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作品とともに、浅見光彦の旅は続く――追善能の最中起きた突然死!最も有名な難事件『天河伝説殺人事件』

 数多い内田康夫(うちだやすお)作品のなかに「伝説」とタイトルに(うた)われた一連の長編があるのはよく知られているだろう。その最初は『後鳥羽(ごとば)伝説殺人事件』(一九八二)で、名探偵・浅見光彦(あさみみつひこ)が初めてミステリー界に登場した記念すべき作品だった。この『天河(てんかわ)伝説殺人事件』もやはり浅見光彦シリーズの一作で、一九八八年四月に上巻が、同年七月に下巻がカドカワノベルズとして刊行された。内田作品としては初めての上下本になった大作だが、それから三十年という節目にあたって、一巻本として装いを新たにしたのが本書である。
 東京新宿の高層ビルの前、衆人環視の中でその男は死を迎えた。ビルから出て階段を下りようとしたとき、ふいに立ち止まり、そして階段を転がり落ちていく。鳴り響く「リリーン リリーン」という美しい音。死因は青酸性の毒物だった。身元は愛知県豊田(とよた)市の会社員・川島孝司(かわしまたかし)と分かるが、その日は大阪に出張していたはずだった。東京に駆けつけた娘の智春(ちはる)に、父が殺される理由は思い当たらない。そして現場に落ちていた不思議な形の鈴……。
 東京渋谷南平台(なんぺいだい)の能楽堂ではその日、水上(すいじょう)流の宗家の水上和春(みずかみかずはる)の七回忌の追善能が催されていた。和春の長女の秀美(ひでみ)が祖父の和憲(かずのり)とともに『二人静(ふたりしずか)』を舞ったあと、長男の和鷹(かずたか)が難曲中の難曲といわれる『道成寺(どうじょうじ)』を舞う。その最大の見せ場が、落ちた鐘の中での変身だったが、水上宗家の「秘宝」ともいうべき「雨降らしの面」を着けた和鷹は、鐘が上がったときに息絶えていた。目撃者となった観客の中に、浅見光彦の母の雪江(ゆきえ)が……。
 このふたつの事件が絡み合って謎解きの興味をそそっていくが、浅見光彦の探偵行のそもそも発端は、亡き父の親友だった三宅譲典(みやけじょうすけ)からの仕事の依頼である。旅行関係の出版社が、謡曲、すなわち能の台本の舞台になっている史蹟(しせき)めぐりの本を出したいと三宅に言ってきた。それを代わりにお願いしたいというのである。謡曲についてはあまり詳しくないが、愛車ソアラのローンを抱えている浅見光彦に断る理由はない。
 作者もまた能については、執筆前、一般的な知識しかなかったという。しかし、だからこそ、簡単にはイメージできない古典芸能の世界が、簡潔かつ的確に描かれているのだ。
『天河伝説殺人事件』のそこかしこで感じられるのは、「ナチュラル(natural)」である。『日蓮(にちれん)伝説殺人事件』での山梨県での宝石業界など、あまり知られていない世界が事件の背景になっていることが浅見光彦シリーズではよくあった。ただ、それが知識の羅列であっては、小説としての味わいがない。しかし浅見光彦と一緒ならば、ここでの能のように、未知の世界に足を自然に踏み入れることができたのである。
 作品の舞台も同様だ。内田作品の基本となる三要素は「旅」と「人間」と「事件」である。〝日本中を旅していると、興味深い風景や人々の生活、明日の日本への希望と不安、ふと涙ぐみたくなるような、別れや再会に出会うものである。そういうものを皆さんに伝えたい、お見せしたい、語りたい――と、いつも思っている〟と、カドカワノベルズ版の「あとがき」で述べていたが、その飾ることのない素直な視線が読者の心に響いていく内田作品である。
 謡曲を取材する旅も終盤、浅見光彦は奈良県吉野へと入った。有名な旅館に泊まってのんびりしているが、南朝時代など、その地の歴史もまた名探偵の興味をそそっている。そこで、突然姿を消した祖父を追ってきた水上秀美と、そして父の持っていた五十鈴(いすず)の謎を解こうと天河神社を訪れていた川島智春と出会うのだった。
 新たな事件の舞台は吉野や天河神社である。その地もまた、浅見光彦と同様に、作者にとっては未知の場所だった。あらかじめプロットを考えないという創作手法だけに、取材で得たイメージは重要だ。悠久の歴史や天河神社の独特の「気」が、能楽の過去と現在と重なりつつ、自然にストーリーに溶け込んでいく。先入観のない浅見光彦の自然な印象によって、まだ訪れたことのない人でも舞台を鮮やかに思い浮かべることができるだろう。
 その浅見光彦のナチュラルな、すなわち気取らないキャラクターはもちろんシリーズの大きな魅力である。だからこそ、ヒロインたちは彼に惹かれていくのだ。けっして爽やかな容姿だけに惹かれているわけではない。そしてなんと『天河伝説殺人事件』は、兄を亡くした秀美と父を亡くした智春のダブル・ヒロインである。他に『ユタが愛した探偵』のような例もあるけれど、シリーズの中では珍しい設定だ。
 ただ、ヒロインに関しては浅見光彦はナチュラルではない。彼女たちの好意をはっきりと感じながらも、まったくヒロインたちとは恋愛関係に発展しないのである(『平家(へいけ)伝説殺人事件』の稲田佐和(いなださわ)という例外がひとりあるけれど)。男としてだらしない――いやこれは、永遠の三十三歳という設定とともに(これまた一作例外があるけれど)、シリーズ・キャラクターの宿命なのである。
 そして浅見光彦は名探偵としてナチュラルな、つまり論理的にもっともな真相を導き出していく。その姿はまさに自然体である。推理力をこれ見よがしに自慢することはないし、声高に犯人を指摘することもめったにない。これまた気取らないキャラクターなのだ。もちろん殺人などの犯罪は許されるものではない。そして浅見光彦はいつも正義を求めている。けれど同時に、人としての自然な感情も理解している。なぜそんな行為に至ったのかを(おもんぱか)って推理し、その心理を理解しての真相に辿りつけば、彼の名探偵としての好奇心は満たされるのだ。
『天河伝説殺人事件』の謎解きでは伏線が自然である。じつにさりげなく真相への道筋が示されている。浅見光彦が水上流宗家の世襲問題を知るのは、じつはかなり後になってからである。そして、能や天河神社に関する知識も最初から得ているわけではない。だから、読者のほうが先にその伏線に気付くはずなのだが……。
 その能は表現を極端に抑制した演劇である。能面は演者自身の表現力の一部を拒否しているだろう。その意味では一見、ナチュラルではないかもしれない。だが、三宅譲典は浅見光彦にこう私見を語るのだ。

テレビドラマに象徴されるように、現代の演劇はあまりにも観客にオベッカを使いすぎるのだな。つまりそれは、観客を見下げた精神の現れでもあるわけだよ。この程度までレベルダウンをしなければ、理解されないだろう――などという思い上がりが、いつか自らを貶めていることになる。感性の豊かな若者が、そういう欺瞞にいつまでも気付かないはずがない。演劇ばかりでない。あらゆる文化や文明が、若者におもねる方向ばかりを模索しているうちに、賢明な若者は本質の純粋性が確かな能に魅了されてゆく

 能もまたナチュラルな、すなわち道理にかなった表現方法なのである。そして三宅は、浅見光彦の父である秀一(しゅういち)と能との縁も語るのだった。戦後の一時期、それまでパトロンであった華族や財閥が解体されて苦しんでいる能楽界を見て、「能は本来、日本人の情緒的な特性を表現したものです。つまり、能楽の神髄は日本人特有の諦観(ていかん)であり優しさなのです」と熱弁をふるったという。当時秀一は、大蔵省(現・財務省)の局長だったが、権力や忖度などに目もくれなかった官僚の矜持(きょうじ)が浅見光彦シリーズでは語られている。
『天河伝説殺人事件』の刊行後、一九九〇年代前半から篝火(かがりび)をたいた中で行う薪能が人気となったという。だが、能楽堂がそこかしこにあるわけではない。他ジャンルとのコラボレーションに活路を見いだしてもいるようだが、パトロンに頼るというシステムが現代日本ではたして成立するのかなど、課題も多いようだ。そんな能への興味は、本書を読み終えたならきっと自然に高まっていくはずだ。そういえば、浅見光彦が取材した本はちゃんと刊行されたのだろうか……。
 名詞としての「ナチュラル(natural)」には生来の達人という意味もあるようだ。ならば浅見光彦は推理界のまさにミスター・ナチュラルである。この『天河伝説殺人事件』は彼にとって二十一冊目の事件簿で、一九九一年三月には浅見光彦シリーズ初の、そして唯一の映画作品として公開されている。浅見光彦を演じていたのは榎木孝明(えのきたかあき)氏だったが、その姿を見て内田作品のファンになった人も多いと聞く。
 そして、浅見光彦の事件簿は本書のあとも着々と数を増していく。彼の人気の高まりからすれば、それもまた自然なことだった。とりわけ「伝説」シリーズには大作が多く、『隠岐伝説殺人事件』や『日蓮伝説殺人事件』も上下本として刊行されている。その事件簿に二〇一七年五月刊の『孤道』でピリオドが打たれてしまったが、この『天河伝説殺人事件』はもちろんのこと、内田康夫氏のオリジナリティ溢れる作品世界は、これからもいろいろな視点から楽しむことができるだろう。


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