解説というものは、本来、作品と距離を置いて書かれるべきものだと思う。
この距離を維持するのが解説者の自制心であって、これが無いと解説者だけが楽しい下手な漫談もどきが出来る怖れがある。
解説者も百光年ばかり離れた銀河の中の書斎(床の上)から冷厳にペンを進めるつもりであった。
ところが、ゲラの一頁目の物語と主人公二人の設定を読んだ途端、そんなのダメだと思った。どころか、自制心なんて最初から無いねと嘯くに到った。こういう小説を書ける時代になったのである。感慨はすぐ怒りに変わり、更に呆気に取られた。
何とまあ、好きな材料を好き放題に料理していることか。しかも、客たちは全員、ナイフとフォークを手に、早く早くとテーブルを叩いていると来た。
無礼を承知で言わせていただくと、作者がオタクだという事実は、二〇年以上前から調べがついていた。当時の私は、なけなしの稼ぎを工面して、アメリカから海外SF・ホラーのビデオやフィルムを購入しており、それに言及した山本氏の文章を読んだ記憶があった。
そのうち、ちょくちょく名前を拝見する機会が増え、あ、同類と思っていたら、「と学会」なるサークルを主催して何やら出版界を騒がせ、少し間を於いて、同姓同名の小説家も出現。ほう、と思っていたらご本人であった。後の活躍は読者のみなさんご存知の通りだが、人間には、自分を培って来てくれたものを、他者にも語りたいという欲望がある。美人の彼女をパーティへ連れていって自慢するのと同じ心理である。余計なお世話だ。かくて作品が完成する。友人もこうして増える。作品をパクったりする悪党も多いが、クリエイターはパクられなければお終いである。
山本氏の本作には、パクリの心配がない。
詰まらないのではなく、作品の個性が強烈すぎるのだ。
(以下ネタバレあり)一九三八年、ロサンゼルスのビヴァリー・ヒルズで探偵事務所を開いているリジーことエリザベス・コルトとクリスタル・ナイトの下には、奇妙な事件と依頼人が押しかける――こう書いただけで、「やりやがったな」と溜息をついたり、「先を越されたか」と歯ぎしりする同業者は多いだろう。本書に火を点ける奴もいるかも知れない。それこそが本書の蒙るべき栄光である。
いいですか、一九三八年のカリフォルニアである。
かのレイモンド・チャンドラー(「ウルトラマン」ではない)が、処女長編「大いなる眠り」(39)の執筆でノイローゼになり、海洋映画にその名も高いローランド・V・リー監督は、ユニバーサルの「フランケンシュタイン」シリーズ第三作「フランケンシュタインの復活」(39)のオファーを受けて考え込み、十七歳のレイ・ブラッドベリは、作家への道を進むべきかと悩み、レイ・ハリーハウゼンが自主映画に天才の片鱗を示し、SF作家の会合に、リイ・ブラケットやエドモンド・ハミルトンや、ジャック・ウィリアムスンら中堅が集い、ロバート・A・ハインラインがいまだアマチュアで、じたばたしている。北へ車をとばせば、子役のための学校まで備えた「ユニバーサル・シティ」が広がり、三〇年代のホラー映画ブームを支えたベテランたちが、近頃の作品不足を嘆いている――そんな時代、そんな土地だ。
恐らく、いま名前を挙げた人間から映画、小説のすべてが山本弘氏を築き上げて来た。
氏はそれをありとあらゆる人々に知って欲しいと思った。最近の著作で、忘れられたTVシリーズへの渇を癒したがごとく、小説でもやりたいと思った。そして、ゲンダイはそれが許される時代であった。
「おれはやるぞ!」
氏は自宅の風呂場か、パーティ会場のど真ん中でこう叫び、家族や友人知人の不安気な眼差しを浴びつつ、パソコンのキイを叩きはじめたのである。
ほら、出て来る出て来る。ヒロインの女探偵のひとりは透明人間だ。これは探偵という調べまくる職業にとって大いに役に立つ合理的な設定であると同時に、氏の最も愛する特撮マン=ジョン・P・フルトンと彼が担当した「透明人間」(33)に捧げたオマージュでもあるだろう。
そして、相棒が首を落とされても甦ってくる不死者なる設定は、生首映画よりも、いきなりニッポン――山田風太郎氏の「甲賀忍法帖」に登場する生首男=薬師寺天膳からの発想ではあるまいか。
主人公たちがこれでは、もう後は何が来てもおかしくはない。
第一話「まっぷたつの美女」は、失踪した高名な建築家と、亡夫から莫大な遺産を相続したその恋人を巡る純粋なミステリ(!?)だが、事件のキイ・ポイントになるのが、当時発売されていたホラー雑誌のSMチックな表紙なのである。そして、作中の小道具として現われるのが、「ウィアード・テールズ」を始めとするパルプ雑誌の数々。ロレッタ・ヤング、ジョーン・クロフォードといった当時の人気女優の名前だ。この時代のアメリカン・カルチャーに興味を抱いている読者なら、黒瞳に炎を燃やし、「うおお、おれはいま猛烈に感動している」と宣言するに違いない。もっと好きな読者は、書架をひっくり返して、変色した古雑誌を読み返し、古風な衣裳をまとった、古風な美女たちが古風な演出の中で動き廻る、古風な映画のDVDを楽しむことだろう。これも小説と作者の趣味に対する熱い思いがもたらした感動の具現である。
山本氏のやりたい放題は、二作目の「二千七百秒の牢獄」でその極北に(もう)辿り着いてしまう。
現代の映画マニアが友人に、撮影されたはずのない特撮映画を観せる場面から開始される物語は、ニャーマトウなる邪神の力で現実の人物たちがフィルムの世界に入りこみ(これも、マニアの夢の具現である)、大トラブルが勃発するのである。二人の怪奇美女(!?)に協力して事件を解決するメンバーが凄い。今まで何度も出て来た特撮マン=ジョン・P・フルトン。これも意表をつく起用だが、「狼男の殺人」(41)や「夜の悪魔」(43)で名高いホラー役者のロン・チャニイ・ジュニアを経て、ついにユニバーサルの創始者カール・レムリ老と息子、レムリ・ジュニアまで顔を出す。映画の歴史本やエッセイになら腐るほど出てくるこの二人も、まさか日本の小説の登場人物にされるとは思わなかったろう。親父のレムリなど、危機に陥った女優を救うべく主人公やフルトン、ジュニア以上に大活躍するほどだ。山本氏はよほど、今に残るユニバーサル・モンスターの創造にGOサインを出したこの老映画人を愛しているのだろう。この選択――誠に憎たらしい。
第三話「ペンドラゴンの瓶」は打って変わって、主人公のひとり、リジーの生命の遍歴をテーマに据えた異色作。過去の大魔術師ペンドラゴンが造り出した人工生命体が身篭った。ペンドラゴンがそれを固く戒めていたのは、人工生命体が人間らしさを維持していられるのは第一世代のみであることを知悉していたからであった。二世代以降は魔物と化すのである。やがて、ロスへ渡ってきた魔物は人を襲い出す。クリスタルは、魔物の母とともに現場へ急行する。
前二作ほどの蘊蓄の披露もなく、人間ドラマが際立つ。一九三〇年代のロスと私立探偵をミックスすれば、ハードボイルドというカクテルになるが、この一篇のラストは正しくそれである。
第三話が大人しめだったから第四話も、などと考えた人は、世の中と山本弘がわかっていない。
「軽はずみな旅行者」こそ、本短篇集のキモである。
ロスの競馬場で、続けざまに馬券を当てた男に、ギャングが目をつける。この男は、借金の返済に充てるお宝を求めて、未来からやって来た時間旅行者なのだが、これにリジーとクリスタルが絡む。そして、ほぼ全員が宝を眼のあたりにしながら気づかないという結末を迎える。この謎解きも、この本の作者ならではの快刀乱麻だが、それよりも注目すべきは、レイと呼ばれる作家志望の少年に托される青春小説の味わいである。彼が顔を出すSFサークルに集う作家たちの顔触れを見るがいい。それはレイの憧れであると同時に、彼らの作品を糧として生きて来た作家=山本弘の憧れでもあった。そして、レイ少年自身も後に、山本氏の恐らくは最愛の作家となるのであるが、注目すべきは、作家への道を諦めかけた彼へ、強く翻意を勧める時間旅行者だ。彼こそは山本弘に違いない。
やるに事欠いて、自分まで出演させてしまうとは、到底、理性ある作家の行為ではない。恥を知れと言いたい。私は「先を越され」てしまったのだ。
ラストの「異空の凶獣」は、科学者たちが通した異次元への道を辿って現われたタイトルどおりの凶獣が、人間を食い荒らす物語で、第三話と同じく蘊蓄が殆どない――と思う読者は素人であって、内心が細かく描破されるこの凶獣の描き方こそがそうなのである。この殺し方を見たまえ。あれにファンが多いとは聞いていたが、ここにもひとりいたか(何のことか当ててみな、ヴォート君)。
透明人間、クリスタルの素姓が明らかにされるのも興味深い。
――以上で解説は終わる。他にも書きたいこと(文句)は、銀河の数くらいもあるのだが、それをやっていると、事件が発生しそうだからである。
犯人は多分、「こんな憎たらしい本を書きやがって」とか「先を越しやがって」とか喚きながら、連行されることだろう。
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