太田愛『未明の砦』が、第26回大藪春彦賞を受賞しました。
共謀罪の初の標的となった四人の若者が、逃げ惑いながら組織に反旗を翻す、胸が熱くなる社会派青春小説です。大藪賞受賞を記念して、第一章を丸ごと公開します。
大藪春彦賞受賞作『未明の砦』試し読み3
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同日、午後八時三十分。
〈週刊真実〉の記者・溝渕久志とカメラマンの玉井登、編集部において『ブチタマ』の通称で知られる二人は、寒風吹きすさぶ雑居ビル非常階段七階の踊り場で、向かいのマンションの一室を望遠カメラで狙って張り込んでいた。その部屋に住む若い女のもとに某大物俳優が通いつめているらしいという情報が入り、編集長の財津によって調査を命じられたのだが、昨晩同様、何の成果もないまま刻々と気温が下がりつつあった。
「なあタマ、俺たちこんなことしてていいのかねぇ」
溝渕のため息は白く伸びる間もなく風に巻かれた。玉井は体力を温存するためか、溝渕が何を話しかけても「寒いっすね」としか答えない。
溝渕は玉井と組んで以来、二人してほぼ自弁で追い続けてきたネタのことがまだ諦め切れなかった。溝渕も玉井もこいつはとてつもない特ダネだという確信があった。もちろん具体的な証拠を摑まなければ記事にできないことはわかっていた。だからこそ、もう少しだけ時間をくれと編集長の財津に頭を下げて頼みこんだのだ。首を縦に振ってくれさえしたら、肉のつきすぎた肩でも腕でも揉めと言われれば揉む覚悟だった。だが、財津は自ら肩の凝りをほぐすように首を左右にコリコリと振ったあげく、この不倫ネタを回してきたのだ。退職後の財津を闇討ちにする空想に浸っていると、スマホが鳴った。着信は当の財津からだった。不承不承、電話に出ると、「よう、ブチタマ」と、そこらの野良猫に呼びかけるような財津の馴れ馴れしい声がした。
財津によるとネタ元からの情報で、荻窪の同じ寮で暮らしているタイ人留学生たちが、事情聴取の名目で次々と警察にしょっ引かれているという。聴取の目的もわからない。密輸か組織的な不法就労の線もあるかもしれないので、すぐにそちらをあたれという。
「こっちの不倫ネタの方は放っておいていいんですかね」
一言、嫌味を言ってやらなくては気がおさまらなかった。
「不倫はバレるまで続けるもんだから、あとでいい」
そのまま通話が切れた。嫌味はまったく通じなかったらしい。玉井に事態を伝えると、見違えるような素早さで撤収準備を始めた。
タイ人留学生の突然の集団連行。不倫ネタより調査しがいがあるのは間違いない。
6
同日、午後九時十五分。
株式会社ユシマ副社長・板垣直之は、約束の時間に十五分遅れて日本屈指の高級ホテル十七階にあるバーに到着した。
定席であるコーナーのテーブル席に目をやると、与党幹事長・中津川清彦がひとり、悠然と腰を下ろして窓外を眺めていた。板垣は、しばし足をとめてその姿に見入った。
象徴的な光景だった。
チャージ料だけでビジネスホテルに一泊できるその席からは、丸の内の夜景が一望できる。しかし実際にそこに座ると、地上を覆う光の群落よりも、ちょうど視線の高さに散らばった光の明滅が目を引く。誇らしげに自己顕示するかのような赤と白のそれは、夜間に飛行する航空機に対して、超高層建築物の存在を知らせるためのものだ。
中津川があのように見渡せる世界。つまり同じ社会的高度に生息する者だけが、彼にとって実在する人間なのだと板垣は思った。それぞれに喜怒哀楽があり、互いに頼み事をしたり、親族の幸不幸を慮ったり、場合によっては腹を立て、必要とあらば騙しもする。一方で、遥か下方にひしめく人々は、中津川の表現を踏襲すれば、気まぐれに形を変える半液体状のひとつの巨大な生物で、〈国民〉と呼ばれている。板垣は、仮に自分が〈ユシマ副社長〉という肩書きを失えば、瞬時に中津川の世界から消え失せ、ゲル化した国民の一部に回収されるに違いないと痛感した。
視線に気づいたのか、中津川がつと板垣を振り返った。板垣は会釈するために立ち止まったかのようにいかにも自然に一礼すると、バーテンダーに目顔でいつもの注文を伝えてから席についた。
「どうも、急にお呼び立てして。柚島が是非とも今夜、先生にお目にかかるようにと申すものですから」
「社長は今、インドにいらっしゃるそうだね」
待たされた苛立ちを微塵もみせずに中津川は言った。柚島が板垣に約束の時間に遅れていくように命じたことくらい端からわかっているらしい。その証拠に、スライスしたレモンをあしらった卓上のグラスは、中身のペリエが半分ほどに減っている。
「ええ。現地の工場を視察がてら、少し羽を伸ばしてくるそうです」
板垣もまた平気な顔で噓を吐いた。柚島庸蔵がインドに飛んだのはのっぴきならぬ事態が勃発したからだ。おおよそ察しているはずの中津川がどんな反応を見せるか、板垣は確かめておきたかった。中津川はペリエのグラスを手に微笑んだ。
「なんといっても〈世界のユシマ〉だ。体がいくつあっても足りんくらいにお忙しいだろうが、人間たまには羽を伸ばさんとね」
つまり、中津川としては、現状をさして憂慮していないというわけだ。おそらく柚島は、中津川の楽観を見越して今夜の会合を設けたのだろう。そう考えつつ板垣は、テーブルのしつらえが整うまで適当に相槌を打ちながら中津川に喋らせておいた。
中津川は、しばらく前に突如として政界引退を発表した与党副総裁が、最近ではどういうわけか開き直ったかのように頻々と銀座の高級クラブで豪遊しているという話を面白おかしく語っていた。引退を決めたその男と中津川はいくらも歳が違わないにもかかわらず。
齢八十に届こうという中津川は、生え際から一分の隙もなく常に墨のように黒々と髪を染め上げているのだが、時間と手間のかかったあの頭の最大の関心事は、選挙だ。そして、選挙は当然のことながら金だ。
中津川が代表を務める政治団体は資金管理団体の〈なかつがわ政策研究会〉と政党支部の二つだが、この二団体の年間の収入は合計一億二千万円を超え、政界でも抜群の集金力を誇っている。その金の七割以上が政治資金パーティーによる収入であり、一枚二、三万円のパーティー券を大量に購入しているのは、ユシマをはじめとする名立たる企業だ。一回の合計が二十万円を超えると収支報告書への記載が義務づけられるため、関連会社名義や個人名に分散させるのが暗黙の了解であり、ユシマのような企業はいわば政治家のサポーター、赤裸々にいえばスポンサー的な存在でもある。
税金で支払われる年間二千万円前後の議員報酬は小遣い程度とはいわないまでも相対的に軽い。なにより納税は国民の義務だが、パーティー券の購入は財界人に裁量の余地がある。ことに、世界時価総額順位において上位グループに踏みとどまっているいまや数少ない日本企業のひとつであるユシマは、財界に対してそれなりの影響力がないと言えば噓になる。その事実を忘れさせないために、柚島庸蔵は中津川に電話ひとつかければ済むことを決してそうはせず、わざわざ時間を割かせてお決まりのバーに呼び出し、副社長である板垣の口を通して自分の言葉を伝えさせるのだ。このコーナーのテーブル席で中津川と向き合うのは、もう何度目か思い出せないほどだ。
テーブルに定番のグラスとフルーツの銀盆が並んだのを潮に、板垣は話を切り出した。
「柚島から先生にお尋ねするよう申しつかってきたのですが」
詔を伝えるように、板垣はこれ見よがしに姿勢を正した。
「中津川先生、生方第三工場のあの四人の件はどうなっているのでしょうか。今夜のニュースで報道されるはずだった事件は、どうなっているのです」
グラスを手にした中津川は窓外に視線を転じて泰然とした風を装っているが、頰も口許も硬くこわばっている。やはり詳細を摑んではいないのだと板垣は確信した。うかつに口を開いて言質を取られるのを避けたいのだ。
「中津川先生、今回のことはユシマだけの問題ではないのです」
板垣は柚島庸蔵の言葉どおりに続けた。
「世界規模の感染症による甚大なダメージから日本経済はまだ回復していない。今、舵取りを誤れば近い将来、大変なことになる」
老翁は半ば独り言のように呟いた。
「『貧者は洗脳されやすい』。以前、柚島さんがそう言っていたが……」
板垣は中津川が眺めているのと同じ窓外の航空障害灯に目をやった。
柚島や中津川のような高高度から見下ろせば、そのようにしか感じられないのかもしれない。だが、あれは洗脳ではないのだ。彼らは確固たる意志を持って行動している。だからこそ危険なのだ。
「事はいまや欧州や米国だけでなくインドや東南アジアでも起こっています。決して日本で再現させてはならない。それが柚島の意思です」
中津川はグラスを置いて立ち上がると、スーツのボタンを留めた。
「ご心配は無用。柚島さんには、そうお伝え下さい」
板垣の記憶するかぎり、中津川が見送りのいとまも与えずに立ち去ったのは初めてのことだった。
(つづく)
作品紹介
未明の砦
著者 太田 愛
発売日:2023年07月31日
共謀罪、始動。標的とされた若者達は公安と大企業を相手に闘うことを選ぶ。
その日、共謀罪による初めての容疑者が逮捕されようとしていた。動いたのは警視庁組織犯罪対策部。標的は、大手自動車メーカー〈ユシマ〉の若い非正規工員・矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平。四人は完璧な監視下にあり、身柄確保は確実と思われた。ところが突如発生した火災の混乱に乗じて四人は逃亡する。誰かが彼らに警察の動きを伝えたのだ。所轄の刑事・薮下は、この逮捕劇には裏があると読んで独自に捜査を開始。一方、散り散りに逃亡した四人は、ひとつの場所を目指していた。千葉県の笛ヶ浜にある〈夏の家〉だ。そこで過ごした夏期休暇こそが、すべての発端だった――。
自分の生きる社会はもちろん、自分の人生も自分で思うようにはできない。見知らぬ多くの人々の行為や思惑が作用し合って現実が動いていく。だからこそ、それぞれが最善を尽くすほかないのだ。共謀罪始動の真相を追う薮下。この国をもはや沈みゆく船と考え、超法規的な手段で一変させようと試みるキャリア官僚。心を病んだ小学生時代の友人を見舞っては、噛み合わない会話を続ける日夏康章。怒りと欲望、信頼と打算、野心と矜持。それぞれの思いが交錯する。逃亡のさなか、四人が決意した最後の実力行使の手段とは――。
最注目作家・太田愛が描く、瑞々しくも切実な希望と成長の社会派青春群像劇。第26回大藪春彦賞受賞作。
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