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試し読み

「神様のカルテ」では書けなかったこと――。夏川草介最新刊、第一話試し読み!#2

「神様のカルテ」シリーズで人気の夏川草介氏が最新作で取り上げたテーマは「高齢者医療」。患者の数だけある生と死の在り方に悩みながらも、まっすぐに進む若者の姿を描いた連作短編集の第一話を、まるまる公開します!
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>>前話を読む

 どん、と大気を震わす重い音がして、光の花が夜空に咲く。
 窓越しに空を見上げる車椅子の患者たちから、小さな歓声があがる。青や赤や黄の光に照らされる患者たちの横顔は、いつになく明るい。
「今夜は梓川の夏祭だったのね」
 誰にともなくそんなことを言ったのは、点滴台に夜分の点滴を並べていた主任看護師のおおたきである。身長170センチを超えるひときわ長身で、肩幅も男性並みに広い。その太い腕で淡々と進める手作業は、ゆったりとした風に見えて、まことに無駄なくせいである。しかもいざという時の急変対応は、目をみはるほど迅速かつ的確で、そのかんろくあふれた容姿とあいまって病棟の若手看護師たちの信頼も厚い。わずか五年先輩なだけでこんなに違うものかと、美琴はいつも感心している。
 ちょうどカルテ記載の終わった美琴は、大滝の前に立って手伝いを始めながらうなずき返した。
「晴れて良かったですね。患者さんたち、みんな楽しみにしていましたから」
「そうね、これで雨天中止とかになったら、不穏は増えるわ認知症は進むわで、目も当てられない夜勤になっていたところだものね」
 不穏というのは、患者が、何らかの身体的、精神的なストレスをきっかけに、極度の苛々や興奮状態に陥る病態を言う。高齢の入院患者にしばしば見られ、内科病棟では日常的に目にする光景だが、大声を上げるだけならまだしも、点滴を引き抜いたり枕を放り投げたりなどの危険行動が出現することもあるから、ひとりふたり不穏患者がいるだけでも夜勤者はひどく消耗することになる。
「この分だと、今夜はみんな満足して、ぐっすり眠ってくれるかもしれませんね」
「そう願いたいわ」
 大滝の、あくまで冷静な返答に笑いながら、美琴はステーション向かい側にあるデイルームを顧みた。
 普段は、二、三の人影があるだけのその場所に、今夜はたくさんの車椅子の患者と、幾人かの家族が詰めかけて夜空を見上げている。ステーションからは直接花火は見えないものの、光と音は間断なく続いて、明るい歓声とともに伝わってくる。やたらと大きなテレビの音や認知症患者の唐突な奇声が当たり前の内科病棟では珍しい活気だ。
「昔はこの辺りは何もなくて、遠くからでも花火が綺麗に見えましたけど、最近は建物も多くなってきて、ちょっと残念ですね」
「月岡って、この辺りの出身だったっけ?」
 大滝が、手を止めることなく、面白そうな目を向ける。
「生まれも育ちも松本ですけど……」
「いいねえ、そういうの。私なんて生まれは宮城、育ちは東京で、いつのまにやら松本勤務。流れ流れて根無し草よ。段々南に流れてきたから、来年は大阪くらいにいるかしらね」
「さみしいこと言わないでください。だいたい松本から出たことのない私からしてみれば、そういう大滝さんの方が、素敵だと思いますけど」
「デカブツつかまえて、素敵だなんて、月岡もずいぶん上手になったじゃない」
 そんな言葉を、嫌味のかけらもなく放ってすあけっぴろげなところが、大滝の持ち味だ。美琴は遠慮なく笑ってから、笑ってよかったのだろうかと思わず首をひねってしまう。
 どん、と再び花火が咲き、明るい歓声が聞こえた。
「そういえば、そこの彼も根無し草だっけ?」
 目だけで大滝が示したのは、ステーション奥の端末の前で突っ伏して眠りこんでいる桂だ。ここのところ、進行癌の患者が多く、遅くまで病棟回診をしていることが増えているのだが、さすがに今日は限界を超えたらしい。その肩にタオルケットがかけてあるのは、大滝の気遣いであろう。
「根無し草?」と首を傾げる美琴に大滝が応じた。
「生まれは東京だって言ってたわ。信濃大学に合格したから長野に来て、そのまま残ったんだって」
 へえ、と美琴が感心したのは、東京出身の医学生の多くは卒業と同時に東京に戻っていくと聞いたことがあるからだ。
「月岡って、桂先生と親しいって聞いてたけど、出身地も何も知らないのね。それくらいとっくに聞き出したかと思ってた」
「特に親しくなった覚えはありません。そういう無責任なこと言って面白がっているのは、サワですね?」
「だって面白いんだもの、仕方ないじゃん」と絶妙のタイミングで言葉を投げ込んできたのは、ラウンドから戻ってきたばかりの京子本人である。
「Cチームオッケーです、主任。異常ありません」
「はい、お疲れ様。じゃあ点滴の確認手伝って」
 リョーカイです、と敬礼した京子は、美琴の隣に並んで点滴バッグに手を伸ばしながら、
「男を寄せ付けなかったミコが、今回とうとう動くんじゃないかって、みんなかたを飲んで見守ってるのよ。こんなに面白いことはないわ」
「また勝手なこと言ってるわね」
「せっかくだから、奥手のミコに、新しい情報教えてあげる。桂先生の実家ってお花屋さんらしいわ」
「花屋?」と目を丸くして答えたのは大滝だが、美琴も初耳である。
「だから将来、実家を継ぐことにはならないし、東京に帰る必要はないんだって。これは絶好の獲物じゃない、ミコ」
「あのねぇ」
 呆れ顔で答えながら、美琴は胸の奥でおおいに得心するものがあった。
 桂の花好きは単に趣味の問題ではなかったのだ。花屋の息子にしてみれば、いくら形が似ていても黄色い花を鈴蘭と間違える美琴は、相当不思議な存在に見えたのかもしれない。
「道理で花の色の組み合わせにうるさいわけね」
「なに? 葬式の花みたいだって言われたこと、まだ根に持ってるの? そんなんじゃ競争率の高い戦いに勝ち残れないわよ」
「競争に参加すると言った覚えはないんだけど」
「参加する気がないところが問題なのよ、ミコの場合は」
 京子は、点滴整理と軽薄な雑談を同時に進めて、両方ともに疎漏がない。旧友の器用さには、美琴としても感心するしかない。
「月岡って男に興味がないの?」
 ふいの大滝らしい遠慮のない問いに、京子が待ってましたとばかりに応じる。
「ミコって、高校時代に一度失恋してから、すっかりおくびようになってるんです。このルックスでほんともったいない」
「沢野京子、それ以上しゃべると、頭にソセゴン注射するわよ」
 きゃあ怖い、などと可愛らしい声をあげつつも、その口は止まらない。
「まあ相手の男がちょっと悪かったわね。ミコって面食いだから、タイプにぶつかると結構あっさり落ちるんですよ」
「へえ、私てっきり月岡は男嫌いなんだと思ってたわ」
「潔癖症なだけなんです。男より仕事だなんて威勢のいいこと言ってますけど……痛っ!」
「ごめんなさい、ゴキブリかと思って踏みつけたら、サワの足だったみたい」
 ひどーい、と叫ぶ同期をひと睨みして、美琴は点滴の仕分けを再開する。
 京子とは中学時代からの同級生なのだ。その後の看護学科、梓川病院という進路まで同じになったのは、別に示し合わせたわけではない。むしろ中学生のころから赤だ青だと髪を染めていた沢野は、美琴にとっては近づきがたい存在だったが、こうしてともに働くことになった今では意外に悪い同期ではないと思う。その軽薄さを除いては。
「仲いいわね、あんたたち」
「異議ありです、大滝さん」
 思わず大きな声で応じた美琴は、しかしすぐに口をつぐんで姿勢を正した。ステーションに小柄な白衣の医師が入ってきたからだ。
 背は低いが眼光は鋭く、異様な威圧感を漂わせている。その風貌から『小さな巨人』とあだ名される内科部長の三島である。
 この『小さな巨人』の部屋から聞こえてくる唸り声が「謡」という芸能の一種だと美琴が聞いたのはつい先日のことだが、冗談でも詳細を確かめたいとは思わない。病気も逃げ出すと噂されるその威容に、好んで近づきたいと思うスタッフもいないのである。
 一斉に看護師たちが口をつぐんで業務に戻っていく中、静かにステーションに入ってきた三島は、奥の机で突っ伏したままの研修医を見つけても眉ひとつ動かさない。まるで何事もなかったかのように入り口脇の端末の前に座ってカルテ記載を始めた。
 カタカタとキーボードをたたく音さえ妙に冷ややかで、ステーション内の気温が二度ほど下がった心地だ。そっと目配せをしあって美琴たちが仕事に戻ろうとしたところで、しかしふいに大滝のよく通る声が響いた。
「何か嫌なことでもあったんですか、三島先生」
 美琴たちと話す口調となにひとつ変わらぬ悠々たる調子で大滝が三島に話しかけている。
 傍目には、その体格差もあって、気難し屋の息子をなだめる貫禄ある母親といった景色だが、これはまちがっても口に出せる冗談ではない。
 無表情の副院長はわずかも手を止めず、主任看護師に冷ややかないちべつを投げかけただけだ。他のスタッフならそれだけでしゆくするような視線を前にしても、大滝は格別気にした様子もない。
「今日はいつになく怖い顔をしているじゃないですか」
「妙なことを言いますね、タキさん。この顔は自前のもので、今に始まったことではありません」
「いつもと同じ顔をしていたって、機嫌がいいか悪いかくらいはわかります」
 じんも動じずに大滝が告げると、さすがに三島は手を止めて大滝を顧みた。
「忘れていましたよ。こんな小さな病院にも、優秀な主任看護師がいたということをね」
「今日は救急関連会議だったんですよね。また救急車の件で、もめているんですか?」
「いつものことです。当番日以外もすべての救急車を受け入れられないか、と経営陣からの強い要請がありました」
「その話なら断ったはずじゃ……」
「断りましたよ。今の医師の数では到底不可能だとお答えしたばかりです」
 その話なら美琴も耳にしたことがある。
 梓川病院は夜間救急の当番日を週二日と設定し、その他の日は原則的に夜間救急患者を受け入れていない。この小さな病院の限られた医師だけで二十四時間、救急車を受け入れるなど、とてもできない相談だから当然といえば当然なのだが、この病院に受け入れを断られると、市街地の大病院まで一時間近く搬送しなければいけなくなる。周辺地域の高齢化が急速に進んでいることも絡んで、いつでも患者を受け入れてほしいという地域からの強い要望があることもまた事実なのだ。
「今年は研修医もいますからね」と三島はステーションの奥に目をやった。
 そこにはいまだくうくうと心地よげな寝息を立てている桂の姿がある。
「医師の協力さえ得られれば、夜も日中と同じように救急部を稼働できるはずだ、というのが経営陣の意見です」
「夜働いたからといって、翌日が休みになるわけじゃないですよね?」
「そうですよ。どうも現場にいない連中は、医師を全自動医療ロボットか何かだと勘違いしているようでしてね。夜勤で働いている他の職種と違って、医師だけは当直でやっているということの意味が理解できないようです」
「で、どうしたんですか?」
「無理だと言うのは簡単ですが、そうもいかないでしょう」
 三島は深々とため息をついた。
「地域から求められていることもわかりますからね。すべての患者を受け入れるのは困難ですが、近隣の高齢者の搬送を中心に可能な限り受け入れていくようにする、というのが落としどころです。地域を守るのは病院の務め。しかし部下を守るのは上司の務め。どちらかだけを考えればいいのであれば、これほど気楽なことはないんですがね」
 にこりともせずそんなことを言う。大滝は微笑とともにうなずき、そのまま奥の休憩室に入っていった。
 しばし三島のキーボードを叩く音だけが機械的にステーション内に響く。束の間冷ややかな緊張感が漂うステーションに、やがて大滝が再び姿を見せたときには、右手にれ立てのコーヒーを持っていた。
「先生は、かっこいい仕事してると思いますよ」
 さらりと告げながら三島の手元にカップを置く。置かれた方は一瞥を投げかけただけで手を止めようともしない。
「かっこいい仕事をしたからと言って、気持ちが晴れやかになるわけではありません」
「じゃ少しでも晴れるように温かいうちに飲んでください。インスタントでも愛情だけはたっぷり注いでおきましたから」
 一瞬キータッチの音が途切れたが、すぐに抑揚のない声とともにまた指が動き出した。
「それは困りますね。私は胃腸があまり丈夫ではないんですよ」
 不愛想なその返答の中にも、かすかな苦笑が交じったように美琴には思えた。と同時に先刻までのぴりぴりとした空気がわずかにゆるんだように感じられたのは気のせいであろうか。
 ふいに窓外が青く光り、少し遅れてかすかに花火の爆音が聞こえてきたときには、もう大滝も何事もなかったかのように自分の仕事を再開していた。
「大滝さんて、やっぱすごいわね。あの三島先生相手に」
 京子の小さなささやきに、美琴もうなずくしかない。
「この前、大滝さんに言われたわ。できる看護師ってのは、処置がうまかったり、患者に寄り添うだけじゃだめだ。うまく医者を動かす看護師のことだって」
「医者を動かす看護師?」
「看護師の立ち回りひとつで、医者の動きは全然変わるんだから、そのことを自覚しなさいって。そんなもんかしら」
 唐突なその言葉が、しかし美琴にはなんとなくわかる気がした。
 救急部で働いていたときも、島崎師長のいる日はどれほど忙しくても医師たちの動きには活力があり、不思議なほど物事が速やかに進んでいったものだ。深夜の救急部に立て続けに、家族のいない寝たきり患者が搬送されてきたときなど、処置室全体に、徒労感とでもいうような重苦しい空気が沈滞することがある。それが、島崎がいるかいないかで、がらりと変わるのである。
「でも、あんな変な先生たちの機嫌とって、持ち上げて、仕事回していくなんて、私には無理」
 あっさりとかぶとを脱ぐ京子に、美琴は苦笑する。
「別に医者がみんな変人ってわけじゃないでしょ」
「甘いわね、ミコ。先生たちの生活見てたらわかると思うけど、まともな神経の人には耐えられる環境じゃないわよ。私たちはどんなに忙しくても時間がくれば帰れるけど、先生たちは……」
 ちらりと京子は、まだ小さくいびきをかいている桂に目を向ける。
 美琴は反論の言葉を持たない。実際、いつ院内PHSにかけてもほとんどつながるこの青年は、まともに家に帰っているのだろうかと心配になる。
「ま、どっちにしても私、医者にならなくて心底良かったと思ってるわ」
「その点なら私も同感。サワが医者にならなくて、本当に良かったと思うわ」
 あ、それなんかひどい、と頰を膨らませる京子に美琴は小さく笑った。笑いつつ、すでに普段の業務に戻ってカルテを整理している大滝にちらりと目を向けた。
「医者を動かす看護師、か……」
「なんなら、大滝さんのコーヒー作戦実行してみる? ミコなら、どれくらい医者を動かせるかしら」
 京子が意味ありげな目をしたのは、ちょうど桂が寝ぼけ眼で頭を上げたからだ。
 一瞬点滴ボトルを持った手を止めた美琴は、すぐに目の前の友人に冷ややかな目を向けた。
「遠慮しとく。あなたにまた新しい噂のネタをあげるだけだもの」
「ちぇっ、つまんないの」
 ふたりの控えめな笑い声をかき消すように、ひときわ大きな花火の音が響いた。

 〈第3回へつづく〉

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