【新連載 真藤順丈「ビヘイビア」】技能実習生の女性が、謎の死を遂げた。移民国家・日本の様相を直木賞作家が描く!#1-1
真藤順丈「ビヘイビア」
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Prologue
こんな夜に、こんな縁もない土地で、街の灯も差さない路上になぜ彼女は身を投げたのか。身分証の
通報したのは、新宿区
思いつくかぎりで、もっとも悲しい出来事。
戻れない過去の傷を
あるいは見てもいないのに、網膜から消えない無慈悲な風景の残影。
彼女のふるまいがたどりついた結果は、おなじ境遇の人々にとってそれらと同様のものになっていく。遠い記憶に思いをはせ、
それは、ただの転落事故や投身自殺ではなかった。
在留カードに記された名前は──
シトラ・ヴァルヴァノワ。
ウズベキスタンの国籍を有する二十六歳。在留資格は〈技能実習〉だった。滞在を許可されているのは四年と三ケ月で、その期限は二ケ月前に切れていた。いわゆるオーバーステイ、非正規滞在に該当する外国人だった。
現場を
「シトラ、か」
初見では、自殺か事故の線が強かった。地域課の警官たちが現場を保存し、鑑識課の人員も立ち働いている。聞きこみや関係者への連絡をすませて
「受け入れ先は、半年ほど前に逃げたきり
「よくある失踪か。この娘なら男の家に転がりこむのも難しくなかっただろうな。名義人との連絡はついたのか」
「そっちはまだです。
阿仁屋と黒瀬は、シトラの最後の足取りをさかのぼった。
廊下のどんつきには非常階段があったが、シトラはその階段で下りなかった。
脱げたサンダルの片方は、廊下の
「おいおい、こりゃなんの血だ」
施錠されていない七〇六号室に踏みこんだ刑事たちは、雑然と散らかって家具調度も乏しい1LDKで、甘ったるさと酸っぱさの混ざった異臭を
「こんな子、どこから」
どこから出てきたの、とシーツを
強行犯捜査係に配属されて三年、捜査員として経験したことのない事態だった。
「バカ、赤んぼうが出てくるところなんてひとつしかねえ」
「産んだんですか、ガイシャが?」
「救急だ、急がせろ」
産まれたばかりとおぼしき、新生児がそこにいた。
乾いていない頭髪。握りこぶしのようなちいさな面立ち。
洗濯ばさみで留められた
瞼を閉じて、眠っている。幻想の乳首にすがりつくように
医師でなくてもおのずと見当はついた。あるいはその口や胃袋は、一度も母乳にありついていない。産まれたての
「これって、どういうことですか」
すぐには刑事たちも事の経緯を摑みきれない。眼前の光景は動かしがたい事実であるのに、誰も実感をともなった言葉を吐けない。
シトラは、出産の直後だった。
臨月を迎えても産院に入らなかったのは、オーバーステイだったからか。
マンションの一室に身をひそめて、ここで分娩までしたのか。
そしてその直後に、転落死?
「黒瀬さぁ、出産したばかりの人間ってすたすた歩けるもんかな」
「個人差はあると思いますけど。二人産んだ私の姉は、二度ともしばらくはトイレに一人で行けなかったって」
「産んだ直後に、身投げするなんてこともなあ」
「望んだ出産じゃなかったのかも、だけどそれにしてもですよね」
「サンダル突っかけて一人で出かけようとしたとは考えづらい。すると誰かに連れだされたってこともあるかな」
「で、揉みあったはずみに転落したとか」
「これは、すぐに
断片ばかりの情報と
後日になって、賃貸契約の名義人は
このところ急増している失踪者、不法入国者、非正規滞在者──そうした人々にシェルターのように供されていた部屋であったのかもしれない。事件に
「つまりは一人で産んで、出血も止まってないのにサンダル履きで外に出たわけか。外気にふれようとしてうっかり転落したか、身投げだとしたらひとつの命を生んだ喜びよりも、絶望や
ほどなくして、送り出し機関を通じてウズベキスタンの家族にも
他殺か自殺か事故か、子の父親は? 真相はなにひとつ解かれないままに捜査の規模は見る見る縮小する。一部のジャーナリストが記事にもしたが、もっとも強い反応を示したのは在留外国人、特に技能実習生や留学生たちだった。FacebookやTwitterで事件は共有され、さまざまな
残された子は。
保護された病院で、開きたての目に驚きの色を浮かべて。
あなたは誰、とも、お母さんはどこ? とも思えない。
この世界に、お母さん、という存在があることも知らずに独りぼっちになった。親子という枠組みもない世界に放棄され、やがて物心がついたとき、母親が自分を
ねえ、どうして?
現場となったのは、繁華街も遠くない百人町三丁目、
「おかしでしょ、シトラ……」
わずかな日本語と、それから母国語で、そこにはいないシトラに語りかける。
彼の名は? 顔立ちは無難に整っているが、クラブやパーティーで人目を
彼に名前を
「お兄ちゃん、あの
マンション前の清掃をしていた管理人に、警戒まじりの声をかけられる。
「いまごろ来よったんか、花もなんも片づけてもうたで」
「たくさんあったよ、仕事がたくさん」
「飛び降りなんてなぁ、あんなちっちゃい子を遺して」
「それ、どこの子」
「ああ、なんて?」
「ちがった。その子、どこいますか」
「ちゃんと保護されたはずやで、病院の新生児室におるやろ」
言語の壁はある。拍子外れに相手に黙られて、管理人は会話の嚙みあわせを摑めない。
「さては兄ちゃん、あの子の父親とちゃうか。飛び降りた娘の
わかるか、オトコやオトコ。アー・ユー・ハズバンド? 関西出身の管理人にあれこれと詮索されて口ごもっていた男は、聞こえへんわ、なんやて? と近寄ってきた管理人に眼差しをもたげて、
「それは、言えねえ」
おざなりに吐き捨てると、素早く
夕暮れの雲が動いて、道は色褪せた
シトラ・ヴァルヴァノワは死んだ。遅れて
現代のこの国では何があっても、どんなに無常で不可解なことが起こってもおかしくはなかった。そう、何があっても。
>>#1-2へつづく
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※「文芸カドカワ」2019年7月号収録「ビヘイビア」第 1 回より(登場人物名の表記を雑誌掲載時から一部変更しました)。