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試し読み

二十代というのは、人間が一番大きく変わるときだ。――大藪春彦賞受賞作『未明の砦』試し読み4

太田愛『未明の砦』が、第26回大藪春彦賞を受賞しました。
共謀罪の初の標的となった四人の若者が、逃げ惑いながら組織に反旗を翻す、胸が熱くなる社会派青春小説です。大藪賞受賞を記念して、第一章を丸ごと公開します。



大藪春彦賞受賞作『未明の砦』試し読み4




 同日、午後十時四十分。
 矢上達也は鼻先も見えない真っ暗な小道を、片手で生け垣に触れながら小枝が掌を引っ搔くチクチクとした感覚だけを頼りに目指す場所へと歩を進めていた。
 濃い潮の香りを孕んで荒れ狂う風が広大な闇を鳴らしている。冷たい風で耳が切れるように痛む。
 破れ目だらけの生け垣がやがて道側に倒れ込むように傾いたかと思うと、覚えていたとおり唐突に途切れて指先が石の門柱に触れた。
 矢上は駆け出したい衝動を堪え、慎重に門柱に手を置いたまま九十度左に向き直った。
 門扉はとうの昔に失われており、闇の奥に引き違い戸の磨り硝子が仄白く浮かんで見えた。ようやく辿り着いたという安堵が溢れ、矢上はがむしゃらに玄関へ突進していた。
 敷石に足を取られて地面にしたたか膝を打ちつけたが痛みを感じる余裕もなく、木枠の玄関戸に走り寄ると泥落としのマットを裏返した。ここを立ち去る時、タワシのようなごついブラシを鉄線で組み上げたこのマットの裏側に、鍵をねじ込んで隠しておこうと言い出したのは、脇だった。
 ──そしたらいつ来たって寝泊まりできる。ちょっとした秘密のアジトってやつよ。
 自分の家でもないのに脇は得意げに片方の口角を上げて微笑んだ。一瞬、真夏の午前の光とクマゼミの声、そして、きっと自分たちはもう後戻りできないのだろうという直感、その張りつめたどこかやるせないような気分が蘇った。
 矢上は凍える手で玄関を解錠すると鍵を元に戻して家に入った。それから靴を脱ぐのももどかしく屋内の闇に向かって呼びかけた。
「脇、泉原、秋山さん」
 十時間前、タイ料理店で起こったあの火事の混乱のさなか、矢上たちは人混みの中で互いの姿を見失い、スマホを捨ててちりぢりに逃走するほかなかった。だが、朝日荘にいた泉原を含めて、逃げ切れていれば必ずここに来ているはずだ。
 外に灯りが漏れぬよう矢上は電灯を点けずに暗い廊下を壁伝いに奥へと進んだ。隣家は遠く、聞かれるおそれはないとわかっても、追われる身はおのずと押し殺した声になる。
 矢上は襖を開けては三人の名を呼んだ。闇の中から、ここだ、と答える声を求めて。
 疲れて寝入っているのかもしれないという藁にも縋るような希望は、部屋を見回るうちに消えた。どこにも人の気配がなかった。
 家の中にいるのは矢上ひとりだった。
 急に激しい渇きを覚え、矢上は足早に台所へ向かった。間仕切りの硝子戸にまともに肩をぶつけて家中の建具が振動するようなけたたましい音がしたが、かまわず流しの蛇口を捻って貪るように水道水を飲んだ。
 ようやっと渇きが癒えると今度は氷柱を吞み込んだように歯の根も合わぬほどの震えがきた。矢上は雨戸を閉め切った八畳へ行き、宙に浮かんだ白い夜光つまみを摑んで素早く三度、蛍光灯のスイッチ紐を引いた。薄暗い常夜灯が点るとすぐさま押し入れからタオルケットを引っ張り出し、蚊取り線香の匂いのしみたそれを頭から被って壁際に座り込んだ。
 ここには誰も来ない。そう自分に言い聞かせながら、本当はもう何時間も前からこの時を恐れていたのだと思った。
 矢上がかろうじて飛び乗ったのは最終電車だった。脇と秋山、泉原がそのひとつ前、つまり二時間早い電車に乗れた可能性はかぎりなくゼロに近いのだ。
 三人はすでに捕まってしまったのだろうか。今どこにいて、どんな状況にあるのか。
 黒く広漠とした空と海が鳴っていた。重い風の唸りと大気を震わす地響きのような海鳴りは、まるで地球が自転する音そのもののように思われた。
 世界に自分ひとりだけのような気がした。そこに、闇を溶かしこんだようなナツメ球の暗いオレンジ色の灯りが点っている。
 目が慣れるにつれて、まるで記憶が蘇るように八畳の和室が姿を現した。
 すり切れた藺草の座布団が五枚、部屋の隅に重ねられている。壁の反対側には半世紀以上前に製造されたという青い三枚羽根のどっしりとした扇風機。傍らに豚をかたどった蚊遣り。何もかもここを出た時のままだった。
 あの日、このように自分が戻ってくることになるとは思ってもみなかった。けれどもまた、吉祥寺の商店街から入り組んだ路地へと駆け出した時、戻るべき場所はここよりほかにないこともわかっていた。すべては、ここで過ごした夏から始まったのだから。
 四ヶ月前、笛ヶ浜にあるこの家を初めて訪れた時の自分たちは、今から思えば、まるで違う世界を生きていたような気がする。
 矢上は不意にこの家の主だった男の言葉を思い出した。
 ──二十代というのは、人間が一番大きく変わるときだ。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



未明の砦
著者 太田 愛
発売日:2023年07月31日

共謀罪、始動。標的とされた若者達は公安と大企業を相手に闘うことを選ぶ。
その日、共謀罪による初めての容疑者が逮捕されようとしていた。動いたのは警視庁組織犯罪対策部。標的は、大手自動車メーカー〈ユシマ〉の若い非正規工員・矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平。四人は完璧な監視下にあり、身柄確保は確実と思われた。ところが突如発生した火災の混乱に乗じて四人は逃亡する。誰かが彼らに警察の動きを伝えたのだ。所轄の刑事・薮下は、この逮捕劇には裏があると読んで独自に捜査を開始。一方、散り散りに逃亡した四人は、ひとつの場所を目指していた。千葉県の笛ヶ浜にある〈夏の家〉だ。そこで過ごした夏期休暇こそが、すべての発端だった――。

自分の生きる社会はもちろん、自分の人生も自分で思うようにはできない。見知らぬ多くの人々の行為や思惑が作用し合って現実が動いていく。だからこそ、それぞれが最善を尽くすほかないのだ。共謀罪始動の真相を追う薮下。この国をもはや沈みゆく船と考え、超法規的な手段で一変させようと試みるキャリア官僚。心を病んだ小学生時代の友人を見舞っては、噛み合わない会話を続ける日夏康章。怒りと欲望、信頼と打算、野心と矜持。それぞれの思いが交錯する。逃亡のさなか、四人が決意した最後の実力行使の手段とは――。
最注目作家・太田愛が描く、瑞々しくも切実な希望と成長の社会派青春群像劇。第26回大藪春彦賞受賞作。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322304000209/
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