西村賢太さんに初めてお会いしたのは、某テレビ番組の収録でした。深夜のバラエティ番組で、小説家が数名、ゲストとして呼ばれたのです。
そういった番組ではたいてい、印税や発行部数といった数字の話、映像化された作品のロケ見学での俳優に関するこぼれ話、出版業界を覗き見るような裏話、などが求められます。それがわかっていて、本を売るため、こちらも出演を受けるのだから、文句を言えないのですが。
答えにくい質問には、税務署から目を付けられる、などと言いながら笑って対処し、なるべく作品のアピールにもっていけるようにしよう、と頭の中でシミュレーションしながら、収録会場に向かいました。
しかし、開始早々、とまどってしまいます。番組を盛り上げようというサービス精神が旺盛な方から、その場にいない小説家の推定年収など、生放送じゃなくてよかった、とヒヤヒヤするような話が飛び出してきたからです。
そういった話が重なるごとに、会場の熱気が上がっていくのを感じました。
そんな中で、賢太さんにも他の方に関する話がふられました。席が隣だったので、どう答えるのだろうと、ドキドキしながら見ていると、賢太さんは少し困った様子で笑いながら、でも、絶対に言いませんよ、といった口調で「いや、それは」と答えられました。この空気の中できちんと断ることができるなんて、と感心しました。
しかし、賢太さんをすごいと思うのはその先からです。
通常、一人でも話の腰を折る人がいると、その場が一気にシラけるものですが、賢太さんは逆に、ガンガンと盛り上げていきました。こぼれ話でも裏話でもない、ストレートな自分自身の話で。ウケを狙う様子もなく、ただ自分のことを包み隠さず話す姿に、出演者からも観覧席の方たちからも、自然と笑い声があふれていて、会場の空気も居心地のいいものとなりました。
自分で笑いを取るのは、容易なことではありません。ダメなところをアピールしすぎると、改善する努力もせずに周囲に迷惑をかけながら開き直ってるんじゃないよ、と反感を持たれることもありますし、卑下しすぎると、笑いよりも同情の方が強くなり、寂しい空気が流れることになりかねません。
絶妙なバランスで自分をさらけ出している様子を間近で見て、これが私小説家か! と心が震えました。年齢を重ねると、なかなか他人を尊敬し難くなりますが、本当にすばらしい人だな、と感激し、そこで留めておけばいいのに妙なスイッチが入り、心の中で、賢太さま! などと叫んでしまいます。
調子に乗った私は、締切など守らなくていい、という話をしている賢太さんに、「大人なんだから、締切は守りましょう」とえらそうな口調で言ってしまいました。しかし、そんな暴言にも、賢太さんはムッとする気配すら漂わせず、明るく笑い流してくれました。
いや、後で怒られるかも……。そんな自己反省会をしながら控室に戻ったところ、なんと、怒られるどころか、いつか対談を、と温かいお声がけをしてくださったのです。
それが実現したのが、本作『蠕動で渉れ、汚泥の川を』の単行本刊行時で、そこからさらに僭越ながら、文庫解説を書かせていただくことになりました。
主人公はおなじみ、北町貫多。しかし、今作の貫多は十七歳。となれば、少し読み方が変わってきます。同年代の子どもを持つ身としては、親目線で。片手で数えられるくらいの年数とはいえ、高校で講師を務めていた身としては、教師目線で。いつもより温かく貫多を見守りたいと思ってしまいます。
また、いつ頃から貫多は貫多と成ったのか、ということにも興味が湧きました。まるで別人のような時代があったのではないか。まったく別の人生があったかもしれないと想起させてくれる貫多に出会えるのではないか、と。
結論から言うと、貫多は十七歳の段階で、これまでに知る貫多でした。
アパートの家賃を何カ月も支払わずに強制退去させられているし、煙草も吸っているし、年を越すのもままならないようなその日暮らしを送っているし、関わる人のほとんどに胸の内で悪態をついています。
それでも、いつもと様相が異なるのは、なんと貫多、肉体労働を脱し、洋食屋でアルバイトをするのです。しかし、少し毛色の違う仕事に就いたからといって、性格や暮らしぶりが激変するわけではありません。貫多は貫多、ある意味まったく期待を裏切らない日々を送ってくれます。
アパートの強制退去が決まり、未払いの家賃を踏み倒して夜逃げした貫多は、洋食屋で寝泊まりすることになります。もう、いやな予感しか生じません。
深夜に、店の酒を盗み飲み、その際のつまみも店の備蓄品からまかないます。店でためているクーポン券を無断で使いおやつに換えるという、みみっちいこともします。そして、現金にも手を付けるのですが、これもまたみみっちく、レジ台に置かれた募金箱から小銭をくすねて煙草代に充てるのです。
そのうえ、十七歳のムラムラがコントロールできない貫多は、アルバイトのインテリ女子大生が仕事中に着用しているキュロットを更衣室代わりの部屋に置いて帰っているのをいいことに、それに手を伸ばしてしまいます。
股間の部分に鼻を寄せた途端、恐ろしいまでの悪臭が……。
ここで貫多が恍惚の表情を浮かべようものなら、私はその場で本を閉じます。変態に付き合っているヒマなどありません。どの年代の貫多にも、愛着が湧いたり、憎み切れなかったりするのは、貫多が純粋なほどに感情をストレートに表現するところにあるのではないかと思います。
ケタ外れな臭気に、喉の奥で叫声を発し、顔を激しくそむけ、悪態をつく。そんな貫多だからこそ、「そりゃあ、どんな美女のキュロットでも、洗濯せずに毎日はいてりゃ、股の部分は臭くなるよ」と笑いながら突っ込み、ほほえましささえ込み上げてくるのではないでしょうか。
やっぱり貫多は貫多だなあ、と。
貫多の悪事は他にもあり、それらの一部が店の主人にバレてしまい、他の従業員たちに対する悪態とも相まって、洋食屋を出て行くことになるのですが、貫多に関しては、どんなに最悪な状況になっても、読み手である自分が絶望感を抱くことはありません。
アパートを出て行く時、洋食屋を出て行く時、貫多の荷物の中にはいつも本が入っています。文庫本二十冊など、夜逃げの際にはかなり負担になりそうなのに。
対談の際、賢太さんご本人にお伝えしたところ、本はお金になるから、と照れたようにおっしゃっていましたが、本を大切にしてきた人だからこその発想だと思います。
親として、教師として、という大人の目線に戻るなら、十七歳の貫多のそばに本があったことに、一番ホッとしました。十代のうちから、自分の人生に必要なものを知っている人は、そう多くありません。
貫多は未来の貫多に繋がる。そんな希望を持つことができます。
同時に、この物語から、貫多の生きる強さを感じることもできました。
確かに貫多は、中学卒業時点で学歴社会の落伍者としての烙印を押されはしたが、けれどまだ人生の落伍者までには至っていない。
物語前半に出てくるこの文章に深く頷きました。他にも、貫多は十七歳を『まだまだ人生の一回裏の攻撃中たる若さ』と位置付け、『人生の逆転のチャンスはいくらでもあろうから、この段階での敗北は決して認めるものではないが、』と考えたりしています。
ほんの一つの小さな失敗、数年経てば笑い話にできるような失敗でも、人生の失敗と受け止め、前に進む足を止めてしまう十代の子はたくさんいます。そんな子たちにこそ、この物語を読んでもらいたい。そんなふうに願います。
物事にはこんな捉え方もあるのだと、勇気付けたい一心で物語を届けようと思っても、受け取り手の心境によっては、所詮物語じゃないか、と一蹴されてしまうことが多々あります。しかし、私小説にはそれを凌駕する力があると思います。
十七歳の失敗は人生の失敗ではない。
この物語を通じて貫多が私に教えてくれたことが、どうか、もっとこの言葉を必要とする人たちのもとに届きますように!
こういうことを伝えられるテレビ出演なら、大歓迎で受けるのに――。
書誌情報はこちら≫西村賢太『蠕動で渉れ、汚泥の川を』
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