「王の子を産むか、さもなくば死か」次期皇帝を選ぶ道具にされた少女は、触れただけで男を殺せる伝説の民と出会った。
連載中から反響の大きかった、高殿円さんの『忘らるる物語』。単行本発売を記念して、第1章を特別公開します!
『忘らるる物語』試し読み1
男が女を犯せぬ国があるという。
犯すどころか、暴力さえも振るうことができない。女が男より
──いいかい、ぜんぶ本当のことなんだ。女を暴力で犯そうとした男は、一瞬でパッと
その名のとおり、月端は大陸の中心部から
環璃は今年、十八になった。かつての夫も月端の王族の出で母方の
クニとはいえ、月の端っこと呼ばれる泥炭ばかりに覆われた貧しい土地であった。本来ならば見捨てられたただの荒野だったろうが、そこには人が住み着く前から神々の恵みである珍しいいきものが多くいた。銀色の毛に覆われたこの地方独特の背の高い羊や、宝石のようだと言われる八角の角を持つ
草の芽吹く春に向かって集落を移動させ、真冬は都市の郊外に間借りして、春になれば緑を追って山に帰る。まるで近づいては遠ざかる月のように、環璃たちの
「わたしは、
環璃の氏族はとくに、鹿を敬って生きてきた。数ある北原の獣の中で神である鹿は決して殺さず、大事に大事にして尊び寄り添って暮らしてきた。民のほとんどが羊や山羊や馬を飼い、街から来た隊商に銀毛や青いたてがみの馬を売る。何百年も変わらない素朴で信仰の厚い北原の暮らし……
(いいや、いまでもそうやって暮らしているだろう。ただ、わたしの親は、夫はもうこの世のどこにもいないだけだ。子はわたしを忘れたろう。違う女に乳をもらって、その女を母と呼んでいるだろう)
祖国から引きずり出されるまで、環璃は外のことを知ろうとはしてこなかった。ごくたまに、この世界には千に近いクニがあって、それらをまとめて一帯八旗十六星幾万と呼び、その頂点には燦という帝国の帝が君臨しているのだと。そのクニは多くの金脈をもち、四方の海へと流れゆく太いウミのような川が金と人を運ぶと聞いたことはあった。けれど、子を産んだばかりの環璃にとっては、日々耳を通り過ぎていく風のうねりと同じくらいどうでもよいことで、通り過ぎる隊商が置き土産に耳に入れていく
たしかに不穏な足音は聞こえていたのだ。次期女王ならば聞くべきだった。たとえ子に乳をやりながらでも、金の価値があるという旅人がもたらす話に耳を傾け、去ったあとはよくよく話し合うべきであった。環璃の氏族はそのあとすぐに、都からやってきた燦の軍によって根絶やしにされた。
はらわたを引きずり出されるようにクニを追われ、たった一人真珠の輿に乗せられて運ばれた。その途中どこの者とも知れぬ荒々しい男たちに襲われて、輿を守っていた警備の兵も戦車も谷底へ落ちた。
山賊たちは、生き残った環璃のお供の侍女たちを襲った。抱えられ、まるで小麦の袋のようにして持ち帰られていく女たちを見た。環璃は逃げた。最初に運良く茂みに逃げられたのですぐに担ぎ上げられずにすんだが、たかが女の足ではすぐに追いつかれる。やがて一人の賊の男が環璃の髪をつかみ、地面に引きずり落とした。
そこは冷たく乾いた土の上で、男は環璃がなにか叫ぶたび、面倒くさげに環璃の頭を土に押しつけた。口の中に土が入って息苦しく、恐怖でなにも考えられないのに、なぜか男が
この下卑た山賊は環璃の顔など見ていない。わめいてうるさいから土の上に押しつける。窒息してもよいのだ。押し込む穴さえあればよい。だから一度も環璃の顔を見ようとも、乳を
ふいに、環璃の顔を地面に押しつけていた力が緩んだ。そのすきに、環璃は首をひねって大きく息をした。土が肺の管に入りそうになって激しく
(誰)
つぶて混じりの雪が、白い息をさらに濃く染めては視界をチラチラと横切っていく。その冷たい
「安心しろ。もうその男は二度と立てない」
環璃の上から転がり落ちた男は、土の上に伏していた。立ち上がろうともがいているがその言葉はまともな言語にならず、ああーとか、うぅーとか、ただ意味不明な
「もう動かないの? 死ぬ?」
「死ぬ。まだ少しかかると思うけれど、凍死するか、失血死するかどちらか」
「そう」
環璃はほっと息をつき、何度も
「そう」
裳衣の
「ひああーあああー」
あまりにもうるさいので、環璃は男の頭の上に両足で乗り上げた。顔は土の中にめり込んで、いくらもしないうちに静かになった。
環璃を助けた兵士は、環璃の足が汚いものから離れるのをじっと見ていた。覆面の奥の目は、太い木からしみ出す樹液が作る宝石のような色をしている。
「もう日が暮れる。火を
「そうね」
「この先の岩場に風をしのげるくぼみがある。ついてくるか?」
少年のような声だった。環璃は黙ってうなずいた。
案内された洞穴には、兵士のものらしい
環璃がぼんやりと座っている間にも、あの兵士は洞穴の中にどんどんとものを運んできた。環璃の乗っていた輿は谷底に落ちてしまったが、警備の兵らが持っていた武器や明らかにお供の女たちが着ていただろう裳衣だけを持って戻ってきたときは驚いた。
「ほかは、もう死んでいた」
「わかってる」
それをどうするの、などという愚かな問いを口に出しそうになって環璃は息をのみこんだ。女たちの服はすべて絹だ。売ればまとまった金になる。この若者が追いはぎをやっていようと山賊の去ったあとの残り物を拾う山の民であったとしても、それをここで問うことになんの意味もない。
バラバラになった荷台の破片をかき集めて運んだあとは、岩地に生えていた松を
「
「
「それくらいはできる」
身なりから環璃のことを裕福な
少し風があったので時間がかかるかと思ったが、空気が乾燥しているので早く燃えた。それに洞穴の中に風の流れがないと長時間滞在するのは危険である。環璃が手際よく炉を作っているのを見て、兵士は驚いたようだった。
「わたしは
「燦の言葉を話している。北の草原の
「草原のことをよく知っているのね。それは
「王なのか」
「そうよ。もう一族はほとんど滅んだから、いまは、わたしが女王」
兵士は腰から水袋をはずし、覆面をとった。その顔が思った以上に幼く女性的であったので環璃は少なからず驚いた。ずっと少年だと思いこんでいたが、女性なのかもしれない。
「そこの水は飲めると思う。
「そうだな」
ほどいた荷の中には、使い込まれた鉄の
「ねえ、あなた商人なの?」
「しっ」
環璃の言葉を遮り、兵士は唇に指を当て、黙るように促した。
「ここから出るな」
「どうしたの」
「さっきの
さっきの奴ら、というのは間違いなく環璃を襲った山賊だろう。もしかしたら逃げた馬を捕まえに戻ったのか、それとも環璃が殺した男がいないことに気づいたのか。
「出るなよ」
言い置いて、兵士は洞穴を出ていこうとする。いったいどうするつもりなのか。あいつらがもし人を捜しているのなら、隠れていてもいずれこの洞穴は見つかるだろう。ならば荒らされる前に自分から行って片づけるということなのだろうか。
環璃はとっさに投げるのにちょうどいい石を探した。それからあの兵士が死んだ女たちの頭から抜いてきたかんざしの中からもっとも切っ先がとがったものを二本握りしめた。加勢にいくのではない、あの兵士がやられたら環璃とてすぐにおなじ目にあうのはわかっている。
《このやろう、お前が
《てめえ!》
複数の男の声が聞こえる。環璃を襲った男の死体を見てあの兵士がやったと決めつけ暴力をふるおうとしているのだ。
飛び出していく勇気はなかった。かんざしを握りしめた手がぶるぶると震える。どうすればいいのか判断がつかない。こうしていてもいずれ発見され殺される。その前に
ああ、あの人、殺されてしまう。助けてくれたのに。助けようとしてくれていたのに。どうしよう。わたしも殺されてしまう。あの小さな子をこの世に残して。あの子が生きている以上、どんな境遇に陥っても自ら命を絶つことはせず、生きるために尽くそうと決めたのに。
環璃は息を吸い、いばら松で
洞穴を出て環璃がその場にたどり着いたとき、いち早くあの兵士が気づいた。いや、女だ。いまはっきりとそれがわかるのは、男が胸元を手で
不思議なことにその女兵士は
「ばか、なんで来た!」
「いいから、逃げて!」
環璃は男たちに向かって石を投げた。その隙に女に逃げて欲しかったからである。しかしその勇気もむなしく、石は男たちにかすりもせずにずいぶんと手前で落ちた。男たちの視線が環璃のほうへ向いた。
「ハハ、こりゃ都合がいい。もう一人いるぜ」
たぶんそのようなことを男は言った。そして、目の前に差し出された食事にするように環璃に向かって軽々と手を伸ばした。環璃はかんざしを握る手にぐっと力を込めた。首だ。首にさえ刺せば致命傷を負わせられる。場所はよくわかっている。草原の獣もそうやって血抜きするのだ。
「わたしは瑪瑙のかんむり鹿の女王よ。これから都へ行って帝の妻になる。手を出せばどうなるか。お前は名を残せず、
環璃の名乗りに、男たちが一瞬
そのとき、なにかがベキベキと音をたてて砕ける音を耳にした。
ぶわっ
音にするならそんな感じの悲鳴、そうそれは悲鳴だった。悲鳴のような破裂音だった。
ぶわっ
あれ、と環璃は思った。目の前から男が一人消えている。女兵士の乳房を
(腕……、腕がもげている)
女兵士の足元に男が転がっていた。自分の腕がないことをまだ信じられないという顔をしていた。その表情が、まるで羊の腸に息を吹き入れたときのようにふくらみあっという間に人の顔ではなくなるのを、環璃はなかば陶然と眺めていた。
(花が)
美しかった。
男の皮膚に花が咲いている。なんの花なのかはわからない。花であるかもわからない。ほんの二度、三度瞬きをする間にも美しい青い文様が浮かんでは広がり、ざわざわと音をたてて変化してゆく。花弁が盛り上がり、なにかを
花が大きく咲くたびに
ごとんと大きな音を立てて首が落ち、頭が転がった。もう足がない。手もない。頭だけがかろうじてわかる形で残っていて、ただし表面の皮膚はすべて色とりどりの入れ墨のような文様に覆われ、そこからでこぼこと花のなりそこないのようなものがしきりに
目は多くを語る。男の目は真っ黒に染まるまで、最後まで
なぜ、こんなことが起こっているのか、そんなこと環璃にもわかるはずがない。わかっているのは、たしかふたつ息を吸う前までは男が二人いて女兵士を羽交い締めにして襲おうとしていたが、乳房に手をかけたとたんに二人とも悪い病気にかかったかのように急速に縮んで、いまそのなれの果てが地面に丸太のように転がっているということだけだ。
「なんで……、なにが起こったの」
(つづく)
作品紹介
忘らるる物語
著者 高殿円
定価:2,090円(本体1,900円+税)
発売日:2023年3月10日
男が女を犯せぬ国があるという。
辺境の王族として生まれ、幸福な結婚をしたばかりの環璃は、突如たったひとりになった。広大な大陸を統べる燦帝国の次期皇帝を選ぶための籤、”皇后星”に選ばれたからだ。一族はすべて皆殺し、産んだばかりの息子を人質に取られ、環璃は候補の王たちと寝るためだけに国々を巡る。絶望の淵に突き落とされた彼女が出会ったのは、触れた男を塵にする力をもつチユギという名の戦士だった……。
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