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試し読み

【試し読み】「この小説に持っているなにもかもを捧げました」大注目の俊英が挑む新境地! 蝉谷めぐ実『見えるか保己一』第一章を特別公開(4/4)

2020年に小説 野性時代新人賞を受賞したデビュー作『化け者心中』以来、次々に話題作を上梓してきた蝉谷めぐ実さん。その蝉谷さんの約1年半ぶりの新作『見えるか保己一』が、「小説 野性時代」特別編集 2025年冬号にて、完結しました!

カドブンではこれを記念し、2026年3月予定の単行本刊行に先んじて、冒頭の第一章を全4回に亘り、特別公開いたします!

本作は江戸時代の全盲の天才学者、塙保己一を中心に、「目が見える世界」と「目が見えない世界」を描いた意欲作。唯一無二の文体で、視覚以外の「四感」で捉える世界に挑みます。さらに、蝉谷さんが歌舞伎以外を題材に臨んだ初の長編作品です。

なんと早くも書評家・大矢博子さんからの推薦コメントが到着!

どうしよう、すごいものを読んでしまった。
これは塙保己一の偉人伝ではない。分断の物語だ。決して超えられない川の両岸に立つ者たちの、叫びと足掻きの物語だ。
この先何年経っても、「蝉谷めぐ実の、あの一冊」と呼ばれるに違いない。

大注目の著者の新境地であり、大本命! この春、間違いなく話題となる一作を、いちはやくチェックしてみませんか?

※現在では不適切と思われる表記がありますが、本作の時代設定およびテーマを考慮したうえで、掲載しています。

蝉谷めぐ実『見えるか保己一』試し読み(4/4)

▪  ▪  ▪

もうひそかにきんの変化を探つて、あんしよゆうるに、覆つて外なきは天の徳なり。明君これにていして国家を保つ。載せて棄つることなきは地の道なり。良臣これに則つてしやしよくを護る。しその徳欠くるときは。位ありといえどたもたず。いわゆるけつなんそうに走り、いんちゆうぼくに敗る。その道たがふ則は、威ありと雖も保たず」
 寺子屋で一人の子供が、長い文机の前に座し、『太平記』を語り上げている。その口振りは朗々淀みなく、本を片手に立っている和尚も、文机の前に尻を並べている子らも、皆揃って聞き入っているように見える。
 その様子を部屋の後ろに立って眺めながら、ろうもんはほう、と息を吐く。
「大したものだな」
 おっといけねえ。言葉が一緒にくっついて出てきたが、幸い後ろを振り向く子らはいない。どの子も真面目に机に広げた軍書を覗き込み背筋をぴんと伸ばして、いや、待て。九郎左衛門は今朝整えたばかりの眉根を寄せる。長机の左端とその隣の子供らの背中がもぞもぞと動いている。その手から手へと渡されているのは紙切れのようで、口端ににまにまとした笑みを浮かべているあたり、どうやら手紙を回しているらしい。廁が近い和尚が部屋を静かに出るやいなや、机の上を使って回し始めるその大胆さも気に食わないが、拳骨を喰らわせてやるのは、まあ、あとでいい。
 九郎左衛門は語り続ける声を部屋に残して、廊下に出た。客間の格子戸を開けると、そこにいた男は待ってましたとばかりに湯呑みに麦湯を注いで、九郎左衛門に差し出す。九郎左衛門はそれをゆるりと一口、
「あなたのご子息、辰之助の坊ちゃんの本読みですが、いやあ、実に素晴らしかった」
 そう話し出すと、目の前の男があからさまにうれしそうな顔をするのに、九郎左衛門はほほう、となった。
 目の前の男、との付き合いは九郎左衛門が十五のときからだから、五年ほどになる。宇兵衛が育てる蚕の生糸は尋常のものよりこしがあり、九郎左衛門が絹商人として出入りするの呉服店へおろすと受けがいい。これからもどうぞいいお糸をつむいでくださいな。そんな言葉とともに、呉服店から預かった金子をすすすと袖下に通そうとすると固辞をする。保木野村の山川が育てた蚕は村のもの。そのような金子を私一人が受け取るわけにはまいりませぬ、と口を一文字にしていた男が、こんな顔をするのか。
「聞いてみるようすすめられたときは、その甲斐があるのかと瞬の間疑りましたがね、ほんに大したものでした」
 大事な取引先ではあったが、この言葉は世辞ではない。辰之助は間違いなく大したものだ。なぜって、
「あれで、目が見えていないとは思えませんね」
 幼い頃に病で目の光をなくしたと聞いていたが、後ろから見る限りではそのような不具を抱えているようには思えない姿勢の良さであった。
「目が見えぬようになったのが七つで、あれから八年経ってあの子ももう十五。杖を使えば山道もすいすい登るし、字も手の平に書いてあらかた覚えた。大体のことは一人でこなせまして、ええ、ですから安生さんにご迷惑はほとんどかけねえかと」
 九郎左衛門は辰之助のことをあまりよく知らぬ。宇兵衛とは生糸の売り買いでしか繋がっておらぬし、保木野村と江戸の行き帰りに辰之助の姿を見かけることは一度もなかった。そんな盲の子がこうまで立派。村人らによって、村内で大事に育てられてきたおかげだろうが、今になって宇兵衛はこうして九郎左衛門に辰之助を会わせようとするうえに、辰之助の本読みを聞けという。
 その魂胆を聞いて、九郎左衛門は驚いた。
「改めてもう一度聞いておきたいのですが」と九郎左衛門は念を押す。
「辰之助の坊ちゃんは江戸に出て学問がしたいと、そうおっしゃる?」
 ええ、と宇兵衛は強く頷く。
「半月前に、あの子がおっ父、おっ父と叫びながら寺子屋から帰ってきたんです。何ぞと聞いたら、おっ師匠さんから教えてもらったのだと。これまた何ぞと聞いたら、太平記だと。先に聞いていただいたあれです。あれを人に読み聞かせるのを生業としている人間がいると聞いた。己はそれで食っていくと言うんです。勿論俺ぁ言いましたよ。太平記は長えんじゃねえのか、お前にそんなことができんのか。すると、辰之助は、太平記は四十巻しかないと言うんでさ。四十巻を覚えるだけで食っていけるのなら、楽なもんだと」
「へえ」と持ち上げた口端に湯呑みを近づけ、一旦麦湯を飲むふりで隠しながら、続ける。「それは頭の良いお子でいらっしゃる」
 塗りたくった嫌味に気づかないのは田舎者であるからだろうか。宇兵衛はええ、ええ、と繰り返し頷き、こちらに向かって前のめりになる。
「ほんに頭の良い子なんですわ! えがった、寺子屋でのあの子を見てもらった甲斐がありました。そういうわけで安生さんにはどうか江戸までの道中、この子の面倒を見ていただけねえかと」
 九郎左衛門はそっとため息を吐く。
 たしかに先の辰之助は『太平記』を読めていた。だがそれはただの一節。ここから百人以上の人物が出たり入ったり、漢文入り混じってつらつら四十巻。それを朝飯前なんぞとほざく子供の嘘も分からぬほどに耄碌しているのなら、真っ向から言ってやらねばならぬだろう。
「はっきり申し上げるが、坊ちゃんが江戸でやってゆくのは難しいと思います」
「え」と素っ頓狂な声が上がる。その口からまたぞろ息子の褒め尽くしが出される前に、九郎左衛門は言葉を重ねる。
「江戸ってのは、ちょいとばかしお頭が良いだけでめしいが食っていける場所じゃあないんですよ」
 蚕の糸が耳に詰まっていようと聞こえるくらいに、強く言う。
「たしかに学問をするなら江戸に出るのが一番だ。あたしは辰之助の坊ちゃんと違ってお頭が良くないからそちらの界隈には詳しくありませんが、高名な先生らが塾を開いて、そこに通うお弟子さんが何人もいると聞きます。そして、江戸にはとうどうの惣禄屋敷がある。盲人は皆これに属して、に平曲、はり、灸、あんと金を稼いで生業とするそうで、坊ちゃんが和尚に聞いた太平記読みもその一つでありましょう」
 お上もお認めになっている組織だと聞かせてやれば、宇兵衛は頬を緩めたが、
「だが当道座で官位を上げていかねば、安心して食ってはいかれない。官位は全部で四官十六階七十三刻み。こいつを一段ずつ登っていくのには官金とよばれる金がいる。この梯子を登るのに力を注がねばならないってときに、あの子は勉学をしたいとそう言うんでしょう」
 黙りこくる宇兵衛に、九郎左衛門は声を落とす。
「あたしはあんたんとこの糸を仕入れている。こいつは懐を覗くような無粋な真似だと分かっていてあえて言いますがね、あたしは荻野さんのそのお着物を見て、あの子に官金を送ってやれるほど金子を溜め込んでいるとは思えない」
 ここ一年、日照りが続き、桑の葉の生育が十分ではないことを九郎左衛門は知っている。宇兵衛が今さら己の着物の合わせをきゅきゅとしごいて整えたところで、そのたもとや背中に大きなが継ぎぎ縫われていることだって、九郎左衛門はすでに目にしているのだ。
「名主に何を言われたか知りませんが、あまり真に受けない方がいい」
 保木野のところに大層利口な子がいるそうだが、どうやらその子は盲らしい。名主のうちでんもんに呼び出され、聞かされる話に、目の前の膳へと伸ばしていた箸がつと止まる。私はこの子を助けてやりたい。九郎左衛門、どうにか頼めないかね。名主に言われて断れる人間がどこにいる。辰之助の父親からの直訴である旨も伝えられ、江戸の当道座のあれこれも素直に調べたが、九郎左衛門の中でむくむく育っていったのは面倒臭さよりも嫌悪感だ。
 決してこれは言葉にはすまいが、もしかすると名主が辰之助に目をかけるのは、芸が達者な猿を可愛がるようなものなのではなかろうか。
 翔べる羽を持った蚕を愛しむようなものなのではなかろうか。
「着物の継ぎについては、あの子の耳には入れないでいただきたい」
 宇兵衛の嗄れ声で我に返った。目で問うと、宇兵衛は目を伏せ項垂れる。
「……言わなければ、あの子に知られることはねえですから」
 九郎左衛門の腹底でまたぞろ、むくりと嫌悪感が増す。
 目が見えぬ人間を騙すのは楽なものだな。それが己の息子を思ってのものであっても、九郎左衛門は宇兵衛にちくりとやりたくなってくる。
 寺子屋で子供らはあまりに大胆に手紙を回した。和尚は辰之助に何を告げることもなく廁へ行き、何もなかったような顔をして元いた場所に尻を置いた。
 こういった蚕の糞ほど小さくて、悪意とも言えぬほどの何かが、おそらく江戸にはたんとある。そんな江戸へこの父親は盲の子を送ろうと言うのか。九郎左衛門は聞かずにはおられない。
「あなたは辰之助の坊ちゃんがこの先己の手に負えぬようになると、そう思って江戸に送るのではないですか」
 これには宇兵衛もかちんときたようで「何をお言いだ」と返す言葉はうわずっている。
「私は辰之助の、あの子の倖せを思って一心に」
「坊ちゃんの倖せを考えるのなら、これまでと同じようにこの村で育ててやればいいではないですか。子供の望みをなんでも叶えてやることが、親の情というわけでもないでしょう」
 当道座がどれほど大きな座だといっても、こんな片田舎まで手を伸ばしてくることはない。盲人でも当道座に属すことなく、村の中で一生を終える人間も多い。
 そもそも仏典がおっしゃるところに、五体不具の子を設くるは、皆過去現在共に、悪心を起し、悪業をなす故なり。
 つまり盲は前世で犯した業により、その報いとしての仏罰で生じるものとされている。
 九郎左衛門は辰之助のことをあまりよく知らぬ。これまで一度も見かけなかったのは、村人らによって村内で大事に育てられてきたからか、――それとも村で生じた悪業の報いを隠そうとしていたからか。
「江戸には人がわんさとおります。中には坊ちゃんを奇異の目で見る人間もおりましょう。なのに、どうしてわざわざ苦難の道を選ばせようとするのです。辰之助の坊ちゃんがお可哀想だ」
「ええ、ほんに」
 あんまりにもするりと言葉に寄り添われ、九郎左衛門は目をぱちくりとさせてしまう。
「私も辰之助は村で暮らせば良いと思っておるんです。けれども、あの子はここにいるべきじゃあない。江戸へ送り出せってのがきよの残した言葉でありまして」
「……きよ? 亡くなったおかみさんが?」
 二年前、辰之助の母親が風邪をこじらせ床にふし、そのまま仏になられたときには、九郎左衛門も棺を埋葬地まで運ぶ野辺送りの列にくわわった。盲の子を残して逝くのだ、さぞ辰之助の行く末を案じただろうにと思いきや、江戸送りの言い出しっぺがその母親なのだと宇兵衛は言う。
「きよは唇を水で湿らすときも惜しんで繰り返すのです。あの子にとって、目が見えぬのは足が遅いのと同じこと。ならば、足の遅い子に勉学をやらせない理由なぞどこにもない」
 九郎左衛門は思わず眉をひそめる。目が見えぬのと足が遅いのは同列には語れるはずがない。目が見えぬ方が不憫だし、辛く、哀れだ。
「きよはこうも私に言って聞かせてきた。安心なさいませ、あの子は色々なものが見えている。ときには、我々には見えぬものまで見えているのだと」
 長患いで病の虫が頭にまでも巣くったのだろうか。
「なんだそれは」と言葉が喉仏を乗り越して出てきてしまったが、
「さあ、私にもきよの言葉がよく分からねえ」
 宇兵衛はほんの少し笑ってから、九郎左衛門の目を真っ直ぐに見つめて言う。
「ですが、辰之助と一緒にいると、尋ねたくなるときがあるんでさ」
 見えているのか辰之助、と。
 
 こうして連れ立って歩いてみると、宇兵衛に聞いていたよりも存外、不安げな歩き方をする。九郎左衛門は己よりも少し前を行く辰之助に視線を這わせ、拳を握る。なにが、見えているのか辰之助、だ。盲だからとやることなすことに手を叩いていちゃあ、この先困るのはこの子だろうに。
 辰之助は右手の杖の先を蟻が頭の触角でするようにして、あたりに打ち付けながら先に進む。桑畑横の畦道は土があちこちで盛り上がり、通い慣れた九郎左衛門でさえも時折たたらを踏む。辰之助の歩き方は不安げで、だが、決して転ぶことはない。
「本当にお送りするのは、村の出口までで良いのですか」
 問われて「ああ」と答えると、にこりと笑みを寄越してくる。
 辰之助は村の人間と思えぬほどに随分と丁寧な口をきく。本を沢山読んできたからであろう。そういえば、寺子屋には辺鄙な村とは思えぬほど本が山積みだった。あれを集めたのはおそらく和尚で、それらを辰之助に読み聞かせたのなら、驚くべき力の入れ様。それに応えた辰之助の才もまた凄まじいと考えたところで、額を手でべしり。
 いけねえ、いけねえ。
 宇兵衛が辰之助に九郎左衛門を送るよう申し付けたのは、こうした心変わりに期待してに違いねえ。あの父親はまだ、己の息子の江戸送りを諦めておらぬらしい。
「九郎左衛門さま」と呼びかけられれば、構えもする。
「なんだ」と低く返すと、辰之助はその場で立ち止まって振り返る。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ああ、どうした」
 辰之助は十五歳にしては小柄な形で、目の黒目は動かさず首だけで人と話をする。目尻は甘く垂れ、鼻は小作り、おや、鼻の下には髭の剃り残し、とじろじろ見ている己に気づいて、九郎左衛門は慌てて顔を逸らした。と、
「父の身なりを教えていただけませんでしょうか。この通り、私は目が見えておりませんので、父が今どのような着物を身につけているのか気になっても分からないのです」
 九郎左衛門は辰之助の目を見る。もちろん、辰之助とは目が合わない。
「……綺麗な着物を着ていたよ」
「綺麗な、ですか」
 辰之助はちょいと眉毛を引き下げて、
「でも、衣擦れの音が良くありませんでした」
「……なに」
「近頃は、かさり、ではなく、けしゃけしゃなのです」
 九郎左衛門は眉根を寄せる。だが、これにももちろん辰之助は気づかず、言葉を重ねる。
「衣擦れの音が悪い理由が、継ぎに使っている襤褸が増えているだけなら、まだ良いのです。しかし、おっ母も長患いをするうちに肌から水が抜けていった。もしやおっ父も同じように患っているのではないかと不安になりまして。九郎左衛門さま、おっ父の肌はどうでした」
 そんなもの九郎左衛門に聞かれても仕方がない。だって、九郎左衛門には宇兵衛の着物の下の肌の様子など見えるわけがない。だが、辰之助は宇兵衛の肌をまるでこの目で見たかのように嘆いている。
「私のせいで父にひどい暮らしをさせていることは十分に分かっているのです。私が貰ったもんぼうの名にも、父母は多額の金子を積んだと聞いております」
 あれは宇兵衛ときよさんが早計であったんだよ。村内の蚕農家はため息交じりに、九郎左衛門に聞かせた。たしかに修験者から己の弟子になれば目が治ると言われちゃ、飛びつきたくなるのも分かるけどもよ、金子を渡して名前を貰い、弟子入りした揚げ句、修験者のしようがくぼうは多聞房を置いて、ひゅうどろんってな顛末にゃあ、しばらく二人に話しかけられやしなかったよ。もちろん辰之助の目に光は戻らぬままだった。
「おっ母にもおっ父にも申し訳なく思っているのです。盲の子を育てるのに大変な苦労をかけたはずだ。でも、それでも、私は江戸へ行って学問がしたい。どうしても諦めきれぬのです」
 辰之助は杖をぎゅうと握り込み、それを自分の胸元に寄せる。と、かすかに紙の擦れる音が聞こえた。辰之助が微笑み襟元から取り出したそれに、九郎左衛門は思わず問うてしまう。
「何だ、それは」
「ああ、これは寺子屋の子供らから先ほど貰ったものです。江戸に行く餞別に手紙を書いたのだと」
「貰っても中身が見えないではないか」
「ええ」と笑みを浮かべたまま辰之助は頷き、それから紙面をこちらに向ける。
「何か書かれておりますか」
「……何も書かれておらん」
 嘘である。
 紙の上には、ばかにあほう。いんごっぱちに、しわんぼうと悪口が墨で黒黒と書かれている。寺子屋でにまにま手紙を回していたのはこれが理由か。
 ほらみろ、盲の人間にはえてしてこういうことが起こるのだ。目が見えず気づかれることもないから、馬鹿にされ、嘘をつかれる。
 分かっている。今、辰之助に嘘をついている己は己の行いを棚に上げている。だが、その棚に上げる仕草だってこの子供には見えちゃいないのだ。
 唇を一文字に結ぶ九郎左衛門に向かって「あの、つかぬことをお聞きしますが」とおずおず辰之助は口を開き、
「今、火を持っていらっしゃったりしませんか」
 煙管のために持ち歩いている火打石があるが、辰之助にやらせるのは危ない。代わりに石を切り、起こした火種を木屑に移す。すると、嬉々として辰之助が火種に近づけた紙に、浮き出てくるのは焦茶の文字で――。
「炙り出しです」
 焦げたところを指でなぞり、辰之助はくすくすと笑う。
「いい子らです。体に気をつけろ、辰之助は飯をあまり食わぬから。九郎左衛門さまが口ごもられた墨文字は、おそらく照れ隠し。あの年頃の子供らにはよくあることです。あっ、でも辰の字の線が一本多いな。止めはねもおざなりだ。あとできちんと叱っておかないと」
 九郎左衛門は、火種を持ったまま、開いた口が塞がらない。お前、一体それをどうやって。
 問いかける前に、辰之助はふと顔をあげた。
「風がびょうびょう鳴っておりますねえ。でも温くて、鍬の歯が土を掘り起こす音が遠い。水を多く含んでいる良い風です。安心しました。今年の桑の葉はよく育ちましょう」
「辰之助?」と思わずその子の名を呼んだ。
「梅の匂いがいたします。これだけ実をつけていれば、子供らが遊びに使う分が出てくる。でも残念、食うにはちと酸っぱい。そりゃ手紙もあれだけぷんと香ります」
「……辰之助」と九郎左衛門は胸内から込み上げた何かが喉に詰まって、かろうじてその子の名を呼ぶ。
「すみません、手前勝手にべらべらと。私ったらお喋りがすぎる性でして。……九郎左衛門さま、大丈夫でらっしゃいますか」
 ふらふらと季節外れの蝶のごとくこちらへと伸ばされた、辰之助の手に九郎左衛門は飛びついた。手の皮は厚く、傷跡が残り、だが、蚕の繭玉のようにふわふわとしている。
 九郎左衛門は己が先に思った言葉を思い出す。
 もしかすると名主が辰之助に目をかけるのは、芸が達者な猿を可愛がるようなものなのではなかろうか。
 翔べる羽を持った蚕を愛しむようなものなのではなかろうか。
 だが、羽の生えた蚕は天井が見えぬ。だから、天井を越えてしまったことが分からぬ。雲も見えぬ、星も見えぬで飛び続け、そうして、蚕はいつか己が宇宙にいることを知るのでは。
 九郎左衛門はこの子の見る世界を、己も見てみたいとそう思った。
 九郎左衛門はその場で踵を返す。村の出口を背にして、辰之助の手を握ったままでゆっくりと歩を進める。向かうは宇兵衛のところだ。戸惑う辰之助に告げてやる。
「支度をしろ」
 今から己らは江戸へゆく。

(気になる続きは、2026年3月刊行予定の本書でお楽しみください)

作品紹介

書名:見えるか保己一
著者:蝉谷めぐ実
発売日:3月中旬予定

江戸時代、国内最大の叢書『群書類従』の編纂に生涯を懸けた、盲目の天才学者・塙保己一。前代未聞の偉業を成し遂げた彼に、世界はどう「見えて」いたのか。何が「見えて」いなかったのか――。「目が見える世界」と「目が見えない世界」を濃密に描き切る俊英の新境地!

本作の詳細な情報は、KADOKAWA文芸編集部のXアカウント(@kadokawashoseki)等で追って発表予定です。ハッシュタグ「#見えるか保己一」をつけて投稿しますので、今後の続報にご期待ください。


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