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レビュー

この世に不思議なことなど「あるんだから仕方がない」!? 水木しげるが世界を救う『虚実妖怪百物語 急』

 あるんだから仕方がない。
 丹波哲郎『大霊界』みたいな書き出しになった。いや、「あるんだから仕方がない」は京極作品の重要なキーワードなのである。
 京極夏彦は、この世に不思議なことなど「ないんだから仕方がない」の人でしょうって。
 うん、その通りではあるんだけど。
 説明の前に書誌情報を。本書は作者が二〇一六年に上梓した『虚実妖怪百物語』の第三巻〈急〉である。本作品の初出はKADOKAWAから刊行されている世界で唯一の妖怪マガジン「怪」であり、二〇一一年三月刊のVol.0032から二〇一六年三月刊のvol.0047まで連載され、加筆修正の上で単行本化された。〈急〉に収録されたのはそのうち、二〇一四年十二月刊vol.0043以降の連載分である。奥付表記に沿えば、単行本版は〈序〉が十月二十二日、〈破〉が同二十九日、〈急〉が十一月五日とKADOKAWAの〈怪BOOKS〉レーベルから三週間連続で刊行された。さらに三巻の合本版(京極作品なのでここは合巻と書きたいところ)が十一月十二日より電子版で配信開始されている。四週間連続という滅多にない趣向であった。今回の文庫化にあたっては〈序〉〈破〉〈急〉、それに合巻版の〈序/破/急〉が同時刊行される。各巻にはそれぞれ解説が付されるが、〈序/破/急〉は省かれるそうなので、百パーセント京極夏彦で混じりけなしの本が欲しい方はそちらをどうぞ。
 さて、「あるんだから仕方がない」の話である。京極夏彦は一九九四年に『姑獲鳥うぶめの夏』(現・講談社文庫)で作家としてデビューした。同作に始まる〈百鬼夜行〉シリーズが世間に及ぼした影響については、すでに言い尽くされた感があるので省略する。ごく乱暴に言えばデビュー第一期の京極夏彦はこの〈百鬼夜行〉の作家であった。その後、「この世に不思議なことなど何もない」の人ではなくなっていくのだが、進路切り換えがはっきりした形で読者に示された最初の年は、短篇集まで合わせればシリーズの十一冊目となる『陰摩羅鬼おんもらききず』(現・講談社文庫)が刊行された二〇〇三年ではないか。作家業十年の節目に当たる年である。
『陰摩羅鬼の瑕』刊行は二〇〇三年八月、三ヶ月後には〈巷説こうせつ百物語〉シリーズの第三集のちの巷説百物語』(現・角川文庫)が世に出る。『後巷説百物語』は明治前期に時代が設定された作品集だが、そのうちの一篇、「五位の光」に京極は、『陰摩羅鬼の瑕』で重要な役回りを担う由良ゆら昂允こういんの四代前の先祖、由良胤房たねふさを登場させた。それによって〈百鬼夜行〉と〈巷説百物語〉の両シリーズは接続された。正確な言い方をすれば、二つのシリーズが一つの歴史上で起きているという事実が、登場人物の家系図重複によって確認されたのである。
 これはごく当然のことで、たとえば十二世紀から十九世紀の鹿児島を舞台にした物語が書かれたとしたら島津しまづ氏が登場しないことはまずありえない。島津氏が彼の地の最高権力者であるという事実が歴然としてあるからだ。あるんだから仕方ない。京極夏彦の作中に登場する由良氏は架空の登場人物ではあるが、明治前期に中央と信州という地方の双方に関わりを持ち、かつ爵位を与えられる家柄の人物として造形されている。氏姓こそ架空だが、その階層に必ずいた華族の象徴として由良氏はいるのである。いるんだから仕方がない。
 つまり京極の場合、個々の作品のために新たな事象や登場人物が配置されるのではなく、そこにある事象や、いる登場人物が作品ごとに呼び出されてくるのだ。京極夏彦は何も新しいものを作らない。ある中から条件に合ったものを選び、適切な箇所に配置するだけ。
 これを言い換えると稗史はいし小説である、ということになる。稗史とは正史に記載されなかった野史、民間の歴史のことで、過去に記された歴史書などの典籍から部品を選択して組み合わせ、偽史ともいえる長大な物語として成立させたものを稗史小説と呼ぶ。代表例が曲亭馬琴『南総里見八犬伝』だ。京極夏彦はその系譜に連なる作家なのである。推理小説は欧米に起源があり、教養小説や諷刺小説、怪奇小説など複数の源流を持っている。推理小説について考える場合はそちらの流れを遡るのが普通なので、京極作品についても当初はいわゆる〈本格ミステリー〉の文脈に拠る解釈が試みられていた。それでは収まりきらない、別の尺度が必要であるということが、作家業十年目にしてようやく周知されるようになったのだ。
 この人は西洋的な近代小説じゃなくて、日本近世、さらにいえば古典・漢籍からの流れを汲む稗史小説の作家だから、という目で見てみると、たしかに腑に落ちることがある。たとえば京極作品の場合、小説の中で個々の登場人物が持つ比重が極めて少ないという特徴がある。なぜ個人が重視されないかといえば、彼らは時代意識の反映にすぎないからである。
 わかりやすいのが〈巷説百物語〉シリーズだ。同作の前半では御行おんぎょう又市またいちという小悪党が奸計かんけいを企み、妖怪という現象を逆手にとって人を騙すさまが描かれた。しかし又市は時代が明治に入った『後巷説百物語』にはほぼ登場しない。明治の近代精神の下では、妖怪という現象が普遍性を持たなくなったからだ。また、シリーズ第五集の西にしの巷説百物語』(二〇一〇年。現・角川文庫)では、又市の一味ではない別の集団が彼と同じような役回りで登場する。物語の舞台が上方なので、江戸を根城とする又市の出る幕ではないのである。又市という人物が必要とされるのはその出来事が起きる場所、存在に説得力がある時期のみであって、そこから外れてまでは出番を与えられない。
 京極作品においては、登場人物は時代に縛られた存在であり、どんなに個性が強いように見えても、存立基盤を超えてまで活躍することはできない。自分の存在する時代の産物として、時代の許す枠組の中でのみ動きうる人間を、あったであろう可能性の中で描く。それが京極夏彦の小説だ。一口で言えば、身も蓋もないリアリストということである。世の中には不思議なことなど「ないんだから仕方ない」と言い切れるのは、あって当然のことのみで構成された世界だからだ。「あるんだから仕方ない」のだ。
 というわけで『虚実妖怪百物語』である。なにしろ本書はその「あるんだから仕方ない」の小説作法が徹底された、最も京極夏彦らしい作品である。登場人物の九割九分は、作者をはじめとした実在の人間である。妖怪に関する創作物についてもおびただしい言及があり、京極夏彦の網羅癖が如何いかんなく発揮されている。本解説を読んでいる人はすでに〈序〉と〈破〉にも目を通されていると思うので詳述は避けるが、突如二十一世紀の日本に現代版「妖怪百物語」としか言いようのない妖怪大出現事件が起き、それが元で世の妖怪愛好家が諸悪の根源として迫害されるようになる、という物語である。となれば京極夏彦他の実在する妖怪馬鹿たちが登場人物として召喚されるのは理の当然であろう。そこにいるんだから仕方ない。中に一部、京極作品の読者ならすぐ架空とわかる者が交じっているのは一見作者のお茶目に思えるが、これまた「あるべきものは初めからあるべき場所に配置されている」という大原則を忠実に守った結果であることが後に判明する。無駄な部品はないのである。
 妖怪には現実を反映するという性質がある。妖怪が「いる」とされるのは、そこに妖怪がいなければ説明がつかない現実が「ある」からで、在非在の議論をすることは不毛である、というような前提もこの解説に辿り着いた読者には不要だろう。
 現実を映した鏡としての妖怪は、他と識別可能な概念を当てはめられることで形を与えられる。京極はその原理を小説化することを思いついて実行に移した最初の近代日本人であり、鳥山石燕『画図百鬼夜行』から〈百鬼夜行〉を、竹原春泉『絵本百物語』から〈巷説百物語〉をそれぞれ生み出した。本作にもその概念、各シリーズにおける妖怪図にあたるものが存在する。水木しげる御大である。
『妖怪のことわり妖怪の檻』(二〇〇七年。現・角川文庫)で京極が詳述したように、現代日本における妖怪嗜好は水木絵によってほぼ形作られたものである。乱暴な言い方をすれば、妖怪というものを巡って起きる出来事が描かれる本作は、妖怪をめぐる現実を写し取った胎蔵界たいぞうかい曼荼羅まんだらのようなものだ。悲嘆にくれざるをえないような事件があれこれ起きることによって世の中は一時大混乱に陥る。〈破〉で描かれる全体主義体制が、現在の世情だとあながち冗談にも見えないところがオソロチイ。しかし世界は水木しげる原理が当てはめられることによって再び論理の整合を得て金剛界こんごうかい曼荼羅として安定する。水木しげるが中心にいる世界の形が、そうした形で小説化されたのである。
 その水木原理を妖怪者たちに思い出させる、重い役割を作者が担うのは、別に本人がいい格好をしたいからではなく、京極夏彦が全集の編纂を含めて、漫画制作に携わったスタッフを除けば最も水木しげるのために働いた弟子だからだろう。何しろ水木原理を世に広めるために創刊された「怪」では、京極夏彦がなぜ作家がそんな、というような諸役をこなしているのである。世人に対して代弁者となるのにこれほどふさわしい人間も他にはいるまい。
 その中心となる水木原理とは何か。改めて書くのも野暮だがこれは「喧嘩はよせ、腹がへるぞ」であることは言をたない。本書はこの偉大な教えを世に知らしめるために、原稿用紙換算にして約千九百枚という作者最長の枚数をもって書かれた作品なのだ。世界は強靭であり、余計なことを人間が仕出かさなければ自己修復できるほどのたくましさを持っている。妖怪はそのために生み出された概念装置であり、本来とてもふくよかな感触で人間を包み込んでくれる。その居心地の良さを長い長い回り道をしながら書いた小説である。私はわりと本気で、これをヒューマニズムの小説と呼びたい。みんな読めよ、楽になるぞ。

書誌情報≫『虚実妖怪百物語 急』
>>『序/破/急』合巻版はこちら


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