丸の内魔法少女ミラクリーナ

村田沙耶香最新刊試し読み! 理不尽な世界と闘うすべての人に贈る痛快なラスト! 『丸の内魔法少女ミラクリーナ』⑤
2月29日(土)に村田沙耶香さんの最新短篇集『丸の内魔法少女ミラクリーナ』が発売されます。新刊の発売を記念して、表題作一篇を発売前に特別試し読み!
36歳のOL・茅ヶ崎リナは、オフィスで降りかかってくる無理難題も、何のその。魔法のコンパクトで「魔法少女ミラクリーナ」に“変身”し、日々を乗り切っている。だがひょんなことから、親友の恋人であるモラハラ男と魔法少女ごっこをするはめになり……。
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◆ ◆ ◆
月曜日、残業を終えてスマホを見るとレイコからメッセージが入っていた。
『結婚するかも。昨日プロポーズされた』
私は溜息をついた。これが現実のミラクリーナとマジカルレイミーの物語のエンディングか。
正志は何だかんだいってもレイコを愛してるみたいだし、今はレイコに優しいならどう彼女の決断に文句を言うべきか、言っていいのかもわからない。レイコの人生に私が口を出すなんて、正志がやっているのと同じような傲慢な正義でしかなかったのかもしれない。
身支度を終えて帰ろうとすると、携帯が鳴った。見ると、もう一件、レイコからメッセージが入っていた。
『返事は今日のパトロールを見て決める。リナがまだミラクリーナなら、来てほしい』
首をかしげてスクロールしようとしたが、メッセージの文面はそれだけだった。
私がまだミラクリーナなら? レイコは一体何を言っているんだろう。もうあの遊びはやめたって言ったのに。
銀座線に乗り込んでからも、頭の中からその文面が消えなかった。
ひょっとしたら、あのトンチキなパトロールの最中、魔法少女に一番真剣だったのは、レイコだったのかもしれない。
5年生のあの日、校庭にコンパクトを埋めたときのレイコの真剣な顔がうかんだ。
『いつか、絶対にこのコンパクトを取りに来るから! そのときまで一人で戦って! お願い、ミラクリーナ!』
あのときの潤んだ目と、金曜のレイコの眼差しが頭の中で交錯し、反射的にドアへ向かって足が動いた。
「すみません、降ります、降ります!」
迷惑そうな乗客をかき分けて電車を降りると、私は丸ノ内線に乗り換えるために走り出した。
丸ノ内線のホームから『今どこ?』とメールすると、『今から電車内のパトロール。今、まさに丸ノ内線に乗り込んで、赤坂見附まで来たところ!』と返信があり、私は慌ててホームに来た電車に乗り込んだ。
この電車のどこかにレイコとマジカルレイミーがいるのだろうか。車内は混んでいたが、なんとか歩ける程度の隙間があり、私は「すみません、すみません」と人をかき分けて電車の中を進んだ。
三両目のドアを開けると、車両内は隣の車両の倍くらい混んでいて、遠くから聞こえる正志の声で、それは正志たちを遠巻きに見るために乗客が車両の手前半分に集結しているせいだとわかった。
「すみません、ちょっと通ります!」
もうなりふり構っていられずに人混みをかき分け、声のするほうへと進んだ。正志たちは優先席の前に立っており、立っている乗客は正志たちから離れているため、まわりにはぽっかりと穴があいていた。座っている乗客たちは、巻き込まれたくない、というふうに目をそらしたり、俯いて見て見ぬふりをしたりしている。正志の正面で、顔を赤くして俯いているのは若い女性だった。
「ミラクリーナ!」
私に気付いたレイコが縋るような声をあげ、遠巻きの乗客の視線が私にも集まる。逃げたいのを堪えて、私は息を整えながら二人に近づいた。
「あれ、どうしたのリナちゃん。ミラクリーナはやめたんじゃなかったの?」
「やめたよ」
「そうだよな。俺はほら、今、この人に注意してたんだよ」
正志はどこかうれしそうに、息を弾ませて優先席を見下ろしていた。
「この人こんなに若いのに優先席に堂々と座ってさ。許せないだろ? ほら、はやく立って。お年寄りに席を譲りなさい」
正志に手首を掴まれて、座っていた若い女性は肩をびくりと震わせて正志を見上げた。
「あの……」
「マジカルレイミー。その人は妊婦さんよ。見えるでしょ、鞄にぶら下がってるマークが?」
私の言葉を聞いても、正志は高圧的な態度を変えなかった。
「見えてるけどさあ。それ、ほんと? 俺、聞いたことあるんだよね。電車で座りたいからって妊娠してなくてもそのマークをつけてる人がいるって。何か証拠ないの? 母子手帳とか」
「…………」
女性は正志に手首を掴まれて固まったままだ。正志はじろりと女性の身体を眺めた。
「お腹だって全然大きくないじゃない? 俺はさあ、正義感強いからさ、そういうの絶対に許せないんだよね」
「あなたにそんな権限ないわ、マジカルレイミー。妊婦さんの体調は人それぞれだし、お腹が目立たないときのほうが身体がデリケートなのよ。すぐに離れて、謝罪しなさい」
薄く笑って正志がこちらを見た。
「人がいいな、リナちゃんは。俺は何か証拠を見せろって言ってるだけだろ。本当に妊娠してるんだったら簡単なことだろ?」
「そんな権限はあなたにはないって言ってるの。早く離れなさい!」
正志の手を掴もうと伸ばした手を、レイコが止めた。
「レイコ……?」
レイコは深呼吸して、鞄からゆっくりとランコムのファンデーションを取り出した。
まさか、と思った瞬間には、レイコはコンパクトを開けて叫んでいた。
「ビューティーチェンジ! マジカルフラッシュ!」
遠巻きに騒ぎを見ていた人の輪が、レイコの叫びを聞いてさらに後退し、優先席のまわりは必死に目をそらして座っている乗客以外は、ぽっかりと人がいなくなった。
レイコ……いや、初代マジカルレイミーは、正志を指差して怒鳴った。
「偽者のマジカルレイミーめ! もう許せない! 私があなたを成敗してやるわ!」
「おいおい、レイコ、ちょっと落ち着い……」
「ミントスプラッシュ!」
レイコは闘牛士に突進する牛のように、頭から正志に体当たりした。
その権幕に唖然としていると、今度は持っていた日傘で正志をめちゃめちゃに殴り始めた。
「ミントスプラッシュ! ミントスプラッシュ! ミントスプラッシュ!」
「いてててて、やめろよレイコ!」
「ミントスプラッシュ! これに懲りたら二度と私の前に現れるな! ミントスプラッシュ!」
レイコは半泣きで正志を殴っていた。「お嬢ちゃん、がんばれ!」と、妊婦さんのとなりに座ってさっきまで目をそらしていたご老人が楽しそうに叫んだ。
レイコは涙で化粧をボロボロにして、正志を日傘で殴りながら電車の外へと押しやった。
「ミントスプラッシュ! ミントスプラッシュ!」
「このイカレ女! 別れるぞ!」
「こっちが願い下げよ! もう一切連絡しないで! 私の前から消え去れ!」
ドアが閉まり、新大塚駅のホームに正志を残して電車が発車した。
息を切らしながら、日傘を握りしめたレイコはつけまつげを頬につけたまま、ドアの前に立ち尽くしていた。
すごく変な出来事を見てしまったけれどどうしよう、という感じの微妙な空気になって静まり返った車内で、妊婦の女性が、おずおずとレイコに声をかけた。
「あ、あの……。ありがとうございました……?」
助けられたのか奇人の痴話げんかに巻き込まれたのかよくわからない、といった様子の疑問形だったが、女性がそう発してくれたことで、車内はなんとなくほっとした雰囲気になり、「そうそう」「立派ね、偉かったわ」「うん、よくやってくれたわ」と何人かのおばさんがレイコに声をかけ、無理矢理に和やかなムードが広まった。
私はおそるおそる、立ち尽くしているレイコの肩を叩いた。
「ええと、……偉かったよレイコ。ミラクリーナが出る幕もなかったね……」
「羞恥で死にたい……」
本当に死にそうな顔でそう言い、つけまつげを頬につけたままのマジカルレイミーが、日傘を抱きしめてその場に崩れ落ちた。
「いい部屋だねー」
窓の外を見ながら言うと、フライパンをゆすっていたレイコがこちらを振り向いた。
「窓だけは大きくてねー。そのかわり収納がなくって」
「でも窓が大きいのいいよ、開放感があってすごい気持ちいい。緑も見えるし」
私はベランダへ出て、隣の公園を見つめた。
あれからすぐに、レイコは荷物をまとめて正志の部屋を出た。しばらくは私の部屋に泊まったり週末は実家に帰ったりしていたが、やっと新しい部屋が見つかって、昨日段ボールと少しの家具を運びこんだところなのだ。
「引っ越し手伝えなくてごめんね。荷物の片付け、手を貸すよ」
「いいって。それより、まあ散らかってるけど、引っ越しの祝い酒を手伝ってよ」
「それはもちろんだけど」
私は引っ越し蕎麦の隣にレイコが作った納豆オムレツを並べた。私が家から持ってきた煮物のタッパーも並べ、取り合わせはぐちゃぐちゃだが家飲みならこれで十分だと、段ボールから出したばかりのクッションに腰かけた。
「それにしても、よくあっさり別れられたね」
「あれからすぐ、彼に貸してたお金の請求書を送りつけたの。全部手帳にメモってたから。向こうのサインがあるわけでもなし、法律的には全然意味ないみたいだけど、彼、びびっちゃって。私がそんな風にはむかってくること自体、想定外だったみたいでね。お金も半分は返ってきた」
「よかったじゃん」
私たちは組み立てたばかりのテーブルに向かい合って座り、冷えた缶ビールで乾杯した。
「あ、これ、引っ越し祝い」
レイコが欲しがっていたストウブの鍋だ。前、新婚の友達の家でホームパーティーをした時、使いやすくて欲しい欲しいと言っていたからだ。
「わー、やった! ありがとう!」
レイコは鍋マニアなので、これで六つめの鍋になると思うが、「これ欲しかったんだー、やったー」とうれしそうにしていた。
「あ、そうだ、私からもあるんだ」
レイコはごそごそと、そばにある段ボールを開いた。
「あ、これじゃないや、ええと、こっちは下着か……ああ、これこれ」
レイコが箱から取り出したのは、むき出しのミラノコレクションのコンパクトだった。
毎年、限定で発売されるパウダーだ。二十代のころ、よく二人で店頭で見ながら欲しい欲しいと言いつつ、お粉に1万は出せないよねえ、と言い合っていた代物だ。
「これさ、よかったらもらって」
「え……」
「毎年、店頭で見るたびに思ってたんだけど、これ、けっこう変身によさそうじゃない? ほら、天使の絵だしさ」
なんとなく必死に言いつのっているレイコに、「ええと……」と口ごもると、レイコはバツの悪そうな顔をした。
「……私のせいで、ほら、リナ、変身しなくなっちゃったじゃない? ほら、これなら化粧直しも変身もできるし、便利かなって……」
「うーん、でもこれ、高いし。レイコ欲しがってたじゃん、悪いよ」
「……あのさ、私さ。正志にお金貸して返してくれなくても、浮気されても、通帳の暗証番号聞きだされても、苛々すると延々と物を投げつけられても、スマホ覗かれて男の電話番号全部消されても、別れられなかったのね。それでも好きだったの」
「う、うん……」
思っていたよりずっとディープな目にあっていたことをいきなりカミングアウトされ、話の展開についていけない私は曖昧に頷いた。
「それでもね、正志が二代目マジカルレイミーになって、それなのに魔法少女としての一番大事な部分が彼になかったこと、それが、本当に嫌だったの。何されても許せたけど、それだけは許せなかったのね」
レイコが真剣そのものなので、私も、蕎麦を掴もうとしていた箸を置き、なるべく神妙な表情を作って頷いた。
「うん、なんか、ごめん、話がよくわからないんだけど」
「……私さ、リナのこといっつもバカとかやめろとか中二病とか言ってたけどさ。リナは本物だと思うの。あの、休み時間に二人で変身して、魔法少女になって正義のために校庭に走り出してくあのきらきらした感じ、あの感じを、ちゃんと今でも持ってると思うのね」
レイコの言葉で、記憶がよみがえった。あのころは毎日、教室の隅で二人でコンパクトを開いて変身し、外へ駆け出していった。
あの、ぐいぐいとなにか強い光に惹かれるような感じ。誰に何と言われようと、真実だと胸を張って言える感じ。
レイコは私よりもずっと誠実に狂っていたと思う。あの時、校舎の中でレイコほど真剣に世界の平和を守ろうとしていた人はいなかったし、レイコほど見えない魔法に包まれていた人はいなかった。
「……まあ、今でも、本当はどうかしてるって思ってはいるんだけど……でも、リナにはコンパクト、持っていてほしいって思うんだよね、だから受け取って」
「……ありがとう」
私は素直に頷き、金色のコンパクトを受け取った。
「あ、私も、見せたいものあるんだ。この前実家に帰ったらさあ、こんなの見つけちゃって」
私は鞄から小さな水色の瓶を取り出した。
「うわあ、それ……」
それは私たちが小6のころ、駅前のダイエーで初めて買ったコロンだった。石鹸の香りがするとパッケージに書いてあるが、つけてみたらレモン臭くて、親にバレないように慌てて窓を開けて換気したことを覚えている。
「開けてみたら、意外と劣化してないみたいでさー。レイコにつけてあげようと思って」
「ちょっと、やめてよ」
「いいじゃん。お祝いだよ、お祝い」
私は石鹸のコロンをレイコに吹きかけた。ミントスプラッシュ、と叫びながらかけてやろうとしたが、やめた。それはレイコの必殺技だからだ。
安物のコロン特有のアルコール臭が部屋に充満し、私たちは笑い転げながら互いの服にコロンをかけあい、1万円のパウダーを顔に塗りあい、お互いの足に趣味の悪いペディキュアを塗りあった。
安物のコロンと1万のパウダーとエナメルの匂いに酔いそうになりながら、私たちははしゃぎ続けた。まるで、あのころからずっと繋がっている放課後の中にいるみたいだった。
明日は月末の月曜日だから、仕事はいつも以上に忙しいだろう。すぐにトイレでキューティーチェンジをして、ミラクリーナになってヴァンパイア・グロリアンと戦わなくてはいけないかもしれない。
魔法少女も大変だなあ、と思いつつ、なぜかちょっと浮かれた気持ちになって、私はレイコの顔にパウダーを塗りたくりながら右手の中の金色のコンパクトを見つめた。鞄の中ではフルラのポーチの中で、死んでいたポムポムが起き上がり、満足げな顔で私の次の変身に備えているみたいだった。
〈了〉
単行本『丸の内魔法少女ミラクリーナ』では、表題作のほか
「秘密の花園」「無性教室」「変容」の3篇をお楽しみいただけます!
▼詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321903000373/