とにかくウツなOLの、人生を変える1か月

「メンタルジム・ヒカリ」って何? 真っ白な扉の先に奈緒が見たものとは――
毎日を頑張るすべての人へ――。
有名ブロガー・はあちゅうが贈る、超実用的な応援小説『とにかくウツなOLの、人生を変える1か月』が3月24日に文庫版で発売となります。文庫化を記念して、物語の魅力が詰まった「プロローグ」を一挙大公開!
主人公は、慢性的な倦怠感を抱く20代後半のOL・
奈緒と一緒に、あなたも“なりたい自分”を見つけてみませんか?
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◆ ◆ ◆
少し重さのある扉を押し開けると、中は、宇宙船を彷彿させる不思議な空間になっている。黒い壁、白いテーブルと椅子、銀色のライト。配色には温度感がないにも拘らず、不思議と温かみを感じるのは、部屋の各所に飾られているグリーンのせいかもしれない。昔絵本で見たヨーロッパの魔女の実験室にも似ている。
酸素でいっぱいなはずなのに、息苦しくなるくらいの緑。
その時、チリンと鈴の音のようなものが聞こえると同時に、扉が動き、背の高い美女が出てきた。周りが宇宙船のようだからか、昔アニメで見た、「銀河鉄道999」のメーテルを思い出す。シャンプーのCMに出られそうな、長くてさらさらの髪の毛。瞬くと音がしそうな、たっぷりと密度のあるまつ毛。すらっと長く、優雅な手足。美女の見本のような美女がそこにはいた。空間を移動してきたかのように現れた彼女は、まるで妖精のようだった。生身の人間だというのはもちろんわかっているけれど、どこか浮世離れしている感じがする。
そして、決して知り合いではないはずなのに、彼女とはすでに会ったことがある気がした。どこだろう……。頭の中で記憶がぱらぱらと、ページをめくるようにめくれあがる。
すごく最近、この人の顔を、私はどこかで見ている。
その時、朝にだらだらと眺めていた芸能ニュースを思い出した。
そうだ。この人の顔を画面越しに見たのだ。朝のニュースで特集されていた、モデルたちの祭典と呼ばれる大きなファッションイベント。そのオープニングを飾ったモデルは、まぎれもなく目の前のこの人だ。
他のメディアでも、よくこの人の顔は見ている。確か名前は……
なんで有名人がこんなところにいるんだろう。お客さんだろうか。いや、名前が「ヒカリ」というからには、このジムに何らかの形で関係していると考えるほうが自然だ。このメンタルジム・ヒカリは中条ヒカリがオーナーのサロンなのだろうか。
モデルが副業として飲食店やネイルサロンや、瘦身サロンを運営している例はいくつか知っている。雑誌で見たこともあれば、体験取材に行ったこともある。けれど、ヒカリがそういったサロンを運営しているとは、聞いたことがなかった。奈緒はモデルに詳しいわけではないけれど、もしかしたら、名前を隠して運営しているのかもしれない。ヒカリほど名の知れたモデルがビジネスに取り組んで失敗するとなると、週刊誌がうるさいだろう。それに、モデルとしてのブランドイメージも傷つく。
モデルは、おとなしく笑って、難しいことには手を出さないほうがいいと考えている業界人は意外と多い。ネットメディアとはいえ、一応奈緒も、メディアの人間だ。雑誌やテレビ関係の人たちとは何度も会食しているし、彼らの考え方も知っている。あの人たちは、口ではネットの脅威を語るくせに、その実、自分には全く関係ないというていで物事を語る。そして骨の髄まで、考え方が古い。自分たちは時代の最先端だと思い込んでいるのは本人たちだけで、もうとっくに、雑誌だってテレビだって流行をつくっていない。載せているのは、ネットで流行ったものの二番煎じも多い。
とはいえ、奈緒は雑誌もテレビもそれなりに好きだし、その影響力も信じている。女の子の憧れの人物は、ネットという場所にうつっても、やっぱりモデルだ。インスタグラムのフォロワー数ランキングも、日本の上位ランキングにはモデルが多かった。
ヒカリも確か、そのランキングに入っていたはずだ。
ヒカリは、奈緒が中学生の頃からトップモデルだったし、今も、数誌の雑誌の看板モデルをしているのではないか。
本物はテレビで見るより数段華奢だ。天性のスタイルを持つ人の特徴はふくらはぎから下の長さと二の腕のラインでわかる。生まれながらのモデル体型の人の腕と脚は、肉のつき方がすらっとまっすぐで美しい。
さらさらでいて、たっぷりとした髪の毛は、少し重そうなところがまた良くて、その輝きから「ヒカリガミ」とファンの間で呼ばれている。
それにしても、ここまでの有名人がなんで、こんなところにいるんだろう。たとえオーナーになっていたとしても、サロンにオーナーのモデルが顔を出すことは珍しい。大抵は、ブログなどで宣伝だけを担当して、本人は店に不在のことが多い。
もしかして中条ヒカリは双子だろうか。
そんな推理を勝手に頭の中で繰り広げていると、今まで観察対象だった彼女が、口を開いた。
「ご新規のお客様ですよね。ご予約はありませんね」
キレイな声だった。テレビに出ているのも何度か見たことがあったけれど、声の記憶まではなかったので新鮮に聞こえた。一本真ん中に軸があり、その周りをふわっとやさしいものが覆っているような、女性らしく、それでいて、意志の強い声。美貌だけでなく、全身から放たれているオーラに、吞み込まれそうになる。
「あ、はい。すみません。近くを通って、気になったから入ってみたんですが」
美しい女性というのは、緊張する。かっこいい男性よりも、むしろ同性だからこそ緊張を感じてしまうのだ。職場にだって同性しかいないけれど、いつも接している同僚や奈緒自身と中条ヒカリは、まるで別の生き物のように思えてくる。育った環境にも考えかたにも、共通点なんてみつけられなそうだ。仕事なら、こういった相手とも堂々と接することができるけれど、プライベートでなんの肩書もないままの自分では、心もとない。
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます。看板も説明もないから、なんのお店かわからないですよね。でも、怪しい店じゃないんですよ。
本当に、名前の通りメンタルを鍛えるためのジムなんです。
ご紹介ナシだとうちのようなお店は不安に思われるかもしれませんが、お時間があったら、説明を聞いていかれますか? カウンセリングシートの記入も必要なので、一時間くらいはかかりますけど」
「……じゃあ、お願いします」
口が勝手に動いた。もしかしてモデルの中条ヒカリさんですか、という質問が出かけたが、吞み込んだ。まだ確信がなかったし、当たっていたら当たっていたで、ミーハーな客だと思われて追い返されてしまうかもしれない。これまでに、何人かの有名人を取材したけれど、みんな、プライベートの場所で有名人扱いされることに対して苦手意識を持っていた。それに、中条ヒカリがなぜここにいるのか、という疑問と同じくらい、ここは一体どういう場所なのかということに興味が湧いた。
「ではまず、これに記入してください」と渡されたカルテには、名前や住所の他、三つの質問が書いてあった。
(1)人生を変えたいですか。
(2)今の自分の人生は1を不満足、5を大満足とすると、何点ですか。
(3)三年以上達成していない目標がありますか。
割とありきたりな質問だ。
1の「人生を変えたいですか」には、はい、2の今の自分の人生への評価は、なんとなく真ん中の数字の3、そして3の「三年以上達成していない目標がありますか」には「ある」を選ぶ。
目標、とまでは掲げていなかったけれど、自分の思い描く理想の生活を送って、幸せになりたいとずっと思い続けているのに、ずっと達成していない。
選んだところでタイミングよく、飲み物が運ばれてきた。
「はい、ご記入ありがとうございます。こちら、確認させていただきますね。ローズティーと、当ジムのパンフレットをどうぞ」
真っ白なテーブルと椅子の向かい側に、ヒカリさんが座った。座り姿も背筋がぴしっと伸びていて、美しい。思わず奈緒も背骨を意識してしまった。
「では、まずはここのご説明をさせていただきますね。うちのお店、『メンタルジム・ヒカリ』はほとんどのお客さんが既存の会員さんや卒業生のご紹介なんです。だから、全く知らないでお店に入ってくる、奈緒さんのような方は珍しいんですよ。あ、失礼しました、奈緒さんと、下の名前でお呼びしてもいいですか?」
「大丈夫です」
会社でも奈緒の部署では、女同士の気軽さとお互いの距離を近づけるためという目的で、下の名前で呼び合うのが普通だった。だから、下の名前で呼ばれるのには慣れている。
「ありがとうございます。では、奈緒さん、奈緒さんは表の、メンタルジムという看板をご覧になったと思うんですが、うちのお店をどんなお店だと思って入ってきましたか?」
「深く考えずに扉を開けてしまったんです。そのまま吸い込まれるように入っちゃって……」
「そうなんですね、ありがとうございます。あの真っ白な扉、私はすごく好きなんですけど、初めて見た人は入りづらいかもしれない、なんて思っていたところです。吸い込まれたなんて言われると嬉しいですね。
ここは、簡単に言うとカウンセリングを行う場所です」
ヒカリさんの声は滑舌がはっきりしていて聞きやすい。説明はどんどん進むけれど、一語一語が頭にしっかりと入っていく感じがした。この人は、表で喋る仕事をもっとしたらいいのに、なんて余計なことも考えてしまう。
「日本でカウンセリングに行くっていうのは、心が病気だったりして、マイナスをゼロに戻すイメージだと思うんです。
でも、ここの場所は、言ってみれば心を鍛えるためのジム。元気な人の心をもっと元気にします。マイナスをゼロにするのではなく、ゼロをプラスに持って行くための場所なんです。
そして、一か月、三か月、半年、とコースの内容はいろいろあります。それぞれのたてた人生の目標を達成するまで、代表である私や、専門の教育を受けたスタッフがフルパワーでサポートします」
パンフレットには、「毎日に不満はないけれど、もっと自分の人生を良くしたいと思っている方、今この瞬間から人生を変えたい方、人生に満足したい方、そんなあなたは、是非当ジムのカウンセリングをお試しください」と書かれている。
この、もっと自分の人生を良くしたいということは、まさに、私が朝から、いや、本当はここのところずっと、あるいはこれまでの人生でずっと考えていたことだ。
しかも、ちょうどそれが原因で会社を休んでまでいる。
もしこれが映画の中だったら、できすぎた展開にケチをつけたくなるくらいのタイミングだ。
ここに通いさえすれば、表で見たチラシの通り、奈緒の人生は「激変」するのだろうか。もしそうならば、変わった自分を見てみたいとも思う。でも同時に、そんなことが起こるわけがないとも思うのだ。
そして、気になるのがやっぱりお金だ。人生を変えるには一体いくら必要なんだろう? きっとものすごく高いに違いない。
「あのぉ、一か月コースって一体いくらかかるんですか?」
臆する必要はないはずなのに、語尾は自然に低くなってしまう。とても払えない金額であれば、この先の説明は聞かず、早々に出ないといけない。
ヒカリさんはいったん奥に下がり、プライスリストと書かれた紙を持って来てくれた。
「例えば、人生が変わる魔法の杖が目の前にあったら、奈緒さんは、いくらで買いますか?」
先に質問したのは奈緒のほうなのに、質問で返されてちょっと面食らう。
「んー……。見当がつきません。だってどんなふうに人生が変わるかもよくわからないし」
「こういった言い方は、奈緒さんを怖がらせてしまうかもしれないけれど、人生を変える値段って自分でつけるものだと思うんです。だから、値段ってあってないようなものですよね。
お金の話をもったいぶってもしょうがないので、ぱしっと言ってしまうと、入会金などはかからず、一か月、三か月、半年のコースのみご用意していて、一か月分だとこの値段です」
価格表を見せられ、その上を、ヒカリさんの指がスイスイ泳ぐ。
「ネットやフリーペーパー経由の割引なども一切していません。そもそもうちは、ほとんどご紹介の方でいっぱいなので広告を出していないんです。先ほども申し上げましたが、奈緒さんみたいに全くうちのことを知らないでここに入ってくる人は珍しいんです。決して安くはない値段ですがこの値段の元をとれるかどうか、価格以上のものをみつけられるかどうかは、正直、奈緒さん次第でもあります」
(つづく)
▼はあちゅう『とにかくウツなOLの、人生を変える1か月』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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