ああ、なんということだ。上田秀人の「表御番医師診療禄」シリーズが、第十三弾となる本書で、ついに完結してしまった。適度な長さでシリーズを完結させることが、作者の美点だと分かっている。分かっているが、これで矢切良衛の活躍が見納めかと思えば、寂しくてならないのだ。しかし泣き言をいっても無駄なこと。このシリーズがどれほど面白かったかを伝えて、別れの挨拶としよう。
まずシリーズの全体像を振り返ってみたい。主人公は、表御番医師として、江戸城中で診療をしている矢切良衛。幕府典薬頭の今大路兵部大輔が、その才能を見込んで娘婿として取り込んだ、外道医(外科医)である。
徳川五代将軍綱吉の治世。江戸城内で大老の堀田正俊が若年寄の稲葉正休に斬殺された一件に不審を抱いた良衛は、真相追求のために動き始める。これにより陰謀に巻き込まれ、命を狙われた良衛だが、医師の知識と代々受け継いできた戦場剣法を組み合わせ、相手の急所を狙う独自の剣によって斬り抜けた。そして騒動は落着したのだが、幕閣の権力者から、その能力に目を付けられるのだった。というのが第一弾『切開』及び第二弾『縫合』の粗筋だ。ここまでがプロローグといっていいだろう。
以後、医師としての強い信念を持ちながら、権力者の走狗にならざるを得なかった良衛は、大奥を巡る陰謀でも活躍。褒美として綱吉から長崎遊学を許される。しかし西への旅路や長崎でも騒動は絶えない。ちなみにこの長崎篇を執筆していた頃、作者は地方に注目していた。他のシリーズでも、地方を題材にしたものが見受けられる。作者の関心領域を示すポイントとして指摘しておく。
さて、長崎から戻った良衛は、和蘭陀の産科の秘術を期待され、綱吉直々に、大奥の担当医を命じられる。目的は綱吉の寵姫であるお伝の方を懐妊させることである。さまざまな思惑の渦巻く江戸城で、お伝の方の診察を続ける良衛。しかし将軍家の血を絶やそうという何者かの陰謀にかかわり、何度も死闘を繰り広げることになるのだった。
ここまでの流れを受けて、本書では陰謀の全貌が明らかになる。いったいなぜ、将軍家の血を絶やそうという、恐るべき暗躍が長年にわたり続いていたのか。本書の終盤で暴かれた、一連の騒動の原因は、驚くべきものであった。上田作品を読むたびに思ってしまうが、よくもこんなことを考えるものである。シリーズの愛読者も納得の、サプライズが堪能できた。
しかも作者はこの着想を、十全に生かしている。二代将軍秀忠から五代将軍綱吉まで。徳川家の歴史と突き合わせる形で、巨大な陰謀を創り出したのだ。秘事に秘事が重なり、もうひとつの徳川家の歴史が組み立てられる。その果ての深い闇に、良衛が挑むことになるのだ。これは凄い。凄すぎる。独創的な着想を基にした歴史の再構築に、興奮せずにはいられない。上田作品の楽しみが、ここに極まっているのだ。
さらにいえば、この陰謀そのものが、作者が一貫して追究しているテーマとなっている。それは〝継承〟である。第十二弾『根源』で、将軍家御台所の鷹司信子に「将軍の仕事でもっとも大切なものはなんじゃ」と聞かれた良衛は、
「代を継がれることだと存じあげまする」
と、答えている。自分の血を繋げたいというのは、生き物の本能であろう。だから子供や孫のために、家を栄えさせようとする。出世を渇望する原因も、煎じ詰めれば、ここにあるといっていい。上田作品では、主に武士を通じて、それが活写されている。しかし私たちの心のどこかにも、同じ思いがあるのだ。だから作品に熱中できるのである。
もちろん上田作品の魅力である、チャンバラにも抜かりはない。因縁の相手である、中根新三郎率いる漂白衆(この中根家と漂白衆の関係だけで、長篇になるだけの設定が使われている。なんという贅沢だ!)と、いよいよ雌雄を決するのだ。作者は小冊子「100冊突破! 上田秀人全作品ブックガイド」に掲載されたインタビューで、良衛のチャンバラについて、
「第六肋骨と第七肋骨の間を狙うと心臓が斬れますよとか、左鎖骨部で大動脈弓が斬れますよとか。そういうのはこのシリーズならではですね」
と、語っている。そんな医師にして剣豪という良衛のチャンバラに、ワクワクしてしまうのだ。とはいえ太平の世に慣れた漂白衆は、心も腕も錆びついている。対決シーンが、あっさりしていると思う読者がいるかもしれない。しかしそこに作者の狙いがある。漂白衆が走狗なら、良衛もまた走狗。だが恩義に縛られ思考停止したままの漂白衆に比べ、良衛は己の意志を持ち、命を賭けてきた。力に差があるのは当然なのだ。その違いから良衛の魅力が、あらためて匂い立つ。本書の対決シーンには、このような意図が込められているのではなかろうか。
なお本書の「あとがき」で作者は、内科医の開業医だった母親の思い出を書いている。もしかしたら、患者のために尽くした昭和の医師である母親の姿も、良衛に投影されているのだろうか。勝手な想像だが、医師としての強い信念を持つ良衛は、作者にとって特別な主人公に思えてならない。
最後に、本書のタイトルについて触れておきたい。シリーズ完結篇のタイトルが『不治』とは、なにやら不穏である。しかしこれは、権力の座を巡る争いが、これからも尽きることがない――すなわち不治の病であることを慨嘆する、終盤の綱吉の言葉に由来している。作者のテーマである〝継承〟の、負の側面を表現していると考えれば、味わい深いものがある。
ところで不治の病は、好きな物や趣味などを語るときに使うこともある。ならば上田秀人は、文庫書き下ろし時代小説ファンにとって、不治の病といえるだろう。一冊読み終わって満足しても、すぐに次の作品が読みたくなる。だから本書を堪能しながら、次の新たなシリーズを期待してしまうのである。
書誌情報はこちら≫上田秀人『表御番医師診療禄13 不治』
>>シリーズ特設サイト
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