宮下奈都・朝比奈あすか推薦の【音楽×青春物語】
合唱コンを舞台に、思春期のほろ苦さと眩しさを描く快作!
デビュー作『駅伝ランナー』、続く『キャプテンマークと銭湯と』で読み応え抜群の成長譚を世に送り出し、本読みをうならせた気鋭の作家・佐藤いつ子。
最新作『ソノリティ はじまりのうた』では、合唱コンクールを舞台に、悩みを抱える中学生たちの葛藤と成長をみずみずしい筆致で描きます。
今回は本作から、それぞれの登場人物の「悩み」を切り取ったシーンを特別に公開!
思春期の甘酸っぱさやもどかしさが蘇る、鮮やかな読書体験をお楽しみください。
▼試し読み#1
https://kadobun.jp/trial/sonority/7epu7jglhskc.html
▼試し読み#2
https://kadobun.jp/trial/sonority/entry-45594.html
▼試し読み#3
https://kadobun.jp/trial/sonority/entry-45597.html
佐藤いつ子『ソノリティ はじまりのうた』試し読み#4
膝の痛みに気づいた岳は、部活を早退して病院へ向かう。
学校では自分を押し通すことも多い岳だが、家庭環境と折り合えず、人知れぬ苦悩を感じていた。
第三章 岳の場合
──玉のしずく
2
岳は結局、病院に行くために、部活を早退した。
家の玄関でスニーカーを脱ぐと、数歩歩いたところで立ち止まった。シューズに砂が入っていたのか、靴下についた砂が廊下にパラパラと落ちている。
砂を余計に散らさないように、靴下を裏返しにそっと脱ぐと、洗面所に直行して真新しい洗濯機の中に放り込んだ。
ちくしょー。なんでこんなに気を遣わなきゃいけないんだ。
洗濯機の中からもう一度靴下を取りだして、ここで砂をぶちまけたい衝動にかられた。が、あまりに幼稚すぎてそんなことは出来ない。
磨きこまれた洗面台の前面には、やはり一点の曇りもないぴかぴかの大きな鏡が、壁の半分を占めていた。そこに写る苛立った顔は、我ながらいかつい。
怒っていないときですら、「何怒ってんの?」とよく聞かれる顔だ。
「あー、戻りてぇ」
岳は誰もいない家の中で、声に出した。
戻りたいというのは、前住んでいたアパートにだ。こんな小ぎれいなマンションじゃなくて、小汚いアパート。靴下に砂がついていたって、全然気にする必要もない。
中学に入る前の春休みに、母さんは再婚した。幼いころに父さんが病気で亡くなって以来、母さんは女手ひとつで岳を育ててくれた。
それが、母さんは職場で知り合った男の人と再婚することになり、プチ・シンデレラストーリーのごとく、生活ランクが跳ね上がった。
母さんはとなりの駅の書店員だが、エリート銀行員のその人は、書店によく来るお客さんだったらしい。やはり数年前に妻と死別したという。
岳は母さんの再婚に反対しなかった。その人は岳と正反対で温厚そのものの穏やかな人だったし、何よりいつも忙しい母さんが、その人といるとき、安らいだ表情をしていたからだ。
みんなと同じ中学に行けること、学校では名字を変えないことを条件に岳は再婚を受け入れた。
まだ「父さん」とは言えないその人に対して、目立った文句はないけれど、綺麗好きすぎるところは気にくわない。廊下に髪の毛が一本落ちていただけで、何カ所かに立てかけてあるフローリングワイパーを、ささっと取りだして拭き取っている。だから床に砂など散っていようものなら大変だ。
岳はリビングに行くと、食器棚の引き出しの一番上を開けた。そこにはふだん使われないフォークやナイフやスプーンなどが、綺麗に詰められていた。
あれ? ない……。
以前はそこに、保険証や診察券が入っていた。もちろん、同じ食器棚ではないのだが。引っ越しして、保管する場所を変えたのだろうか。
テーブルの上のスマホをつかむと、母さんのスマホに電話した。コールは空しく鳴り続いた。
ちっ。
岳は電話を切ると、メッセージを送った。イライラしていたので、何度も打ち間違えた。
──ほ
──保健
──保険しょどこ
──保険証どこ
小学六年生のとき、足首を捻挫して通ったことのある整形外科に行こうと思っていた。そのときも二度目からはひとりで通っていたくらいだから、今日もわざわざ母さんについて来てもらわずに、ひとりで行くつもりだ。
スマホをいじりながら返事を待っていたが、今にもくるかと思うと落ち着かず、意識は画面を滑っていくばかりだった。
やっと電話がかかってきた。一時間くらい待ったつもりだったが、実際には十二分だった。
「岳、どうしたの? 保険証って? 具合悪いの?」
母さんは心配声で立て続けにたずねた。
「いや、ちょっと右膝が痛いから、整形外科行こうと思って」
「えっ、だいじょうぶ? 部活で怪我したの? バスケで──」
「いや」
また質問攻めできた母さんを、岳は遮った。
「たいしたことないから。それより保険証と診察券ってどこ」
「あ、そっか。いつものとこになかったわね。えっと……」
保管場所を聞いて、岳が電話を切ろうとすると、
「あ、岳。切らないで」
母さんが切羽詰まったように、声を張り上げた。
「何」
「病院行こうとしているのに、悪いんだけど……。お願いがあって……」
母さんは急に歯切れが悪くなった。
「だから何?」
強い口調になってしまった。
「あのね、今日、遅番のアルバイトさんが、急に店に入れなくなって。母さん代わりに入ろうかと思って」
なんだ、そんなことかと気が抜けた。母さんは自称「店長の次に偉い人」らしいから、今までも誰かの代わりに仕事に入ることは度々あった。
「別に夕飯弁当でいいし。病院の帰りに、コンビニで買ってくるわ」
岳が話をおしまいにしようとすると、
「あ、ありがと。それでね……」
母さんはまた言いよどんだ。
「何だよ、俺もう病院行きたいんだけど」
岳はイライラして、テーブルの上を人差し指でとんとん叩き続けた。
「隼人を保育園に迎えに行ってほしいの」
へっ?
一瞬息がつまって、返事が遅れた。
「やだよ」
「岳、お願い。保育園には母さんが電話入れとくから。わかば保育園だからさ、いいでしょ?」
「だからやなんだよ」
わかば保育園は岳が0歳のときから通っていた保育園だ。そしてそこに、突然出来た五歳の弟、隼人が通っている。
再婚で生活がランクアップして、母さんは経済的にはもう働く必要はなかったかも知れないが、母さんにとって書店員の仕事は天職らしい。だから辞めるつもりなど毛頭ないようだ。
「岳が行けば、園長先生喜ぶよ。今でも母さん、園長先生に会うと、がっくん元気? って聞かれるもの」
「あっそ」
「ごめん。それもあるけど、母さん本当に困ってるのよ。どうしても店を空けられなくて」
「……」
「金田さんみたいに、頼めるママ友もまだいないしね」
母さんはため息まじりに言った。岳が保育園に通っていたときは、急な残業でお迎えに行けなくなると、同じ保育園の晴美の母にお願いしていたのだ。
舌打ちをしてから、ぶうたれ気味に岳は返した。
「ゎかったよ」
岳は病院を出ると、ふぅっと息を吐いた。右膝の痛みは、音心の予想通り軽いオスグッドだろうとのことだった。
「バスケやっても、だいじょうぶっすよねっ」
岳は身を乗り出すと、つばを飛ばしそうな勢いで医師に迫った。
「んー。バスケねぇ。しばらくは様子見て。痛みが取れたらやっても構わないよ。いちおう痛み止めの薬と湿布出しとくから」
「は、はいっ」
岳はこくこくうなずいた。
たいした病状ではなかったことに、肩に入っていた力が一気に抜けた。しばらく部活を休むように言われたらどうしようかと、気が気でなかったのだ。
病院で湿布を貼ってもらった右膝も、痛みがうんと軽くなった気がする。岳は軽やかな足取りで家に戻りかけてストップした。
そうだ、保育園に行かなきゃいけないんだった。
くるりと踵を返したが、歩みが途端に重くなった。
わかば保育園に行くのはいつ以来だろうか。卒園したあとに行ったのは、小学校に上がってすぐ、晴美とランドセル姿を園長先生に見せに行ったときくらいしか思い出せない。
となると、約六年ぶりということになる。ただ行くだけでも、照れくさいしめんどくさいのに、急に出来た弟を迎えに行くというのが、ありえないほど気を重くさせる。時間を稼ぐようにゆっくりと歩みを進めた。
ひょっとしたら、母さんの職場のアルバイトの人が急に来られるようになったって、今にも連絡が入るかも知れない。
もうあと一ブロックで保育園の正門に着くときに、岳は立ち止まった。母さんから診察が終わったら、メッセージを入れておくように言われていたのを思い出したのだ。
スマホを取りだして、状況を報告する。その返信に、「お迎え行かなくてよくなったよ」と来ないか、淡い期待を重ねる。
でも送ったメッセージには、なかなか既読さえつかなかった。仕事中だからそんなタイムリーにスマホを見られるわけでもないのだろう。
さすがにあきらめて、スマホをポケットに突っ込んだとき、着信音が鳴った。母さんからの返信だ。
──オスグッド? 初めて聞いたわ。たいしたことなかったみたいで良かった
少しして、またメッセージが追加された。
──じゃ、悪いけど、隼人のお迎えよろしくね
くたっと首がしおれた。
保育園が近づいてくると、園庭で遊んでいる子どもたちの賑やかな声が聞こえてきた。なんだか自然と顔がほころぶ。
門の前に立って園庭を見わたすと、その狭さに驚いた。保育園に通っているときは、ちっとも狭いと思っていなかったが、これじゃバスケットコート半面くらいにしか見えない。
この狭い空間の中で、エネルギーのかたまりみたいな園児たちが汗びっしょりになって、追いかけっこだのお団子作りだの、それぞれ夢中になって遊んでいる。
俺もあぁだったのかなぁ。
ついしみじみと園児たちに見とれていると、
「がっくん! がっくんよね?」
つばの広い帽子を目深にかぶった先生が、ぱたぱたと駆けて来た。小柄な先生は門まで来ると、帽子を脱いで岳を仰ぎ見た。しわいっぱい、満面の笑みの園長先生だった。
「あ、はい」
「やだー。またしかめっつらしてる。変わんないなぁ」
園長先生はころころ笑った。
「え、しかめっつら?」
岳は眉間のしわをのばすように、人差し指で眉間をさすった。
「でもびっくりしたわ。ほんと大きくなったねえ」
園長先生は大げさにのけぞった。
「お母さんから連絡あったよ。がっくんがお迎えに来るみたいよって隼人くんに伝えたら、今日はお兄ちゃんがお迎えなんだーって、隼人くん、すっごくはしゃいでみんなに自慢してたわよ」
「ほっ」
隼人が自分のことを、友だちに「お兄ちゃん」と呼んでいることに驚いて、息みたいな変な声が出た。隼人は家では、がっくんと呼んでいる。それも遠慮がちに。
どぎまぎしている岳に、家庭の事情は全て知っているだろう園長先生は、わざと自然に、
「いつまでそこに立ってるつもり? さぁ早く入りなさいよ」
と、扉を開けた。園庭に入ると、
「あっ、隼人くんのお兄ちゃんだー」
元気のいい男の子が叫んだ。
中学生などふつう迎えに来ることはないから、そう思ったのかも知れないけど、会ったこともないのに断定かよ、と岳は苦笑いした。
「がっくーん」
家ではおとなしくて、大声を聞いたことのない隼人が、大きな声で駆け寄ってきた。まだ五歳とはいえ、うちの中ではひょっとして、いろいろ気を遣っているのかと思うと、胸がしくっと痛んだ。
隼人は岳から五十センチ離れたところでぴたりと止まると、岳の短パンから出た右膝のサポーターを、心配そうにのぞき込んだ。
「がっくん、包帯。脚だいじょうぶ?」
「これ? 包帯じゃなくてサポーター。たいしたことないよ」
隼人はホッとしたように頬をゆるめた。
「あぁ、病院行ってからお迎えってお母さんも言ってたわ。さきにそのこと聞かなくちゃ、だわね。隼人くんは偉いなぁ。捻挫とか? 部活で?」
園長先生は隼人の頭をなでながら、岳を見上げた。
「いや、成長痛みたいなもんだって。だからだいじょうぶ」
「よかった。バスケやってるんだってね。ダンス部じゃなかったのね」
「ダンス部?」
「あら、忘れたの? がっくん、いっつも音楽かけるとノリノリで、リズム感すっごく良くってさぁ。他の子とちょっと違ったわよ。将来ダンサーになるって言ってたのに」
「え、そうなんすか。忘れてた。あ、ちなみにうちの中学、ダンス部はありません」
岳は頭をかいた。
「そっかそっか。じゃぁ帰りのお支度、しておいで。分かる? タオルと……」
園長先生が説明し始めると、
「先生、ぼく分かるよ! ぼくががっくんに教えてあげる」
隼人は声を弾ませて、園舎の方に駆け出した。
あいつ、実は活発なやつなのか?
おとなしいと決め込んでいた隼人の一面を知り、新鮮な気持ちで後ろ姿を追った。
(続く)
作品紹介・あらすじ
佐藤いつ子『ソノリティ はじまりのうた』
ソノリティ はじまりのうた
著者 佐藤 いつ子
定価: 1,650円(本体1,500円+税)
発売日:2022年04月20日
東大王推薦!気弱な少女が歌を通じて自分を解き放つ【音楽×青春】物語。
「俺たちにも才能、あるんじゃね?」
「自分よりすごいやつがそばにいても、差を見せつけられても、それでも絶対めげない才能」
吹奏楽部というだけで、合唱コンクールの指揮者を任されてしまった中学1年生の
内気な彼女が、天才ピアニストの幼なじみ、合唱練習に来ないバスケ部のエースなど、個性的なクラスメイトたちとの関わりを通じて自分を解き放っていく。
しかし本番直前、思わぬアクシデントが起こり ……
仲間とともに何かをつくりあげる達成感、悩みもがきながらも「自分らしさ」を模索する中学生たちの内面、みずみずしい人間ドラマをまっすぐに描いた、珠玉の成長物語。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322111001151/
amazonページはこちら