【解説】ギリギリの相克より
「次に来るのはこの一冊!」というコラムを長崎のメトロ書店さんのフリーペーパーで書かせてもらっている。今はまだそこまでの知名度はないけれど、私が読んで面白く、かつ何かきっかけがあればベストセラーになると感じた本を紹介するコーナーだ。本作『ギリギリ』を紹介して間もなく文庫化のお知らせがあり、なんとも嬉しくなったことを思い出す。
無数の小説が毎月世に送り出されるが、書籍に関するプロでさえ全てに目を通すのは難しい。そうなると、自分の嗅覚や友人知人のおすすめを信じて手にとっていくことになる。それでも、ベストセラーランキングに入らず、文学賞の候補作にも上がらないままひっそりと忘れられていく作品があまりにも多い。本当に良いものも一緒に消えていってしまうのは実に悲しいことだと常々思っている。
書き手としてはさほど華々しい経歴のない私だが、不思議な特技のようなものがある。それは、近い将来大化けする作家を嗅ぎ当てられることだ。長谷敏司さんや宮下奈都さんが今のようにメジャーになる何年も前から注目していて、それが当たった時の快感はちょっとしたものだった。
現在自分の中でもっとも熱いのが、安藤祐介さん、円居挽さん、真藤順丈さん、そして本作の著者である原田ひ香さんである。原田さん以外の方も、今読む気にならなくてもぜひ名前だけは憶えておいてほしい。近い将来、大ベストセラー作家となって世間を賑わすだろうから……。
どうすればベストセラー作家になれるかと考えたことのない作家は少ないだろうし、そんなものがわかれば誰も苦労しない。ただ、こういうのを持っていれば強いだろうな、という要素はいくつかある。そのうちの一つが、舞台や映像の世界、つまりシナリオの書き方を知っている、ということだ。
もちろん、小説とシナリオは似ているようでまるで違う。歴史小説で大ベストセラーを書いた方がもともと映画の脚本家で、一度脚本の形にしてからでないと小説の形にできないと仰っていたことがあった。その変換が大変に難しいらしい。
私も一度だけノベルゲームのシナリオに挑んだことがあるが、それはもう目も当てられないことになった。小説を書くつもりでシナリオに手を出したら大やけどをするのは当然のことで、空手の練習しかしていないのに総合格闘技の試合に出るようなものだ。
原田さんはあるインタビューの中で、新人賞を獲った際に選考委員の先生に言われた言葉を紹介している。シナリオを書いていたという原田さんにその先生は、ああ、だから無理に盛り上げようとするところがあるんですね、と。
それも当たり前の話で、脚本やドラマの原案を考える日々を送っていた原田さんはプロデューサーの厳しい要求にこたえるべく、映像として華のある物語を考えてこられた。テレビはつまらなければチャンネルを変えられてしまう。テレビは見続けられてこそなので、視聴者を退屈させてはならない。
小説はそのあたりについては比較的寛容だ。読者はつまらなければページをめくる手を止めることもあるが、大抵は最後で何とかなるだろうと読み切ってくれるし、読むのを途中で止めたとしても、すぐさま何かの数字として出てくるわけではない。
シナリオの場合、物語の盛り上がりを作る技術はマニュアルとしてまとめられていて、その世界ではイロハのイとして誰もが知っている。もちろん、マニュアルを身に付けているから良いものができるとは限らないにしても、マニュアルに沿って鍛え上げられた力があれば、必要とされる物語に近付くことはより容易になる。なので、そこで鍛えられた書き手が小説の世界に入ってくることは、小説しか知らない作家にとっては脅威でもある。
放送作家から小説家に転じる方は昨今多いが、共通してすごいな、と感じるのがその「盛る」力だ。エピソードを盛る、キャラクターを盛る、感情を盛る……。過剰なほどの盛り上げで、ある種力ずくで読者の首根っこを押さえてしまう。
一方で、原田さんは純文学の人でもある。時にエンタメ的な盛り上がりから遠い物語を含むのが純文学だ。エンタメの極致であるドラマシナリオと、時にエンタメ性から背を向ける純文学、双方の資質を持つのが原田ひ香という作家の稀有なところだ。
『母親ウエスタン』『東京ロンダリング』『彼女の家計簿』はその相克(ご本人は相克とは思っていないかもしれないが)の中から生まれてくる面白さがあった。純文学系の雑誌に作品を掲載されながら、エンタメ系の作品も多いのは、双方の魅力を同時に表現しつつ物語を綴る原田さんならではだろう。
原田作品を彩る登場人物たちは繊細であり、したたかだ。本作に出てくる人たちもみな触れると壊れそうなくらいに脆い部分を持ちながら、一方でどれほどぺしゃんこになっても立ち上がってくる強さも併せ持っている。そして、その強弱の描き方が絶妙なのだ。読者のすぐ隣で彼らの息遣いが聞こえてくるような身近さを感じさせる。
本作では夫・一郎太を亡くした瞳、瞳と再婚した健児、一郎太の母である静江、それぞれの視点から、今はこの世にいない一郎太をきっかけとして互いへの想いが語られていく。それぞれの中に相克があり、結末は少しの苦みと不思議な爽やかさに満ちている。そして、いつまでも心の中に余韻を残すのがいかにも原田作品である。
その余韻は、この作品に効果的に仕掛けられた「間接照明」の力であるように思う。三人を繋ぐ一郎太は不在なのに、物語が進むにつれてその影が大きくなっていく。間接照明に照らされた影が徐々に大きくなるように、彼の存在が三人を揺り動かすのだ。だが、あるとき瞳は悟る。
あたしが夢に見た一郎太は、亡くなる前にいなくなっていたことを。
彼女のこの気付きと、静江が結末近くで健児に語る言葉。それが本作のタイトルに繋がった瞬間、鳥肌が立った。彼らの中に落ちる一郎太の影を際立たせ、その影が実は彼ら自身でもあること。おぼろげであったことがさっと晴れるその一瞬を描き出す力こそが、筆の冴えというべきものだろう。
盛り方を知っているのに敢えて抑える。文学的に重くなりがちなところにエンタメとしての軽やかさを加える。相当難しいことであるのに、原田さんはその相克を背負ったままハードルを飛び越えていってしまう。替えのきかない唯一性を持ちながら、普遍性がある。これが、原田さんが「次に来る」作家であると推す理由なのだ。
刊行ペースやとりあげる題材を見ても、作家・原田ひ香は飛躍の時を迎えつつあると感じる。本作をきっかけに原田作品に触れた皆さんは、ぜひ他の作品も手に取っていただきたい。