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試し読み

家族のために少しでも生きたい。現代医療ができることは? 『勿忘草の咲く町で』試し読み#3

「神様のカルテ」シリーズで人気の夏川草介氏が最新作で取り上げたテーマは「高齢者医療」。患者の数だけある生と死の在り方に悩みながらも、まっすぐに進む若者の姿を描いた連作短編集の第一話を、まるまる公開します!
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>>前話を読む

 膵癌の長坂さんの抗がん剤治療が始まったのは、お盆も明けた八月の半ばからだ。
 検査とICが終わりいつたん退院した長坂さんが、物静かな奥さんとまだ小学生の息子を連れて再入院となった日が、すなわち治療の開始日となった。
 長坂守という男性は、すらりと背が高く品の良い紳士然たる風貌の持ち主である。病棟を歩けば、たちまち若い看護師たちの目を引き、噂話に花が咲く。しかしその穏やかな笑顔の下に、死の病を得ているのだという話を聞けば、さすがの噂好きの看護師たちも、はっとして口をつぐみ、何気ない日常事へと話題を変えていく。
 そんな景色の中で、美琴たちは、どんな華やかに見える人生にも、意外なほどすぐそばに死というものが潜んでいるのだという事実を、理屈でなく感じ取っていくのである。
「ジェムザールという点滴の薬を使用します」
 南向きの日当たりの良い個室に、桂の声が響くのを、美琴は静かに見守っている。
「一週間に一回点滴し、三週繰り返したところで、一週間お休みという流れですが、十日目から二週間目にかけて、以前お話しした骨髄抑制という副作用が出る可能性がありますので、血液検査の回数が増えます。経過が良ければ、適宜外来治療に切り替えていきます」
 桂の声に長坂さんは黙って頷きを繰り返している。
 一通りの説明が終わったところで、満足げに笑顔を見せた。
「特別の疑問はありません。ありがとうございます」
「私はまだ研修医ですが、薬の選択から用量、使用法にいたるまで、三島先生や薬剤師など二重三重のチェックが入っています。心配はしないでください」
「不思議なことに……」
 と長坂さんが傍らの息子の髪をでながら笑う。
「先生と話していると、その点に関する不安は微塵も感じません」
「ありがとうございます」
 一礼した桂に、「先生」と長坂さんは静かに続けた。
「私は少しでも生きたい。妻と子のためにも」
 時候のあいさつでもするような穏やかな口調で告げられたその言葉に、美琴は一瞬遅れてからはっと息をんでいた。
 にわかに張りつめた緊張に、しかし桂は動じなかった。
 その動じない研修医に、長坂さんは満足げに頷いて右手を差し出した。
「先生、私に力を貸して下さい」
 言葉はなく、わずかな間を置いて桂もまた、その手を握り返した。
 病室を出ると、夏のまばゆい陽射しがさんさんと廊下に降り注いでいる。つい先刻の一瞬の緊張が噓のように、桂は落ち着いた足取りで、その明るい光の中を歩きだしていた。
 若い研修医の胸の内に去来するものが何であるか、美琴には測ることができない。緊張か不安か、いずれにしてもそういった重圧を微塵も表に出さないこの青年は、やはり立派なものだと率直に思う。とふいに、先を行く桂が独り言のようにつぶやくのが聞こえた。
しゆうかいどうでしたね」
 意味を測りかねて首をかしげる美琴に、桂が続ける。
「病室にあった花です。お盆が明けて早速咲き始めていた」
 美琴の記憶の片隅に、サイドテーブルに載っていた比較的大きな植木鉢があった。
 少しうつむき加減の薄紅色の花は、まだ咲き始めたばかりのようであった。
「鉢植えで置いてあるって珍しいですね」
 一般的には病室に飾る花は切り花であり、病室に〝根を張る〟というイメージや〝根付く〟が〝寝付く〟に通じる鉢植えは、避けられることが多い。確かに珍しいことだ。
「秋海棠は切り花としても十分さまになる花です。もちろん切れば長持ちはしなくなりますから、えて鉢で置いてあるということはよほど好きな花なのかもしれません」
「秋海棠っていうんですか」
だんちようともいいます」
 廊下の途中で行きあったお年寄りに、「こんにちは」と会釈しながら、桂は歩を進める。
「昔、想いを遂げられなかった美人が、苦しみ嘆いたあげくに流した涙が、あの花を咲かせたのだと……。中国の故事ですよ」
 難しいことは美琴にはよくわからない。
 ただあの静かな重圧の中で、そんなことを考えていたのかと少し呆れるくらいだ。
 いずれにしても、こんなにすらすらと花に関する知識が出てくるのだから、本当に花屋さんの息子なのだろうと、そっと微笑したところで、ふいに桂が足を止めて呟くのが聞こえた。
「満開の秋海棠だけは見せてあげたいですね」
 はっとして顔を上げた美琴の位置からは、しかし桂の表情は読み取れなかった。表情は見えなくとも、その肩がかすかにふるえるのが見えたとき、美琴は唐突に理解した。
 ほころび始めた秋海棠。それが満開になる時期を長坂さんは迎えられないかもしれないという事実。どれほど元気そうに見えても、それが長坂さんの現実だ。
 ふいに脳裏をよぎったのは、病室にいた物静かな奥さんや無邪気な少年の姿だ。途端に、はるか遠くをほうこうしていたはずの死神がいつのまにかすぐ背後の廊下に静かにたたずんでいるような、不気味な冷ややかさを感じて、美琴は言葉を失っていた。
「力を貸してくれなどと、僕のような未熟者には重すぎる言葉です」
 夏の日がどこまでも陽気に降り注ぐ廊下に、淡々と声が響く。
 未熟者は自分の方なのだ、と美琴はいつのまにか唇を嚙んでいた。
 患者の病状に対する認識の甘さ、桂の抱えている重圧への無感覚。よく見ているつもりでいて、大事なことが見えていなかったのだということを唐突に気づかされて、すぐには言葉が出なかった。
 束の間の重苦しい沈黙を、しかし力ずくで押し返すだけの気概が、美琴本来の持ち味であった。
「先生はちゃんと長坂さんの言葉を受け止めていましたよ」
 控えめに告げたつもりが、静かな廊下に思いのほかはっきりと響いた。通りすがりの男性患者が不思議そうに振り返ったが、美琴は構わず良く通る声で続けた。
「それに重すぎる言葉を先生がひとりで背負う必要はありません。三島先生という梓川病院最強の後ろ盾がいるんです。『小さな巨人』の前では病気だって逃げ出します」
 桂は少し戸惑ったような顔をしてから「なるほど」と微笑した。
「たしかに、患者さんだって怖がる先生ですからね」
「そうです。それに三島先生だけじゃなく、私たちだってついているんです」
 勢いにまかせて吐き出した言葉が不思議な熱を帯びて廊下に響き、美琴は急に頰が熱くなる心地がした。どうもこの青年を相手にするとペースが乱される。
 桂は二度ほど瞬きをして、控えめに苦笑した。
「……なんか照れますよ」
「照れるようなことは言っていません」
 慌てて美琴は言葉を重ねる。
「〝私たち〟と言ったんですよ」
「そうですね」
 笑った青年の声は、震えてはいなかった。
「月岡さんて、もう少し冷たい感じの人だと思っていました。ありがとうございます」
 褒められているのかけなされているのか、今一つわからない言葉とともに、桂は一礼し再び明るい廊下を歩き出した。その足取りが先ほどより少し堂々と見えたのは、美琴のひいき目だろうか。
 ふと気づけば廊下の向こうや病室の中に、ちらほらと他の看護師たちの姿が見える。
 ──明日はまたよからぬ噂がたつのだろうか。
 やれやれとため息が漏れたが、心の中は意外なほどさわやかだった。
 美琴はしばらく立ち尽くしたまま、遠ざかる白衣の背中を見守っていた。

 九月に入ると信州は、にわかに気温が下がり始める。
 真夏であっても日陰に入れば心地よい涼風の吹き抜けるさとである。秋に入ると、吹き抜ける風の中には来るべき厳しい季節を予感させる冷気があり、実りの季節という以上に、心の引き締まる時季なのである。
「お母さん、あれ、なんて花?」
 ダイニングで朝食のトーストを頰張っていた美琴は、縁先に咲く青紫の鮮やかな色彩に目を向けたまま、何気ない声を上げた。
 キッチンで父の弁当をこしらえていた美琴の母親は、ちょっと伸びをするように首をのばしてから、食パンをくわえた娘に不思議そうに目を向けた。
 沈黙のままである。
「なんか変なこと聞いた?」
「あなた、男できたでしょ」
 唐突な一言を、母親は器用に卵焼きをひっくり返しながら、発してきた。美琴としてはとりあえずパンを嚙みきって、ただちに身の潔白を主張するしかない。
「あのね、お母さん、私はただ花の名前を聞いただけなんだけど……」
「あなたが花に興味を示したのは、二歳八か月の頃に、タンポポを見て食べていいかってお母さんに聞いて以来のことよ。今日は晩御飯までには帰ってこられるの? 朝帰りになるなら、先に言っておいてよ」
「帰ってきます!」
 抗議の声を張り上げる美琴に、母親はむしろ心配そうな顔を向ける。
「お母さんはミコが誰とお付き合いしても文句は言わないつもりだけど、その人だけはやめなさい」
「は?」
「お付き合いをするのに花の名前が必要になるような人のところに、きようも知らない娘を差し出したら、お母さんの立場がないじゃない。もう少し野暮ったくて、足が短くて、気持ちだけは優しいって男の人の方が絶対いいわ。お父さんみたいにね」
 勝手に話が進んでいく。美琴は反論をあきらめて食パンを頰張りながら、逃げ出すように隣の和室に放り出してあったかばんを取りに行く。
 清潔に整えられた六畳間には、床の間の脇ににしきに包まれた大きなごんが立てかけられてある。母が昔から大切にしている楽器で、その豊かな音色を聴いて育った美琴は、仕事で忙しくなった今も耳の奥底に琴の音を思い出すことができる。
「この琴の音のように美しい女の子に」という両親の願いはずいぶん高望みではないかと、美琴自身がよく母に向かって口にしたものだ。
 美琴は束の間、壁の琴を眺め、それから足元の鞄を手に取ってキッチンに戻った。
「行ってきます、お母さん。晩御飯はちゃんと用意しておいてね」
 敢えて大声でそう告げて玄関を出た。
 外に出れば、庭先の青い花がなんとなく目に入る。
「桔梗、ね……」
 美琴は小さく呟いたのち、心の内のささやかな感傷を吐き出すようにひとつため息をつくと、自転車を引きだして、いつもの身軽さでひらりと飛び乗った。

 また何か妙なことを言い始めた。
 日も暮れた病棟スタッフステーションで、真剣に悩んでいる桂を見て、美琴は小さくため息をついていた。
「もう一回言ってください、桂先生」
「はい、ナマダイコンのコヌカヅケです」
「ナマダイコン……」
「知っていますか、月岡さん、ナマダイコンのコヌカヅケ」
「初めて聞きます。桔梗と秋海棠なら知っていますけど……」
「変なことを言いますね。花ではありませんよ。普通に考えても花ではないでしょう」
 桂は困惑気味の目を美琴に向けて、そんなことを言う。
 普通ってなんだよ、お前が言うな、と美琴は心中で悪態をつきつつ、
「そのダイコンがどうしたんですか?」
 穏やかに問い返した我が身の忍耐にかつさいを送りたい気分だ。これも大滝主任の教育のたまものかもしれない。
「312号のにいむらさんです。ナマダイコンのコヌカヅケなら食べる、と」
 新村さんというのは八十八歳のおばあさんで、えん性肺炎で入院中の患者さんだ。
 飲みこむ力、いわゆる嚥下機能が落ちてしまい食べるとむせるということを繰り返しているのだが、家族と相談の上、ろうは作らず、食べられるだけ食べさせて見守るという方針になっていた。しばらくは穏やかな時間が過ごせることを見込んでいたのだが、ここ数日はほとんど何も食べず、少量の水分だけ飲んで、黙って横になっている。
「どろどろの重湯ばっかり出てくるから嫌になってきたのかしら?」
「そう思って、がゆに変えてみたのですが、一向、事態は改善しません。それでなんだったら食べるか、と聞いたら……」
「ナマダイコンのコヌカヅケ?」
 そうですと頷いた。
 なんでしょうか? と問われても、美琴にわかるはずもない。
「ほかの誰かに聞いてみましたか?」
「昨日夜勤だった沢野さんには聞きましたが、意味わかんない、と。料理にはあまり興味がないようですね」
 それはそうだ。相手が悪すぎる。患者に向かって診断を聞いているようなものだろう。
 だいたいそんなことより、美琴にとっては目の前の青年医師の顔色の悪さの方が気にかかる。この青白い顔の研修医が、強面の指導医と並んで回診している様は、生半可な感染症よりたちが悪い。
「先生、患者さんのことに熱心なのはいいですけど、少しは休んだ方がいいんじゃないですか。今日だって当直明けですよね」
「休んでいますよ。今だって仕事をしているわけじゃない。ただナマダイコンを……」
「ダイコンくらい調べておきますから、帰ってゆっくり休んでください」
「どうしたの、二人ともずいぶん楽しそうね」
 ふいに口を挟んできたのは、処置台を運んできた大滝である。美琴に向ける目に、意味ありげな光がある。美琴は精いっぱいの抗議の視線を返しながら、
「誰も楽しくはありません。ご自分の睡眠と患者のダイコンをてんびんにかけている先生を諭しているだけです」
「大滝さんは、ナマダイコンのコヌカヅケって知っていますか」
「なにそれ、相撲の一番? 〝まいうみのすくい投げ〟みたいなもん?」
 さっぱり意味がわからない。
 太い腕を組んだ大滝は首をかしげながら、
「信州の郷土料理か何かかしら。そうなると根無し草の私にはわかるはずもないし……」
「僕もこの町に来たのは、医学部に入ってからです。ですが松本育ちの月岡さんも知らないとなると……」
「私は秋海棠も桔梗も知らない人間です。母に聞いておきますから、明日まで待っててください」
「ずいぶん桔梗にこだわるんですね」
「誰のせいだと思っているんですか」
 言ってから、しまった、と唇を嚙んだがもう遅い。桂と大滝の二人が不思議そうな顔で美琴を見返している。しかし助け舟は思わぬところからやってきた。
たくあんのことですよ」
 ふいに降ってきた声に三人がそろって振り返ると、ステーション前の廊下に点滴棒を引きずった長坂さんの姿があった。抗がん剤治療が始まって二週間。少し瘦せた印象はあるものの、大きな変化はない。
「沢庵、ですか? 長坂さん」
「生大根のぬかけ、沢庵のことです。あまり一般的な言い方ではありませんがね。お年寄りの方なんかは、今でもそういう言い方をしますが……」
 遠慮がちに穏やかな笑みとともに答える。
 感心しきったような顔の桂に、
「なにかお役に立てましたか?」
「充分です、長坂さん。長坂さんのおかげで、今日は少し眠れそうです」
「それはなにより」という長坂さんの返答は、「お父さん!」という明るい声によって遮られた。
 ちょうどエレベーターから降りてきた少年が、父親を見つけて駆け寄ってきたのだ。
りよう、ちゃんとお母さんの言うことを聞いていたか?」
「聞いた!」
 明るい声の少年を抱き上げる長坂さんの姿は、そこにある病の深さとあまりに対照をなしていて、にわかに美琴の理解のはんちゆうを超えてしまう。
「長坂さん、経過は良さそうですね」
 何気なく、桂に問いかけたその言葉は、しかし返答を得られず、宙をさまよった。
 ふと見返した青年の横顔は、あの「満開の秋海棠だけは見せてあげたい」と告げたときの、張りつめた緊張を宿していた。

 〈第4回へつづく〉

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