宮下奈都・朝比奈あすか推薦の【音楽×青春物語】
合唱コンを舞台に、思春期のほろ苦さと眩しさを描く快作!
デビュー作『駅伝ランナー』、続く『キャプテンマークと銭湯と』で読み応え抜群の成長譚を世に送り出し、本読みをうならせた気鋭の作家・佐藤いつ子。
最新作『ソノリティ はじまりのうた』では、合唱コンクールを舞台に、悩みを抱える中学生たちの葛藤と成長をみずみずしい筆致で描きます。
今回は本作から、それぞれの登場人物の「悩み」を切り取ったシーンを特別に公開!
思春期の甘酸っぱさやもどかしさが蘇る、鮮やかな読書体験をお楽しみください。
▼試し読み#1
https://kadobun.jp/trial/sonority/7epu7jglhskc.html
▼試し読み#2
https://kadobun.jp/trial/sonority/entry-45594.html
▼試し読み#3
https://kadobun.jp/trial/sonority/entry-45597.html
▼試し読み#4
https://kadobun.jp/trial/sonority/entry-45598.html
佐藤いつ子『ソノリティ はじまりのうた』試し読み#5
合唱コンで指揮者をしながら、晴美とふたりで「ソリ」のパートを歌うことになった早紀。
特訓しようと早朝の学校に行くと、そこには一人でバスケの朝練をする岳の姿が。
一方的に「合唱の朝練には行かない」と宣言する岳に複雑な気持ちを覚えつつも、早紀は彼の「香り」に強く惹かれている自分に気づく。
第四章 早紀の場合
──シトラスムスクの香り
2
早紀は学校から帰宅すると、自分の部屋に直行した。今日は短縮授業で帰宅が早かったので、お母さんはパートからまだ戻っていない。制服も着替えずに、
──はじめはひとり孤独だった
──ふとした出会いに希望が生まれ
──新しい本当のわたし
──未来へと歌は響きわたる
今朝の練習は散々だった。合唱が、ではなく、自分がだ。練習が終わると、音心にもズバリ言われた。
「今日の早紀はイマイチだったな。歌もだけど、指揮も」
「指揮も……」
「迫力に欠けるというか、気持ちが入ってないというか」
分かってる。自分が一番分かってる。
指揮をしていると、扇子の骨みたいに全視線が中心にいる早紀に集中する。早紀はみんなの視線と常に合っているのだが、なぜか今日は曲の途中で、岳の鋭い目が急にフラッシュバックしてきた。そこに岳はいないのに。
結局、最後まで集中しきれず、指揮もソリも中途半端になった。晴美は見違えるように音程も安定してきて、むしろ晴美がリードしてくれた。
そのときのことを思いだし、CDを途中で止めた。ベッドに身を投げ出すと、マットが遠慮がちに波打った。口もとにかかったストレートの黒髪を、無造作に払いのける。
早朝の体育館で、帯状の朝日に照らされ、ひとりシュートを打っている岳の姿がよみがえった。まるで、神聖な絵画を見ているようだった。
そう、美しかった。
自分の思いにびっくりして、色白の頬が一瞬で紅潮した。そのとき下腹にしくっとした痛みが走った。思わず両手でお腹を押さえる。
……きたかな? いや、また違うな、きっと。
早紀はまだ初潮を迎えていない。
小学校を卒業するころくらいには、クラスでもたいていの女子が初潮を迎えていた。生理のことを、男子にかくれてひそひそ喋る女子の輪に、早く入りたかった。
「早紀は?」と聞かれたとき、「まだなんだ」と答えるのが恥ずかしかった。
「あぁ、早紀は華奢だからね」そう言うクラスメイトの胸は、ほんのり膨らんでいた。早紀は自分の薄い胸を、残念な気持ちで見下ろした。
生理が早く始まる子も恥ずかしいというが、遅く始まるのも恥ずかしいのだ。あとになれば、そんな時期のずれなど、どうってことないのかも知れないが、今はとても重大なことなのだ。
中学生になると、きたかきてないかの話題はもはや出なくなった。女子同士で生理痛やナプキンの種類の話をしているときは、早紀はあいまいな笑みを浮かべて、その場をやり過ごすのに苦心した。
自分も遅かったから気にする必要はないと、お母さんは言うけれど、お母さんが初潮を迎えた時期も先月に過ぎてしまった。
わたし、おかしいのかな。このままずっとこなかったら、病院に行かなきゃいけないのかな。
幾度となく繰り返した心配ごとが、また頭をよぎる。
早紀はガバッと身を起こした。
こんなことを、じくじく考えている暇はない。練習、練習。音心に迫力がないって言われたし、指揮もやらなきゃ。
CDを最初からかけ、みんなの歌声を思いながら、鏡の前で指揮を通しでやってみた。朝練のときよりは、うまくいったような気がする。でも、はたして迫力があったのかは疑問だ。もう一度、じっくり見てみたい。
そっか、自撮りすればいいんだ。
自分の思いつきに両手を軽く叩いたが、写真の自撮りすら苦手な早紀は、ビデオの自撮りなどやったこともない。でも、そんなことは言ってられない。ちょっと恥ずかしいけれど、誰かに見せるわけでもないのだ。
画面に自分がうまく映るようにスマホを机にセットすると、ビデオのスタートボタンを押した。
「緑山中学一年五組、合唱コンクール『ソノリティ』いきます」
なぜか、かしこまったアナウンスまで入れてしまう。CDの曲をスタートさせて、指揮を録画した。ひと通り撮って見直すと、自分が思っているよりも小さくまとまっていることに気づいた。
これじゃ確かに迫力ないね。
早紀はだんだん盛り上がるフレーズのところでは、もっと大胆に腕を広げてみることにした。男声パートだけのときは、顔だけでなく体ごと男子の方に向けた方がいい。
何度か修正しながら、数回ビデオを撮り直した。最後まずまずの出来映えの録画に、「全体を見て」「盛り上げて」などの注意点をキャプションで追加もしておいた。
隙間時間にはこれを見て復習しよう。よし、あとはソリの練習だ!
早紀は気合いを入れ直した。ところが、二度目に歌ったとき、最後のところで声がかすれた。空咳を何度かして、喉のあたりをさすった。
え? 今声出てなかった? 練習しすぎたのかな。これは大変だ。
首をギュッと押さえた。音心に相談してみようかとも思ったが、余計な心配をかけたくはない。
もう少し様子を見よう。
ふと、コマーシャルで見たことのある喉スプレーを思い出した。財布をつかむと玄関に走った。鍵をかけ外に飛び出した。
夕刻の駅前のドラッグストアは、混み合っていた。早紀は喉スプレーが置いてありそうなコーナーに、直行した。思っていた商品はすぐに見つかった。
喉スプレーの他にも、咳止め薬やシロップ、トローチなどいろんな種類のものが並べてあった。早紀は商品を確かめながら、次々と買い物かごに入れた。
ハッとして、こんなに代金を持っていないことに気づいた。ひとつひとつ棚に戻して、かごには結局、喉スプレーだけが残った。
トローチなどは、今度お母さんに買ってきてもらおうと、レジに並びかけたとき、ふわっとよい香りが鼻をかすめた。
あ……。
早紀は咄嗟に列から離れた。
男性化粧品のコーナーをのぞいてみた。店は混んでいるのに、こちらのコーナーだけは閑散としていることに安堵して、足音を消すように歩みを進めた。
ムースやワックスなど整髪料の類いが並んでいるところに行った。商品のラベルには「爽やかな香り」「フレッシュミント」「アクアカシス」「フローラル」「微香」「無香」にいたるまで香りに関する記述はいろいろあった。
が、それがどんな香りなのか全く見当もつかない。
そもそも、あの香りは整髪料なのだろうか。
でもやはり香水ではなく、髪の毛から漂ったような気がする。
何の香りかを知りたい。もう一度思いっきり吸い込みたい。でも、これらの商品を全て買ってみるわけにもいかない。
小さなため息をついたとき、商品のテスターに目がとまった。
こんなに分かりやすく置いてあるのに、どうして最初から気がつかなかったのだろう。
男性化粧品のテスターに手を伸ばすのには、勇気がいった。このコーナーにいるだけでドキドキなのだ。いかにもお父さんに、いや本当はいないけどお兄ちゃんに頼まれたものを探しています、という風を装っているつもりなのだ。
しかも制服のまま来てしまった。でも、早紀は自分の欲求を止めることは出来なかった。ささっと周囲を見わたし、誰も来そうにないことを確認する。ヘアワックスのテスターのキャップを開けた。
端からひとつひとつ、進む。
違う、これじゃない。全然違う。
そして、最後から二番目のテスターのワックスのキャップを開けたとき、あの香りがかすかに漂った。脈が波打った。他のワックスを塗っていない手の甲に、そっと塗ってみる。
そのとたん、みずみずしく透明感のある香りの中にある、奥行きのある甘さが、ふわっと立ち上った。
鼻を近づけるまでもなく、確信した。
これだ。あの香りは──。
手の甲に鼻先を近づける。香りに岳のシルエットが重なって、鼓動が勝手に高鳴ってきた。その商品を手に取ると、「シトラスムスクの香り」とあった。
シトラスは確か柑橘類のことだから、たぶん爽やかな香りの方で、ムスクが甘い感じの方の香りなのだろうか。一見相反するような香りなのに、このふたつがあいまって魅惑的な香りになっている。
値段を見てがっくりした。予算オーバーだ。まさか、喉スプレーをやめて、こちらを買うわけにはいかない。すごく心残りで、もう一度手の甲を鼻に当てながら、ワックスを棚に戻した。
うつむく。すると、下の段のすみの方にある、さっきのワックスの少量タイプが、目に飛び込んできた。早紀はすとんと勢いよくしゃがんだ。制服のプリーツスカートが、床に広がった。
値段もこちらなら買える。その小さなプラスチックの丸いケースをかごに入れた。心の中ではスキップしていたが、はやる気持ちをぐっとこらえて、ふたたびレジの列に並んだ。
しばらくすると、後ろから肩をポンと叩かれた。早紀は必要以上にびっくりして、背中が垂直に伸びあがった。慎重に振り向くと、屈託のない笑顔の晴美がいた。
「水野さん、買い物?」
晴美も制服姿だった。
「え、あ、まぁ」
早紀は笑おうとしたけど、頬がひきつれてうまくいかなかった。自分ではとっても不自然だと思ったけれど、晴美は全く気にしていないようで、相変わらず笑顔のままだ。
「か、金田さんも?」
顔は晴美の方に向けたまま、片手でかごの中のワックスを喉スプレーでそっと覆い隠した。
「うん、なっちゃってさぁ」
晴美は今度は思いっきりげんなりした表情を作って、かごを早紀に突き出すようにした。かごの中には生理用ナプキンが入っていた。
「あぁ」
言葉が続かなかった。気の利いたひとことが何も出てこない。
「わたし安定してなくて、いつくるか予想つかないんだよね。まぁ、良かった。合唱コンの日に重ならなくて」
そう言うと、晴美は茶目っ気たっぷりに親指を立てた。
晴美のころころ変わる表情、あけっぴろげでオープンな様子に、早紀はまるで自分とは違う種類の生き物を見ているような気持ちになった。
思ったことを胸にためずに何でも言えて、喜怒哀楽も素直に出せて、しかもそのことで人を不快にさせることもない。
金田さんはわたしみたいに、うじうじ悩んだりすること、ないんだろうな。
ぼうっと晴美に見とれていると、
「前、進んだよ」
晴美が人差し指を列に向けた。早紀が慌てて振り返ると、ちょうどすぐ前の人の番になっていた。レジ係の人が、かごから商品を一点一点スキャンしている。
早紀はハッとした。このままだと、ワックスを買うところを晴美に見られてしまう。
「ごめん。買い忘れがあった」
早紀はそう言うと、列からぴょんと逸れた。
「あ、そう」
晴美はきょとんとしている。
「うん。じゃ、また明日」
晴美に向かって小さく手を振ると、早紀は逃げるようにその場を離れた。しばらくシャンプー売り場の方で物色しているふりをして、晴美が店を出るまで時間を稼いだ。
しばらくして、レジの方を見ると、さすがにもう晴美の姿はなかった。もう一度レジに並ぼうと歩みかけ、立ち止まった。かごの中をあらためる。
さっきまで高揚していた気分が、すっかり萎えていた。
同じ香りの男性用ワックスを買うなんて、わたし、どうかしてる……。
なんだかとてつもなく、恥ずかしいことをしようとしている気がしてきた。かごの中の小さなプラスチックケースを、握りしめた。
やっぱり、返そう。
また男性用化粧品コーナーに戻りかけて、立ち止まった。
でも、欲しいかも。
一、二歩ずつ行ったり来たりするばかりで、なかなか決められなかった。そのとき、目の端に制服姿がちらりと見えた。リップコーナーに向かっている。
晴美がまだ店の中にいた。
早紀は誰もいない男性用化粧品コーナーに一直線に向かい、ワックスを棚に戻すと、今度こそ走るようにしてレジに向かった。
もうレジは空いていた。
会計をすませると、店の出口のところに晴美が立っていた。
「お買い物、終わった?」
びくんとした。
ひょっとしてわたしのこと、待ってた?
自分の様子を遠目に見られていたかも知れない。穴があったら入りたい。瞳がちろちろ揺れる。
「あ、う、うん」
挙動不審な早紀に構わず、
「ね、練習してかない?」
晴美は唐突に切り出した。早紀が目をしばたたかせると、
「ほら、ソリのところ。家でひとりで猛練習してるけど、いっしょに合わせたいじゃん。ここで偶然会ったのも、そういうことだよ」
晴美は断定するようにうなずいた。晴美も家で猛練習していたのかと思うと、早紀の顔はみるみる明るくなった。
「うん!」
(この続きは本書でお楽しみください)
作品紹介・あらすじ
佐藤いつ子『ソノリティ はじまりのうた』
ソノリティ はじまりのうた
著者 佐藤 いつ子
定価: 1,650円(本体1,500円+税)
発売日:2022年04月20日
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