宮下奈都・朝比奈あすか推薦の【音楽×青春物語】
合唱コンを舞台に、思春期のほろ苦さと眩しさを描く快作!
デビュー作『駅伝ランナー』、続く『キャプテンマークと銭湯と』で読み応え抜群の成長譚を世に送り出し、本読みをうならせた気鋭の作家・佐藤いつ子。
最新作『ソノリティ はじまりのうた』では、合唱コンクールを舞台に、悩みを抱える中学生たちの葛藤と成長をみずみずしい筆致で描きます。
今回は本作から、それぞれの登場人物の「悩み」を切り取ったシーンを特別に公開!
思春期の甘酸っぱさやもどかしさが蘇る、鮮やかな読書体験をお楽しみください。
▼試し読み#1
https://kadobun.jp/trial/sonority/7epu7jglhskc.html
▼試し読み#2
https://kadobun.jp/trial/sonority/entry-45594.html
佐藤いつ子『ソノリティ はじまりのうた』試し読み#3
クラスのリーダー的存在の女子で、合唱コンにやる気を見せはじめた晴美・通称キンタ。
しかし、彼女には忘れられないトラウマがあって……。
第二章 キンタの場合──彫刻の手
1
晴美は、すでに曲は終わっているのに、まだ音楽が流れているような気がしていた。音楽が自分の体の中でたゆたっているのだろうか。それともクラスの空気の中でなのか。きらめく余韻の微粒子が、そこここに漂っている感じだった。
もっとひたっていたかったのに、岳の登場で余韻は蹴散らかされた。相変わらず岳は、前向きな雰囲気をぶちこわす奴だ。
高揚感から一気に弛緩した空気に変わり、いったん後ろに下げた机をもとに戻そうと、机を引きずる生徒も出始めた。せっかく、初めて合唱らしい合唱になったのに、こんなふうにしまりなく、ずるずると練習が終わるのは良くない。
指揮者の早紀は、終わりの挨拶をするでもなく、明日のことを言うでもなく、ただその場に突っ立って、困ったように目を泳がせている。
晴美はサッと早紀の横に出て、声を張り上げた。
「みんな、朝練初日、お疲れ様でした。明日もやるから、また頑張ろうね!」
「キンタ、了解」
他にもはーいとか、おぅとか、ポジティブな返事がそこかしこから聞こえた。晴美が早紀を見ると、ホッとしたように微笑んでいる。なんだかイラッとした。
自分も机を戻そうと動きかけた早紀を、晴美は呼び止めた。
「ねぇ、水野さん」
「はい」
ついきつめの口調になってしまったのか、早紀は気をつけの姿勢をしている。
「水野さんは指揮者なんだからさ。練習の始めとか終わりとか、もう少し仕切ってほしいんだよね」
「う、うん」
早紀はうつむき加減になって、晴美を上目づかいで見上げた。
「
そんな言い方をすると、早紀がますます萎縮していくのは分かっているのに、和やかに伝えなきゃと思っているのに、晴美の口から飛び出した言葉は想定外につんけんしていた。上目づかいだった早紀の目が、スローモーションで下に落ちていく。
「ごめんなさい」
早紀はしおれた案山子みたいに、肩を落とした。これではまるで晴美が早紀に説教をたれているか、いじめているみたいに見える。「説教」はあながち間違ってはいないけれども。
晴美がちらちらっと周囲をうかがうと、こちらを注視している涼万に気づいた。晴美はややうろたえた。
さっき合唱が終わったとき、晴美はまっさきに最後列にいる涼万を振り返った。あのときも涼万の目線は早紀に注がれ、何やらジェスチャーで会話しているようだった。心に小さくひっかかっていた、その光景が思い出された。
「ちょ、ちょっと、あやまらないでよ。ま、わたしも、もちろんクラスを盛り上げていくけどさ。水野さんも頑張ってってことだよ」
と、すかさずフォローにまわった。早紀は決意するように下くちびるをかむと、まっすぐ晴美を見つめた。目の奥に力が宿っている。
「うん、分かった。ありがとう」
離れていく早紀の華奢な後ろ姿を見ながら、小首をかしげた。
あの子、おとなしすぎると思っていたけど、そうでもないのかな。ま、指揮をするのは、確かにうまいけど。でもなぁ……。
晴美は指揮者を決めたときのことを思い出して、くちびるを突き出した。あごに梅干しみたいなしわが寄る。
本当は自分が指揮をしたかったのだ。みんなの前に立って指揮棒を振りたかった。目立ちたがり屋な性分の、格好の役目だ。適役だとも思う。そう、かなり真面目にやりたかったのだ。
あれは、夏休みに入る前の音楽の授業のときだった。合唱コンクールの自由曲を決めるのと同時に、指揮者、伴奏者も選ぶことになった。伴奏者は
音楽の宮下先生が教卓を指でつつきながら、
「誰か指揮者やってみたいっていう人はいないの?」
とクラスを見わたした。反応がない。
晴美の席は一番前だった。脈がとんとん速く打つのが分かる。手を挙げればすむことなのに、挙げられない。ふだんの晴美なら、考えるより先に行動しているのだが。
よりによって一番前の席だから、後ろの様子が分からない。躊躇しているうちに、他の誰かが手を挙げてしまうのではないかと、気が気でなかった。誰かひとりでも立候補すれば、すんなり決まってしまうに違いない。
晴美は思い切って後ろを振り向き、ぐるりと様子を見わたした。みんな先生と目を合わさないように、ややうつむき加減なのが分かる。
「困ったわねぇ」
宮下先生の「困った」は、クラスのことを考えてというよりは、さっさと決めて授業を進めたいのに、という気持ちがにじみ出ていた。休みが多いから、今日は猛スピードで授業を進めたいのだろう。
「やる気があればいいのよ。やる気が」
宮下先生の投げやりな言葉は、かえって晴美を勇気づけた。
やる気があればいいんだ。それなら出来る!
晴美は腕を机から浮かした。自分の腕なのに、鉛みたいに重たかった。そのとき、
「先生、さすがにやる気だけじゃまずいと思います。音楽性がないと」
音心が珍しく発言した。鉛の腕は簡単に机に着地した。
「ま、そうよね。じゃ、どうしよ。んー。このクラスで吹奏楽部の人っていたっけ?」
まずい展開になってきた。晴美は両こぶしを握った。
どうして、音楽性イコール吹部になっちゃうわけ? 確かにうちの中学にはコーラス部がなくて、音楽系の部活っていえば吹部だけだけど。部活だけで決めるっていうのはどうよ?
不満がぐるぐると頭をかけめぐる。
晴美、いいから早く手を挙げろ。今ならまだ間に合う!
脳は命令しているのに、音心の言った「音楽性」がまるでどこかの神経にひっかかってしまったみたいに、鉛の腕は持ち上がらない。
やりたいことをやりたいと言えない自分。こんなありえない自分に会うのは初めてだ。理由は明白。
晴美はオンチだったのだ。
保育園の学芸会のときに、六歳年の離れたお兄ちゃんに言われたひとことが、実は今でもトラウマになっている。演目のひとつに合唱があった。学芸会の帰り道、お母さんが合唱をほめてくれると、お兄ちゃんが笑いながら言った。
「晴美、お前ってめちゃ声でかいから、すぐ分かったぞ」
ここまでは良かったのだが、
「ひとりだけアルト歌ってたのか?」
と茶々を入れてきた。
「アルトってなぁに?」
「低い音」
「ん?」
晴美が首をひねると、お兄ちゃんは調子に乗った。
「晴美、音ずーれずれ。そういうの、オンチって言うんだぞ」
すると、まわりにいた園児たちがオンチの意味は分からないが、ウンチと似た言い回しが面白かったのか、
「オンチ、オンチー」
とはやしたてた。晴美はわっと泣き出した。そのあと、お兄ちゃんはお母さんにこっぴどくしかられたが、園ではしばらくオンチとからかわれ続けた。
保育園からの幼なじみは今でも何人かいるけれど、もうそんなことは誰も覚えていないだろう。小学校に上がってからこのかた、いつも結構気をつけて歌ってきた。
家族でカラオケに行くと、お兄ちゃんがにまにま笑っているときがあるけれど、学校ではオンチと言われたことはない。だから、だいじょうぶなはず。
だけど、音楽性なんて言われちゃうと……。
「あれ、吹部って井川くんだけ? 井川くんは伴奏者だし、困ったな」
宮下先生がまたぼやいた。すると、
「はい」
か細くて透明な声の矢が、晴美の背中に突き刺さった。
「あぁ、水野さん。吹部だったわね。あなた、指揮やってくれない? 出来るでしょ?」
宮下先生がぐいぐい攻めていく。しばらく間があいた。晴美は机の上で両手を握り合わせた。
出来ないって言って。無理って言って。
祈るような気持ちで念力を送った。
「……はい」
早紀の言葉に、宮下先生だけでなく、クラス中に安堵の空気が流れた。晴美だけが、早紀の声の矢のせいなのか、胸に開いてしまった小さな穴がしくっと痛んだ。
(続く)
作品紹介・あらすじ
佐藤いつ子『ソノリティ はじまりのうた』
ソノリティ はじまりのうた
著者 佐藤 いつ子
定価: 1,650円(本体1,500円+税)
発売日:2022年04月20日
東大王推薦!気弱な少女が歌を通じて自分を解き放つ【音楽×青春】物語。
「俺たちにも才能、あるんじゃね?」
「自分よりすごいやつがそばにいても、差を見せつけられても、それでも絶対めげない才能」
吹奏楽部というだけで、合唱コンクールの指揮者を任されてしまった中学1年生の
内気な彼女が、天才ピアニストの幼なじみ、合唱練習に来ないバスケ部のエースなど、個性的なクラスメイトたちとの関わりを通じて自分を解き放っていく。
しかし本番直前、思わぬアクシデントが起こり ……
仲間とともに何かをつくりあげる達成感、悩みもがきながらも「自分らしさ」を模索する中学生たちの内面、みずみずしい人間ドラマをまっすぐに描いた、珠玉の成長物語。
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