『日本のヤバい女の子』著者による、思考実験エッセイ はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」#5
はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」
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第五回 名前のない関係で生きていくのはダメじゃないんじゃない
2020年になった。現在、はや2月だが、皆さんはお正月に実家へ帰省されただろうか。
年末年始といえば帰省、帰省といえば久しぶりに会う親族、久しぶりに会う親族といえば、思いがけない分かり合えなさからくる衝撃と疲弊。……と書くと露悪的すぎるかもしれないが、紅白歌合戦に出演する芸能人についてのコメントを聞いてしまったり、家庭内労働の露骨な役割分担を目の当たりにしたり、「結婚しないのか」「いい人はいないのか」「子供は欲しくないのか」などの、自らは繰り出さないように意識的にコントロールしている質問をバンバン投げかけられて「ウッ」となることは、特筆すべき地方都市でなくても、親族間のコミュニケーションが温かいものでも、2020年になっても、案外多い。
とりわけ「結婚しないのか」「いい人はいないのか」「子供は欲しくないのか」などの人間関係開示請求シリーズは「『ウッ』となる会話ランキング~久しぶりに会う親族編~」の上位を占めがちである。【揺るぎがたい「関係性」が割り当てられている人々に、揺るぎなさを証明できそうな「関係性」の開示を求められる】という構造が、上位ランクインの理由かもしれない。
「関係」という言葉を生んだ人は天才だと私は常々思っている。こんな文字の組み合わせ、どうやったら考えつくのだろう。褒めたい。私に褒められても1ミリも
──私たちの関係って何?
こんな質問が投げかけられるときには、決まって空気が張り詰める。映画やテレビドラマでは、交際しているのかいないのか
明確な説明はいつも言葉を必要とする。恋人、彼氏、彼女、夫婦、家族、親友、友人、ライバル、
──私たちの関係って何?
──はい、まず我々は20●●年に出会い、のっぴきならない
──私たちの関係って何?
──ご説明しましょう。例えばふと手が触れ合い、その
──私たちの関係って何?
──言いにくいのですが……一度は燃え上がる情熱に身を焦がしたものの、日々のすれ違いから少しずつ不信感が蓄積し~中略~今ではお互いに新たなパートナーと生活しているため、週に一度オフィスですれ違うだけの関係です。
これでは
映画やテレビドラマにおいて、関係を表す名前の揺らぎは、しばしば起承転結の「転」あたりで発生する。なぜならほとんどのドラマが人間関係の変化を描いており、「結」に向けて関係を収束させていかなければならないからだ。関係を精査する問いかけが物語の収束のための引き金を引く。
とはいえ現実の人生において、明確に説明できることのほうが圧倒的に少ないし、起承転結は一度きりではない。同時進行でいくつもの起承転結がフーガ状に発生したり、途中で立ち消えたり、思いがけず再発するからややこしい。コミコミだ。人生はコミコミなのだ。お見積書だってコミコミなのだから、いわんや人生をや、だ。複雑怪奇なコミコミに直面しながら、既存のネーミングのバリエーションだけで明確に説明することは結構難しい。私たちの関係って何? って、こっちが聞きたいわ! 説明してくれ!
突然だが、私には「何その関係!?」と尋ねられるリレーションシップが2つある。
一、
私には母が5人いる。血縁関係にある母、友人のお母様である母、フランスでホームステイした際にお世話になったホストファミリーの母、近所の洋服リフォーム店の母、そして近所のクリーニング店の母だ。血縁関係にある母は有難いことに最初から母でいてくれて、2人目以降の母は有難いことに「私を母だと思ってね」と言ってくれた。
言ってもらった側から想像するのはちょっと調子に乗っているような気がするが、「私を母だと思ってね」という言葉は、多少年齢の離れた相手に、普通の知人よりも親身になり、親しみを感じ、これからも親しく付き合っても良いと思っている、という意味だろうと推測する。既に存在している「母と子」という名前から一般的に想起されがちな「他人よりも親身になり、親しみを感じ、これからも親しく付き合っていく」というイメージを拡張している。既に名前のつけられた関係をカスタマイズすることで親しさをすり合わせフィックスできる。名前があると便利だ。
二、
私はルームシェアをしている。大学の同級生だった女性と、かれこれ10年以上一緒に住んでいる。卒業し、就職してもオフィスが近かったために何度か一緒に引越しもした。
この話をすると「付き合ってるの?」とか「どっちかが結婚するときはどうするの?」とか「いつまでフラフラ遊んで暮らしてるの?」などと聞かれることがある。いまだにどう返事するのが良いか分かりかね、ことさらに反応することも、嫌そうな顔をすることも気が引けて、結局アーとかウーンとかイヤーとか言ってしまう。どうやら女と女が長く強く親しみ続けるなどという現象は、はっきりとした意志を持って交際している場合のみかろうじて存続するものであり、意志を持って交際していないのなら将来的に男女の結婚というライフイベントに
せっかくなのでルームメイトのことを褒めちぎろうと思う。
まず彼女は私の話を全然聞いていない。私がダークサイドに
それに、私の描いた絵のチェックをしてくれる。描き終わりかけた絵を見せて「いいじゃん」または「ここ変じゃない?」と感想を言ってもらい、完成度を高めることがチェックの目的だが、彼女は私の絵にコメントするとき、まずスケジュールを頭に思い浮かべる(私は守秘義務に違反しない程度に仕事の内容を彼女に伝えている)。そして「今『ここ変じゃない?』と言った場合に私が陥るであろうドツボ」と「〆切」と「仕上がり」を
素晴らしいルームメイトである。反対に彼女が悲しい気持ちのときには私が踊りを
彼女のことはルームメイトと呼んでいる。ルームのメイトだからだ。いつだったか、彼女のことをルームメイトではなくソウルメイトと呼んでいた時期もあったが、「昨日ソウルメイトとテレビ見てたらさ~」「ソウルメイト!?」というやり取りが一日に35回くらいずつ発生するので差し控えるようになった。
もしも彼女に問いかけられたら(問いかけられたことはないが)、私は次のように答えるだろう。
──私たちの関係って何?
──はい、良いものを良いと言うことができ、厳密な目盛りで話すことができ、ザルの目が粗いままでも壁打ちするように話すことができ、
しかしこんな風に説明できないときには、彼女と私はきっと「友達」ということになるのだろう。「友達」という名前が親しみを表すには不十分だとか、私と彼女よりも卑小な関係だというわけでは決してない。しかし世の中には「友達」よりも優先されるべきと考えられている間柄がたくさんある。だから「付き合ってるの?」とか「どっちかが結婚するときはどうするの?」とか「いつまでフラフラ遊んで暮らしてるの?」と聞く人がいるのだろう。便利な名前がないから。
*
では、どんな関係でも過不足なく言い表す間柄を定めてあげよう、と言われたらどうだろう。
ライフステージの折々で「条件を満たしている関係ではない」という理由で締め出される事態を回避できるなら、それは何よりも重要だ。生きていく上で普通に困る制度は改善されなければならない。しかしそういった、適宜・適切に利用できるべきシステムを除けば、私は関係に名前がつくことに少し尻込みしてしまう。
関係を表す名前とは、人間と人間を取り巻く雰囲気を感じ取り、雰囲気をカクカクの2Dで再現し、そして雰囲気を確実に取りこぼすものである。人間が「いる」または「いない」状態を取り巻く雰囲気を、果たして言葉を使って過不足なく名づけ、共有できるものだろうか。「り」と「ん」と「ご」という文字の羅列が赤い果物そのものではないように、そんなことは実は不可能なのではないだろうか。
例えば、ミルクとコーヒーとルイボスティーが戸棚にあるとする。凍えながら部屋に入ってきた人が「何か温かいものを……」と頼むとき、種類はさほど問題ではない。温かいものを飲めればそれでいいのに「ミルクかコーヒーかルイボスティーか指定してもらわなければ出せない」と切り返すのはナンセンスだ。カフェインや乳製品を摂取できない場合のみルイボスティーを注文する必要があるが、その場合は「ルイボスティー」ではなく
──私たちの関係って何?
──ご説明しましょう。相手が凍えているときに、自分こそが一番に温かい飲み物とふかふかの毛布を差し出したいと、いつも思い合う関係です。その「一番」を死守するためにのみ、私は明確な名前を求めるでしょう。
つづく
※次回は5月号に掲載予定です。