遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#117〈前編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
これまでのあらすじ
閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を捜すよう命じられる。さらに姜一族の南家である姜竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことになった。時代は遡り、破山剣を手にした老人・青壺は、西楚の覇王・項羽によって始皇帝の陵墓に閉じ込められる――。
二十七章 哭 きいさちる王
(二)承前
「その『異神異怪経』だが、今、それはどこにある?」
「
「北家と南家、
「おれも、細かいところまでは知らぬ」
「少しは知っているということか?」
いずれにしても、この沈黙によって、陳範礼が、このことについて、何か知っているのであろうということが、真成にもわかった。
答をうながすつもりで、真成が言葉を控えていると、陳範礼は、ほどなくして口を開いた。
「
ぼそりと、陳範礼は言った。
「刑天の首?」
「ああ」
「太公望の鉤ではないのか」
「刑天の首を捜すために、太公望の鉤が欲しいのさ」
「刑天の首を見つけてどうするのだ」
「さあな。見つけてどうするか、そこで、北家と南家の意見が違うんだろう」
「だろう?」
「おれに訊くな。これも、知りたくば、あの輿に乗っている姜の
そうか、やはりあの輿には鳴花が乗っているのか――
「あんたたちと、姜との関係はどうなってるんだ。どうして、
「我らが欲しいのは、指南車だ。指南車を手に入れるために、我らは、姜の、刑天の首捜しに協力しているのさ」
「協力?」
「我らが、姜一族の刑天の首捜しに協力し、それがうまくゆけば、姜から、指南車を借り受けることができるのさ――」
「見つけられるのか、刑天の首を――」
「おまえがいるからな」
陳範礼は、そう言ってから、
「はっきり言えば、おまえが、刑天の首を切った
「破山剣のみが必要ということではないのか。それなら、おれから破山剣を奪えばいい」
「そうではない。それでいいのなら、とっくにそうしている」
「どういうことだ?」
「おまえが、あの女から、選ばれたからだよ――」
「あの女?」
問うたが、真成にはわかっていた。
あの女、と言えば、ひとりしか思い浮かばない。
自分が、首から、
“我は犬なり。飼うてくれれば糞も食す”
そう書かれた札を下げて、人の姿をした泥人形のように座していた時だ。
その時に、声を掛けてきた女。
“あら、まあみごとにできあがってるねえ”
その声が、今も耳に残っている。
他の、どのような人の言葉も、届いてこなかった。
罵倒されても、何を言われても、何も感じなかった。
そこへ、ひと筋の光明のように、その言葉が、届いてきたのだ。
あの時、自分がいたのは、深い、泥のような心の底だ。そこで、泥と同化したようになって、ただうずくまっていたのだ。人が嘲る声も、ののしる声も、届いてこなかった。もちろん、憐れみの声も――
どういうものにも、心が動かなかった。
そこへ、あの女の声が、降りてきたのだ。
その後、
(後編へつづく)