遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#116〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
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二十七章 哭 きいさちる王
酒泉太守席上醉後作 岑参
酒泉太守能劍舞
高堂置酒夜撃鼓
胡笳一曲斷人腸
坐客相看涙如雨
(一)
背に
早朝の風が、頰に心地よい。
前方に、頂からふたつに裂けて、傾くようにそびえている岩山が、
山麓から途中までは、森が、岩肌を這うようにして続いているが、中腹から頂までは、岩肌ばかりである。
真成の左横に、馬を並べているのは、
ふたりの先をゆくのは、
輿の、左右、前後には、上から
全体を囲むようにして、馬に乗った兵が、十人。
輿を担いでいる人間が四人。
総勢で十七名――
竜鳴は、鳴花の父で、蝶鳴は、鳴花の兄だ。
今朝――
陳範礼と共に食事を済ませて、あてがわれた部屋にもどり、昨夜のことを、真成は
昨夜は、妙な猿に似たものに襲われて、あやうく
しかし、その話は、陳範礼にも、鳴花にもしていない。
昨日、鳴花が話していたことによれば、今日は、常羊山にゆくことになるらしいが、そのことについても、今朝の食事のおりに、陳範礼と話をしたわけではない。ほとんど、会話をせずに、食事をすませ、それぞれ自室にもどったのである。
真成にとって、陳範礼は、仲間ではない。これが、
自室で、あれこれ考えているところへやってきたのが姜鳴花だった。
「今日は、常羊山にゆくのよ。準備をなさい。昨日話した通りよ」
鳴花は、真成にそう告げた。
「何があるか、楽しみね」
含み笑いを残して、鳴花は去っていったのである。
出立の準備をすませ、待っているところへ声がかかり、外へ出た。そこに用意された馬に
陳範礼は、すでに馬に乗って、その輿の後ろについていた。
そのまま、真成は、陳範礼と並んで、同様に輿の後ろについたのである。
(二)
常羊山が、少しずつ近づいてくる。
真成が背に負っている破山剣で、その昔、ふたつに裂かれた山だ。
鳴花は、そこで何かが起こるだろうと口にしていた。
いったい、何が起こるのか。
見当がつかない。
何かが自分に起こるとして、その理由は、自分が破山剣の持ち主であるからだと、鳴花は言った。どうして、破山剣の持ち主に何かが起こるのか。
それもわからない。
仮に、自分が誰かにこの破山剣をくれてやったとして、持ち主がかわれば、あらたなその持ち主に対して、その何かは起こるのか。
昨夜、自分の身に起こったことは、すでにその何かが始まったと考えていいのか。
「見つけるまでに二十年かかりました」
姜玄鳴は、そうも言っていた。
椿麗のことを思った。
今、椿麗はどうしているのか。
北家の方では、また、何か新しいできごとが起こっているのではないか。
椿麗は、その何かに巻き込まれているのではないか。
急に、不安がこみあげてくる。
この頃は、椿麗のことを思うと、ふいに胸が苦しくなることがある。
動きを止めたと思っていた自分の心が、また動き出しているのがわかる。
不思議なことが、今、自分の心の中で起こっているらしい。
それは、いったい何か。
風の中で、そう考えた時――
「おい」
左手から声がかかった。
陳範礼だった。
その声で、真成は、我にかえった。
「なんだ……」
真成が左を向くと、馬上から、陳範礼が真成を見ていた。
眼が合うと、陳範礼は、前方に視線をもどし、
「『異神異怪経』というのを知っているか」
そう問うてきた。
「知らん」
真成がそう答えると、
「その昔、
前方に顔を向けたまま、陳範礼は言った。
「それがどうしたのだ」
真成が問うと、陳範礼は、少し
「もう、おまえには話してもいいころだろう――」
やはり前を向いたまま言った。
「話してもいい?」
「その書を、かつて、
「それで――」
「その書をたよりに、呂尚は、常羊山で、おまえが今持っている、その破山剣を見つけたらしい」
「本当か?」
「らしい、ということだ。その書を見つけ出し、それを読み解いて、姜の連中はようやく、呂尚がたどりついた同じ場所から、あの指南車を見つけ出したということだな――」
陳範礼は言った。
(つづく)