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レビュー

【解説】中年男性に捧げられたオマージュというべき一冊――『Y』佐藤正午【文庫巻末解説:香山二三郎】

佐藤正午『Y』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



佐藤正午『Y』文庫巻末解説

解説
やまろう(コラムニスト・書評家)

 本書『Y』は一九九八年一一月、角川春樹事務所から「書き下ろし長編小説」として刊行され、二〇〇一年五月、ハルキ文庫に収録された。この度二度目の文庫化に当たる。
 Yとはもちろんアルファベットのワイであり、ミステリー読みにはエラリー・クイーンの名作『Yの悲劇』でもおみの単語であるが、そのYとは意味が異なるような。
 ──アルファベットのYのように人生は右と左へ分かれていった。
 本書の初刊本の帯のじやつに記されていたように、本書におけるYとはすなわち人生の分岐点を指す。
 では、誰のどのような分岐点が描かれるのかというと──
 物語はまず「一九八〇年、九月六日、土曜日」夜の七時過ぎ、ある青年が東京のけいおうかしらしぶ駅である女性を見かける場面から幕を開ける。彼は二ヵ月前に彼女と一度会って言葉を交わして以来再会を願っていたが、ついにそれがかなったのだ。彼は電車がしもきたざわ駅に着いたとき一緒に降りて話をしようとするが、そのとき互いに別々の人物から声をかけられ、機会を逃してしまう。彼はホームに降り立ち、彼女はそのまま電車に乗っていってしまう。そしてその電車はその直後せいさんな事故に見舞われるのだった。
 ほんのちょっとした時間の食い違いが引き起こす運命の悲劇。「これはそのほんのわずかな時間をめぐる物語だ」と。
 何とも謎めいた、そして魅力的なプロローグではないか。
 もっとも、一九八三年にすばる文学賞を受賞した著者のデビュー作『永遠の1/2』からして、失業青年と元人妻の恋愛話の一方で主人公とそっくりの青年が町に出没して彼を惑わすという分身サスペンス趣向をはらんでいた。すばる文学賞は純文学の新人賞であり、『永遠の1/2』にはそれにかなった力があると認められたわけだが、と同時に、著者が並々ならぬミステリーのセンスの持ち主であることも表明していた。その証拠に、デビュー時の著者の本棚には『二人の妻をもつ男』や『ヒルダよ眠れ』『事件当夜は雨』『トライアル&エラー』等の名作が並んでいたようで、著者が本格ものはもとより、心理サスペンス、警察小説まで幅広いミステリー読みであることを明かされている。
 その後いつたんは恋愛小説家としての足場を固めていくかに見えた著者だが、一九九〇年代になって、再びミステリーマインドが再燃したのか、『彼女について知ることのすべて』『取り扱い注意』『バニシングポイント』とミステリー的な色彩が強い作品が続くことになる。そして満を持して登場したのが本書だった。その本編に入ると──

●ここから先は真相に触れています。本文読了後にお読みください。

 八月の雨の晩、出版社の営業マンあきふみのもとに不審な電話がかかってくる。
 その声はキタガワ・タケシという高校の同級生でかつては親友だったというが、秋間は名前すらおぼえていなかった。キタガワは今から会って話せないかというが、出張帰りの疲れた体には到底無理な話だった(妻子が家を出ていった直後でもあった)。キタガワは彼に読んでほしいものがあるというのだが。三日後、秋間はキタガワ・タケシ──きたがわたけしの代理人であるとうと会って、貸金庫の中身を受け取るが、それは原稿と五〇〇万円の札束、それに知り合いの女性、西にしざと名義の九けたの預金通帳と印鑑であった。フロッピーディスクに収められた北川の原稿に書かれていたのはトンデモないものだった。
 自分は越境者だというのである。
 北川は一九九八年、四三歳の夏までは広告代理店に勤める既婚の普通のサラリーマンだったが、娘の誕生祝いの晩、映画のフェイド・アウトとフェイド・インのようなまばたきにも似た現象に襲われた。それをきっかけに時間が逆戻りしていることに気付くのである。彼はそのことを親友に話しにろつぽんの彼の部屋に赴く。映画作家で小説家でもある友人の秋間文夫はフランスの映画作家フランソワ・トリュフォーの手法、アイリス・アウトとアイリス・インを用いて、彼の身に起きつつあることを説明してくれた。北川は自分に断続的に起きている逆戻りと再生が自分の願う奇跡に向けてある日一気に起きると信じていた。その奇跡とは、もちろん一八年前のあの日に戻ること、そしてあの井の頭線の事故から彼女を救い出すことだった……。
 かくして物語は秋間文夫の現状の日常描写と北川健の手記が交互に描かれていくことになる。その手法自体は取り立てて珍しいものではないが、人称を隠したり、物語背景の時間の偏差を潜ませるなどずらし技が効いており、巧みな伏線にもなっている。
 北川のタイムリープについては、作中でも言及されている通り、一八歳から四三歳までの二五年間を何度も生き直す男の苦難を描いたケン・グリムウッド『リプレイ』というネタ本がある。このネタに関しては、他にも類書があり、著者自身、きたむらかおる『リセット』やつつやすたか時をかける少女』を参考にしたというが、結果選ばれた時間跳躍のかぎはトリュフォーのアイリス・アウト/アイリス・インという映画の「魔法を解く呪文」だったことは興味深い。SFネタについてもう少し掘り下げておくと、人生はアルファベットのYのように瞬間瞬間に枝分かれし、そうして枝分かれしたぶんだけの異世界がこの世には存在するというのは、量子力学でいう多世界解釈とかぶる。むろんそこにはそれを決定づける観測者の存在が不可欠で、本書ではその観測者=北川自らが人間タイムマシンと化してしまうという次第。
 もっとも、現実ではあり得ない状況を初めから盛り込んでいる特殊設定ミステリーに人気がある今、本書も特殊設定ロマンの先駆けとしてとらえるべきなのかもしれない。北川の手記で描かれる最初の時間跳躍におけるタイムリミット・サスペンスの妙は作品刊行後四半世紀たっても色あせることはない。
 また時間跳躍といえば、北川健の方だけに目が向きがちだが、彼の存在によって図らずも人生の曲がり角を曲がることになる秋間文夫の生き方にも注目されたい。妻子と別れ、味気のない独身生活に戻るはずだったが、ここまでダイナミックな変身のチャンスがめぐってこようとは! 四〇代の中年男性って、自分でも知らないうちに人生の枝分かれに差しかかっていたりすることが往々にしてあるのでは。
 してみると、本書は何より中年男性にささげられたオマージュというべき一冊なのかもしれない。

作品紹介



書 名:  Y
著 者: 佐藤正午
発売日:2024年10月25日

もしもの世界に思いを馳せる名作恋愛ミステリ。
秋間文夫のもとに不審な電話がかかってきた。北川健と名乗るその男は、かつて秋間の親友だったと言うが、秋間には心当たりがなかった。読んでほしいものがあると告げられた秋間は、原稿が記録されたフロッピーディスクと、500万の現金を渡される。北川が何度も時間を逆戻りしているという不思議な物語を読むうち、秋間は18年前に起きた井の頭線の事故のことを思い出す――。直木賞作家が紡ぐ、時間を超えた傑作ミステリ。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322311000522/
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