「生まれる森」は二〇〇三年の夏、島本理生が大学在学中に執筆された。二〇〇三年の夏といえば私もまた大学生で、そして初めて小説に深く触れた時期でもあった。この夏、私は杉林の中にある大学図書館で、戸外から響いてくる蝉の鳴き声を聞きながら、せっせと本を読んでいた。閉館時間になると、夕暮れの杉木立の舗道を歩き、大学キャンパスを横断して帰る。当時はまだiPhoneもなかったので、MDウォークマンで音楽を聴きながら歩いた。それは例えば、オアシスであったり、レディオヘッドであったり、ウィーザーであったり、リンキン・パークであったりした。
〝受験の後もしばらく休んでいたわたしがひさしぶりに登校すると、誰もいない教室で、キクちゃんがMDウォークマンを聴いていた〟〝彼はオアシスのCDをかけて、わたしは少しだけ窓を開けた〟こうした記述を懐かしくも思う。そして私が大学図書館でせっせと本を読んでいたとき、彼女は自宅に篭もってせっせと本作を執筆していたらしい。この翌年の夏期休暇中も、私はやはり蝉の鳴き声を聞きながら大学図書館で本を読んでいたが、そのうちの一冊の解説依頼がこれより十余年の後にくるとは、不思議な心地である。
そんなわけで、私にとって「生まれる森」は十余年ぶりの再読になった。おそらく作者も、久しぶりの再読になったのではないだろうか。過去に書いた自分の作品を読むというのは、なかなかスリリングな作業だが、当の私もひやひやしながらの再読になった。子供の頃に読んだ本を大人になってから読むと、死骸のように映ることも、なくはない。再読に至り、私は本書から〇年代の文脈を感じた。八〇年代に生まれて九〇年代に少年少女期を過ごし、〇年代に大人になった世代の持つ共通感覚、あるいは同時代性と言ってもいい。この時代、退廃的な作品が多く生み出されていた。九〇年代後半から、退廃は一種のトレンドだった。本作は〇年代の文脈で書かれてはいるが、しかし退廃を描いた作品ではない。題名こそ〝生まれる森〟とやや不吉だが、むしろ純粋な恋愛小説、あるいは青春小説の側面を持っている。
ある時代が終わった後に、当時を想起して執筆した類いの小説は多くある。名作も多い。〝十七歳の夏〟でも〝少年時代〟でも〝ライ麦〟でも良い。が、本作では書き手も主人公と同じ大学生であるゆえに、内側から内側を描いていく作業になる。ノンフィクションならいいが、小説ならば困難な作業だ。内側に棲む人間が内側と距離を保つことはできない。本作においても、書き手は作品世界との距離に戸惑う。書き手はその戸惑いを、そのままの形で提示する道を選ぶ。スケッチブックにざくざくと鉛筆で素描する書き方を選ぶ。
本作の登場人物は各々が喪失を抱えている。主人公はサイトウの喪失、サイトウは妻の喪失、雪生は母の喪失。そして加世の元彼も、ちょっとした喪失を抱えている。こうした喪失から、抜けだそうとしたり、抜けだせなかったり、抜けだすことを諦めたり、そうした登場人物達が描かれる。彼らの喪失体験は〝森〟と記述される。〝流れていく時間も移り変わっていく季節も、たしかに見えているのに感じることができない、なんだかガラスごしにながめている風景のような気がしていた〟森の中の主人公の少女の感情は、ここから出発する。
〝家族というよりは家そのものに執着のある子供だった〟主人公が、家を出て、夏休みの間、大学の友人の加世のアパートへと移り住む。小田急線の経堂駅から歩いて十五分の場所にある、窓から小学校の校庭とお墓が見えるアパートだ。七月の終わり、高校の友人のキクからキャンプに誘われる。このキャンプで、キクの兄である雪生と出会う。
「赤い光には催淫効果があるっていうから、気分が落ち着くかと思って」 その一言にあっけに取られていたら、雪生さんは煙草を引っ込めた後、わたしの背中に手を伸ばして、ゆっくりと動かした。ワンピースごしに伝わってくる体温が温かかった。彼はそのまましばらく背中をさすっていてくれた。
主人公はこの場面で、おそらく雪生に好意を抱いているが、未だ森の中にいる彼女は、自分の感情に気づけない。ガラスごしに眺め、ガラスごしに体感している。本を貸して貰ったり、ベトナム料理店で食事をしたり、渓谷へ出かけたりと、二人は親しくなっていく。あるいは主人公は、雪生が森を抱えているからこそ、彼に惹かれたのかもしれない。森を抱えたサイトウに惹かれたのと同じように。
「どうしてだかは分かりません。けど、とにかくわたしはあの人が怖かった。好きになればなるほど、あの人も自分も信用できなくなって。どんどん不安定になりました」
予備校講師のサイトウは、主人公の恋人でもあり先生でもあり父親でもある。抱き合ったり、一緒に入浴したり、一晩を一緒に過ごすこともあるが、肉体的な繋がりを持つことはない。サイトウにとって、主人公は恋人であり生徒であり娘でもある。あるいは母親を感じていた可能性もある。
きっと奥のほうに抱えた強い不安が一番身近な人間の心を容赦なく揺さぶるからだ。そばにいると苦しくてたまらないのに、離れようとすると大事なものを置き去りにしているような気持ちになった。
サイトウがどのように育ったかは、作中では語られないが、〝自分の両親はあまり良い親ではなかったという話をしてくれた〟という記述から、恐らくは幼年期に問題を抱えていたことが覗える。主人公は彼を〝ブリキの太鼓〟の主人公だと思う。自分で自分の成長を止めてしまい、成長することも、回復することもできずに、森の中で十年も二十年も過ごすことを余儀なくされた人。
どんなに明るいほうに戻ろうと手を引いても、気がつくと一緒に深い森の中に戻っている、抜け出す努力を放棄したまま大人になってしまったこの人と十年も二十年も一緒にいるなんて冗談じゃないと、そんなふうに心の一番深いところでは、思っていたのかもしれない。
水を吸い込んだ真綿のようにサイトウさんはいろんな不安を抱えすぎていて、強く触れるたびに混乱があふれ出す。彼を少しでも救うことができれば、一丁前にそんなことを思ったりもしたけれど、ひかれればひかれるほど、深みに足を取られていく自分を感じた。
こうした大人を、十八歳の女の子が救い出すには荷が重すぎる。事実、主人公はサイトウとの関係に疲弊し、混乱し、次第に自分を見失い、気づけば深い森の中で迷子になっている。サイトウと雪生は対の関係になっており、サイトウの妻との離別と、雪生の母の死も対になっている。離別や死をきっかけに生まれた森ではあるが、しかし森を形成する樹木は、幼少期から少しずつ育まれていたようにも読める。それは主人公も同じだ。〝森〟とは何だろう。成長することを阻害する要素、あるいは死への連帯とも取れる。主人公はサイトウの喪失をきっかけに、生まれた森、あるいは生まれていた森の中で、迷子になっている自分に気づく。
森の只中から始まった物語は、森の出口で終わる。ラストの鮮やかな、ラグビーの試合の場面だ。〝競技場は立ち眩みがするほど広くて、空が抜けるように高かった。〟〝目を細めて彼を見ると、その背後には透明な空が広がっていた。〟しかし主人公と雪生の未来は未だ約束されていない。それこそ未だ樹木の影の届く位置から、眺めた光景かもしれない。それでも主人公のガラスごしの感情は回復しつつある。〝少しだけ動揺している自分に気付いた〟〝少しずつ速くなっていく鼓動を感じた〟二人の未来は、ラグビーの試合の結果に委ねられる。〝試合開始の合図と共に、わたしたちは少しだけ身を前に乗り出した。〟という記述で、物語は終わる。
再読に至り、この作品の魅力は無垢性にあると感じた。本作で主人公の十八歳の少女は、本気で恋をし、その相手を永久に喪い、深い傷を負う。その一連の感情を素描で語る。書き手も語り手と同じくらいに、無垢であり、幼く、だからこそ危い。〝「君はたぶん、自分で思っているよりも、まわりが思っているよりも、ずっと危ういんだと思う」〟これは殆ど、雪生から作者へ向けられた言葉にも思える。剥き出しの〝無垢〟を魅力と捉えるか、書き手の〝小説上の幼さ〟と捉えるかは、読み手次第であろう。
最後に特に惹かれた場面を挙げる。物語終盤、サイトウと電話越しに最後の会話をしたエピソードが綴られる。〝ちょうどさっき大きな公園の横を通っていて、夜桜が咲いているから少しながめてたところだった〟この後、主人公はサイトウが見た夜の桜を想像し、その光景を共有する。夜の桜というのは、〝森〟と近しいものに違いないが、この場面に不穏な雰囲気はなく、むしろある種の解放がある。〝昨日よりは今日、今日よりは明日、日々、野田ちゃんは成長して生きてる。〟森の中での困難な体験は、主人公の成長でもあり、あるいはサイトウの成長であったのかもしれない。
さて、本書は二度目の文庫化である。今回の文庫化を機に、初めて本書を手に取る読者も多いだろう。〇年代前半から現在に至るまで、時代の文脈はそれほど変わっていない、と私は勝手に思っている。当時の若い世代、つまり夏期休暇中に大学図書館で本書を手にしていた私が、するすると作品世界に立ち入り、ある種の共感を持ったように、現在の若年層の読者も違和感なく本書の世界に入れるだろう。そして本作の本質が〝無垢性〟や〝成長〟にあるのならば、若い世代にこそ読まれるべきであろう。
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