隠してたしさあ。ほんと、人間不信になるよ」
 アモーレでは男の無職同様、身体的に重い病気のある者も、入会をお断りしていた。冷たいと言われればそうかもしれないが、たとえ入会させても結婚はおろか、見合いすら組めないのであれば、どの道クレームにつながるだけだ。もちろん、来る者拒まずでやっているアコギな相談所も多くある。そういう意味では、アモーレはまだ良心的な方だった。
「それにさあ――」と稲葉が声を落とし、すぐそこで受話器を耳に当てている女性パートたちに横目を向けた。「オバサマたちも、もう少しアポの精度を上げてもらいたいわよね」
 彼女たちがアモーレのテレフォンアポインター――通称オバサマ――だった。アドバイザーのように客前に出ることはなく、ここで缶詰めとなり、ひがな一日電話を掛けまくっている。
 亜紀も稲葉も中年にはちがいないが、彼女たちはさらに高齢だった。一番若い者でも五十六歳で、最年長は六十九歳となる。メインターゲットが同世代の母親ということもあり、若くない方が都合がいいのだ。
 彼女たちはアポさえ取れれば、そこでお役御免なので、相手が失業中だと察しても気づかないフリをして、強引に面談を組むところがままあった。ひどいときは、訪問時に「電話で何度も言ったじゃない。うちの息子は離職中だって」と声を荒らげられることもある。
「ところで、あの新人くん、どうだった?」
 と、稲葉が遠くのデスクにいる土生謙臣を一瞥した。
「どうって、あ、そっか。明日あしたは稲葉さんが土生くんを連れて回るんだっけ」
「そうそう」
「感じのいい男の子よ。ちゃんと気も遣えるし」
「ならよかった。うちに入ってくる中途って、おかしなの多いじゃない。それもすぐに辞めちゃうしさ。会社も教える側の労力ってのを、ちょっとは考えてもらいたいわよね」
 アモーレは社員の入れ替わりが頻繁にあるため、会社は年中、求人を出していた。基本的に自動車免許さえ持っていれば、学歴や経歴を問わないので、やたら有象無象が会社の門をたたいてくるのだ。
 それから亜紀は、急ぎで日報の作成を始めた。さっさと片付けて、早く帰らなきゃならない。キーボードを高速で打ち込んでいると、カバンの中のスマホが震えていることに気づいた。これは社用のものではなく、私用のものだ。
 発信元は、息子のろうが通う小学校からだった。亜紀は席を離れ、おもてに出てから応答した。
 話を聞き、気持ちが沈み込んだ。
 小太郎が教室でかんしやくを起こし、またしてもクラスメイトに暴力を振るったのだという。具体的には、椅子を持ち上げ、相手に向けて投げつけたのだそうだ。幸いなことに相手に怪我はなかったそうだが、大問題である。
〈相手のなかがわくんが、小太郎くんをチビチビと言ってしつようにからかったことが原因なのですが、さすがに危険なのと、これが初めてではないので、少々厳しめに指導しておきました〉
 六年二組の担任であるがわは、淡々とそう報告してきた。亜紀より一つ歳下の長谷川は、一ヶ月前の一月、今年の頭から小太郎のクラスの担任になった男性教師だ。
 彼が、こんな中途半端な時期に息子のクラスを受け持つことになったのには、理由がある。例の事件によって、それまで担任を務めていた若い女性教師が精神を病み、休職してしまったからだ。その女性教師に替わって、長谷川が担任に収まったのである。
 ちなみに、亜紀はまだ長谷川と面識はない。就任直後にあいさつをしたいということで、保護者一同、学校に集められたのだが、亜紀は仕事の都合で参加できなかったのだ。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。家できっちり𠮟っておきますので」
 亜紀は電話なのに頭を下げていた。
〈いえ、本人は十分に反省している様子が見て取れましたので、ご家庭では再び𠮟るというより、フォローしてくださった方がいいかもしれません〉
「そうですか」
〈ええ。ちなみになんですが、小太郎くんはご家庭でも、このような癇癪を起こすことはありますか〉
「ありません。多少、わたしに文句を言ったりすることはありますが」
〈なるほど。であれば、やはりお母様は、彼をフォローしてあげる方がいいかと思います。子どもがおもてで暴力行動に出るのは、ご家庭内で親御さんにかまってほしいといった欲求を抱えていることが、ままあるようですから〉
 これにはちょっと気分を害した。まるで、こちらの子に対する愛情が足りていないと言わんばかりだ。
 その一方、この男性教師は信頼できそうだとも、直感で思った。
「あの長谷川先生、明日の放課後、ご挨拶も兼ねて、小学校にお伺いしてもよろしいでしょうか。そこで少し、ご相談に乗っていただけたら――お忙しいでしょうか」
〈いえ、大丈夫ですよ。お待ちしております〉
 二つ返事で了承してもらって、ホッとした。前の担任には、〈またいつか保護者面談がありますから、そのときではいかがでしょうか〉と敬遠されてしまったのだ。
 亜紀は改めて謝辞を述べ、電話を切った。
 赤く燃えた西の空に目を細めて、深々とため息を漏らす。
 息子の小太郎は、基本的には穏やかで、優しい性格をしていると思う。だが時折、カッとなってしまうことがある。そうなると、今日の教室での出来事のように、突拍子もない行動に出てしまう。
 認めたくはないが、この気質は彼の父親に似ていた。小太郎の父であり、亜紀の元夫のたつもふだんはおとなしいのだが、やはりたまにキレることがあり、そうなるときまって暴力を振るった。
 亜紀が肩を落としてオフィスに戻ると、「平山さん」とオバサマの一人から声を掛けられた。手の中の受話器を逆の手で指差している。
「またえがしらふじさんからだけど、どうする?」
 その名を耳にして、亜紀の気分はいっそう沈み込んだ。ものすごく面倒な相手なのだ。
 今回も居留守を使ってもらおうか、一瞬そう思ったが、結局応答することにした。昨日も一昨日おとといも、この女性会員からの電話に居留守を使ったからだ。
 亜紀は深呼吸をしてから、目の前の受話器を持ち上げた。


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