西條奈加『隠居おてだま』(角川文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!
西條奈加『隠居おてだま』文庫巻末解説
解説
菊池 仁(文芸評論家)
本書『隠居おてだま』は、発売と同時に多くの読者を惹き付けた『隠居すごろく』(二〇一九年)の第二弾である。『隠居すごろく』を再読して改めて作者の凄腕に驚嘆した。冒頭に主人公・徳兵衛が朝餉のあと、昼餉の前に、家族を集めて還暦を機に隠居する旨をお披露目する場面が登場する。さりげない出だしだが連作短編的構成が取られているだけに、端的かつ的確な登場人物の紹介は、物語の導入部として効果的な役割を担うことになる。それを確実なものとしているのが、結びの〈徳兵衛の当ての外れは、思えばこのときからはじまった〉という一行である。いやがうえにも読者の関心を引き寄せる誘い水となっている。
徳兵衛にとって、もう一つ当ての外れが現れる。隠居家に毎日のように通ってくる孫の千代太の存在である。実は、千代太は本書のもう一人の主人公といえる。丹念な筆致で描かれた徳兵衛と千代太の交情が最大の読みどころとなっている。そして千代太が『隠居おてだま』への案内という仕掛けが施されている。特筆すべき事項が二つある。ひとつは、千代太の特異なキャラクターである。人間の善意の塊のような男の子で、野良犬や野良猫を拾ってくるのはまだしも、貧困に苦しむ子供たちや、母親まで連れてくるという剛の者。『隠居おてだま』では更にエスカレートしそうな雰囲気である。もうひとつは、妻・お登勢の行動である。徳兵衛の日常にどう関わってくるのか。
凄腕と表現したがそれを証明しているのが作者の二〇二五年までの著作履歴である。なかでも注目したいのは、第一六四回直木賞受賞作『心淋し川』(二〇二〇年)である。選考委員による選評が作者の特質を的確に言い当てている。それを紹介する。
〈宮部みゆき「私は安心して推すことができましたが、この物静かな連作短編集の凄さは、六編の短編一つ一つの『凄い点』に違いがあることです。」「『閨仏』はもうアイデア勝負の一発ネタ。同時に、この話を下品に落とさず、何とも微笑ましいエピソードに丸めてしまう素直な文章力。これは技術だけでなく、作者の人柄の力でもあるでしょう。」
角田光代「候補作のなかでもっとも完成度の高い連作短編集である。」「小説は徹底してちいさきもの、持たざるものに寄り添いつつ、ただの人情話には終始していない。短い枚数ながら物語は二転三転し、けれどかならず、だれしもがささやかな自分の居場所を見つける。」「悲しみと情けなさとが詰まった生のいとしさを、この作品は静かな筆致で描いている。」
髙村薫「まさに再生産の芸たる時代小説の秀作である。」「本作の登場人物にも暮らしの風景にも特段の新味はない。その一方で、定番ならではの落ち着きが味わい深い佇まいになっているのだが、それだけでは賞には届かない。『閨仏』のような粋な小技が、本作を逸品にしているのである。」
伊集院静「読んでいて、これほど作者の世界にやわらかく入り込める作品はそうそうあるまい。読み手がそう感じるのは作者の並々ならぬ力量と、経験から来るものだろう。」「作品中で私は“閨仏”と“灰の男”が好きだった。」〉
これらの選評を念頭に置いて、作者の著作履歴から見えてくる特質を検証していこう。多作で筆力旺盛である。現代ものも手掛けているが、第一七回日本ファンタジーノベル大賞を受賞し作家デビューを果たした『金春屋ゴメス』が象徴するように、ファンタジー要素の色濃い時代ものを得意としている。同作を跳躍台として奇抜な着想力に一作ごとに磨きをかけてきた。それは『烏金』、『涅槃の雪』、『六花落々』、『ごんたくれ』、『六つの村を越えて髭をなびかせる者』等の人物伝記でも確実に活かされている。人物の選定に独自の物差しで対応していることがそれを証明している。著名人ではないが力強い生き様をしていた人々に光を当てたことだ。
特筆すべきはシリーズもので趣向を凝らした独特の味を持った物語世界を構築してきたことである。金春屋、善人長屋、南星屋、狸穴屋お始末日記とあるが、抜きんでた面白さでファンが圧倒的に多いのは善人長屋シリーズである。善い人ばかりが住むと評判の長屋の住人は、実は、凄腕の得意技を持った裏稼業の悪党たちという人を食ったような設定。この悪党たちがそれぞれの凄腕を活かして、世を騒がせる事件を解決していくというお噺。これを心揺さぶる人情ものに大化けさせる筆力は作者ならではのものである。
同様の人気を誇っている南星屋シリーズのスタートを飾った『まるまるの毬』(二〇一四年)は、時代ものを目指す作家の登竜門ともいえる吉川英治文学新人賞に輝いた傑作である。時代ものの定番ジャンルである市井人情ものの中でも、料理小説が根強い人気を誇っている時期であった。食事の情景と食卓に並べられる料理からは、時代背景が見えてくるし、登場人物の生活様式や人物像、微妙な心理の動きも活写できる。作者がこの動静に触発されて挑戦したのが同書である。
毬を毬と読ませるのではなく、「いが」と読ませるところに作者の想いとモチーフが包まっている。親子三代で菓子を商う麴町の「南星屋」は、武家出身の職人・治兵衛を主に、出戻り娘のお永に、孫娘のお君と三人で営んでいる。三人のキャラクターの造形と役割分担が絶妙な絡まりを見せ、思わず引きこまれてしまう深い味わいを醸し出す。特にお君のおきゃんなキャラクターは読者を虜にする魅力に充分である。
治兵衛は全国各地の銘菓を作り、それを看板としている。味は絶品で値は手頃ということもあり大繁盛する。奇抜な着想を得意とする作者だが、同書では、料理小説で最も重要な安心感、安定感、キャラクターへの共感、菓子作りへの強い拘り、全国銘菓に込められた想いといった要素を、全てバランスよく整えるという正攻法で攻めている。これが功を奏し幸先良いスタートを切った。
二〇〇六年の『芥子の花』からしばらく途絶えていた新作『因果の刀』が、二〇二三年に刊行されるや人気が再燃し、存在感を示したのが金春屋シリーズである。近未来の江戸国を舞台に、難関の入国を許された大学二年生の辰次郎の獅子奮迅の活躍を描いたものだが、請け人の存在が振るっている。丈六尺六寸、目方四十六貫、極悪非道の大盗賊もビビる金春屋ゴメスこと長崎奉行馬込播磨守である。辰次郎はゴメスに致死率百パーセントの流行病「鬼赤痢」の正体を突き止めるよう命じられる。奇抜な着想をベースに伝奇ロマンを注入、加えて人物造形に工夫を凝らし、スピード感溢れる展開で読者を引き寄せるとても新人とは思えない剛腕を見せた。根強い人気も当然といえる。
『隠居おてだま』を読むと、前述した三シリーズに続き人気を獲得することは確実である。作者は『金春屋ゴメス』以来、職業・職人小説に力点を置いて書き続けてきた。何故なら、江戸時代には、現代人の感覚では理解できない珍しい役職や職種が存在したし、現代まで連綿と続く職人技の源流を見出すこともできるからだ。要するに、職業は時代を映す鏡であり、そのユニークさをフィルターとすることで、独特の味を持った物語空間設定が可能となる。江戸情緒や匂い、時代を駆け抜けていった人々の足音を活写できる格好のジャンルといえる。
作者はこの点に注目。長崎奉行、裏稼業、菓子作りにスポットを当て、奇抜な着想力と抜群の構成力を融合し、役職や職人技に特化することで迫真性に満ちたエピソードを紡いできた。隠居シリーズでは糸と組紐を題材に構想を練り上げ、濃密な人間ドラマを再現している。
そこで『隠居おてだま』である。前作がそうであったように冒頭の「めでたしの先」が重要な役割を担っている。つまり、核である。この核が「三つの縁談」、「商売気質」、「櫛の行方」、「のっぺらぼう」、「隠居おてだま」と分裂を繰り返し、連なることで物語は完成する仕組みとなっている。
「めでたしの先」を詳述する。千代太には悪癖がある。なんでも拾ってくる癖である。最初は犬の白丸だったが、子供まで拾ってくる。千代太にすれば友達なのだが。最初は兄妹二人、それが六人に増え、とうとう十七人まで膨れ上がった。さらに親の面倒にまで首を突っ込む羽目となった。徳兵衛の優雅な余生を送るという目算は、見事に泡となって消えてしまった。
隠居家では、「五十六屋」と「千代太屋」のふたつの商いを回している。「豆堂」という手習所も開いている。五十六屋は、徳兵衛自身が手掛ける組紐屋であり、千代太屋は孫たちが営む子供商いで、徳兵衛は相談役として駆り出される。豆堂は、妻のお登勢に任せているものの費用は徳兵衛が負担している。
この説明が意味しているのは、巣鴨村の地域社会に、子供を主体とした地域社会共同体が、徳兵衛の主導のもとに構築されている事実である。奇抜な着想力が得意な作者とはいえ、恐るべき想像力である。子供たちは信頼と助け合いという強い仲間意識で繫がり、それぞれが手に職を持ち、学問にも勤しんでいる。文中から采配を振るっている徳兵衛の共同体に対する哲学と志、子供たちの生活を綴った件を拾ってみた。
〈さらに今年から、見習いが五人増えた。いずれも参詣案内に関わっていた子供たちで、上の三人は十一歳と十歳、下のふたりは八歳と、職人修業を始めるには早過ぎるのだが、午後は皆と一緒に手習いをさせて、午前のみ修業をさせることにした。〉
〈五十六屋を始めたもともとの骨子は、伴侶を失った女たちに生活の道を与えることだ。ひとりで子育てをしながら稼ぐのは、男女を問わず難しい。ことに女は稼ぎの面で苦労する。組場の手伝いをするおむらとおしんも、それぞれ娘を育てている。〉
現代の子供政策に対する痛烈なメッセージともとれる。
仲のいいはずの勘七と商い仲間の瓢吉が喧嘩をし、千代太が気を揉むというのが主筋。
父親が出ていってしまい、貧しい暮らしと不憫な身の上という境遇に苛つき、何もできない自分がいちばん腹立たしく、棘のついた団子虫のように丸まっていた勘七。棘だらけの塊を、そっと両手で大事にすくい上げたのが千代太であった。やがて母のおはちが組紐師として働きはじめ、ようやく暮らしが落ち着いた矢先に父の榎吉が現れた。騒動はどう収まるのか。気になるのは徳兵衛とお登勢の立ち位置である。これが読みどころとなっている。この騒動は見事な着地を決める。
〈「やれやれ、してやられたわ。まったく、我が女房ながら食えぬ女だ」
頭に浮かんだ、能面のような妻の顔が、かすかに唇の片端を上げた。〉
続く各話の読みどころを簡単に紹介する。
「三つの縁談」と「商売気質」は徳兵衛の頭痛の種となっている娘・お楽と、錺師・秋治との恋愛騒動が描かれている。
「櫛の行方」は、おくに、おうねの姉妹と、てるの働きぶりと、組数珠作りを中心に展開。
「のっぺらぼう」は、瓢吉と弟・逸郎の話で、のっぺらぼうの意味が明かされる。哀切なエピソードで円熟した筆さばきに泣かされる。
「隠居おてだま」は、身ごもったお楽を徳兵衛から守るために、お登勢が強い覚悟をもって策を巡らす。背後にお登勢の悲痛な過去がある。
巧みな構成で極上のエンターテイメント作品となっている。
作品紹介
書 名: 隠居おてだま
著 者:西條奈加
発売日:2025年12月25日
大好評『隠居すごろく』続編!
老舗糸問屋・嶋屋の元主人の徳兵衛は、還暦を機に隠居暮らしを始めた。風雅な余生を送るはずが、巣鴨の隠居家は孫の千代太が連れてきた子供たちで大にぎわい。さらにその親たちの面倒にまで巻き込まれ、新たに組紐商いも始めることとなった。だが、充実した生活の裏で家族に芽吹いた悶着の種に徳兵衛は気が付かない。やがて訪れた親子と夫婦の危機に、徳兵衛はどう向き合う? 愛と笑いと人情に溢れた、傑作時代シリーズ第2弾!
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