ドラマ化もされた『転職の魔王様』などで知られる額賀澪さんの新作小説『さよならの保険金』が、10月16日(木)に発売となります。
家族と就職先を一度に失った青年が、保険調査員見習いとして叔父とともに一歩を踏み出す本作。その発売を記念して、第1話「親不孝者だね」第2話「風邪みたいなもんだ」を特別公開いたします。
保険調査員のお仕事がどんなものか、知っていますか?
小さくて手軽な詐欺とお金の物語。あなたも(やらないように)ご注意を!
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額賀澪『さよならの保険金』試し読み(2/4)
マスコミがうろついているのではないかと思ったが、家の周辺には誰もいなかった。
「昨日と一昨日は押しかけただろ、テレビと新聞と週刊誌」
街灯の光が点々と落ちるアスファルトの道を、叔父は振り返らずに淡々と歩いた。
「ええ、まあ。今日はそうでもないみたいですけど」
「捜索も進展がないし、お前のコメントを取る必要もないんだよ。次に来るのは、隼平さんの遺体が上がったときだ」
遺体という言葉に、足が止まりそうになる。叔母も、今日家に集まった親戚や漁師仲間も、麻海にコメントを求めたマスコミでさえ、誰も口にはしなかったのに。
「遺体、って……」
「現実的に考えて、もう生きてない。一昨日から最低気温が十度を切ってる。海水温も十五度くらいだそうだ。海に投げ出された人間は二、三時間で意識不明になるし、予想生存時間は長くても四十時間。しかも関東に台風が来てるせいで、昨日からこのへんの海もずっと荒れてる」
家電の取扱説明書でも読み上げるかのような口振りに、麻海は「知ってます」と返せなかった。昨日の夜、布団の中で叔父が言ったのと同じことを調べた。予想生存時間だという四十時間をとうに過ぎた布団の中で、ぼんやりとスマホの画面を眺めて過ごした。
「遺体が上がればいいが、見つからない可能性の方が高いと思っておくといい。海難事故ってのはそういうものだ」
叔母が帰るのを見計らってこの人が来て、つくづくよかった。こんなことを叔母の前で言ったら、どんなことが起こるか想像もできない。
そんなことを考える前に、自分が真っ先にこの真っ黒な背中に摑みかからないといけないのに。馬乗りになって、殴りつけて、こっちの気持ちも考えろよ、あんたに人の心はないのかよ、と吐き捨てる役目が、麻海にはあるはずなのに。
「そうですよね」
気がついたらそう呟いていた。漁師町の夜は暗い。周囲の家々からこぼれる明かりは細く、朝の早い人間が多いから、息を潜めるような静けさで満ち満ちている。
でも、振り返ればちょうど港が見える。沿岸でイカ釣り漁をしている漁船のライトが、遠くで白く揺らめいている。父の船の光もあの中の一つだった。
「そりゃあ、死んでますよね」
言葉にしたら涙が出るのではないかと思った。ところが全くその気配がない。
「死んでるさ。遺体が見つからないとずっと実感が湧かないだろうから、今のうちから覚悟しておくといい」
この人はどうしてここまで非道なことが言えるのか。そう思いながら、叔父の背中についていった。一車線の対面道路を抜けて幹線道路に出ると、一番近くのラーメン屋に真っ直ぐ向かっていった。
田舎らしいだだっ広い駐車場には車が一台停まっているだけで、店内も静かだった。
「お好きな席へどうぞ」と案内した店員の声も、どことなく眠たげに間延びしている。
テーブルに着いた直後、叔父にメニューを渡されたが、開く気にもなれなかった。店員がお冷やを運んでくる。表紙に大きく印刷されたラーメンを指さして「これください」と告げると、叔父は「同じのもう一つ」と素っ気なく続いた。
店員が去ってから、叔父は腕を組んで窓の外をじっと見ていた。幹線道路を車が行き交い、遠くにコンビニとガソリンスタンドの明かりが見えるだけの景色を。
「面接はどうなったの」
店員が二人前のラーメンを運んできたところで、叔父は唐突に聞いてきた。割り
「テレビのインタビューで言ってただろ。事故当日は、最終面接の日だったって」
息子さんは事故当日、東京でどうされていたんですか? わざとらしく痛々しい表情を浮かべた女性リポーターに問われ、確かにそんなことを答えた記憶がある。
「来るときの新幹線の中で、辞退の電話をしました」
「その会社以外に選考が進んでるところは?」
乾いた音を立てて割り箸を割った叔父が、真っ赤な辛味ネギと一緒に
「……ないです。そこが、やっと最終面接まで行けた会社で」
「大学の単位は? 卒業に必要な分は足りてるの?」
「あとは卒業論文くらいです」
「なら、留年の心配はないな。卒業までまだ五ヶ月あるし、また一から就活すればいい。意外と土壇場で内定が出るもんだ」
ずるずると麺を啜る叔父の額を、麻海は凝視した。「頑張ります」と呟いて、自分も麺を啜る。今更ながら、注文したのは辛味ネギがのった
「麻海、大事な書類が家のどこにあるのかわかるか?」
叔父に名前を呼ばれたことに呆けてしまって、すぐに返せなかった。「お父さんの保険関係の書類、銀行の預金通帳や印鑑、クレジットカード、年金と税金関係の書類、その他いろいろ。もしあるなら、遺言書も」と続けた叔父に、ゆっくり
「父さんの部屋の棚に、その手のものは全部入ってた気がします」
「これから全部必要になるから、麻海がしっかり持っておけ」
「俺が、ですか?」
叔母の顔が浮かぶ。頼まなくても、片っ端から任されてくれそうな気がした。
「お前は隼平さんの相続人で、生命保険の受取人になってるはずだ。だから、責任持って麻海が管理するんだ」
ああ、生命保険……呟きかけて、「あっ」と声が漏れる。
「ないです、生命保険」
「ないってことはないだろ。いくら漁師が職業柄、生命保険に入りづらいからって」
「いえ、ないんです。俺が大学進学するとき、解約しちゃったんで」
初めて叔父の無愛想な表情が崩れた。目を
「俺が、東京の大学に行きたいって……それも私立の大学だって話をしたら、うちにそんな金はないぞって言われて、叔母さんにも大反対されて。でも、次の日に父さんが、生命保険を解約したから、それを学費にしろって」
潮風に焼かれた父の笑い声はガラガラとしていた。ガラガラ笑いながら、「俺の遺産はもう相続済みってことだから、あとの人生はお前が自力で頑張れよ」と麻海の肩を叩いた。
叔母は「何かあったらどうするの」とぶつぶつ言っていたけれど、最後は「頑張って勉強しなさい」と応援してくれた。
そうか、と短く頷いて、叔父は再びラーメンを啜る。
「それじゃあ、もう麻海は、自力で頑張るしかないな」
あの日の父と同じようなことを言って、こちらを見つめてくる。
「麻海はもう、お父さんの喪失の代償を、前払いしてもらってるんだから」
「喪失の、代償ですか」
生命保険をそんなふうに言う人と初めて会ったが、言われてみたらその通りだった。その人の死と引き換えに支払われるお金なんて、人の死の代償そのものだ。
「変ですね。父さんが見つかってもいないのに、喪失の代償だなんて」
「遺体が見つからなくても、人は死んだことにできるんだよ」
レンゲでスープを掬って飲む。なんてことない醤油ベースの
「認定死亡と特別
叔父の話は正直、半分も理解できていないと思う。ただ、温かいスープと一緒に飲み下す叔父の言葉は、不思議と自分の中にちゃんと残る気がした。
「早くて三ヶ月後、長くて一年後に、父さんは死んだことになるってことですか」
「そうすれば遺族は保険金を受け取れるわけだが、麻海にはそれがない。でも、船にだって保険金がかかってたはずだ。国民年金の死亡一時金、労災保険も下りるだろうし、葬式をやれば葬祭費も給付される」
「世の中の人達って、家族が死んだ直後にそんなことまでやってたんですね」
母の葬式で走り回っていた父や叔母を思い出す。身内が死んで
「人が一人死ぬってのは大事なんだ。だから後始末も手間がかかる」
「後始末って……他にもうちょっといい言葉はないんですか?」
「仕事柄だ、仕事柄」
ラーメンのスープまでしっかり飲み干した叔父は、お冷やのグラスを空にして、少しだけ気持ちよさそうに息をついた。伸びてきてしまった麺を口に詰め込みながら、叔父の仕事をきちんと知らないことに気づいた。
「叔父さん、何の仕事してるんですか」
「保険調査員だよ」
うわぁ、と声を洩らしそうになった。麺を
「そっか、だから、詳しいんだ」
「俺が仕事をするのは、人が死んだのが確定してからのことが多いけどな」
「保険調査員って、保険金を払うか払わないか調査して決める人でしたっけ?」
「決めるのは保険会社。調査員は保険会社から依頼されて、保険金を支払うにあたって不正や問題点がないか、客観的に調べる。お前の叔母さんあたりは、重箱の隅を
ぼんやりと同じイメージを抱いていたから、麻海はぎくりと姿勢を正した。にやりと笑った叔父に、「頼子叔母さんと仲が悪いですよね」と誤魔化す。
「何かあったわけじゃないが、馬が合わないのは事実だな。姉さんが……お前のお母さんが死んでからは、なんの交流もないし」
「でしょうね」
ふふっと笑いが込み上げてきて、自分で自分に驚いた。食欲なんてまるでなかったのに、麺どころかスープまで完食した。久々にきちんと食事をした気がする。
「帰ったら、父さんの部屋を探してみます」
「そうだな。ほぼ他人の俺が触るわけにもいかないから、麻海がちゃんとやるんだ」
一昨日からずっと、誰も彼も目の前の話ばかりをする。もう生存が絶望的な父親の話ばかりをする。不謹慎でも非道でも、先の話をされると意外と気が楽になった。
少なくとも、息を吸うだけの余裕が胸の奥にできる。
「響介さんが来たの? 東京から?」
叔母があからさまに嫌な顔をしたから、伝えたのは失敗だったなと麻海は肩を落とした。
「
「今は? 今はどこにいるの」
「駅前のビジネスホテルに泊まって、朝一の新幹線で帰ったはずだよ」
昨夜、叔父とはラーメン屋の前で別れた。「何かあったら連絡して」と名刺だけを手渡し、叔父は振り返ることなく夜道を歩いていった。
名刺には、「
一人帰宅して、父の部屋のタンスや机の引き出しを
「響介さん、何か言ってたの?」
買ってきたお茶菓子を台所の棚にしまう叔母の声は、明らかに不信感に染まっていた。
麻海に何かよからぬ入れ知恵をしたとでも思っているのだろうか。
「大変そうだから、様子を見にきてくれたみたい。ラーメン食べに連れていってくれた」
「事故のこと、麻海が響介さんに自分で連絡したの?」
「いや、違うけど。叔母さんじゃないの?」
「私はしないわよ」
でしょうね、と言いたいのを
「テレビを見て、駆けつけてくれたのかも」
叔父は桐ヶ谷家とはほとんど交流がない。麻海の母の死後は
そして、麻海にラーメンを食わせて、これからの話をして、帰っていった。
「保険のこととか、いろいろ教えてくれたよ」
「はあ? 保険っ?」
ああ、やっぱり言わなきゃよかった。ずんずんと麻海に歩み寄る叔母の額に走った深い皺を眺めながら、麻海は
「信じらんない。まだ見つかってもいないのに、生命保険の話なんてしていったのっ?」
それが、身内が行方不明になった人間本来の感情なのかもしれない。「保険屋って、どいつもこいつもそうよね。人の命を商品みたいにしか思ってないんだから!」とぶつぶつ繰り返す叔母を前に、麻海は静かに息を吸った。
「でもさ、頼子叔母さん。もう、父さんは生きてないと思うよ」
言った瞬間、胸がすっと楽になった。喉の奥で呼吸や食事を妨げていた栓が抜け、新鮮な空気が体の中を通り抜けていく。天国で、母さんと無事再会できてたらいいな。事故以来初めて、そんな穏やかな気持ちになった。
居間のレースカーテンを開けた。台風のせいか、今日の海も白波が立っていた。それでも海上保安庁の船や地元の漁船が父を捜索している。捜索によって誰かがまた事故に遭うかもしれないし、漁師仲間達にだって生活がある。いつまでも父を捜してはいられない。
「捜索、そろそろ打ち切ってもらった方がいいと思う」
叔母が無言で麻海の頬を叩いた。真っ赤な目をした叔母は、長い長い沈黙の末に「親不孝者!」と叫んだ。
「そうだね、親不孝者だね」
叔父の淡泊さが移ったのだろうか。それとも、自分はもとからこういう性格の人間だったのだろうか。本来味わうべき悲しみや苦しみを遠目に眺めながら、麻海は「親不孝者だよ」ともう一度呟いた。
二日後、父の捜索は打ち切られた。叔母は仏壇の前で父の写真を抱いてわんわん泣いた。
(つづく)
作品紹介
書 名:さよならの保険金
著 者:額賀 澪
発売日:2025年10月16日
身近で簡単、小さな詐欺にご注意を。叔父と甥の保険調査員コンビが始動!
就活の最終面接の日、青森で漁師をしている父の船が遭難したという連絡が入った。家族と就職先を一度に失った桐ケ谷麻海は、東京で暮らす叔父・響介のもとに転がり込むことに。
居候としてなにか仕事をさせてほしいという麻海に、響介がかけた言葉は「掃除も洗濯も料理も別にやらなくていいから、俺の仕事をちょっと手伝って」。
響介の職業は、保険調査員。保険会社から依頼を受け、保険金を支払うにあたって不正や問題点がないか調べる仕事だ。
麻海は見習い調査員として詐欺が疑われる事案の調査をするなかで、生と死、お金にまつわる様々な家族の思いにふれていく。
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