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試し読み

【試し読み】心霊×論理の大人気ミステリ第4弾! 有栖川有栖『濱地健三郎の奇かる事件簿』冒頭を期間限定特別公開!

鋭い推理力と幽霊を視る能力を兼ね備えた異才の探偵・濱地健三郎。
彼が営む「濱地心霊探偵事務所」には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほど――。

有栖川有栖さんによる大人気ミステリ第4弾『濱地健三郎の奇かる事件簿』の刊行を記念し、冒頭試し読みを期間限定で特別公開します(※公開期間:2025年12月31日(水)23時59分まで)。
死者の声なき声を聞く、名探偵&助手の活躍をどうぞお楽しみください!

有栖川有栖『濱地健三郎の奇かる事件簿』試し読み

黒猫と旅する女

 今日も階段を上って、悩める者がやってくる。
 ユリエが勤めているのは、みなみしん宿じゆくの裏通りにある心霊現象が専門の探偵事務所だ。
 漫画家を志望したこともある画才をかしてボス・はまけんざぶろうの助手を務めているのだが、身の危険を感じる場面もあって、スリルには事欠かない。
 オカルト趣味が高じて選んだ仕事ではなく、成り行きに近い形で勤めるようになっただけである。濱地と一緒に働いているうちに、もともと持っていたらしい霊的なものと感応する能力が芽生えて、世界の見え方が変わったのには驚いた。
 ――でも、案外すぐに慣れたかな。
 自分の順応性にも感心してしまった。子供時代から好奇心がおうせいなのは自覚していたが、濱地のそばにいることで得られる刺激は特別のものだ。よそでは決して体験できないことばかり降りかかってくる。以前はボスも随分と気遣ってくれた。
 だが、その時期は通り過ぎ、最近は「大丈夫か?」とかれることはほとんどなくなった。頼もしい片腕と思われるまでには至っていないにせよ、助手として職責を果たせていると思う。
 無邪気に楽しめる仕事ではない。どれだけの危険を背負っているのかについては、なるべく考えないようにしている。本当にやばかったら濱地がケアしてくれるだろう、と信じて。
 彼女の胸にはプライドが芽生えていた。霊的なものにさいなまれた者が助けを求められる先は限られている。実態についてはユリエも正確なところを知らないが、探偵として心霊現象を調査し、問題解決まで請け負っているのはこの広い東京にも濱地健三郎しかいない。そこで自分は能力の限りを尽くしている。
 ――自分がこんなに困っている人の役に立てるとは思わなかった。
 というのが噓偽りのない気持ちだった。
「二時の予約だったね」
 机の向こうでボスが言う。オールバックにでつけた髪が、背にした窓から射す光を反射して輝いている。
「はい。ご予約の電話をいただいたのはなおまさやすさん」
 二日前に電話を受けたのはユリエだ。二十代後半というのが声の印象で、おどおどとした話しぶりだったが、それはよくあることだ。心霊探偵の事務所に電話をするにも勇気が要るだろうことは想像がつく。
「その直江さんは、依頼内容については何も言わなかったんだね?」
「はい。『会って直接聞いていただきたいんです』と、ひどく恐縮しながら話していました。どちら方面のご相談なのかも判りません」
「どちら方面って、電車の行く先みたいな言い方だな」
 濱地が微笑む。英国製のスーツを制服のように着こなす彼は、中年の名優が三十過ぎの演技をしているかのようにも見えて年齢の見当がつけにくい。この探偵自身がユリエにとって謎めいていた。
「わたしの勝手な分類です。幽霊、お化け、その他」
 依頼人を悩ませている対象は、その三つのどれかに当てまる。すでに死んでいる者、化け物や怪物と呼びたくなる存在、あるいはヒトともモノとも言いがたい奇怪な現象。持ち込まれる案件のうち、最も多いのが幽霊方面。解決させるための難易度は、どれが高いとも低いとも言いかねる。
 二時ちょうどに、階段を上ってくる足音がした。ドアホンが鳴り、ユリエがこたえてドアを開ける。
 声から予想した感じの男性が立っていた。ミディアムグレーの地味なジャケット姿で、年の頃はユリエよりもいくつか上の二十七、八歳。中背で細身。草食動物のように優しげな目をして、探るようなまなざしを投げてくる。
「お電話をくださった直江正恭さんですね? お待ちしていました。どうぞ」
 やっぱり結構です、と翻意される前にユリエは彼を応接セットのソファへと導いた。ボスがゆっくりと歩いてきて、「探偵の濱地です」と名刺を差し出す。いつもながら所作にも声にも頼もしさがにじんでいた。ユリエは助手と紹介された。
 依頼人は名刺を両手で受け取る際にちょっと頭を下げただけで、まだ第一声を発しない。緊張であいさつの言葉も出てこないと見える。
「コーヒーはお嫌いではありませんか?」
 ユリエが訊くと、「よく飲みます。好きです」と返ってきた。さっとれて出し、濱地が掛けた斜め横のスツールに着席する。手元にはタブレット端末とスケッチブック。必要な場面がくれば、いつも依頼人の話を聞きながら忙しく手を動かす。
「どういったご相談でしょう?」
 探偵に水を向けられて、直江は「はあ」と頭をいた。この期に及んでためらっている。あまり切迫した事情ではなさそうだな、とユリエは見て取った。危機にひんしている依頼人であれば、あおい顔で震えながら入ってきて、ソファで向かい合うなり早口で話しだす。
「常識はずれな、ありそうもないことなんですけれど、こちらだったら真面目に聞いてもらえますね? いただいた名刺にも心霊探偵と書いてありますし。よそで話せることじゃないんです」
「ご安心ください。わたしどもがこれまで扱ってきた案件には、あなたがにわかに信じられないであろうものが山ほどあります。わたしも志摩も、どんなお話を伺っても驚きませんよ。もちろんわらいもしないし、怒ることもない。そして、ここで聞いたことをあなたの許可なく誰にも話しません」
 斜めから観察していると、伏し目がちの依頼人の顔に不安のかげがあるのをユリエは認めた。だが、言葉にするのもちゆうちよするほど何かを恐れているふうではない。彼の口を重くしているのは、ある種の恥じらいなのではないか、と思う。
 ――よっぽど常識はずれの経験をしたみたい。
「デリケートなご依頼のようですけれど、プライバシーは絶対に守るとお約束します」
 ユリエに促されて、やっと決心がついたようだ。コーヒーをひと口飲んでから、細身の男は顔を上げた。
「ここまできて迷うのも変ですよね。聞いていただきます。その前に……。濱地先生は幽霊が視えるんですね?」
「色々な形で視ます。視るだけではなく話すこともまれではありません」
「自由に操れる、ということは……」
「わたしはサーカスの猛獣使いではありませんからね。そんな器用なことはできませんが、じっくりと対話して、こちらが言うことを理解してもらったケースは少なからずあります」
 その答えに依頼人が満足したのかどうかは判らない。不意に黙り込んで、寸時、間が空いた。やがて――。
「最初にお断わりしておきます。ぼくは話が下手で、『結論を先に』とか言われると、話をどう組み立てたらいいのか判らなくなるんです。子供が書く遠足の作文みたいに、あったことを前から順にしゃべります。まどろっこしいでしょうけれど、我慢して聞いてください」
 濱地は、相手を勇気づけるように大きくうなずいた。
「自己紹介もしていませんでしたね。ぼくは独身の独り暮らしで、三年ほど前まで金融関係の会社でシステム管理の仕事をしていました。ところが、大きなミスをやらかしたのがきっかけで職場での居心地が悪くなり、挙句に軽い対人恐怖になってしまったもので、退職を余儀なくされて……。辞表を出したのはちょうどコロナ禍が始まる前のことです。倹約家なのでたくわえはあったんですけれど、働かなくてはそれもみるみる目減りしてしまうので――」
 そこで、はたと気づいたように言葉を切った。
「すみません。本題に関係のないことを話していました。要するに、ぼくは一昨年から短期のアルバイトと預金の取り崩しで生活をしていて、ここ二ヵ月はバイトもしておらず無職です。いかにもこころもとない状態ながら、預金通帳にはまだ一年近く暮らせるだけの残高があって、困窮しているというほどではありません。ご相談にあたっての費用はお支払いできるはずなので、心配なさらないでください」
 依頼人の話し方は存外に滑らかではあったが、当人が言ったとおりまどろっこしい。忍耐強い聞き手である濱地は決してかしたりはせず、ユリエも話が本題に入るのをゆったりと待つことにした。
「料金については、お話を伺ってからご相談しましょう」探偵は言う。「お仕事をなさっていないのなら、ふだんどう過ごしていらっしゃるんですか?」
「職探しをしながら、だらだらしています。図書館で借りた本を読んだり、サブスクの映画を観たり。夏場は家にこもりがちでしたけれど、涼しくなってからは運動がてらよく散歩をしています。無理せずに休息を取っているんです。そうする方がかえって社会復帰に役立つと考えて」
「二ヵ月前まではアルバイトをなさっていたのだから、社会から引っ込んでいたわけでもないでしょう」
「接客を伴わず、モノを運んだり管理したりする仕事ばかりを選んでいました。対人恐怖がまだ残っているんです。心の持ち方に問題があるんでしょう。ある時、自分は生真面目すぎるんじゃないか、一度いっさいの緊張から解放された生活をしてみよう、と思ったもので、今は意識的にだらけた毎日を送っています」
「賢明な処方ではないでしょうか。思いついただけではなく、実践なさっているのがいい」
 無責任に賢明だと言い切るまではせず、実践している現実を評価するところが濱地らしい。聞いていてユリエまで気が楽になったのだから、直江はあんしたに違いない。
「静かに暮らしていたあなたが今ここにいる。何かに煩わされる事態でも起きたんですか?」
「あの……部屋に幽霊が出たわけではありません」
 言いよどんでしまう。濱地は黙り込むことで、相手が話すしかない空気を作った。狙いたがわず、依頼人は口を開く。
「家に閉じこもったり、近所を散歩したりするだけでは気分が変わらないので、久しぶりに旅行をしてみることにしました。特に行きたいところがあるわけではなかった。ぼくはあまり旅行をしてこなかったので、知らない土地だらけです。行ったことのないところへ出掛けることにして、何となく北陸方面にしました」
 北陸新幹線でかなざわに向かい、けんろくえんや金沢城、武家屋敷跡を見物して一泊した。宿で怪異なものと遭遇したのかと思ったら、そうでもない。
「二日目以降の予定はまるで考えていなくて、どうしようかと考えているうちに日本海が見たくなりました。新幹線の車窓からも少しは見えたんですけれど、それだけでは物足りなかった。半島にするか、富山から新潟の方に移動するか。東京から遠ざかるのもおつくうに思えたので、富山の方に行ってみることにしました。どうせならもっと先まで進んで、自分の名前が入ったなおというところに泊まってみるのもいいか、と」
 旅に出たところから話を始めてもよかったのではないか、と思いながらユリエは聞いている。前段に語ったことがこれから絡んでくるのかもしれないが。
「新幹線ができたせいでJRの在来線は私鉄だか第三セクターだかいうのになって、しかも直江津まで行くのなら三つの会社の電車に乗るんですね。知りませんでした。どこで降りるかは決めずに、とにかく海に沿って走る電車に乗り込みました」
「そういう旅も楽しそうですね」
 ユリエが軽く口を挟んだら、依頼人はうれしそうに微笑んだ。
「うきうきしました。まったく無計画に旅をするなんて生まれて初めての経験です。この先どうやって生きていこうかと考えたら不安になるけれど、今はのんびり自由を満喫しよう。そう思ったら、心が楽になりました」
 さすがにそろそろ話が核心に入るだろう。ユリエはタブレットを操作して、鉄道地図を画面に呼び出した。直江が乗ったのは、あいの風とやま鉄道の列車らしい。富山駅で新幹線と接続した後、新潟県に入るえちごトキめき鉄道と名を変えて線路は北東へ延びている。
「あんまり海が見えないなぁ、と思っていたんですけれど、ふと反対側の車窓に目をやったら見事な山並みが続いていました。たてやま連峰っていうんですね。冬になって白く染まったら、もっときれいなんでしょう。毎日あんな山を眺められる地元の人がうらやましくなりました」
 旅行中は何事もなくて、家に帰ってみたら怖い目に遭った、とか言いだすんじゃないだろうか、とユリエは思い始めていた。
 ――でも、部屋に幽霊が出たわけではないと言っていたし。
 もどかしい依頼人ではあるが、広い心をもって話を聞くしかない。
うおで途中下車しました。しんろうで有名なのを知っていたから、興味を持って降りてみたんです。蜃気楼は見られませんでしたけれど、季節的に無理だろうと思っていたので、がっかりすることもありません。資料館が海のそばに建っていたので、潮風に吹かれただけで満足でした」
 初めて訪れた町をぶらつき、遅めの昼食を済ませてから駅に引き返した彼は、再び電車に乗ってさらに北上する。タブレット上の地図を見れば、その先で線路が海岸線にぐっと近づいていた。
「……回りくどくて、すみません。話の助走が長いのにもほどがありますね」
 恐縮した様子の依頼人に、濱地は柔らかく応える。
「いっこうにかまいません。あなたのペースでお話しいただければ結構」
「はい。では」
 コーヒーをすすって、依頼人は話を続ける。

 ――うまくしゃべれていない。
 直江正恭はいらっていた。どうして自分の話はこうえんなのか。以前の職場で上司にねちねちと嫌みを言われたことを思い出す。
 ――きみは、いつも恐ろしく手前から話を始めるな。おまけに隙あらば脇道に入って、まるで千鳥足だ。何が言いたいのか理解しにくくなるし、聞く人間の時間を無駄にしているぞ。
 子供の頃から、こんな話し方なのだ。よくはないと自覚しているが、さっさと改めろと言われてもできない。
 それにしても今日はひどい。突飛で切り出しにくい話とはいえ、探偵事務所まで相談に足を運んでおきながらこの有り様はどうだ。
 情けなくて「すみません」とびてしまったが、濱地という探偵は「いっこうにかまいません」と言ってくれた。こちらがお客だからとはいえ、包み込むようなひと言に救われる思いがした。
 ――この人に頼っていいらしい。
 心霊現象が専門の探偵で、困ったり悩んだりしている者を助けてくれる、と聞いてもまゆつばだと思っていた。疑りながらもここにきたのは、他に頼る先がなかったからである。あるわけがない。
 濱地について、信頼できる友人から紹介してもらったのであればまだしも、見知らぬ者同士が話しているのを小耳に挟んだにすぎない。場所は、ふらりと入ったしんばし駅近くの居酒屋。連絡先の電話番号が妙な合わせになっていたからその場で記憶できたのだが、酔っ払いの冗談と受け取る方が自然だった。
 ところが、電話をしてみるとちゃんと通じて、丁寧な応対をしてもらえた。もしかしたら本物のプロなのか、と淡い希望が湧いてこの事務所にたどり着いたのだ。
 頼るに値するようではあるが――濱地健三郎は不思議な人物だ。物腰も言葉遣いも洗練されているのに、こちらを圧倒したりはせず、あくまでも当たりが柔らかい。ただ、年齢の見当がつけにくいため、精巧に造られたロボットのように見える瞬間もあった。
 ソファには座らず、スツールに掛けた志摩ユリエという助手。この女性も、もどかしがる素振りを見せたりせず、真剣に自分の話を聞いてくれている。二十代の前半か半ばぐらいか。見たところはまだ大学生でも通りそうだが、専門性が高くて難しい仕事――だと想像する――を立派にこなしているのだろう。
 せつばかりでない自分とは大違いで、ちょっとまぶしい。後ろで束ねた髪をほどいたら、アッシュブラウンに染めた髪は肩に掛かるぐらいか。その様を思い描いたりする。
 ――別の時に別の形で会ったら、ひと目れしたかもな。
 などと思ってしまう自分がこつけいで、緊張が少し緩んだ。
「はい。では」
 コーヒーに口をつけてから、中断した話を再開する。当時のことを思い出しながら、自分のペースでじっくりと。
 魚津駅から乗り込んだ列車は、とまり駅止まりだった。直江津行の次の列車まで五十分も待ち時間があったので、駅の近くを歩いて回った。
 乗り換えた列車は思いのほか込んでいた。何かの行事があるのか、中高年の男性グループがバラバラに散って座席を埋めていたので、海側には空席がなかった。スマートフォンで調べたところ、この先の景色がよさそうだったのだけれど、仕方がない。
 大声でしゃべっている客の傍らを通り過ぎ、空いている山側の席のどれを選ぼうかと見渡すと、一人の女性客の姿が目に留まった。黒髪にベージュのワンピース。鼻筋が通った白い顔に、はっとした。
 思春期の頃から、ひと目惚れしやすいたちだった。クラス替え直後の教室で、駅のホームで、会社説明会の会場で、たちまち恋に落ちたことがある。
 蛮勇をふるって声を掛けたことは一度もない。クラスメイトならばしばらく片想いが続くが、通りすがりに見て胸がときめいた相手とはそれっきりで、数ヵ月にわたって落ち着かない気分になったりする。
 友人の紹介で知り合った女性と交際したことはあるが、せいぜい半年しか続かなかった。いわゆる深い仲になっても、やがて互いにめてしまう。男女の仲に限らず、人は親密になろうとしたらなれるものではないから、無理もないことと納得していた。
 ――ひと目惚れした女性と付き合えたら、どんな感じなんだろう?
 そんなことを考えながら、街角で誰かを見初めては、すべもなく相手の背中を見送るのを繰り返していた。コロナ禍が到来して以降は、道行く人がみんなマスクで顔の半分を隠しているため、束の間の恋をする機会もなくなっていたのだが――。
 窓を向いた女性はマスクを着けていなかった。それなりに乗車率が高いとはいえ車内は満席でもないし、会話を交わす場面でもないからはずしていても変ではない。
 年齢は自分と同じぐらいだろう。すまし顔がクールで、何やら難しい問題について静かに考察している研究者のようでもあった。
 ――久しぶりの恋か。いや、どうだろう。
 女性の傍らには手提げの旅行かばんが置いてある。彼女が荷物をひざに載せていたとしても、隣に腰掛けることはできなかっただろう。空いている二人掛けの座席があるのに、わざわざ女性の横に座る男がいたらほとんど不審者で、嫌がられるのは目に見えている。
 なるべく近くに。横顔だけでも拝めるように。そう思って、うまい具合に空いていた通路を挟んだ席に着いた。
 ぼんやりと海に視線を投げるふうを装いつつ、通路の反対側をひそかに見つめる。列車が動きだすと彼女は車窓に顔を向けてしまったが、首筋やあごを眺めているだけで、われながらあきれるほど胸が高鳴った。
 何が、どこが魅力的なのか説明できるはずもない。これまでのひと目惚れの歴史を振り返ってみても、心を奪われた対象に明確な共通点はなかった。
 長身。小柄。流れるようなロングヘア。いかにもおしやなショートヘア。はじけるような笑顔。憂いを漂わせて伏せられた目。ふっくらとした頰。シャープな顎のライン。知的で落ち着いたたたずまい。活発でエネルギッシュな身振り。あどけなかったり大人びていたり――タイプはまちまちだ。
 相通じるものがあるとするならば、突出した特徴があるわけでもないのに、決して自分の手が届かない、と思わせる何か。縁がない感じにかれてしまうらしい。
 ――そんな因果な奴、おれ以外にいるのか? 小説や映画のテーマになってもいないぞ。
 旅先でまたも同じことが起きた。通路の向こうの女性がどういう人物か何も知らないのに、自分とは無縁であることを運命づけられているような気がしてくる。どうにかできないか、と思案する意欲も湧かなかった。
 さらに盗み見ていると、女性が体の陰から黒いものを取り出し、窓台にそっと置いた。大きさはてのひらに載るぐらいで、猫のぬいぐるみらしい。窓の外を見せてやっているのだ。
 意外だった。
 黒猫のぬいぐるみを携えて旅をして、それに景色を見せるという戯れを演じるとは、クールな第一印象と食い違う。だが、そんな意外性がさらに彼女への興味を搔き立てた。
「ほら、海がきれい」
 かすかに声が聞こえた。ぬいぐるみに、彼女が話しかけているのだ。さらに何かささやいていたが、耳を澄ましても聴き取れない。言葉を切って、黒猫と見つめ合う場面もあった。
 ちょっと変わった人だな、と思った。常日頃からぬいぐるみと話しているのではなく、旅先の解放感から子供じみた真似を楽しんでいるのか。
 以前の職場にいた同期の女性を思い出した。趣味は国内外の旅行で、どこへ行くにもお気に入りのキャラクター――ゲームの主人公らしい――の人形を連れて行き、それが名所をバックにした写真を撮るのが趣味だった。黒猫と列車に揺られている彼女は、少しも変わっていないのかもしれない。
 線路は海岸線から遠くなったりトンネルに入ったりで、ずっと車窓に海が広がっているわけではなかった。あるトンネルを通過中、ガラス窓に映った彼女の顔を見つめていたら、目が合ったので慌てた。慌てたところを見られたことに、よけいに焦ってしまう。
 闇を抜けたら、また海が近かった。
「よかったら写真をお撮りしましょうか?」
 自分でも驚いたことに、大胆に話しかけていた。お気に入りの黒猫と一緒に、海を背景にした写真を撮りましょうか、と言いたかったのだが、自然な提案ではなかった。彼女は、カメラやスマートフォンを手にしたわけではない。かつての同僚のことが頭にあったので、つい写真などと口走ってしまった。
「結構です。ご親切に、ありがとうございます」
 返ってきたのは、温かみのある優しい声だった。唐突に話しかけた無作法を不快がってはいないようで、ほっとする。
 そうですか、と言って引っ込むのも気まずい。かろうじて言葉を接いだ。
「可愛い猫ですね」
〈猫ちゃん〉と言いかけて、こっぱずかしいのでとつにやめた。
「お供に連れてきました。子供みたいですね」
「独り旅、ですか?」
「はい」
「ぼくもです」
 通路を挟んでの何でもない会話。どこまで続けられるだろうかと思ったが、言葉のラリーはあっさりと終了する。
「そうですか。この先もお気をつけて」
 あなたはどこへ行くのですか、と尋ねられることはなく、自分がどこに向かっているのかを口にすることもなかった。迷惑そうな態度を見せられなかったことだけが救いだ。
 列車はおや不知しらずを通過する。インパクトがあるので、その名には聞き覚えがあった。さっきスマホで検索してみたら、古来、きゆうしゆんな山が海までり出した難所であるため、一説によれば親子で越す際は親でもかまっていられない、と言われたことに由来するという。
 仕入れたばかりのネタで雑談をすることもできない。落胆したが、彼女と向き合って言葉を交わせたのはうれしかった。想い出になる。
 線路が少し海から離れていき、「次はいとがわ駅」というアナウンスが流れた。富山駅を出てから分かれた北陸新幹線の高架橋が右手から近づいてくる。糸魚川駅も新幹線と接続しているのだ。
 根拠もなく、黒猫を連れた彼女は直江津まで乗り通すと思い込んでいたのはかつだった。新幹線に乗り換えることは予想できたのに。
 列車が糸魚川の手前で速度を落とすと、彼女はぬいぐるみを旅行鞄に仕舞って、すっと立った。
「よいご旅行を」
 会釈されたのに応えられず、去っていく背中をぽかんとして見送るだけ。何かきっかけをつかんで、もう一度ぐらいは話せるのではないか、と期待していたのが甘かった。
 列車が動きだし、ホームの風景が流れていく。もうひと目だけでも、と彼女の姿を捜したのもむなしい。下車した他の客が邪魔でうまく見つけられなかった。
 ――あと少しで、ようやく話の核心だ。複雑な話でもないのに、ああ、ここまで長かったな。
 冷めてしまったコーヒーを飲み、ここからどう話すかまとめようとした時、「あのぉ」と声がした。助手の志摩が右手を小さく挙げている。
「お話の途中ですけれど、お訊きしてもいいですか? そのワンピースの女性が連れていた猫についてです。どんなものだったのか、くわしく伺えますか?」
 本題に関係がない的はずれな質問だと思いながら、礼儀としてそちらに顔を向けて答える。
「これぐらいの大きさです」両手で示して、「フェルト製でしょうね。写実的な猫ではなく、可愛らしいけれど漫画のキャラクターっぽくもない。ありふれたぬいぐるみでした」
「変わった点はなかった?」
「はい。手に取ってよく見たわけではありませんけれど」
 助手はテーブルの上に置いていたスケッチブックを取り、さらさらと何か描いた。見せてくれたのは、愛らしい猫のぬいぐるみの絵だ。ぱっちり目を開いてうずくまっている。
「こんな感じ?」
「表情やポーズは違いますけれど、全体の感じは似ています。――お上手ですね」
 志摩はスケッチブックを閉じて、さらに尋ねてきた。
「女性は黒猫にどんなことを話しかけていたか、もう少し覚えていませんか?」
 あれ以来、懸命に記憶を手繰ってみたのだが、いくつかの断片しか拾えていない。それを披露するのが惜しい気もしたが、隠さず伝える。
「声が小さかったのと、列車の音に消されてほとんど聞こえなかったんですけれど、『ありがとう』と『ごめんね』は判りました。『今日まで――』とか『よかった』とかも言っていたみたいです」
「ずっと話しかけていたんですか?」
「ぽつりぽつりと、です。『大きな船が――』というのもありましたね。その時は、猫をそっと持ち上げていました。よく見えるようにしてやっていたんでしょう」
 黒猫のぬいぐるみに命が宿っているように扱っていた。あくまでも戯れとして。
「自分が創ったぬいぐるみなんでしょうか?」
「さあ。どこで買ったとか誰にもらったとか、何も話しませんでした。さっき言ったとおりの短いやりとりがあっただけなので」
 志摩が黒猫のことを気にするのが奇異である。それに引っ掛かるような話しぶりではなかったはずだ。
「ぬいぐるみの何が気になったのかな?」
 濱地も同じことを思ったようだ。志摩は「いえ、ちょっと」と言って口をつぐんだ。単に猫が好きなだけではあるまいな、ともやもやした。

 十日前。
 ある案件の調査で、濱地に命じられて外に出ていた時のことだ。ユリエがしぶを歩いていたら、しんどうえいからスマホにメッセージが入った。用事ができたわけではなく、単なるご機嫌伺いだったので、〈いま渋谷〉と返信に書いたら、彼は公園通りにいると言う。ちょっと会おうとなり、一緒に入ったことがあるマクドナルドで落ち合うことにした。
 大学の漫画研究会の一年後輩だった叡二とは、社会人になってから近しい間柄になり、恋人の手前ぐらいの関係が続いている。そこで延々と足踏みしているのは彼の性格によるところが大きく、ユリエは成り行きに任せていた。無理のない付き合いを続けた先にこそ、望ましい結末が待っているように思えるからだ。
「志摩さん、仕事中ですよね。いいんですか?」
 会うなり生真面目な男は言った。
「過去の因縁を洗っているんだけれど、関係者とアポを取ったら待ち時間がどかんとできちゃって。どうやって二時間をつぶそうかな、と思っていたところだったの」
「ぼくも取材中でした。昼飯を食べていないので、どこかで何か食べようとしていたんです。志摩さんはマックでよかったんですか?」
「午後三時の月見バーガーぐらいは付き合える。あの子たちほどではないけれど若いもん」
 少し離れたテーブルで、二十歳前後に見える女の子二人がにぎやかにしゃべっていた。手振りが大きくて元気だ。
「最近、どう?」
 ユリエから訊いた。
「春先からやっていたソシャゲのシナリオの仕事は一段落です。みの編集さんから『面白いのが書けたら持ってこいよ』と言われているので、そっちをがんばりたいな」
 彼もユリエと同様に漫画家になるのは断念していたが、漫画原作者として活躍することを希望して、ライター稼業やゲームのシナリオ執筆をしながら夢を追っている。彼なりの目標に達するまで、ユリエとの関係も現状維持が続きそうだ。
「ネタはあるの?」
「色々と。でも、どれも熟成させないと着手できないな。『コンパクトなのが欲しい』とも言われたので、それ用のアイディアを募集中です。何かありませんか?」
「募集するな。わたしが助け舟を出すのは、きみが超売れっ子になってからよ。人に頼るのが早すぎ。――探偵としての守秘義務があるから、濱地先生の冒険たんは話せないしね」
「心霊探偵の秘密をネタにしよう、とは思っていません。そこはわきまえています」
 ユリエのボスがいかなる人物か、彼はよく承知している。知っているだけでなく、探偵の仕事に手を貸したこともあった。
「ならよろしい。――インプットのために本を読んだり映画を観たりしてる?」
「それなりに。劇場にも出向いて刺激を受けるようにしています。――志摩さんは、最近もミステリー一色ですか? 凝ってますよね」
「まだ飽きていない。しばらく読むと思う。きみもたまに読んだりするでしょう?」
「有名なのは何冊か読んでいますよ。日本のも外国のも」
 そのタイミングで、隣のテーブルからがわらんの名前が聞こえた。ユリエと叡二は顔を見合わせる。
「そうそう、わたしも思う。乱歩ってすごくない? どれだけ時代を先取りしてるんだろ」
「オタクの元祖だよね。今の日本を見せてあげたくなる。パソコンを教えたらどんな反応をするかな」
「めっちゃ興味ある。〈乱歩〉で検索しまくって、片っ端からフォルダに入れるだろうな」
「件名は『エゴサ年譜』」
 きゃはは、という笑い声。にやにやしそうになるユリエに、叡二が小声で言った。
「あの子たちの会話の意味、ぼくには判りますよ。江戸川乱歩は何冊も読んだし、どういう作家なのか予備知識もある」
「『はりまぜ年譜』も知ってる?」
「自分に関する新聞や雑誌の切り抜きのコレクションでしょ。それだけじゃなくて、作家になる前の名刺やら何やらを貼りつけた私家版の本」
「うん。元祖エゴサーチね。探偵マニアであると同時に自分マニアだったのよ。確かにパソコンを使ったら感激しそう」
 叡二は少し違う見方をした。
「自分マニアっていうとナルシシストみたいですね。というよりも、江戸川乱歩は日本で最初の探偵小説家だから、彼に関する情報はすべて大事に記録されなくてはならない、と考えたんじゃないですか? とことん探偵小説マニアだったことの表われにも思えます」
「きみと乱歩の話ができるとは」
「付け焼刃の知識があるだけですよ。実は、ライター仕事で調べたことがあるんです」
 なおも女の子たちが乱歩談義を展開するので、ユリエはコーラを啜りながら聞き耳を立てる。一番好きな作品は『押絵と旅する男』で一致しているようだ。
「やっぱ『押絵』でしょ」
「『押絵』ですね。時代の先取り感もあれが頂点」
「タイトルからしてね、絶妙だわ。怪しさ満点でさ」
「今だったら字が違うかな。〈推しの絵〉になりそう」
「二次元との恋。愛は次元を超える」
「押絵ってよく知らないけど、羽子板に付いてるみたいな立体的な絵でしょ。二・五次元じゃない」
「二・五次元なんていう概念がなかった時代に、ちゃんと押絵で書くのがすごい」
「評価するしかないね」
 叡二は密談モードまで声を落とした。
「あの子たち、乱歩で同人誌を作っていそうですね」
「少なくともコミケに行ってるのは間違いない」
「描いてそうですよ」
「ヴィジュアルに関する話が出ない。絵がどうこうとも言わない。わたしの推理では、同人をやっていたとしても〈絵描き〉じゃなくて〈字書き〉。――『押絵と旅する男』、読んだ?」
あさくさの〈十二階〉が出てくる短編でしょ。双眼鏡をのぞいていた男が、美少女を見つけて恋をした。それが押絵の中の少女だったので、自分も絵の中に入ろうとして……入ってしまうんでしたよね?」
「うん。弟に手伝ってもらって、常識はずれの方法で絵に入る。弟はその絵を買い受けて――」
 叡二がうろ覚えの箇所をユリエが補った。
「志摩さんが言うのを聞いて思い出しました。その弟が、兄が封じ込められた押絵を持って、旅をするんでしたね。だからタイトルが『押絵と旅する男』。汽車でそれを見掛けた男が小説の語り手だった」
 乱歩作品によくある構図だ。語り手や視点人物自身が異常なことを実行したり体験したりするのではなく、聞き手や目撃者となるパターン。そんな間接性が読者の空想をより広げるようにユリエは思っている。
「乱歩の分身みたいな語り手だったね。魚津で幻想的な蜃気楼を見た帰りの汽車が舞台」
「絵の兄と、兄にもたれかかった兄の恋人に景色を見せてやってたんだ。北陸本線ですよね。あのへん、海の眺めがいいんです。読み返したくなってきたなぁ」
 隣のテーブルの二人は、すぐ近くで同じ小説が話題になっていることに気づいていない。気づかれないうちにユリエが話を変えようとした時、彼女らの一人が思いがけない発言をした。
「ところでさ、もとから絵にいた男の人はどこへ行ったんだろうね。消されちゃったんだったら気の毒」
「ああ、ユキらしいな。思いやりだ」
〈もとから絵にいた人〉というのが判らない。小首を傾げたら、今度は叡二が説明してくれた。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:濱地健三郎の奇かる事件簿
著 者:有栖川 有栖
発売日:2025年10月02日

江神二郎、火村英生に続く、異才の探偵。大人気心霊探偵小説第4弾!
濱地健三郎には鋭い推理力だけでなく、幽霊を視る能力がある。彼の事務所には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほどだ。旅先で依頼人を一目惚れさせた、黒猫のぬいぐるみを連れた美女の悲しい真実。いるはずのない存在に頭を抱える刑事のため、濱地が推理した霊の目的。ベテランの拝み屋から頼まれた、洋館で人を襲う危険な霊との対決。濱地と助手のコンビが、スリルに満ちた捜査の先に、驚くべき真相を解き明かしていく――。

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