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連載

真藤順丈「ビヘイビア」 vol.1

【新連載 真藤順丈「ビヘイビア」】技能実習生の女性が、謎の死を遂げた。移民国家・日本の様相を直木賞作家が描く!#1-1

真藤順丈「ビヘイビア」

Prologue

 こんな夜に、こんな縁もない土地で、街の灯も差さない路上になぜ彼女は身を投げたのか。身分証のまし顔は、隠しきれない命の精彩と恵み深い知性を伝えているのに。路面に横たわったその顔は、頰もけ、黒髪や肌は脂気を欠き、目の下には焼きごてでつけたような濃いくまがあった。色せたパジャマをまとったなきがらは熱を失い、がいはそのほうごう線もろとも割れ崩れていた。
 通報したのは、新宿区ひやくにんちようのおなじマンションに住む派遣社員だった。「たぶん飛び降りです」と彼は交換手に告げた。深夜にもかかわらず人が集まってきて、赤色灯のまだらな灯がその横顔を照らしだす。の飾りがついたサンダルの片方は、マンションの七階の外廊下に転がっていた。建物の周りの植栽に転落したかたちだが、頭だけはアスファルトの舗道にはみ出していた。あともう少し建物寄りに落ちていたなら助かったかもしれないと現場を見た検視官はつぶやいた。
 思いつくかぎりで、もっとも悲しい出来事。
 戻れない過去の傷をうずかせる歌の一節。誰かの言葉。
 あるいは見てもいないのに、網膜から消えない無慈悲な風景の残影。
 彼女のふるまいがたどりついた結果は、おなじ境遇の人々にとってそれらと同様のものになっていく。遠い記憶に思いをはせ、まぶたの裏にその像を重ねて、わけもない悲憤や飢渇にさいなまれる。その不慮の死は、新世界で降りかかる災難の象徴とされ、すべての兄弟姉妹を待ち受ける終わりの日のしるべとなるのだ。
 それは、ただの転落事故や投身自殺ではなかった。

 在留カードに記された名前は──
 シトラ・ヴァルヴァノワ。
 ウズベキスタンの国籍を有する二十六歳。在留資格は〈技能実習〉だった。滞在を許可されているのは四年と三ケ月で、その期限は二ケ月前に切れていた。いわゆるオーバーステイ、非正規滞在に該当する外国人だった。

 現場をあらためながら、なおゆきは言った。
「シトラ、か」
 初見では、自殺か事故の線が強かった。地域課の警官たちが現場を保存し、鑑識課の人員も立ち働いている。聞きこみや関係者への連絡をすませてくろれいが戻ってくる。家賃も決して安くないこのマンションの一室でシトラは起居していたようだ。技能実習が終わっても帰国せずに、誰かと同居していたのだろうか。
「受け入れ先は、半年ほど前に逃げたきりゆくが知れなかったって言ってます」
「よくある失踪か。この娘なら男の家に転がりこむのも難しくなかっただろうな。名義人との連絡はついたのか」
「そっちはまだです。げんの線もありますかね」
 阿仁屋と黒瀬は、シトラの最後の足取りをさかのぼった。
 廊下のどんつきには非常階段があったが、シトラはその階段で下りなかった。
 脱げたサンダルの片方は、廊下のさくの内側に転がっていた。そこから七〇六号室までの間に、少量ながら血の跡が見られた。足をひきずり、途中で尻餅をついた形跡もあって、その部分はなすったように赤いすじがかすれている。塗料だまりがうろこ状にささくれた壁面のはしばしには、血の色の指紋もこびりついていた。
「おいおい、こりゃなんの血だ」
 施錠されていない七〇六号室に踏みこんだ刑事たちは、雑然と散らかって家具調度も乏しい1LDKで、甘ったるさと酸っぱさの混ざった異臭をいだ。室内のそこかしこが血に染まっている。寝室ではシーツにくるまったまゆだまのようなかたまりが、かすかに布の表面を波打たせていた。
「こんな子、どこから」
 どこから出てきたの、とシーツをめくった黒瀬がとつに口走った。
 強行犯捜査係に配属されて三年、捜査員として経験したことのない事態だった。
「バカ、赤んぼうが出てくるところなんてひとつしかねえ」
「産んだんですか、ガイシャが?」
「救急だ、急がせろ」
 産まれたばかりとおぼしき、新生児がそこにいた。
 乾いていない頭髪。握りこぶしのようなちいさな面立ち。
 洗濯ばさみで留められたさいたい。黒くこごった胎便が全身にこびりついている。
 瞼を閉じて、眠っている。幻想の乳首にすがりつくようにくちをすぼめている。
 医師でなくてもおのずと見当はついた。あるいはその口や胃袋は、一度も母乳にありついていない。産まれたてのみどりはおそらく。すぐにシトラのほうにもぶんべんの跡が確認された。
「これって、どういうことですか」
 すぐには刑事たちも事の経緯を摑みきれない。眼前の光景は動かしがたい事実であるのに、誰も実感をともなった言葉を吐けない。
 シトラは、出産の直後だった。
 臨月を迎えても産院に入らなかったのは、オーバーステイだったからか。
 マンションの一室に身をひそめて、ここで分娩までしたのか。
 そしてその直後に、転落死?
「黒瀬さぁ、出産したばかりの人間ってすたすた歩けるもんかな」
「個人差はあると思いますけど。二人産んだ私の姉は、二度ともしばらくはトイレに一人で行けなかったって」
「産んだ直後に、身投げするなんてこともなあ」
「望んだ出産じゃなかったのかも、だけどそれにしてもですよね」
「サンダル突っかけて一人で出かけようとしたとは考えづらい。すると誰かに連れだされたってこともあるかな」
「で、揉みあったはずみに転落したとか」
「これは、すぐにたためそうにねえな」
 断片ばかりの情報とに落ちない謎がわだかまっていた。情況からして第三者がからんだ事件性を疑われたが、しかしながらシトラが寝起きしていた七〇六号室からは、鑑識がどれだけまなこになっても他の人物の痕跡は見つけられなかった。指紋も遺留品も組織片も出ない。目撃証言も上がってこない。司法解剖に付された彼女の遺体には、殴られたり揉みあったりした跡も確認できなかった。
 後日になって、賃貸契約の名義人はやすよしつぐという人物だとわかった。ところがこの男自身は、大阪市の淀川区で炊き出しの列に並んでいた。これはいわゆる名義貸しだ。ローンや賃貸契約を結べない人々のために、他者の身分や戸籍を使って契約代行するブローカーが嚙んでいるようだ。契約者のAではなく実際はBが住んでいる、ということが近年では契約違反の実例として挙がるが、契約時の指定口座から賃料は毎月きちんと引き落とされていたようで、そちらの線からもブローカーや契約者を特定することはできなかった。
 このところ急増している失踪者、不法入国者、非正規滞在者──そうした人々にシェルターのように供されていた部屋であったのかもしれない。事件にくみした第三者が浮上してこないとなると、事の次第はいよいよ複雑な様相を呈しはじめる。最後の夜をシトラが一人で迎えていたとすると──
「つまりは一人で産んで、出血も止まってないのにサンダル履きで外に出たわけか。外気にふれようとしてうっかり転落したか、身投げだとしたらひとつの命を生んだ喜びよりも、絶望やえんせい観のほうが重かったってことになるな。将来をうれえて衝動的に跳んじまったか、どちらにしても寝覚めはよくなりゃしねえがな」
 ほどなくして、送り出し機関を通じてウズベキスタンの家族にもいんが届けられたが、老いて困窮した両親は末の娘の急死にえつを漏らしながらも、遺灰や忘れ形見を引き取るためにすぐに来日するのは難しいと返答してきた。
 他殺か自殺か事故か、子の父親は? 真相はなにひとつ解かれないままに捜査の規模は見る見る縮小する。一部のジャーナリストが記事にもしたが、もっとも強い反応を示したのは在留外国人、特に技能実習生や留学生たちだった。FacebookやTwitterで事件は共有され、さまざまなうわさや憶測を呼び、その運命がいたまれ、保護された子を支援するべくクラウドファンディングでの寄付金集めも始まっていた。
 残された子は。
 保護された病院で、開きたての目に驚きの色を浮かべて。
 のぞきこんだ相手に、問いかえす言葉や思考もまだ持たない。
 あなたは誰、とも、お母さんはどこ? とも思えない。
 この世界に、お母さん、という存在があることも知らずに独りぼっちになった。親子という枠組みもない世界に放棄され、やがて物心がついたとき、母親が自分をのこして逝ったことに傷つけられるかもしれない。自分を責め、母親を憎むかもしれない。どうしてぼくを置いていったの。記憶に残るキスも、最初の授乳もしてくれずに──
 ねえ、どうして?

 現場となったのは、繁華街も遠くない百人町三丁目、おうりん大学新宿キャンパスと百人町ふれあい公園のすぐそばのマンションだった。路上にたむけられた献花もやがてしおれてこうべを垂らし、甘い腐臭を放つ花弁はかびをまとい始める。それらが撤去され、あらためて路面が水洗いされる午後の遅い時間に、どこからともなく現われて、彼女が越えた七階の柵をじっと見上げる男がいた。
「おかしでしょ、シトラ……」
 わずかな日本語と、それから母国語で、そこにはいないシトラに語りかける。
 彼の名は? 顔立ちは無難に整っているが、クラブやパーティーで人目をくほどではない。身長は一七五センチメートル、瘦せ形、使いこんだフライパンのような色合いの革のブルゾンをまとっている。政府の方針にそぐわずに移民国家となった日本ではエキゾチックでもなんでもなくなった彫りの深い目鼻立ち、黒目をとても素早く往復させて、品のよいたかのように現場を見回しているが、もたげられた瞳は感傷にうるみ、自身のとがった肩を両手でぜつけていた。
 彼に名前をたずねる者はあまりいない。他の外国人たちと同様に無名の存在だが、ここで亡くなったひととおなじ国の出身ではあった。筋肉質だが細すぎる体をときおりかがめて、足元のナイキのスニーカーが爪先に探り当てる遺留品はないか、持ち帰れるシトラ・ヴァルヴァノワの形見はないものかと目を皿にしている。だけどそんなものはどこにも見当たらなくて──
「お兄ちゃん、あのの友達かいな」
 マンション前の清掃をしていた管理人に、警戒まじりの声をかけられる。
 すいされているのを察するまでに、数秒のタイムラグが生じる。
「いまごろ来よったんか、花もなんも片づけてもうたで」
「たくさんあったよ、仕事がたくさん」
「飛び降りなんてなぁ、あんなちっちゃい子を遺して」
「それ、どこの子」
「ああ、なんて?」
「ちがった。その子、どこいますか」
「ちゃんと保護されたはずやで、病院の新生児室におるやろ」
 言語の壁はある。拍子外れに相手に黙られて、管理人は会話の嚙みあわせを摑めない。
「さては兄ちゃん、あの子の父親とちゃうか。飛び降りた娘のコレやないのか」
 わかるか、オトコやオトコ。アー・ユー・ハズバンド? 関西出身の管理人にあれこれと詮索されて口ごもっていた男は、聞こえへんわ、なんやて? と近寄ってきた管理人に眼差しをもたげて、
「それは、言えねえ」
 おざなりに吐き捨てると、素早くきびすを返して、濡れた路面で足を滑らせながらもたきばし通りの方角に駆け去った。現場から遠ざかってもマンションをくりかえしふり仰ぐ。おかしでしょシトラ、おかしでしょ、と唱えながら。
 夕暮れの雲が動いて、道は色褪せたたそがれを貫いていた。涙のなかで風景がゆがみながら分裂する。探しにきたものは見つからず、ただそこには一人の外国人が、オーバーステイの実習生が転落死を遂げた、その事実がごろりとほうりだされているだけだった。
 シトラ・ヴァルヴァノワは死んだ。遅れてちようもんに現われたのは頭のよい男だったが、それでもひとつだけ間違っている。
 現代のこの国では何があっても、どんなに無常で不可解なことが起こってもおかしくはなかった。そう、

>>#1-2へつづく
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「文芸カドカワ」2019年7月号収録「ビヘイビア」第 1 回より(登場人物名の表記を雑誌掲載時から一部変更しました)。


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