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連載

綾崎 隼「盤上に君はもういない」 vol.5

史上初の女性プロ棋士になるのは誰か?棋士を目指す者たちの静かで熱い青春譜‼ 綾崎 隼「盤上に君はもういない」#1-5

綾崎 隼「盤上に君はもういない」

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 その会見は、人々の好奇心が最高潮に達したタイミングでおこなわれた。
 会場は帝国ホテル。
 棋界の分岐点となる会見とはいえ、幾ら何でも集まり過ぎではないだろうか。
 ワールドカップで優勝し、後に国民栄誉賞を受賞した、なでしこジャパンの凱旋会見でも、ここまでの報道陣は集まっていなかった気がする。
 将棋界はしばらくの間、現役最強の名人でも、りゆうおうでも、最年少棋士の竹森稜太でもなく、彼女を中心に動いていくことになるのかもしれない。
「あれ。飛鳥? どうしてここに?」
 記者会見が始まる三十分前。
 会場でばったり飛鳥と出会った。マスクと眼鏡のせいで周りの報道陣には気付かれていなかったが、私には一目で分かった。
「亜弓さん。私のことは内緒ね」
「飛鳥、千桜四段と友達だったっけ?」
 あの日の対局を通して、ライバル的な友情でも芽生えたんだろうか。
「人生でさ、一番悔しかったんだよね。子どもの頃から散々負けてきたけど、弱い自分にあんなに腹が立ったのは初めてだった。でも、同時に思ったの。私はこうやって自分への怒りを糧に強くなっていくんだろうなって。だから今日の会見を生で見たいって思った。もう一度、はらわたが煮えくりかえるような悔しさを経験して、絶対に強くなろうって」
 それは実に飛鳥らしい言葉だった。
 どんなに強い棋士も、敗北を知らずには成長出来ない。史上最強の棋士でも生涯勝率で言えば、八割を維持出来ない世界だ。
 負けを血肉に出来ない棋士は、大成しない。
「きっと、あなたの無念も背負って、千桜四段は順位戦を戦うわ。だから頑張って追いつこう。二人目の女性棋士は飛鳥しか有り得ない」
「リベンジするよ。千桜さんに勝てないようじゃ、目標の達成なんて夢のまた夢だ」
「飛鳥の目標は、もっと高いところにあるもんね」
「うん。いつか、お祖父ちゃんと同じ飛王のタイトルを取る。それまでは死ねない」

 午後二時。
 海外の記者を含む、三百人を超える報道陣の前に、師匠に伴われた千桜夕妃が現れた。
 三段リーグの最終日、テレビ中継が入っていた対局でも、彼女は地味なブラウス姿だった。あんなに注目を浴びた一日ですら普段着だったのだ。身なりに無頓着なのだろうと思っていたが、今日は着物に身を包んでいた。
 彼女が纏うのは、紫を基調とした艶やかなちようが舞う着物だ。普段から化粧っ気のない彼女だけれど、今日は目の下に隈を作っていない。唇も青ざめていない。入院を経て、体調は回復したようである。
 千桜夕妃の儚げながらもしい佇まいに、報道陣たちから溜息が零れ落ちていた。
 まぶしそうにフラッシュをけながら、彼女は朝倉七段と共に壇上に着席する。
 彼女を取り巻く熱狂とは裏腹に、記者会見は穏やかに進んでいった。
 その低く落ち着いた声で、千桜四段は将棋を始めたきっかけや、自らの身体について簡潔に話していく。
 生まれつき肺に問題を抱えていた彼女は、幼少期、二十歳まで生きられるかどうか分からないと言われていたらしい。小学校に入学して一週間もしない内に入院することになり、そのまま四年生の秋まで病院で暮らしていたという。
 学校に通えないことはつらい。それでも、幸運だったのは、人生をささげるに値する盤上遊戯と出会えたことだった。
 入院してすぐに千桜夕妃は将棋と出会い、あっという間に夢中になる。
 将棋が強い入院患者がいると聞けば、点滴を引きずって会いに行った。両親には差し入れとして教本をねだり、日進月歩で棋力を増していく。
 時代も良かった。インターネットがあれば、身近に対局相手が見つからない日でも、対人将棋を指すことが出来たからだ。
 楽しかった。指せば指しただけ、勉強すれば勉強しただけ強くなれる。
 三年半の入院生活を通して、千桜夕妃はすっかり将棋のとりことなっていた。ところが、
「棋士になりたいという夢は認めてもらえませんでした」
 素晴らしい日々が退院によって終わったというのは、ある意味、皮肉な話だろう。
「私の一族は、ほとんどが医者で、父も総合病院を経営しています。長女である私は、後を継ぐよう期待されていました。ですが、私はどうしても棋士になりたかった。夢を嚙み殺すことは出来ませんでした」
 将棋の家に、将棋の子として生まれた諏訪飛鳥。
 医者の家に、医者の子として生まれた千桜夕妃。
 二人が選んだ人生を思えば、恵まれていたのがどちらかは一目瞭然だ。
「両親は私がいつか諦めると考えていたようです。ですが実力不足のらくいんを押される以外の方法で、情熱が冷めることはありませんでした。中学三年生で家を出た私が、棋士を目指せたのは、朝倉先生のお陰です。師匠にはどんなことをしても返せないだけの恩があります。若い私を、奥様もいる家に内弟子として引き取り、今日まで育てて下さいました。師匠と奥様に恥じない将棋を指すことが、棋士としての最初の目標です」
 朝倉恭之介七段は、もうすぐ五十歳になろうかという棋士だ。彼はまなの言葉に、穏やかな微笑をたたえて耳を傾けていた。
 彼女の話が終わり、会見は質疑応答へと切り替わる。
「千桜四段はこれまでも休場を繰り返してきました。ずっと秘密にされていた肺の問題を、このタイミングで公表されたのは何故でしょうか?」
「どんな事情を抱えていようと、盤上では対等です。これまで秘してきたのは、同情されたくなかったからです。しかし、今後は私が休場すれば、不戦勝となる棋士が生まれます。一勝の重みは分かっているつもりです。他の棋士に与える影響を考えれば、休場の理由を黙し続けることは不誠実であると考えました」
 体調の問題を告白し、得することはない。
 千桜夕妃は異常な早指しをする棋士である。彼女を昔からよく知る連盟の人間でも、秒読みまで時間を使っている姿は、ほとんど見たことがないらしい。体力がないことを自覚しているからこそ、短時間で勝負を仕掛けているのだろう。
 ただ、これからは対局での持ち時間が大幅に増える。レギュレーションは大会によって異なるものの、棋士と奨励会員では、平均的な持ち時間が倍以上違う。時間をたっぷりと使われ、体力の消耗を狙われたなら……。
「朝倉七段に恩返しをしたいと言っていましたが、具体的なプランがあるようでしたら教えて頂きたいです」
 別の記者から新しい質問が飛ぶ。
「タイトルを取ること。これに勝る恩返しはないと考えています。子どもの頃、公開対局で竜皇戦を見ました。朝倉先生と知り合ったのも、その会場です。私にとっては思い出に残る、本当に特別なタイトルなんです。だから一番欲しいのは竜皇のタイトルです」
『竜皇』は『名人』と並ぶ、将棋界最高峰のタイトルだ。
 現在、将棋界には八つのタイトルが存在しているが、最も獲得が難しいのは、棋士の命とも言える名人である。全棋士が参加する順位戦で勝ち上がり、トップであるA級棋士にならなければ、そもそも挑戦出来ないからだ。
 四段になった棋士は、C2リーグに所属することになる。その後、C1、B2、B1と昇格してA級に上がり、リーグ戦に優勝して初めて、現名人と戦うことが出来る。最短でも五年はかかるし、そもそもA級棋士になれる人間など、ほんの一握りだ。
 では、そんな名人と並び称される『竜皇』とは何なのか。
 名人戦に次いで長い歴史を持つ竜皇戦は、八つのタイトルの中でナンバーワンの優勝賞金を誇っている。加えて参加者も多様だ。棋士はもちろんのこと、女流棋士四名、奨励会員一名、アマチュア選手五名にも参加権があるため、その一年だけ地球上で最強であれば、どんな人間でも優勝出来る。
 予選はノックアウト方式だから、すべての対局相手に一度だけ勝てば良い。レギュレーションまで考慮すれば、新人棋士がいきなり優勝出来るような大会ではないものの、理論上は一年目から狙えるタイトルだ。
 借りている会場の時間の関係で、記者会見はもうすぐ終わる。
「次で最後の質問とさせて頂きます」
 そんな言葉の後で、司会者に指名されたのは、幸運にも私だった。
「経朝新聞の佐竹亜弓です」
 時間の関係で質問は一つだけにして欲しいと言われている。
 聞きたいことは山ほどあったが、たった一つ、最後に質問するならば、
「千桜四段には肉体的に大きなハンデがありました。女性だからという意味ではありません。体調不良による休場があまりにも多いという意味です。本当に苦しい戦いを続けてこられたと思います。大きなハンデを背負いながら、二十六歳まで心を折らずに、戦い続けられた最大の理由は何でしょうか?」
 私の質問を受け、千桜夕妃の顔に穏やかな微笑が浮かんだ。
「私は将棋と院内学級で出会っています。将棋の楽しさを教えてくれた友達は、心臓に問題を抱えていました。だから最初から当たり前だったんです。今更、身体が弱いことをハンデだなんて思いません」
「千桜四段に将棋を教えてくれたという友達は、やはり棋士か女流棋士に?」
「いえ、なっていません」
「アマチュアで活躍されているということでしょうか?」
「分かりません。小学校以来、会っていないので」
「そのお友達が、会見を見ていてくれたら良いですね。良かったら、お名前を聞かせて頂けませんか?」
「アンリです」
「その方は小学生の頃、千桜四段と同じくらい強かったんですか?」
「当時は私より強かったと記憶しています」
 私が女性最強と信じた飛鳥を破った彼女よりも、さらに強い女性がいるということだろうか。
 千桜夕妃のルーツに連なる少女。それは一体、どんな人物なのだろう。
 会見が終わったら、過去の小学生将棋大会を調べてみようと思った。
「そのご友人も千桜四段の活躍に、心を躍らせると思います。今は社会人から棋士になるための方法もあります。いつか彼女も棋界に現れると思いますか?」
「質問は一つでお願いします。そろそろ時間ですので、記者会見はこれで……」
 遮った司会者を手で制し、千桜夕妃が再度、口を開く。
「何処にいるかは分かりません。ただ、もしも生きているなら、将棋を指していると思います。私が竜皇になれば、きっと、気付いてくれる。そう信じています」

 帝国ホテルで記者会見が開かれたあの日、誰もが彼女の未来に夢をせた。
 将棋を知っている者なら、竜皇になりたいという彼女の言葉が、今はまだ身の丈に合わないものであることも分かったはずだけれど、タイトルが欲しいと言い切った彼女がどれだけやれるのか、本当に楽しみになったはずだ。
 千桜夕妃のプロデビュー戦は、順位戦、C級2組の初戦と決まっている。
 日本中が注目する棋士の船出の一局には、再び異例とも言える地上波のテレビ中継が入ることになった。
 過度の注目はプレッシャーとなる。世の中には注目を力に変えられる棋士もいるが、千桜夕妃はそういうタイプには見えない。世間の好奇心とマスメディアの節操の無さ、何より将棋連盟の期待が、金の卵を産むガチョウを殺さなければ良いが。
 順位戦の開幕が近付くにつれ、私は日増しに不安を募らせるようになっていった。
 この二年間、あんなにも飛鳥に夢中だったのに、私の中の好奇心は、急速に千桜夕妃へと向かい始めている。
 知りたい。その過去も、現在も、これからの軌跡も。
 彼女の歩んできた人生を思う時、六歳も年下だなんて信じられなくなる。
 私は会社を辞めた時、二十九歳だった。
 人生の岐路に立っていたあの頃、解放感と共に、漠然とした不安をいつだって抱えていたように思う。一方で、新しい船出を迎えたあの日、千桜さんの立ち居振る舞いは、泣きたくなるほどに威風堂々としたものだった。
 千桜夕妃の人生は、将棋の子である飛鳥とはまるで違う。夢を両親に反対され、肉体にかんなんしんを抱え、困難ばかりの人生だったはずだ。
 それなのに、どうして、あんなにも敢然と戦えたのだろう。
 彼女が描いていくだろう棋士人生を、私が一番に記事にしたい。
 人々に私の手で伝えたい。そう心の底から、願っていたのに……。
 迎えた運命のデビュー戦、千桜夕妃は対局の会場に現れなかった。

      9

 記者として不適切だという自覚はあるが、言わせて欲しい。
 今や伝説となったあの三段リーグで、私は諏訪飛鳥に肩入れしていた。妹のように思っている彼女に勝ち上がって欲しいと、最終戦まで願っていた。
 将棋の家に生まれた飛鳥ですら、「女は棋士になれない」と一万回は言われてきたという。女の分際で、永世飛王である祖父のようになりたいだなんてそんだと、心ない言葉を散々かけられてきた。それでも、結果で見返せば良いと耐えてきた。
 青春のすべてを賭けて努力を積み重ね、あの戦いに赴いた飛鳥の夢は、あの日、もう一人の女性によって打ち砕かれた。
『史上初の女性棋士』の栄光は、永遠に飛鳥の頭上に輝かない。飛鳥より十年早く生まれた千桜夕妃が、十年分のアドバンテージを生かし、競り勝ったからだ。
 結果は結果である。その勝利を認めないわけにはいかない。祝福だってしよう。
 悔しいけれど、千桜夕妃もまた、女の身体で棋士の世界に挑んだ勇者なのだから。
 だけど、だけどである。気丈に振る舞う飛鳥が、あの日の敗北にどれだけショックを受けたかを、私は知っている。だからこそデビュー戦で失踪した彼女が許せなかった。
 死ぬ気で目指した場所じゃなかったのか?
 竜皇になりたいと言った、あの言葉はうそだったのか?

 千桜夕妃は二戦目にも現れなかった。
 そして、三戦目の前日、師匠の朝倉七段が、彼女の休場届を将棋連盟に提出する。
 再び入院が必要になったため。朝倉七段はそう説明したというが、将棋連盟の役員たちがどれだけ尋ねても、彼女の入院先は明かされなかったらしい。
 朝倉七段は何かを隠している。私も、連盟の人たちもそう感じていた。時の人ではあるものの、身内である将棋連盟にまで居場所を秘密にする理由がないからだ。
 謎の失踪を遂げた新時代のヒロインの行方を、マスメディアは追い始める。だが、その行方はようとして知れず、一ヵ月が経っても、半年が経っても、一年が経っても、千桜夕妃は姿を現さなかった。

 飛鳥はその後におこなわれた三段リーグで、四位と五位に終わり、三期続けて四段昇段を逃している。
 人々が待ち望む女性棋士の初対局は、あれから一年が経っても実現していなかった。
 あまりにも情報がないせいで、世間では千桜四段が死んだのではないかという噂すら立ち始めている。三段リーグの最終日に晒された、顔色の悪さや重たい咳を思えば、根拠の薄弱な噂ですら、しんぴようせいを持ってしまう。
 一年前のあの日、誰もが将棋界に革命が起きたと思った。
 新時代の幕開けを見たと思った。
 しかし、そんなことはなかった。
 千桜夕妃は失踪し、将棋界は何一つ変わっていない。
 許せなかった。恨めしかった。
 言葉も残さずに逃げるなら、あの日、どうして飛鳥に勝ったんだ。
 逃げるなら、消えるなら、未来を若い飛鳥に託して欲しかった。

「また、あなたですか。仕事帰りに待ち伏せするのはやめて下さい」
 新潟市ちゆうおうふるまち
 とうおう医療大学の職員駐車場で、私は一人の男の前に立っていた。
 すぐ近くに海があるのだろう。風に運ばれてきた潮の匂いが鼻をつく。
「教えて欲しいんです。お姉さんが何処に消えたか、本当は知っているんでしょう?」
「しつこいな。佐竹さんでしたっけ。俺、何度も答えましたよね」
 この大学病院に勤務する研修医である彼の名は、千桜智嗣。
 既に奨励会は退会しているが、元二段にして、あの千桜夕妃の弟だ。
「彼女の足取りを知っていそうな人間は、もうあなたしかいないんです」
「だから何も知りません。姉の行方を知りたいのは、こっちの方だ」
 苛立つように彼が吐き捨てる。
「お願いします。私はお姉さんのことが知りたいんです。もしもお手伝い出来ることがあるなら何でもします。新潟にだって何度でも来ます。教えて下さい。彼女は、千桜夕妃四段は、一体どんな人だったんですか?」
 深い溜息の後で、彼の口から零れ落ちたのは、たった一言だった。

「姉のことは、きっと、誰にも分かりません」

(このつづきは「カドブンノベル」2020年3月号でお楽しみください)


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