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試し読み

「神様のカルテ」では書けなかったこと――。夏川草介最新刊、第一話試し読み!#1

「神様のカルテ」シリーズで人気の夏川草介氏が最新作で取り上げたテーマは「高齢者医療」。患者の数だけある生と死の在り方に悩みながらも、まっすぐに進む若者の姿を描いた連作短編集の第一話を、まるまる公開します!
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第一話 秋海棠しゆうかいどうの季節

 医者ってどうしてこう、変なのばっかりなんだろ……。
 美琴は、病棟スタッフステーションで、センターテーブルにひじをついたまま、そっとため息をついた。
 ちらりと視線を走らせれば、ステーションの入り口近くで、じっと電子カルテの端末と向き合ったまま、微動だにしない白衣の男がいる。まだ二十代の半ばのはずだが、頭髪には妙に白いものが交じっていたり、無精ひげがちらほら見えたりと、なかなかにくたびれたふうぼうだ。にもかかわらず、目元にだけはしんのある真っ直ぐな光をたたえてじっと電子カルテとたいしている。
 時計を見れば、夜の十一時。
 すでに廊下の明かりは消えて夜間灯だけとなり、窓の外も真っ暗だ。
 病棟は静まり返り、美琴たち夜勤の看護師たちがラウンドや点滴の確認のために行きかうナースシューズの軽い音が響くだけである。ときどきどこかの部屋で認知症の患者が大声をあげたりするのは、いつものことで特別な対処が必要なわけではない。
 そんな夜中の病棟で、先刻から一時間近く、腕を組み、じっとモニターを見つめたままでいるのは、今年この梓川病院に来た一年目研修医の桂しようろうである。
 桂が美琴のいる内科に来たのは、つい二週間前のことだ。桂とは、四月に一度だけ救急外来で会話を交わした記憶があるものの、それから三か月間は外科で研修していたとのことで、ほとんど接点がないままに過ぎていた。最初の出会いが一向にみ合わない会話であっただけに、妙にはっきりと印象に残っていたから、美琴にとってはあれから三か月も経っていたということが不思議なくらいだ。
 もっとも、桂の風貌が、当直明けで花瓶の水を替えていたときと同じように、寝ぐせ頭でくたびれていたおかげで、久しぶりの感じをまったくさせなかったということもあるだろう。
「桂先生だっけ?」
 そっと美琴の耳にささやいてきたのは、ラウンドを終えて戻ってきた看護師のさわきようだ。トレードマークの派手な髪の色は、師長から注意を受けるたびに一度は黒くなるのだが、一か月もすればまた別の色に染まっているから、会うたびに色が違う。今月は明るい栗色だが、いったい何色を目指しているのか同期の美琴にもよくわからない。
「ずっとあのままなの?」
「みたいね」
 京子はあきれ顔で肩をすくめて奥の機材庫の方へ行ってしまった。
 夜のこの時間は、患者さえ落ち着いていれば、看護師たちにとっては、ちょっとしたおしゃべりを楽しむ余裕が生まれる時間だ。実際、今夜は静かなものだが、研修医とはいえ医師がひとりいるだけで、それなりに看護師たちも気を遣う。なんとなくぎこちない空気がステーション内に満ちているのだが、研修医の方は一向気が付く様子もなく、じっと腕を組んでモニターをにらみつけたまま、ぴくりとも動かない。
 医者ってのは、ホント気が利かない人ばかり……。
 美琴がなんとなくいらっているのは、今夜の夜勤のリーダーが彼女であり、後輩たちから無言のプレッシャーを感じるからだ。要するに「なんとかなりませんか」という空気である。
「桂先生」
 美琴は、とうとうしびれを切らして声を発していた。
 迷った末に発した言葉に、しかし相手は振り向きもしない。
 美琴はいくらかまゆを寄せてから、声を大きくした。
「桂先生!」
 はい、と初めて夢から覚めたように、青年医師は驚いて振り返った。
「なにかありましたか? 月岡さん」
 美琴が戸惑ったのは、内科にきてまだ二週間の研修医が、正確に自分の名前を覚えていたからだ。医者にしては珍しく、ちゃんと看護師の顔と名前を覚える人らしい。
「なにかありましたか、とお聞きしたいのは私の方です。大丈夫ですか? もう一時間近くそうして座っていますけど」
 不思議そうに二度ほどまばたきした桂は、にわかにはっとしたように、
「ああ、僕のことですか」
 やりにくいことこの上ない。
ながさかさんのことで、つい考え込んでしまっていたようで……、十一時!? いつのまに」
「長坂さんて、208号のですか?」
 相手のテンポに飲まれないように、美琴は慎重に話を進める。
 208号の長坂まもるさんは、四十八歳のすいぞう癌の患者だ。
 圧倒的に高齢者の多い内科病棟の中では、珍しく若い年齢であるが、癌そのものは発見時すでに手術の難しい病期まで進行しており、抗がん剤治療について検討中だったはずである。
「指導医の三島先生から、二日後の長坂さんへのIC(インフォームドコンセント)を僕がやるようにと指示されたのです。やらせてもらえるのはうれしいのですが、今回のような難しい症例のICは、まだ経験がありません。それでどう話すべきか頭の中でシミュレーションをしていました」
「はあ……」
「ところがいざICを始めてみたものの、思っていた以上にうまく説明できず、長々と話した末にまとまりがつかなくなって、かえって長坂さんを混乱させてしまいました。声をかけてもらってよかったです」
 美琴は軽く額に手を当ててから、
「それ全部、頭の中の話ですよね?」
「もちろんですよ、現実だったら大変です」
 大真面目に答える姿に、美琴は深々とため息をついた。
 最初に救急部で出会った時も、どこか風変わりな印象を受けたが、どうやらその印象は間違いではなかったらしい。
「すいません。余計な心配をおかけしたようで」
 おもむろに頭をさげる桂に、美琴も慌てて両手を振る。さすがに目の前であからさまなため息をついたのは、失礼であったかもしれないと、いくらか気持ちを切り替えて、美琴はつけくわえた。
「長坂さんはしっかりした方です。膵癌が大変な病気だということは十分わかってらっしゃるみたいですから、いろいろな理屈を言うより、〝一緒にがんばりましょう〟という気持ちを伝えることが大事なんじゃないですか?」
 いくらか取り繕うようなその言葉に、しかし桂は感心したように美琴を見返した。言動は奇妙で風体は粗雑だが、向けられる目にしんな光がある。その目で「ありがとうございます」と改めて言われると、美琴もなんとなく落ち着かず、「早く休んでください」などと、自分でも意外な気遣いがこぼれ出た。
 うなずいて立ち上がった研修医は、ふと思い出したように受付に飾られた花瓶に目を向ける。
「さっき沢野さんから聞きましたが、あの花、月岡さんがアレンジしたんですよね?」
 カウンターには、紫陽花あじさいやヤナギランがほどよくまとめられて小さな花瓶に生けられている。殺風景なステーションの中ではささやかではあるが明るい彩りだ。
「患者さんたちから頂いた花をいくつか集めて飾っただけですよ。アレンジって言うほどじゃありません」
「そうですか」とうなずいた桂は、そのまま足を止めて花を見つめている。
 ふいに美琴の脳裏に浮かんだのは、救急外来の窓辺を飾っていた黄色い花だ。花の名前を間違えた苦い思い出は別として、このくたびれ顔の研修医はよほど花が好きらしい。
 カウンターを飾る花は、美琴としては片付けるには惜しいと思って生けただけのものだから、花好きの青年に改めて注目されると妙に気恥ずかしい。
「なんとなくまとめただけなんですけど、れいですよね」
「綺麗ですけど」と桂は美琴を顧みた。
「青と白の花だけのアレンジはやめた方がいいですよ。葬儀用の供花みたいです」
 さらりと告げられた言葉に、美琴の白い頰が軽く引きつる。
「余計なお世話かもしれないと思いましたが、ICのアドバイスを頂いたお礼です」
 みるみる顔を赤くしていく美琴の変化には気づきもせず、にこやかに一礼した桂は、そのままステーションに背を向けて去っていった。
「なかなか手ごわいわね。今度の研修医」
 面白がるような声は、いつのまにか戻ってきた京子のものだ。
 じろりと美琴が目を向けた先で、京子はさも納得したようにうなずいている。
「たしかにミコの生けたあの花、なんかえない色の組み合わせじゃない?」
「あんた、さっきはすっごく綺麗とかなんとか言ってなかったっけ?」
 そうだったかしら、などと鼻歌交じりに応じながら京子もまた廊下に去っていった。
 美琴はしばし花を睨みつけ、それからようやくため息をついて花瓶に手を伸ばした。

「久しぶり、月岡。元気でやってる?」
 張りのある声に美琴が呼び止められたのは、昼休みの職員食堂でのことである。
 いつものA定食を盆に載せて、どこに座ろうかと辺りを見回していた美琴は、テーブルの一角で手を振る救急部師長の島崎を見つけて歩み寄った。
「島崎さん、お久しぶりです」
 会釈とともに隣に腰かける。
「病棟勤務はうまくやってる? ちょっとせたんじゃない?」
「そうですか?」
「冗談よ。一年目からものじせずに救急部を駆け回っていた月岡が、仕事のストレスくらいで瘦せるわけないじゃない」
 あっさりと前言を翻して、島崎は明るい笑い声を響かせた。その明るい笑顔をふいに意味ありげな笑みに変えて島崎が続ける。
「さっそく病棟で、御活躍みたいね。意外に手が早いじゃない」
「は?」
「桂先生よ。ICに悩んでいた研修医君を励ましてあげたんでしょ。そういうの興味なさそうなこと言ってたけど、意外にやるわね、月岡」
 驚いた美琴は、慌てて応じる。
「そういうんじゃありません。一体どこから出てきた話ですか」
「さあ、どこかしらね。右も左も年寄りばっかりの病院だもの、若い男女の話はすぐに広まるわ」
「若い男女の話って……」
 抗議の声をあげかけたもののすぐに思い当たって眉をひそめた。
「サワですね?」
「沢野に限った話じゃないわ。そこらじゅうから出てきた話よ。看護師の世界なんて、噂と妄想でできてるんだから、不用意な月岡が悪いのよ」
「不用意も何も、空気の読めない相当変な先生ですよ」
「変だからってなによ。大事なことは、新しく来た医者が若いってことと独身だってことだけよ。ICひとつに一時間も悩んでいようと、花瓶の花の色に文句をつけようと関係ないわ。おいしそうな肉が鉄板に載ってれば、少しくらい生焼けだって、食べちゃうでしょ」
 プレートの上のハンバーグにぶすりとはしをさして島崎は笑う。
 どういうたとえなんだか……、と美琴は呆れるしかない。
「だいたい変な医者なんて、桂先生に限ったことじゃないじゃない」
「それは賛成です」
 美琴はミニトマトを口に投げ込みながら、即答する。
えんどう院長は呼吸器内科が専門なのにヘビースモーカーだし、外科のまる先生は飲み会のたびに平気で看護師を口説いてるし、ただでさえ愛想がなくてこわもての三島先生の部屋からは始終変なうなり声が聞こえてくるし……」
「あれ、うたいって言うのよ。かん流とかなんとかって、伝統芸能の一種」
 芸能? と美琴はあからさまに呆れ顔をする。
「あの変な声が伝統芸能?」
「大きな声で言わない」
 島崎は顔を突き出して、美琴の勢いを押しとどめた。
「あんたね、意外と先生たちに対して遠慮がないんだから、もう少し気をつけなさいよ。この前なんて丸谷先生とけんしたんでしょ?」
「喧嘩ってほどじゃありません。ただ患者さんの急変で夜にコールしたら、泥酔して何言っているかわからなかったから、ちょっと怒っただけです」
 美琴としては正論を述べたつもりだが、島崎は微妙な苦笑を浮かべている。
「だめですか?」
「だめとは言わないわ」
「患者さんが具合悪いのに、酔っぱらって電話の向こうから看護師を口説きはじめる先生に、愛想よくしろって言われても、私無理ですよ」
「気持ちはわからなくはないけどね」
 箸をくわえたまま、でも、と島崎は続ける。
「その理屈で行くと、先生たちは夜だろうと休日だろうと、入院患者を持っている限り、お酒に酔っちゃいけないってことになるわね」
「それは……」と言いかけて美琴は返答に窮する。
「色々見えてくるのは成長のあかし。でもその程度で怒るのは未熟の証。採血やオムツ交換がうまくなるだけが看護師の仕事じゃないわよ」
 美琴が思わずどきりとしたのは、自分の胸中にあるもやもやとしているものを言い当てられた心地がしたからだ。ちょっとした処置の介助や急変時の対応なら少しは自信がついてきている。けれどもそれで収まってはいけないということは、なんとなくわかる。少なくとも、島崎は処置がうまいだけの看護師ではない。問題は、どこに向かえばよいのか、自分でもよくわからないということだ。
 眉を寄せて黙ってしまった美琴を、島崎は穏やかな微笑で眺めている。
「まあ、どっちにしても」と、にわかに箸をのばして、美琴のプレートからハンバーグの一切れをひょいとつまみ上げた。
「そんな変人ばっかりの先生たちの中じゃ、桂先生なんてまともな方でしょ」
「わざわざ桂先生の話に戻さなくてもいいです」
「なに、嫌いなの?」
「別に嫌いとか好きとかって……」
 戸惑う美琴の脳裏を、ふいに先日の長坂さんのICの風景がよぎった。
 研修医の桂は、長坂さんご夫婦を前に、ひとつひとつ落ち着いた物腰で説明し、時には少し考え込み、時には質問に答えつつ、最後まで話を終えてみせた。頼もしいとは言えなくても確かに伝わるものがあったようで、長坂さんは最後まで落ち着いて聞いており、厳格で知られた指導医の三島も、背後に座ったまま一言も口を挟まなかった。
 ICの最後に「一緒にがんばりましょう」と桂が告げたとき、美琴は思わず胸の内で苦笑したものである。
 プルルとふいの呼び出し音に、美琴は我に返る。島崎が箸をくわえたままPHSに応じ、はいはいと答えてのち、PHSを切って美琴に肩をすくめてみせた。
「救急車、行ってくるわ」
「お疲れ様です」
「いいこと、月岡」
 と立ち上がりながら、にわかに箸を振り上げて、
「バーベキューの鉄則は、とにかく早く箸を突き出すこと。肉の焼け具合なんて、皿に取ってから確認すれば済む話なんだからね」
 じゃね、と軽快な声をあげて島崎は去っていった。
 美琴はその背を見送りつつ、取った肉が生焼けだったら鉄板に戻すのだろうか、などとどうでもいいことを考えていた。

 〈第2回へつづく〉

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