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特集

【インタビュー】読んでしまったらもう傍観者ではいられない。衝撃と共感の事件小説 安壇美緒『イオラと地上に散らばる光』

『ラブカは静かに弓を持つ』が大きな話題となった安壇美緒さんの待望の新作は、ワンオペ育児で限界状況まで追い詰められた母親が起こした衝撃的な刺傷事件から始まります。なぜ彼女は赤ん坊を抱っこしたまま犯行に及んだのか、なぜ夫ではなく、その上司を刺したのか。炙り出されてくるのは、けっして他人事として片付けられなくなってくる、事件を利用するメディアと、事件をエンタメとして消費する人々の構図――。

取材・文=河村道子 撮影=鈴木慶子

▼『イオラと地上に散らばる光』作品情報まとめページはこちら
https://kadobun.jp/feature/readings/entry-128262.html

『イオラと地上に散らばる光』安壇美緒 インタビュー

デビュー作刊行の頃にはすでに頭の中に潜んでいた物語


――ワンオペ育児で追い詰められた母親が夫の上司を刺傷する衝撃的な事件が発生。その事件を取り上げたWEB記事をきっかけに、“イオラ”という犯人の特徴的な名前や、彼女が赤ん坊を抱っこ紐で帯同し、犯行に及んだという事件の異常さが注目を集めていきます。そしてSNS上で、イオラ擁護派と否定派の論争が過熱し……。現代社会の歪んだ構造や人々の間に蔓延しているものが可視化されていくような本作の起点はどこにあったのでしょうか。

イオラという女性がワンオペ育児に悩み、事件を起こすという物語の核となる部分は、私自身がワンオペ育児を体験せざるを得なかったさなかに着想しました。「これはもうつらすぎる! こんなこと他の人もみんなやっているの? だとしたら世の中、どうなってるんだろう……」と個人的な疑問が一足飛びにソーシャルな方面へ向いたのを覚えています。デビュー作『天龍院亜希子の日記』刊行の頃にはすでに頭の中に潜んでいた物語なんです。


――『金木犀とメテオラ』、『ラブカは静かに弓を持つ』以前に、このストーリーはすでにご自身のなかにあったのですね。

ただ、小説の形でどうアウトプットするかということが難しく、うまく形にはならなかったんです。当時の自分にとってワンオペ育児という題材はあまりにも身近過ぎましたし、その題材に正面から向き合えるほどの体力もなかった。執筆にとりかかったのは、ワンオペ育児から時が経ち、ようやく適切な距離を保ってこの題材に向き合えることができるようになってから。あの頃抱いていた気持ちの薄まらない、そして欺瞞のようなものを混じらせることのない、ベストのタイミングで書くことができたと思います。



――イオラが起こした事件は、《ワンオペ育児女性による衝撃的な刺傷事件「彼女は私だ」SNSで同情が広がったワケとは?》という見出しの記事によって、論争を巻き起こしながらSNS上で広がっていきます。SNSを小説のなかのひとつの舞台とされたのは?

育児関連の情報や、自分と同じ状態にいる人たちの近況を見るなど、ワンオペ育児渦中にいた頃の私にとって、SNSはとても密接なものだったということが大きかったですね。つい目に入ってくる炎上や叩きというものに気持ちがやられていたということも。勝手に自分のなかに流れ込んでくるあの感じが本当に嫌だなと思っていたんです。執筆中は、その世界に引きずられることを避けるため、SNSは一切断っていました。

書いているうちにリアルタイムで登場した人物たち


――物語は、“フェミニストと世間の対立構造をうまく煽り続けるつもりだった”と明言する、記事を書いたネットメディア編集者・岩永清志郎を軸に進んでいきます。

事件を追いかけていく彼は、イオラの事件と表裏一体で生まれてきたキャラクターです。どんな人物なのか、自分のなかで確定されないものがあるなか、岩永は勝手におかしな行動を取っていった。なぜこういうことをするんだろう? こうした行動を取るのはどういう心理なんだろう? というところがスタートでした。


――視点人物を変えながら、ストーリーは、岩永という人物をひもといていきます。1章で彼を捉えていくのは、スキャンダルの気配がある元女性アイドルのマンション前で張り込みをしていたとき、岩永に声を掛けられた、ニートの“デニーズ”です。専属のアシスタントになってほしいと言われ、彼は岩永の仕事を手伝うことになるのですが……。

デニーズはいきなり生まれたキャラクターなんです。主人公は岩永だと決めていたのですが、「物語の最初に切り口を入れるのは、彼ではないな」という思いのなかで書き始めたら、突然若い子が出てきてしまった。書いているうちにリアルタイムで登場した人が本作にはかなりいるんです。「このタイミングで出てきたけど、この人は誰なんだろう?」という体験の非常に多い作品になりました。


――岩永に指示され、事件現場となったビルの外観の写真を撮りに行くデニーズ。岩永の書いた記事がバズったとき、彼が目にするのはSNS上に溢れ出していく数多の言葉。ワンオペ育児で疲弊している母親たちの共感と語られる自身の体験、“私もイオラになっていたかもしれない”というワンオペ育児への反発、論点のずれたところで起きる論争、“フェミはテロを支持すんな”という嘲笑……。非常にナーバスな題材を物語として展開させていくとき、意識されていたことは?

自分で手綱を握り続けるのが非常に難しい題材、物語であると感じていました。ゆえにプロットを立てず、ラストも決めないまま、「こんな事件が起きた。どうする?」ということを、いろんな人の視点で書いていくことにしたんです。自分のなかからリアルタイムで現れてくるものに臆することなく、掴まず、離さずの状態で最後まで書き切ろうと思っていました。

実際に喋ることと、心のなかで思っていることのギャップ


――2章の視点人物は、高校時代のサッカー部の同期会に参加したとき、仲間を見回しながら“自分だけは結構余裕あるって感じを醸し出すために、みんな必死だ”と心のなかで呟く、岩永の後輩、リスキー編集部の小菅。彼は、人生を上手にサバイブしている岩永を見て、自分も“そっち側の人になりたい”と願っています。自分の人生はパッとしないと思っているけれど、自分のことは大きく見せたい人物です。

小菅はすごく普通の人だと思います。そういう普通の人だからこそ、岩永のような人間が近くにいると、俺の先輩、すげぇんだぜ、だから近くにいる俺もすげぇ! みたいな感じで自慢したくなってしまう人、というポジションで彼は物語に出てきました。


――「自分とどこか似ている」と親近感を抱く人も多くいるのでは?という小菅ですが、彼の口に出す言葉と心のなかの言葉のギャップが著しくて。安壇さんの小説は、会話文と本音を語っていく地の文の対比がいつも読者の心をひっかいていきます。

実際に喋ることと、心のなかで思っていることのギャップみたいなものは、これまで書いてきた小説のなかでも一番強く出たかもしれません。体面を保つため、「その場に合わせて喋っている人たち」がこの作品には多いので。小菅は、悪い人ではないけれど、同期グループと一緒にいるときなどは、自分のこういうところを見せたい、こういうところは見せたくないという側面の強い人間。気持ちが萎んでいても「強い俺」みたいな感じを見せようとしてしまう。でもそれは結局、彼の本当の気持ちではない。だから言葉や行動は上っ面なものになってしまうし、しょうもない嘘をつかなければならなくなってしまう。その結果、付き合っている彼女との関係もおかしくなっていく。


――“おまえは彼女なんだから、俺という男をちゃんと立てろよ”という、小菅の心のなかの声が響く展開にざわざわとした感触を抱いてしまいました。小菅も、そして岩永も、今はコンプライアンス上、なりを潜めざるを得ない男性優位思想を心の中では思い切り出してきます。表現上、とても心を砕かれた場面だったのでは?と感じたのですが、ここは躊躇なく書き切ろうと?

やはり勇気が必要でした。そうしたシーンのみならず、この題材を扱うこと自体、大きなプレッシャーにもなりました。けれど『イオラ』の物語が、自分のなかに生まれてきてしまった以上、もうこれは書かざるを得ないなと、覚悟を決めて取り組もうと決めました。

上から下へと流れてゆく暴力のボール


――そして3章は岩永本人の視点で物語が進んでいきます。イオラの事件を扱った記事の反響に満足した彼は、次の一手を考えるために奔走していますが……。岩永を追っていくストーリーのなかに本人の視点が出てきたときはどんな感覚でしたか。

ここまでデニーズ、小菅と、二人の視点を通して岩永を追ってきたのですが、正直、まだ彼のことをあまり掴めていなかったんです。岩永は立場の強い人からもらった暴力のボールを、自分よりも立場が下だと判断した人間に躊躇なく回していく。なぜそういうことをするのか、たとえば、会社で何かあったんだろうか? と、岩永の背景にあるものを探っていったのですが、そこで決めていたのは、「この人だって辛いんだ」というところを落としどころにはしないこと。「だから彼はこういう行動をとるのか、この人もある意味、犠牲者なんだね」というところには行かないさじ加減を常に意識していました。


――そしてこの3章でひとつのクライマックスが訪れる。“私は、イオラ事件の炎上を煽ったのは岩永さんなのではないか?という疑いを抱いています”という、イオラの中学の同級生という女性が登場してきます。

こういう物語で、こういうプロットで、こういう仕掛けがあって、という作り方ではなかったので、私自身も本当に先が読めない展開になってきて。彼女は登場すると、ロジカルに岩永を詰めていきました。この場面には一種の謎解きみたいなところがあるのですが、「こういう話なのか」ということが、ここでようやく自分のなかで明確になっていきました。


――彼女が岩永に向ける“暴力っていうものは基本的に上から下に流れていくだけ”という言葉は、イオラ事件を通し、現代の支配構造を浮き彫りにしていきます。

いろんなところから回ってきた暴力のボールを、自分よりも弱い者に渡さないという選択をした人もいるのだということを彼女は告げる。それは岩永の行動との対比を浮き彫りにする。そこがこの小説の核心部分なのではないかと思います。


――そして4章では、ワンオペ育児をする女性の視点で物語が語られていくのですが、彼女が、胸中に抱えるつらさや悩みを吐露していく相手は『あるもの』――。

自分が彼女と同じ状況にいた頃、SNSのように不特定多数の人がいるところで、ワンオペ育児のつらさを吐露したとして、予期せぬ反応が来たら、耐えられないだろうなと思ったんです。小説の仕掛けとして何かほしいと考えたとき、ならば人でないものに語りかけるのがいいのではないかなと。4章の語り手の女性は、暴力のボールが下へと回っていくピラミッドのなかではかなり下位の方にいて、そのことを憂いているのですが、そんな彼女も『あるもの』と話すうちに言葉がちょっと乱暴になっていくところがあるんです。そこでも暴力のボールは回っているかのように。けれど『あるもの』も一筋縄ではなく、彼女の気持ちをうまく包み込んでくれるようでいて、期待している言葉は返してくれない。ただそのおかげで彼女が少し正気を保てているところもあるのかもしれないなと思いながら、慎重に書き進めていました。


――そして最終章である5章では再び、岩永に視点が戻ってきます。

3章を書いたときにはよくわからなかった岩永にもう一度向き合いたいなと、再度彼に視点を戻した時、彼の内部構造がいきなり見えてきたんです。彼はこういう思考回路で、社会や人間を見ているんだろうみたいなことが突然クリアになっていきました。


――そこには人の悪意というものが炙り出されてくるようで。改めて「悪意とは何か」ということを突き付けられた気がしました。

たとえば1章の視点人物であるデニーズって、全然いい子ではなく、「あいつ、ヤバいよね」と言われるようなところもある子なんですよね。だからこそ岩永みたいな人間に弱みを握られ、サンドバッグのようにされてしまう。けれど大抵の人は、ことの大小はあれど、デニーズのように失敗するし、あの時、悪いことしてしまったなという後悔を持つ。私はそういうものが人間らしさの表れだと思っているんです。一方で岩永は意味もなく人を落とし入れようとしたり、自分の機嫌を良くするためだけに他人をサンドバッグにする。それは人間らしさではない、一種の悪であるなと。「人間なんだから人間として扱ってほしい。人間として扱ってるだろ、こっちも」というのが、私のベーシックなところにある考え方。本作ではその考え方が明確に出たなと。そして書き終えたあと、今作で自分が挑んでいたテーマは《支配と欺瞞》だったのだなと気付きました。結末は自分でも想定していなかったものだったので、よくここに辿り着けたなという静かな感動を得ることができました。「フィクションとしてやるべきことをやった」という感触を存分に得た一作となりました。


著者プロフィール

安壇美緒(あだん みお)
1986年北海道生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2017年『天龍院亜希子の日記』で第30回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。22年『ラブカは静かに弓を持つ』で第6回未来屋小説大賞、23年同作で第25回大藪春彦賞を受賞。第20回本屋大賞第2位。その他の著書に『金木犀とメテオラ』がある。

作品紹介



書 名:イオラと地上に散らばる光
著 者:安壇 美緒
発売日:2025年11月18日

読んでしまったらもう傍観者ではいられない。衝撃と共感の事件小説
ワンオペ育児で追い詰められた母親が夫の上司を刺した。彼女は赤ん坊を抱っこ紐で帯同したまま犯行に及んだという。事件を取り上げたWEB記事をきっかけに、SNS上ではイオラ擁護派と否定派の論争が起こり――

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322501001202/
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