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試し読み

ともに行こう、男が女を犯せない国に。「トッカン」「上流階級」シリーズ著者・高殿円の新たなる代表作!『忘らるる物語』試し読み#03

「王の子を産むか、さもなくば死か」次期皇帝を選ぶ道具にされた少女は、触れただけで男を殺せる伝説の民と出会った。
連載中から反響の大きかった、高殿円さんの『忘らるる物語』。単行本発売を記念して、第1章を特別公開します!



『忘らるる物語』試し読み3

 揺れている環璃の心を知ってか、チユギが言う。
「麓の村を見てから決めてもいい。麓には、氏族の子供と職人、それから老人がいる。若い男は行商に出ている。ようへいとして雇われているものも多い。一月に二度ほど、私達が裂け目から玉となる石を取り出したり、売り物になる鉱物を集めて山の下へ降ろす。麓の村で選別されて、売りに出される。代わりに、食料をもらう。そうやって何百年も暮らしてきた」
 たしかにチユギの言うとおりだ。たとえ麓と山に別れて暮らしていても、いまのように遠く離れて生きているのか死んでいるのかわからず、三月に一度の便りだけを生きがいにして、権力を得るため環璃をただただ孕ませようとしてくる男たちに抱かれ続けるより、ずっとましである。
「わたしが確神に選ばれたら、なにをすればいいの。ただでよそものを受け入れてくれるわけではないわよね」
 チユギの口ぶりでは、その山の集落も麓の集落も、ほかの村や氏族と積極的に婚姻関係を結んでいるようには聞こえなかった。しかし、できるだけ遠くの氏族と婚姻し、縁戚関係を広げておかなければ、いずれ子が生まれなくなる。
 だとすれば、チユギたち果ての民はもっと別の手段で外部の血を受け入れているということになる。チユギがいま、環璃にしているように。不幸な女を救い、代わりに村の男と婚姻させる。環璃はまだ若いから四十になるまでに二人ぐらいは子を産めるだろう。
 そして、四十になれば確神を受け入れヤマを守る戦士になる……。そうせよと言っているのだろうか。
「村の男との婚姻を条件にするつもりはない」
「でも、わたしは金も銀ももたない。この身しか差し出せるものがないわ」
「身ひとつでいい。仕事は山ほどある」
 もしかして、チユギたち確神を受け入れた人々にはまだ他に底知れない秘密があるのではないか、と環璃は感じていた。山で採掘した鉱物を売って暮らしが成り立っているのなら、チユギはなぜここにいるのだろう。行商なら麓に住んでいるという村の若い男たちが売りにでるはずだ。しかも、ひとたび確神を受け入れれば彼女たちは、男性との接触をさけねばならない。でなければ、ふとしたことで出会う男すべてを灰にしてしまう。なのに、彼女は旅をしている。
(チユギは行商をしているのではない。あの荷は売り物などではない。彼女は、密偵をしているのだ、もしくはだれかを殺す仕事を請け負っている……)
 北原で暮らしていると、水のある場所が限られているので、当然どのような人間もそこを通らざるを得ない。行商人も巡礼の隊商も輿入れの行列も逃亡者も、みな環璃たちの集落で水を乞い、食べ物をねだった。だからその人間が去ったあと、あれはどういう人だったか、なぜ、なにをしているのかを自然に覚えた。密偵や間者の類いはすぐわかる。一人で行動し、できるだけ人に会わないみちを選ぶからだ。
 チユギは、なにか仕事を請け負い、それを果たした帰りなのだと環璃の勘が告げていた。であるなら、チユギたちは神の力を人殺しやちょうほう活動に利用していることになる。
「あなたたちには敵がいるのね」
「いる」
 隠すつもりはなかったのだろう。チユギは即答した。
「だれと戦っているの」
「帝の軍だ」
 ああ、と環璃は息をはいた。すべてが符合した気がした。
「あなたたちが異教徒だから?」
「そうだ。そして帝は私たちの力を、確神の力を恐れている。ヒトを滅亡させる死病そのものだと宣言し、過去に何度も軍を送っている」
「それで、どうなったの」
「わかるだろう。我々は滅びていない。どんな兵を送ってこようが、果ての民がひとたび怒ればどんな兵士でもみな触れただけで灰になる。誰一人として生きて帰さなかったから、都には正確な情報が伝わっていないだけだ。だが、いつの時代も生き残った者がいたらしい」
「女ね」
 環璃たちの氏族の娘に、確神のことを教えた婆がいたように、どんなに秘密にしようとしても声は漏れるものだ。誰か一人が逃げ延びて真実を伝えた。ただし、それが恐ろしい死の病とは言い伝えはしなかった。
 女たちを救うカミだと教えた。決して男の暴力に屈しない、踏み荒らされなくてもいいための力を与えてくれる存在だと言い残したのだ。そして巡り巡って、このような冬の入り口の獣さえ寄りつかぬ山深き荒れ地の岩屋でそれが真実であることを環璃は知った。
「私たちが恐ろしいか」
「いいえ。うらやましい」
 二度と暴力で男に犯されなくてもよくなる。そうしようとする男は、その下卑た意図を果たす前に、とうてい考えられないほどの苦痛にのたうちまわることとなるだろう。全身が腐り果て手足の末端が、まるで熟れすぎた果実のごとくぼたぼたともげ落ちる。この間、わずか数瞬だ。まばたきを十度もくりかえす間もなく、男は手と足を永久に亡くす。ただの丸太のようになってなおもその腐敗と苦痛は進み、やがて首と胴の区別もつかなくなるくらいにただの肉の塊と化した身体からだは、見たこともない菌類の苗床になる。そのころになると男は顔もない。
 もうそうなると男であった、人間であったと思わせるものを見つけることすら難しい。肉体を個人づけるあらゆる特徴がそげ落ちて、その存在の醜さを覆い隠すように菌類の花が咲く。実際、あの男たちの意図にかかわらず、行為の野蛮さ、卑劣さにかかわらず、笠を広げた菌類はこの世のものとは思えないほどに光り輝き美しかったのだ。
「さぞ美しいのでしょうね、確神の谷は」
「美しい。環璃に見せてやりたい」
「見たいわ」
 それに、そのカミの力さえ手に入れられれば、一族を滅ぼしたすべての人間にふくしゅうができるだろう。そして都へ上り、この世の権力をほしいままにしている帝の側近たちはおろか、瑪瑙のかんむり鹿の氏族を滅ぼせと勅令を出した帝を塵芥のように消し去ることができる。
 そういうと、チユギは少し顔をかしげて目を細め、
「小さな街ならばともかく、あの極都サーナリスヒーンはなかなかに難しい」
 と言った。「一度ならず仲間とともに近づいてみたが、容易ではないとわかった」
「それでも」
 環璃は身を乗り出した。自分を苦しませた相手を、苦しませながら殺すことができる。絶対的な権力者をいともたやすく。極都に巣くう男どもがすべて手足を失くし、美しい肉の花の苗床になりながらちりと化すのを眺めながら、環璃は焼けたばかりの鹿肉を食らいたいと強く願った。
「わたしが触れるだけで、鋼のような肉体を持つ兵士たちがみな苦しんで死ぬのでしょう。そんな光景、きっと見飽きない。鋼鉄の剣も羽根のように軽く、鎖帷子も必要なく、眠らず食べず心地よいまま過ごせるなんて、楽しく戦って圧倒的に殺せるなんて夢のようね。そんなふうになりたいと何度も思ったわ。氏族を滅ぼされた夜に、夫の首のない遺体にすがって泣いた夜に。そのまま引きずられて、夫の首とともに輿の中に放り込まれた夜明けに、あいつらを殺してやりたい、この手で根絶やしにしてやれるならなんでもすると泣きながら願ったわ。もしそんな力を得られるのなら、あの子を二度とこの手で抱けなくてもいい。生きて笑っているところを遠目でも見られればじゅうぶん。──でもいまは行けない」
 行けない、そう言葉にするだけで目の前で重い重い鉄の扉が閉まったようだった。環璃は自分が泣いているのかと思ったが、涙はこぼれていなかった。泣くよりも悲しいことを言わなければならない。そのために力を残しておけと自分の体に言われているような気がした。
「わたしが消えたら、次に皇后星になる娘は決まっているの。親戚の娘よ。一年前の春に長年おもい合っていた幼なじみと結婚したばかりの歳若い従姉妹いとこ。あの子をわたしと同じような目に遭わせたくない。だからわたしが行くわ。子ができるまで見知らぬ男になぶりものにされてでも、わたしは次の帝の子を産んでみせる。こんなばかばかしい占い一つで辺境の一族の営みがまるごとひとつなくなる。それが世の中の仕組みなら、わたしはわたしのいいようにつくりかえるわ。この手にたしかな権力を握って」
 この手に最後に抱きしめた愛しいものは、息子ではなかった。愛する夫の首だった。三日三晩かぎのかかった輿の中で、物言わぬ夫の首を抱きしめて環璃は誓ったのだ。力を得て、すべての仕組みを変えようと。
「だからお願いがあるの。わたしが子を産み落とし、その相手が次の帝になることが決まればわたしは極都に送られる。そしたらわたしに会いに来て」
 チユギは黙って聞いている。彼女の目からは賛同の意がくみ取れる。環璃がなにをしようとしているのか、彼女にはわかっているのだ。
「今日の山賊のようにわたしの一行を襲ってほしいの。そしてわたしだけを果てへ連れていって。わたしはそこで確神の民となり、だれかに救助されたふりをして必ず極都へ行ってみせる。帝の閨へたどり着いて、あなたたちが望むことをしてあげるわ」
 彼女たち果ての民の力をもってしても、いまだ帝を殺せてはいないのにはなにか理由があるはずだ。確神の力にはなにか制限があり、それゆえに帝のもとまでたどり着けていないのだ。
「きっと、極都へ入るには恐ろしいほどの身元調査が必要なのでしょう。あなたたちが怒ればすぐに確神が暴れ出す。心を偽ることは、訓練を受けても容易ではないもの」
「お前が帝を殺してくれるのか」
「帝を殺しただけでは、戦は止まらない。大事なことは、ものごとを決定できる場所に居つづけることよ。だから、わたしがなる」
「お前が」
「わたしがなるわ。次の帝に」
 旅の途中でこうして環璃と出会い、奇妙な夜を過ごしている。カミを宿した女と、帝の子を生む女が、冬枯れた岩山の洞穴で向き合い、ある意味運命を共にするか話し合っているのだ。
 炉端の火が絶えようとしていた。環璃は急いで息を吹き込んだ。願いを繫げようとすることは、火が消えるのを止めようとすることに似ている。息を吹き込み、風を送り込み、犠牲を払う。
「それでいいのか」
「わからないけど、それが最善だと思う。だからお願い。わたしの息子を捜してほしい。大事にされているか、元気でいるか、ひもじくはないか、辛いことはないか、息子のことを浴びるほど知りたい」
「それくらいはなんでもないことだ。私たちは国中に散っている。私たちを雇いたいという者は国中にいる」
「そうでしょうね、邪魔者を誰も知らないやりかたで消すことができるんだもの」
「もらった金品を食料に換えて、山に戻る。いつも」
「もっといいやり方があるわ」
 環璃はチユギの手をとった。そうしていいのかわからなかったが、そうすることが自然なことのように思われた。彼女は拒まなかった。
「もらった金品で、土地を買いなさい。しょうえんの主になるの」
 彼女は意外そうに環璃を見た。
「そうしてどうなる」
「あなたたちは食べ物を生み出すことができない荒れ地に住んでいる。いざというときに逃げ場がないの。ゆっくりと、少人数からでいい。飛び地の領地を持つのよ。そこであなたたちに有利なように商売をして、欲しいものを手に入れればいい。すべてをすぐに食料に換えてはだめ」
 環璃よりずっと年上の女性は、いま教師に初めて文字を教わる子供のように真剣に目を見返した。
「飛び地を持つの。わたしたち北原の瑪瑙のかんむり鹿の一族もそうしてきた。だから帝は、草原に居た一族をすべて殺して、血族が絶えたと思っているけれど、そうじゃない。わたしたちは祖父の代から、中央とのあつれきを感じてきた。北原もなにかを生み出すのが難しい土地だから、水が豊かな南の荘園を買い、少しずつ広げて一族を枝分かれさせていった。こうなる運命だった。枝族がいつか本流になるのは歴史のさだめよ」
 チユギはうなずいた。頷きながら、固い肉を何度もかむように、さだめと言った。
「やはり土地だな。すべてのものを生み出せる土」
「そのとおりよ。うまく使って、力を蓄えるの」
「お前が極都へいこうとしていることを、お前の枝族は知っているのか。すべて知っていて、時を待っているのか」
「飛び地といってもクニにも満たないちいさな荘園よ。名目上は代官もいる。枝族だけで一国の帝に刃向かうことはできないわ。会ったこともない親族たちだもの、見て見ぬふりをしているのかもしれない。下手にかかわりあえば自分たちまで巻き添えになるから、息を潜めてやり過ごそうとしているのかもしれない。でも、あなたに出会うまでは、この目で見たこともない南の小さな土地がわたしのたったひとつの祈りのよすがだった」
「いつか、お前の息子が、豊かな南の地でお前と出会えることを私も祈る、環璃」
 チユギの手が、環璃の手の上に重なった。もうずいぶんと長い間、このような素朴な触れあいがあったことを忘れていた。人の手のひらはこんなふうにすればなんと心地よいものか。
「わたしも祈るわ。チユギ。あなたに再び出会えることを。いつでも会いに来て。息子のことを聞かせて。たとえ犬のように閨に繫がれていても、役にたてることもあるかもしれないから」
 それから、薄い筵を敷いて二人で抱き合って眠った。人の体温が皮膚越しにしみ通ってきて、環璃に忘れていた感情を思い起こさせた。夢の中で環璃は立派な角をもつ鹿じかに向かって弓を射ていた。恐れはなかった。あの冠は、あの星がひっかかったニムロの枝のような王のもちものは、このわたしにこそふさわしいものだ──
 うっすらと夜が白み始めるころ、環璃は目を覚ました。チユギはすでにその場には居なかった。自分がそれと気づかず眠りこけていたことに驚いた。こんなにも深く寝入ったのは久しぶりだった。しばらくしてチユギが戻ってきた。
「起きたか」
「どこへ行っていたの」
「馬が戻ってきた気配がした。夜が明ければ戻ってくると思っていた。毛並みのいい二頭を連れてきた。乗っていくといい。この先に半日ほど行ったところに女神峰フーダホンの番所がある」
「ありがとう」
 一晩かけていっぱいになった水袋と麵麭パンを手渡された。もう二度と会えないとは不思議にも思わなかった。これから何度もチユギには会う気がする。そしていつか、自分も彼女とおなじものになる予感がした。
 そう、いつか。いつか確神の力を得られるかもしれないという希望は、濁流の中でおぼれかけていた環璃にとって、突然与えられた船であった。
 目の前に流れがある。環璃にはいま、その流れにのるたしかなすべがある。あとはこぎ出すだけだ。恐れがまったくないとはいわないが、この船にのってゆけばかいを正しく使えば、望みがかなうかもしれない。
 燦王朝を打ち倒すという大それた望みを。
「環璃、健康を。私からの知らせには、鹿の革を巻いて届ける」
「ありがとうチユギ。あなたの望みも叶えられますように」
 環璃は馬の背にまたがった。振り返るともうチユギの姿はなかった。
 日の昇る方角へ向かう。視界が広い。かつてこのような夜明けを北原で幾度となく迎えた。なにかが始まるための日の始まり。
《刈り取られた麦に、縊られた獣に、昨日と明日に》
「わたしは、絶えた瑪瑙のかんむり鹿の一族の女王。神は美しく、ひとは醜い。神は尊く、ひとはいやしい……」
 環璃は歌った。草原で一番醜いのは人間であり、美しい獣たちは神の使つかいであるという古い伝承の歌を。
 笑いながら歌った。

(この続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



忘らるる物語
著者 高殿円
定価:2,090円(本体1,900円+税)
発売日:2023年3月10日

男が女を犯せぬ国があるという。

辺境の王族として生まれ、幸福な結婚をしたばかりの環璃は、突如たったひとりになった。広大な大陸を統べる燦帝国の次期皇帝を選ぶための籤、”皇后星”に選ばれたからだ。一族はすべて皆殺し、産んだばかりの息子を人質に取られ、環璃は候補の王たちと寝るためだけに国々を巡る。絶望の淵に突き落とされた彼女が出会ったのは、触れた男を塵にする力をもつチユギという名の戦士だった……。
女が産み、男が支配する世界を変える「忘れられた物語」とは? 破格のエンタテインメント巨編!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322101000889/
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