丸の内魔法少女ミラクリーナ

村田沙耶香最新刊試し読み! もう世界を守る必要もない――魔法少女まさかの敗北?『丸の内魔法少女ミラクリーナ』④
2月29日(土)に村田沙耶香さんの最新短篇集『丸の内魔法少女ミラクリーナ』が発売されます。新刊の発売を記念して、表題作一篇を発売前に特別試し読み!
36歳のOL・茅ヶ崎リナは、オフィスで降りかかってくる無理難題も、何のその。魔法のコンパクトで「魔法少女ミラクリーナ」に“変身”し、日々を乗り切っている。だがひょんなことから、親友の恋人であるモラハラ男と魔法少女ごっこをするはめになり……。
>>前回を読む
●関連記事
覚醒している意識の世界よりもずっとずっと広い、無意識の世界から言葉が出てくる。それが楽しい。(村田)/インタビュアー:モモコグミカンパニー(BiSH)
※ページ下部の「おすすめ記事」からもリンクできます。
◆ ◆ ◆
「茅ヶ崎さん、最近、ちょっと雰囲気ちがいませんか……?」
後輩からおそるおそる聞かれて、私は「何が?」と低い声で答えた。
ミラクリーナをやめてからというもの、私はすっかりどこでも仏頂面になっていた。
ポーチの中では相変わらずポムポムが静かに横たわっている。もうポムポムは死んでしまったのかもしれない。
小5のあのとき、レイコはレイコのマスコットであるパムパムというウサギのぬいぐるみまで捨てられ、コンパクトを埋めた横に涙ぐんでお墓を作っていた。けれど、本当にポムポムが死ぬというのはこういうことかもしれない。私は、魔法少女でいることに疲れ切っていた。日常のキュートなお遊びだったはずなのに、どうしてこうなったのだろう。
私がしていた妄想なんて、くだらないものかもしれない。でも日常に妄想をちりばめてきらきらした世界で過ごすことは、私の人生を楽しくしてくれていた。
誰に笑われてもいいと思っていた。レイコと過ごした、校舎をパトロールしながら走り回ったあの昼休みがずっと続いてく感じ。これからもずっと、私はミラクリーナとしての日々を過ごすのだと思っていた。
そして、おばあちゃんになったとき、孫にこっそり話すのだ。コンパクトを見せて、私はほんとはミラクリーナで、今でも町内をパトロールしてるのよ、って。魔法少女歴70年のベテランなのよって。孫には信じてもらえないかもしれないが、ひょっとしたら一緒にコンパクトで変身できる日がくるかもしれない。
そういう、少しだけ変な日常を、私は愛していた。
自分がこの私なりに造りあげた愛しくもヘンテコな日常にうんざりする日がくるとは思っていなかった。でももう、何もかもどうでもいい。東京駅はあの小太りの魔法少女に守られ続け、レイコはその横でうっとりし続けるのだ。これだって、永遠に続くくだらない妄想だ。
不機嫌な私は、普段なら残業している他の子に声をかけて手伝うのにそれもせず、「じゃあ、お先に失礼します」と席を立った。
もう世界を守る必要もない。全員残業で死ね、とすら思いながら、私はロッカールームへ行った。よれた化粧を直そうと取り出したコンパクトを見ただけで、胸やけがした。私は苛々とパフをはたき、寝不足でボロボロの肌にファンデーションを塗りたくった。
認めたくないが、ミラクリーナは負けたのだ。
本当は負けたのは今回が初めてではない。24歳のころ、マルチ商法にのめりこむエミコを救えなかった。30歳のころ、不倫にはまるマリを救えなかった。33歳のころ、ブラック企業で体をボロボロにしたリカを救えなかった。ミラクリーナは誰も救えなかった。かつての相棒のレイコすら。それがミラクリーナの現実なのだった。
そして、もう自分のことすら救えなくなってしまった。魔法は終わったのだ。
私は鏡の中の私を見た。目の下がたるんだ疲れきった女が、ぼんやりとこちらを見ていた。
金曜の夜、呼び出されてレイコといつもの居酒屋で待ち合わせた。
席に着くと、レイコはすでに二杯目のビールを飲んでいた。
「……お疲れ」
私はレイコと目を合わせずに声をかけた。
あの丸ノ内線のパトロール以来、レイコと会うのは初めてだった。
携帯には『心配かけちゃってごめんね。正志は今週ずっと、お詫びだよって晩ご飯をつくってくれてる☆』などとメールが来ていたが、直視できず放置していたのだった。
「……ピッチ速いね。あ、私はハイボールで」
注文を取りにきた店員に告げて向き直ると、レイコは黙ったままジョッキを傾けていた。
「ちょっと、返事くらいしなさいよ。メール返事しなくて悪かったよ。それくらいでそんなに苛々することないでしょ」
「……いや、私も、さんざん心配かけといて浮かれたメールしちゃったし……ほんとごめん」
俯いたレイコに、私は溜息をついた。
「まあそれは、いつものことだし。しょうがないよ。それに彼、二代目マジカルレイミーになって改心したんでしょ?」
「……そうだね。気味が悪いくらい改心してる。あれから私には優しいし、ご飯も相変わらず毎日つくってくれるし、残業がある日はマッサージしてくれるし」
「よかったじゃん」
私は運ばれてきた枝豆とハイボールに手をのばした。
「まあ、私もちょっと極端だったよ。あいつと絶対に別れさせなきゃってあの時は本当に思ってたからさ。それが正義だと思ってた。でもさ、大人になるとわかるけど、正義なんて結局は善意の押し付けでしかないじゃん? レイコが幸せならいいし、まさかこんなことがきっかけでそんなにあっさりあのモラハラ正志が改心するなんて、私は全然予想もしてなかったわけだしさ」
「……そうなんだけどね……」
レイコは暗い顔で、枝豆を莢ごと食べ始めた。
「ちょっとレイコ、皮、皮」
「……何か違うなあって、思うんだ」
「え、何かって? 正志さんが?」
レイコの手から歯形がついた枝豆の莢を取り上げながら、私は不安になった。
「どうしたの? やっぱり改心してないの? 今もまた何かされたりしてる? 壁殴ったりとか?」
「……ううん、凄く優しい。今まで歩き煙草をよくしてて、そこが凄く嫌だったんだけど、『マジカルレイミーがこんなことしちゃいけないよな』って禁煙はじめたし、外でもお年寄りを横断歩道渡らせてあげたり、道案内したり、別人みたい」
「じゃあいいじゃない」
なんだ、と私はばかばかしくなって個室の壁に寄りかかり、脚を投げ出した。
「そうなんだけど……」
それでもレイコの顔色はすぐれなかった。
「何? 何が不満なの?」
「不満は何もないんだけど……」
レイコは自分でもわからない、というように困った顔で俯いた。
「何かね、変なの」
「そりゃ、変だよ。まだ正志さんパトロールしてんの?」
「そうなの……」
「だいぶおかしいよ。私は男の人が魔法少女になっても全然いいと思うけど、誰かを守るためでもなく、パトロールする快楽自体が目的のパトロールを毎日する大人は、あんまりいないよ。駅員さんも不安そうにしてるし、二代目マジカルレイミーはちょっと目立ちたがりすぎだよ。でも格好いいんでしょ、レイコはそれが?」
「そう……格好いいと思うよ。やってることは変だけど、お年寄りに優しく声かけたり、迷子の子どもをあやしたり……」
「じゃあいいじゃない」
「でもね、なんか、違和感があるの」
私はメニューをめくりながら適当に相槌を打った。
「そりゃあるよ。東京駅でいきなり俺は魔法少女だって言われても、本当に変身できているわけじゃないし、はたから見たら意味不明だよ。まあいいじゃん。私だってついこの前までやってたわけだし」
「……横で見ててね。何か違うって思うの」
「こんな謎なことする奴は自分の彼氏じゃないって? そりゃそうかもしれないけど」
「そういうことじゃなくって……」
レイコは空っぽになったジョッキを弄りながら、ぽつりと言った。
「こんなのは本物の魔法少女じゃないって思うの」
「いや、そりゃそうでしょ」
「だから、そういうことじゃないの。あの人が中年だとか、男だとかいう話じゃなくて、なんだか……違うの」
「ごめん、ちょっとよくわかんない」
「そうだよね。私にもわかんない」
レイコは空のジョッキに口をつけて呷り、顔をしかめてボタンを押して店員を呼んだ。
「うまく説明できないんだ。でも、あのとき、私たちが夢中になって変身した魔法少女は、そりゃ遊びだったけど、でも、何か本物の感じがあったと思うんだ。それからまさかずっとリナが続けるとは思わなかったけど、何か、リナや私たちの持ってた本物の感じと、正志は違うの」
いや、私らだって別に本物じゃないでしょ……と突っ込もうとしたが、レイコの真剣な顔に、口をつぐんだ。
レイコは店員が運んできた新しいジョッキを持ち上げながら、きっぱりと言った。
「とにかく、あの人がやってるのは本物じゃない。それだけはわかるの」
レイコの目は黒く濡れていて、まるで、音楽室に敵が潜んでいると私の腕を掴んで囁いたあの時のように、真剣そのものに世界を貫いていた。
職場の同期との飲み会の帰り、ほろ酔いの私はJRから地下鉄に乗り換えるため、速足で地下道を歩いていた。
前はよく東京駅で迷ったものだが、パトロールのせいですっかり詳しくなってしまった。ちょっと忌々しく思いながらも歩いていると、トイレの前で、酔っ払い同士が言い合うような声がした。
うわあやだな、と足早に通り過ぎようとして、ぎょっとして足を止めた。トイレの前で仁王立ちしているのは正志だった。
こんな時間までパトロールしていたのだろうか。正志ではなく、今はマジカルレイミーと呼ぶべきなのかもしれないが、とにかくその人物は、喫煙所ではない場所で煙草を吸っていた気弱そうな中年の男を注意していたようだった。
「だからさあ、こうやってルールを守らない人がいると困るんだよね。わかる? 迷惑行為をしてるってこと」
「はあ……」
「俺は私服パトロールしてるところだから、わかんないかもしれないけど、何だったら出るとこ出てもいいんだよ? こうやって注意だけで済ませてあげようとしてるんだからさあ。もうちょっと反省した態度を見せてほしいんだよなあ」
「はあ……すみません」
気弱そうな中年の男の人が、半信半疑といった様子で頭を下げている。その頭を見下ろしながら、正志は偉そうに腕組みをした。
「ま、反省してるようだから今回は見逃してあげるけど。気を付けてよ? こんなことで時間とられたくないんだよね、パトロールは大変なんだから」
私は急いでその場を離れた。
正志はレイコに向かってストレスを発散するかわりに、こうやってパトロールで日頃の鬱憤を晴らすようになっていたのかもしれない。
どうしよう、止めるべきだろうか、と思いつつ、もう自分には関係ない、という気持ちが湧きあがる。きっかけは私だったとしても、あとは正志が勝手にやっていることだ。
私は顔をふせてその光景から目をそらし、急ぎ足で自分の乗換駅へと向かった。
〈第5回へつづく〉
▼村田沙耶香『丸の内魔法少女ミラクリーナ』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321903000373/