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人間の力を信じ抜く小説——太田愛・新刊『未明の砦』レビュー【評者:武田砂鉄】

共謀罪、始動。標的とされた若者達は公安と大企業を相手に闘うことを選ぶ。
『未明の砦』レビュー

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未明の砦

著者:太田 愛



書評:武田砂鉄

「失われた30年」なんて言い方がある。自分は今、40歳なので、人生のおおよそ、失われた状態を過ごしてきたらしい。で、一体、何が失われたのだろう。思えば、各方面から「あの頃は良かった」という語りを聞いてきた。「そうですか」と頷きながら「早く帰りたい」と脳内で呟く酒盛りを幾度と味わってきた。
あの頃は良くて、今は良くないらしい。社会が萎むと、既得権益の恩恵にあずかってきた人はそれを守ろうとする。自分の力を守るために、力を持たない人がわずかに残している力を削ぎ落とそうとする。うまくいかないのは、あなたのせいだからね、と言う。その様子を見て、別の成功者が「成功してから文句言えよ」と嘲笑いながら加担する。

「この国の人間には社会という概念がないのだ。あるのは帰属先だけ。自分のいる会社、自分のいる学校、自分のいる家族」
「この国にある規範は二つだけではないのかと思う。〈自己責任〉と〈迷惑〉だ」
 こんな一節が目に入る。自分でなんとかしろ、迷惑をかけるな、問題があるなら身の回りで片付けろ、これを繰り返していれば閉塞感はどこまでも強くなる。その上で人間を管理しようとする。力のない個人が声をあげようとする行為を潰そうとする。
「この非正規が……」、本書に何度も出てくる揶揄だ。自動車メーカー「ユシマ」で非正規工員として働く4人の男たちは、常に存在を軽んじられている。休み時間も十分にとれず、正社員になれないように労働を管理され、不平不満を出す権利さえ剥奪されている。いつクビを切られてもおかしくない。政権中枢と寝そべるかのように距離の近い経営陣は、政府方針に頷きながら、人体実験のように労働の効率化を繰り返す。その中で起きた過労死の隠蔽を試みる。それを知った4人は、非正規の立場で労働組合を結成するが、経営陣は煙たがり、やがて警察は、彼らに「共謀罪」の適用を模索する。

「少なくとも、彼らの中には怒りがある。私は、怒りは希望だと思っている」、彼らと連帯し、労働運動の作法を教える男がこのように言う。とにかく、この社会は怒りが軽んじられる。決まったことなんだから、今さらそんなこと言ったって無駄でしょう、の繰り返しだ。でも、怒りを信じる人間が集うと、どんなに大きな組織であろうとも、土台に微かなヒビが入る。ヒビが入れば、天空でくつろいでいる連中も揺れを感知する。苛立つ。慌てる。潰しにかかる。
「失われた30年」の後、この社会はどうなるのだろうという不安がある。曇天が晴天に切り替わる見込みはどうやら薄い。個人が自由に動き回れる範囲は狭まっていき、管理は強化され、迷惑をかけないようにしてくださいねと優しい声で制限されていく。本書の中に滲んでいるのは、今、この社会を生きるしんどさと、その壁や膜をどうやったら破れるのだろうかという思案、さすがにどうにかしなければいけないという怒りの果てにある、いくつかの希望だ。

 困惑し、狼狽し、打ちひしがれる個人の力はずっと弱い。達観し、冷笑し、握り潰そうとする組織の力はずっと強い。でも、ひっくり返す方法は残されている。薄い光が射し込んでいる。その光源を探す。あまりに理不尽な言動を浴びる。その言動を受け止めて、咀嚼して、吐き出す。そこでようやく変わるのか、それでもやっぱり変わらないのか。希望と絶望が混ざり合った後、そこにはどんな色が残るのか。鈍色を透明に戻すにはどうすればいいのか。人間の力を信じ抜く小説が熾烈に問いかけてくる。

作品紹介



未明の砦
著者 太田 愛
発売日:2023年07月31日

共謀罪、始動。標的とされた若者達は公安と大企業を相手に闘うことを選ぶ。
その日、共謀罪による初めての容疑者が逮捕されようとしていた。動いたのは警視庁組織犯罪対策部。標的は、大手自動車メーカー〈ユシマ〉の若い非正規工員・矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平。四人は完璧な監視下にあり、身柄確保は確実と思われた。ところが突如発生した火災の混乱に乗じて四人は逃亡する。誰かが彼らに警察の動きを伝えたのだ。所轄の刑事・薮下は、この逮捕劇には裏があると読んで独自に捜査を開始。一方、散り散りに逃亡した四人は、ひとつの場所を目指していた。千葉県の笛ヶ浜にある〈夏の家〉だ。そこで過ごした夏期休暇こそが、すべての発端だった――。

自分の生きる社会はもちろん、自分の人生も自分で思うようにはできない。見知らぬ多くの人々の行為や思惑が作用し合って現実が動いていく。だからこそ、それぞれが最善を尽くすほかないのだ。共謀罪始動の真相を追う薮下。この国をもはや沈みゆく船と考え、超法規的な手段で一変させようと試みるキャリア官僚。心を病んだ小学生時代の友人を見舞っては、噛み合わない会話を続ける日夏康章。怒りと欲望、信頼と打算、野心と矜持。それぞれの思いが交錯する。逃亡のさなか、四人が決意した最後の実力行使の手段とは――。
最注目作家・太田愛が描く、瑞々しくも切実な希望と成長の社会派青春群像劇。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322304000209/
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