「王の子を産むか、さもなくば死か」次期皇帝を選ぶ道具にされた少女は、触れただけで男を殺せる伝説の民と出会った。
連載中から反響の大きかった、高殿円さんの『忘らるる物語』。単行本発売を記念して、第1章を特別公開します!
『忘らるる物語』試し読み2
女兵士は、何の感慨もないような顔で胸元を整え、肩や
──いいかい、ぜんぶ本当のことなんだ。女を暴力で犯そうとした男は、一瞬でパッと
一年に一度の、馬のたてがみを切るための神聖な祭り。その準備のために刃物に火をいれ、念入りに研いでいるとき、女だけが集まった幕屋で夜通し年老いた
たしかあの女は、こうも言っていたのではないか。にわかには信じられずに笑い合う娘たちに向かって、
そう、指一本、あの男だって片手で乳房を摑んだだけだった。背後にいた男はもっと早くから女の体に触れていたけれど、女の肌には直接触れず脇に腕を入れて羽交い締めにしていた。もう一人の男は女の服の合わせに手をつっこんでじかに乳房をまさぐろうとしたのだ。そしてその直後に手が膨らんで指の骨が破裂した。
「来ないでいいと言ったのに」
女はもはや環璃の顔も見ず、洞穴のほうへ戻ろうとしている。環璃は男たちであった、いまはもうよくわからない肉の縮んだ塊のほうへふたたび目をくれた。不思議なことに、あれほど光を放ち美しかった花ははや枯れて、木の葉のように土の上に散っていた。あれではもうほかの木の枝や葉の
「あの、青い花はなんなの」
環璃は女に言った。
「なんであいつらは、千々になって消えたの」
女は座って火を熾こし始めた。泥炭燃料を使ったからか、環璃よりずっと早く炎が
「ねえどうして」
「座っていろ。お前はまだ傷ついている」
「傷なんて」
ない、と言い切ろうとして思いとどまった。女の言うとおりだ。まだ、自分を襲った男の手の感触を覚えている。思い出すたびにざわりと鳥肌がたつ。
「……あなただって、されてた」
「そうするように仕向けた。乾いた山でやたら血を流せば冬ごもりに失敗した獣たちが集まってくる。ああすれば危険なものは来ない」
「どうして来ないの」
「この山では獣より、私のほうが恐ろしいからだ」
座れ、と言われて火の近くに座った。いつの間にか日が暮れて
じっと火を見つめていると、小さな鉄鍋の中でふつふつと湯が沸いた。女はその中に乾燥した肉と山藻、それにいくつか見たこともない乾物と米、塩の塊を入れて
(生きている。炊飯のにおいを
女は使い込まれた木の
「ありがとう。でもこれはあなたの食事だわ」
「私は腹がすかない。痛みも感じない。寒さも暑さも、まったく感じないわけではないが人よりずっと鈍い。カミが来てから三日食わずに戦えるようになった」
「カミ」
思いもかけない返事だった。
(〝ようになった〟ということは、変わったということなのかしら。人ではないものになったということ……?)
彼女の使う言葉をうまく理解できないまま、環璃は受け取った木の椀を両手で持ち続けた。温かい。お椀がではなく、目の前でよそわれる食事が。たったそれだけのことが、環璃のさび付いて朽ちかけた心をもう一度動かそうとする。
「どうした、禁忌にふれるものでも入っているのか」
「いいえ、わたしが食べられないのは鹿肉だけ。知らずに口にしたぶんはお見逃しくださる
一呼吸おいて汁をすする。こんなにおいしい食事は久し振りだった。
「ワリ、というのが名なのか。聞いたこともない名だ」
「血族の女はそのとき必要なものの名を付けられる習わしなの。ワリは泉。その年はクニの水場がいくつか
「私はチユギ」
それも珍しい響きだった。少なくとも環璃の知っている人間で同名の者はいない。
「どんな字を書くの?」
「ただの呼び名だ。みだりに字にすることは禁じられている」
「もしかして、あなたは死の海のむこうの、人の足ではたどり着けるかどうかわからない険しい山の裂け目から来たの?」
「なぜそう思う」
「
「間違ってはいない。よりしろという言い方が合っているかはわからない」
チユギは指の先を水で洗い、二本の指を使って器用に
「
「そうか」
「
「結婚するのか」
「そうじゃない。
興味なさそうにチユギは頭を振った。
「じゃあ、
「それは知っている」
「いまの帝の治世六年の二年前、そこの
「なんのために?」
「王と寝るため」
チユギが
「なぜそんなことをする」
「王と寝て二月ほど共に過ごす。その間に子ができれば、その藩王が次の帝になる。わたしは皇后になる」
「子ができなければ?」
「次の国に行き、次の国の王とまた二月寝る」
「そしてまた、子ができなければ次の国へ、か。それでも子ができなければどうなる?」
「簡単なことよ。わたしは殺され、次の皇后星が立つだけ。また占いで哀れな鹿や馬が生きたまま焼かれて、その死に様を見て卜部たちがあれこれ決めるのだと思う。わたしにとってはどうでもいいことだけれど。だから皇后星には子を産んだことがある健康で若い女が選ばれる。そういうことになっている、らしいわ……。昔から。いつからか、なぜなのかはよく知らない」
残っていた粥を
「帝はお前を次の皇后星にするために、お前の一族を根絶やしにしたのか」
「そうよ」
「お前は産んだ子のために生き続けているのか」
「そうよ」
それ以外に生きる意味を見いだし得なかった。たとえ氏族の掟が自殺を禁じていても、環璃にとってもう滅びた民の掟などなんの意味もない。反対に、あの子のためなら、環璃は禁忌であった鹿の肉でもこの手で
「わたしが皇后になれば、いまは別の氏族に預けられている我が子は次の帝の子の兄になる。もう一度氏族の名を復活させるにはそれしか方法がないの」
「子がすでに死んでいるとは思わないのか」
クッと環璃は笑った。そんなこと、もうひゃくまんべんだって考えた。自分は
「そのあたりは、帝心中(帝の側近たち)もちゃんとわかっているのよね。わたしはあの子と引き裂かれる前にあの子の手のひらの朱印をもらったの。人の手のひらには
環璃は胸帯の中に挟み込んでいる紙を取り出して、手のひらで
「赤子は人質か」
「人質よ。でもこれだけがわたしを正気でいさせてくれる。
紙には涙のあとがある。朱印がにじんではいけないといつも鼻が痛くなるほど涙を
カミではなかった。一族を守ってくれなかった。
(見過ごさず屠ればよかった。ぜんぶ食ってやるのだった)
「どうしてあの男らは、あんなふうに死んだの?」
鍋から粥をさらったあとは、さらに水をいれ酒かすと香草を入れて飲み物をつくる。鍋にこびりついた米まで無駄にしないのと同時に、傷んだ食べ物で食あたりしないように酒と薬を体に入れるのだ。
「私は確たる神……、
「確神……」
「われらの神はわれらの中に住まう。女の体の子が生まれる袋の中に神がおわす」
「
「男には子宮がない。だからわれらがカミは男を嫌う」
チユギはまるで
旅慣れている。チユギはいったいどんな暮らしをしているのだろう。そういえば、荷物は人ひとりで運ぶにはずいぶん多い。
「環璃と言ったな。これから私と来るか」
「あなたと?」
「お前はいま無力だ。だが、確神に選ばれれば子を取り戻せるだろう」
差し出された袋を受け取った。てっきり水かと思っていたが、かなり強い
久し振りに口にする酒はおいしかった。殴られ、口の中がぐちゃぐちゃになったあと血止めのために飲む酒とは比べものにならない。
「あなたと共に行ったらどうなるの」
「我々のクニは火の山の裂け目だ。常に地中から毒の
「そういう生き方もあるのね。山の暮らしね」
キルカナンの山々に住む人々で、似たような暮らしをしている氏族と交流をもったことがある。彼らも水晶や緑柱石といった鉱物を採掘し、それを売って暮らしていた。もっともあの山は一度も噴火したことがない。火を噴く山があることは知っている。湯治場へ向かう裕福な隊商を見送ることは珍しくなかった。
「ねえチユギ。あなたのような体になるには、どうすればいいの? 確神に選ばれるためには」
「確神のおわす山に行き、そこでしばらく眠るだけだ。お前が花のようだと言ったものが一面に生えている谷がある。そこには無数の彩のカミがいらっしゃる。そこで暮らしているうちに、確神のうちのお一人がお前を選ぶ」
「選ばれたかどうかはどうやってわかるの」
チユギは腰の紐を緩め、胸の合わせから両腕を抜いて上半身をあらわにした。そうして、背を向けた。骨と骨のくぼみに青い花が浮き出ている。あの男たちを襲って食った肉の花に似ていた。
「背の辺りにしるしが現れる」
「まだらの、入れ墨のようね」
「私の確神はおとなしい。私が怒るまでめったに外には出てこない」
「ひとりひとり、宿すカミは違うの?」
「全く同じ紋様は見たことがない。我々は自分たちのことを
「斑」
「……わたしが知る限り、あなたたちがいう確神は、
「外から来た者の中には、そのように言うものもいた」
では、寝ている間に菌類が体内に入り込み、女の子宮に定着するということだろうか。そして子を
(なるほど。男には子宮がないから、菌類にとっては無用な肉なのだ。だから、あのように攻撃しすべて食らい尽くしてしまう)
「一月に一度、女は血を流すだろう。それがなくなる。あの血を吸って確神は体内に
「そうよね。そういうことになるわ」
「だが、代わりに力を得る。たとえば十人の
そう言うチユギの態度から、彼女が無敵の戦士であり、いままでどんな屈強な相手にも負けたことがないのだということがありありと
「でも、子を産めなくなるのね。男に触れられないということは、犯されることもないかわりに恋人をつくることもできないのね。抱き合うことも」
「そうだ。だから確神のおわす山には、夫が死んで操を立てるか、子を産み終えた女だけが暮らしている。だいたい皆四十を超えている」
「四十!」
環璃はまじまじとチユギの顔を見た。
「あなたもそうなの」
「私はもっとだ」
さらに驚きを重ねることになった。小柄だということを差し引いても、チユギはどう見ても、二十代前半のようにしか見えない。顔にはひとつの皺もなくつやがあり、髪は黒々としてよく
「見えないわ。あなたも子を産んだことがあるの?」
「いや、私は……」
珍しく彼女が歯切れ悪く
「男に触れられないということは、産んだ子が男の子だったら、もう、その子にも触れられないってことよね。もちろん恋人にも」
「そうだ。確神は怒りを感じたときに表面に出てくる。だから、平常時触れたぐらいで相手がすぐに灰になったりはしない。だが、万が一ということもある。男が彩の谷に入ればたいてい発作を起こして死ぬからだ。だから、谷に行くときは、みな男の家族とは別れる。二度と会えなくても、二度と触れ合えなくても守るべきものがあるという覚悟をもって決別する」
「二度と会えないの?」
「月経が終われば、確神は去る」
ああそうか、と環璃は吐息した。歳をとって月のものがなくなるまで生き延びれば、もう一度
「それまでも、遠くから見ることはできる。谷と谷を挟んで、親子が会う。麓の集落には男の兵士もいるから、彼らにおまえの赤子を
「あなたも」
そうしているの、と聞きそうになって、環璃はその質問が彼女を困らせることにすぐに気づいた。
「あなたも、谷の兵士たちも、もうこの手に抱きしめられなくなってもいいから、いのちを守ることを選んだのね。体の中に菌を住まわせて、その力を借りて、どんな兵力にも勝る方法を手に入れたのね。たしかに茸は毒をもつものも多いわ。幻覚を見せる茸もあるし、匂いを嗅いだだけで酔っ払ったようになるものもある。干したものを
それから二人、小さくなっていく火を見つめながらいろいろな話をした。チユギの話す彩の谷の話はどこかおとぎ話めいていて、この目で男たちが
けれど、いまはそれが真実であることを知っている。
ともに来ないか、とチユギは言った。彼女は環璃が、これからただの子を産む道具として、行く先々で男たちにどのような扱いを受けるのか知って、谷に来ないかと声をかけてくれたのだろう。
(もし、彼女の誘いを受ければ、わたしはどうなるのだろう)
(つづく)
作品紹介
忘らるる物語
著者 高殿円
定価:2,090円(本体1,900円+税)
発売日:2023年3月10日
男が女を犯せぬ国があるという。
辺境の王族として生まれ、幸福な結婚をしたばかりの環璃は、突如たったひとりになった。広大な大陸を統べる燦帝国の次期皇帝を選ぶための籤、”皇后星”に選ばれたからだ。一族はすべて皆殺し、産んだばかりの息子を人質に取られ、環璃は候補の王たちと寝るためだけに国々を巡る。絶望の淵に突き落とされた彼女が出会ったのは、触れた男を塵にする力をもつチユギという名の戦士だった……。
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