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連載

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」 vol.62

遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#117〈後編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。

>>前編を読む

 そもそも――
 自分は、ただの、日本国からやってきた留学生で、儒学を学ぶために、この国に住むことになったのである。儒学を学び、それを日本国まで持ち帰らねばならぬ任務があったのだ。
 しかし、力が足らなかった。
 なかのように、すぐにこの国の言葉を覚えられたわけでもなく、学ぶだけの器量もなかった。
 あの国にあっては、そこそこの才があったやもしれぬが、この国では、自分程度の才を持った人物なら、掃いて捨てるほどいる。
 あの国では、自分は子供の頃からもてはやされた。
「真成は、書の才がある」
「おう、真成よ、みごとなる書じゃ」
「これだけの書き手は、唐国にもおらぬであろう」
「そのような難しいものを、よく読めるのう」
「なるほど、孔子先生と老子先生、言うておることにそのような違いがあるのか」
「おまえは凄いのう」
「これほどの才を持つ者は、唐国はおろか、てんじくにもおるまい」
 そんなことはなかった。
 自分の才など、この国では才などと呼べるものではなかった。
 自分ができることなど、やれてあたりまえ、そういう人間たちの中から、ひと際抜きんでることのできる奴が、才人であり、秀才なのである。その意味では、日本国から一緒にやってきたべの仲麻呂、あの男だけは特別だった。唐国に入って、この国の言葉を、この国の人間以上に使いこなすようになるまで、三月もかからなかった。算学や、詩の才、絵の才まであって、こくの言葉まで、今は自在に操っているではないか。
 秀才とは、仲麻呂のような人物のことを言うのである。
 仲麻呂に、はじめは嫉妬し、なんとか並ぼうと努力をしたが、叶わなかった。現実を知って、うちのめされ、仲麻呂を恨んだ。恨んだ果てに、このような人間もいるのだと思った。嫉妬するには、あの男の才能が飛び抜けすぎていた。うらやんだりするのは、才能が似たりよったりの人間たちの間ですることではないか。
 そして、あきらめた。
 仲麻呂と自分を比べる愚を悟ったのである。
 そうして、
 ――おれは、あの国を捨てたのだ。
 真成はそう思っている。
 この国で生きてゆく、それでいい。
 異国からこの国にやってきて、この国の人間の如く生きている奴はいくらでもいる。そういう人間でいい。
 そう考えるようになった。
 そこで、ひとりの女に惚れた。
 結ばれて、子をなした。
 こうぎよく――
 ささやかだが、幸せを得た。
 そして――
 ああ、自分はなんということをしてしまったのか。
 人まであやめてしまった。
 そのあげくに、長安の東市ひがしのいちに、犬として捨てられた。
 用のなくなった、塵芥ごみのように――
 そこへ、あの女がやってきて、自分に甘露の如き言葉を注いでくれたのだ。
 あれか。
 あの時か。
 あの女が、おれに、言葉を注いだあの時が、このことの始まりだったというのか。
「おれは、その女から、何に選ばれたのだ」
 真成は、問いを変えた。
「さあな。おれにも、わからぬ。とにかく、真成よ、おまえが選ばれたのだということだけはわかる」
「だから、何に選ばれたというのだ」
 それを知りたかった。
 もしも、自分が、今、こうして馬に乗り、太公望の鉤の探索に向かっていることが、選ばれたことの意味であるなら、あの女は、それを知っていたことになる。
 自分が、あの城に閉じ込められて、ヒト蠱毒の闘いに参加することを。そして、生き残ることも。
 あの時、あの洞窟で、自分が破山剣を見つけて手にしたことも。
「それならば、杜子春、いや、李復言に訊くことだな」
 李復言なら、この自分を犬として拾ってくれた人物である。
 あの、しわだらけの老人なら、それを知っているというのか。
「それには、おまえがここで生き残ることだな」
「生き残る?」
「あの、城での試みから、おまえは生き残ることができた。今の、この刑天の首捜しのことでも、おまえは生き延びなければならない。さすれば、おまえは、自身の運命を知ることができよう。李復言に、それを問い、答を知ることもできよう。まずは、生き残ることだ、真成――」
「あんたにしては、珍しくよくしゃべるんだな――」
 ふいに、真成はそのことに気がついた。
 いつもは無口な陳範礼が、今日はよくしゃべる。
「かなり、色々なことを、今日はあんたから聴かされた。しゃべってよかったことなのか――」
「止められていなかったからな」
「杜子春か、李復言か、それとも姜の連中からということか――」
「全部だ」
「何のためだ」
「おまえに、生き残ってほしいからかな」
「おれに、生き残ってほしい?」
「ああ」
「何故だ」
「おれは、おまえを気に入っている。できれば、死ぬことなく、この試みから生き残ってほしいと、そう思っているのだ」
 はにかむのでもなく、笑うのでもなく、いつもの、抑制の効いた口調で、陳範礼は、そう言ったのである。

(つづく)


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