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レビュー

日本最古級の鬼退治を、ネズミ男が解説します。漫画で読む、諸国の奇譚・怪異譚『水木しげるの日本霊異記』

 元興寺とガゴゼ

 元興寺(がんごうじ)と呼ばれる寺は、奈良県に二カ所ある。奈良県高市(たかいち)明日香(あすか)村の飛鳥寺(あすかでら)は、日本の仏教の出発点となった最古の本格的寺院で、「仏法を興す寺」という意で法興寺(ほうこうじ)とも元興寺ともいう。崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)は排仏派の物部守屋(もののべもりや)を倒した翌年、崇峻(すしゅん)天皇の元年(五八八)に法興寺(元興寺)の創建に着手した。大化の改新で蘇我本宗が滅んだ後も重視され、朝廷より官寺と同様の扱いを受けた。
 和銅(わどう)三年(七一〇)の平城京遷都とともに法興寺は旧寺の一部を飛鳥の地に残し、新京には新寺を建て、飛鳥の旧寺を本元興寺と称して、現在も廃寺をまぬがれ安居院(あんごいん)(飛鳥寺)のみを残す。いっぽう新京(平城京)の新寺を元興寺と呼び、東大寺を筆頭とする南都七大寺に組み入れられた。平安京への遷都後、南都(平城京)が衰えるとともに、元興寺も衰退していった。安政六年(一八五九)の火災によって元興寺の大半が焼失した。現在、その法灯を伝えるのは奈良市中院町にある極楽坊(ごくらくぼう)の元興寺と、昭和二年(一九二七)に発掘された大塔(五重塔)跡。そして西新屋町の小塔院だけとなった。

 奈良の元興寺にまつわる鬼は、ガコゼとかガゴウゼ、あるいはガゴジとかガンゴなどの発音で呼ばれ、それが恐しいモノを指す幼児語となって日本全国に知れ伝わったといわれる。また、目や口などを指で広げて鬼の顔のまねをしたり、鬼のような怒り顔をさせたりして、子供を脅したりなだめすかしたりする時にも言う鬼の代名詞でもあった。
 江戸中期の国語辞典『俚言集覧(りげんしゅうらん)』にも、「元興寺(がこじ)、小児をおどす詞。備後福山(広島県福山市)にてはガモウジーという。所によりガコセという。水戸(茨城県)にてはガンゴチという。(中略)奈良の元興寺の面のまねをして子供をおどすなり」、とある。
 元興寺の面とは今の極楽坊が所蔵している「八雷神面」、あるいは「元興神(ガゴゼ)」と呼ぶ鬼面である。大田南畝(おおたなんぽ)の『南畝莠言(ゆうげん)』によれば、聖武天皇一千年御忌(一七五六年)の元興寺御開帳には、霊宝の中にあった古い面が、道場(どうじょう)法師の「一面龍雷五魂八雷変相悪魔降伏」の神像であったとして奇怪な図像を伝え、小児を脅す(ことわざ)に“元興寺に噛ませる”とあるのが道場法師を指すといっている。その姿は竜神および雷神の相を(あらわ)すとされるが、じっさいの鬼面の頭に雷神である竜蛇がまとわりついている。
 道場法師とは道場法師説話で語られる、元興寺の傑僧となった雷神の申し子である。

 敏達(びたつ)天皇の御世(五七二~五八五)のこと、尾張国阿育知(あゆち)片蕝(かたわ)の里(現・愛知県名古屋市中区古渡町ふきん)で、童子の姿をした雷神が、農夫が捧げた金物の杖(雷除けの呪物)によって地上に落ちた。農夫は子供を授かることを条件に雷神を天上に帰らせる。その後、生まれた子供は、頭に蛇を二巻きまとっており、首と尾は後頭部に垂れていた(竜蛇は雷神の姿の一つで、元興神の鬼面の由来になっていると考えられる)。その後、怪力をもつ雷神の申し子は元興寺の童子となり、寺の鐘楼で鐘撞きの小僧を殺害していた幽鬼を退治した。さらに寺の優婆塞(うばそく)(在家の男性修行者)となった童子は、寺の水田の水引きを妨害する諸王をこらしめ、その功によって得度出家がかない「道場法師」と号したとされる。
 近世の伝承によれば道場法師はその後、聖徳太子作という薬師如来像をたずさえて、故郷の片蕝の里に戻り、奈良の元興寺の支院として尾張元興寺を建立したという。平安初期の歴史書『三代実録(さんだいじつろく)』に、元慶八年(八八四)に尾張国分寺が焼亡したとき、朝廷の勅によりその機能を尾張元興寺が代行したとあるので実在した寺であるが、中世以降は衰微、廃寺となり、今の名古屋市中区正木にその跡がある。
 なお道場法師の里帰りを裏づけるかのように、『日本霊異記』に片蕝の里の女で道場法師の孫娘が登場する。僧となった道場法師がいつどこで子孫を残したのかは不明だが、孫娘は道場法師の遺伝子を受けつぎ、人間ではとうていありえない恐るべき怪力を発揮している。

 元興寺極楽坊の真東、春日大社の真南にある新薬師寺には、鎌倉時代に元興寺より移されたという梵鐘(ぼんしょう)がある。重要文化財のこの鐘表面を見ると無数のスリ(きず)がついているが、これは元興寺の鐘楼に夜な夜な現れ、鐘撞きの小僧を殺害した鬼の爪痕であるという。
 この鬼は後に道場法師となる童子に退治された、『日本霊異記』の幽鬼と同一としている。鬼を捕えるため隠れていた童子は、むんずと鬼の頭髪を掴んだままはなさない。夜明け頃まで格闘したすえ、鬼はごっそり頭髪を引きはがされ、血を地面にしたたらせながら逃走した。
 地元には『日本霊異記』にはない、鬼の逃走経路についての伝承がある。それによると鬼の逃げ足は速く、ある辻に逃げ込んだところで見失う。こつぜんと鬼の姿が消え、追って来た童子が不審に思ったので不審ヶ辻(ふしんがつじ)(不審ヶ辻子町)と名づけられたという。その辻の先を行くと、鬼隠(きおん)山または鬼棲山という丘の下の崖っぷちに行きあたる。
 その昔、不審ヶ辻子町の南に隣接する御所馬場町に松浦長者の屋敷があり、この屋敷に忍び込んだ盗人があったが、屋敷の使用人たちに捕えられて、鬼隠山の谷底へ投げ込まれて絶命した。その盗人の怨霊が恐しい鬼になったというのだ。
 元興寺が大火で焼亡する前の古地図を見ると、寺の鐘楼があった場所を基点として、不審ヶ辻および鬼隠山(現在の奈良ホテルが建っている場所)は一直線上にあり、その方位は鬼門(北東)方向にあたる。邪鬼が鬼門方向より来訪するという考えは、日本独自のものであり、奈良時代以降ににわかに信仰されるようになったものである。そもそも『日本霊異記』の道場法師による鬼退治の舞台は、平城京の元興寺ではなく、じつは本元興寺(飛鳥寺)のほうであった。不審ヶ辻伝説は江戸初期の創作らしい。
 平安末の『扶桑略記(ふそうりゃっき)』に、治安三年(一〇二三)十月十九日に奈良の元興寺を訪れた藤原道長が、道場法師が引きはがした鬼の頭髪を見ようとしたがかなわず、かわりに「比和子の陰毛」なる巨大な蔓のごときものを見たとある。全てがまやかしでなければ、真に訪れるべきは本元興寺のほうだったのかもしれない。

 毎年の節分会(せつぶんえ)に極楽坊の元興寺を訪れると、杉本健吉(すぎもとけんきち)画伯の筆になる鬼の絵馬が入手できる。節分なので追儺(ついな)の邪鬼かと思ったら、由来には「元興神」とあり、鬼を退治した雷神の申し子である道場法師だとある。鬼とは恐るべきものの総称であり、雷神もまた鬼の一種であり、降雨をもたらすモノとしては竜神(水神)でもあった。強烈な閃光と雷鳴、落雷の破壊力は、鬼神のしわざであり畏怖の対象であった。
 本元興寺僧義昭の撰録した『日本感霊録(にほんかんれいろく)』は、元興寺中門の四天王とその眷属(けんぞく)であった夜叉の霊験を語るが、四天王は雷神である霹靂神(はたたがみ)を駆使し、夜叉も雷鼓を打ち鳴らす鬼形の雷神として登場する。「元興神」とは寺の護法となった道場法師にこの霹靂神と夜叉が習合した姿でもある。
 邪鬼を退治できる者は、その鬼の力を凌駕(りょうが)する強い善鬼だけである。源頼光(みなもとのらいこう)は、その名が雷公(雷神)に通じることから、鬼の首領の酒呑(しゅてん)童子も退治できたと信じられた、とする説がある。したがって雷神の申し子であり鬼退治をした道場法師も、強力な善鬼の化身だと信じられたのだ。


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