KADOKAWA Group
menu
menu

試し読み

【試し読み】盗まれた真実は、物語の中に――劇場アニメ化で話題! 深緑野分『この本を盗む者は』冒頭特別公開

盗まれた真実は、物語の中に――
2人の少女は、物語の世界を冒険する!

深緑野分『この本を盗む者は』(角川文庫)が待望の劇場アニメーション化!
2025年12月26日(金)に公開となりました。

本記事では、映画公開を記念して本作の冒頭を特別公開!
胸躍るファンタジーの幕開けをどうぞお楽しみください。

深緑野分『この本を盗む者は』試し読み

第一話 魔術的現実主義の旗に追われる

 よむながまちくらいちといえば、全国に名の知れた書物のしゆうしゆうで評論家であり、おぎゃあとこの世に産まれ落ちてから縁側で読書中にぽっくりくまで、読長に暮らし続けた街の名士であった。
「わからないことがあったら御倉さんにけ」「本探しなら御倉さんで一発だ」「悩みなら医者よりまずは御倉さん」等々、生き字引と珍重されていた御倉嘉市だが、その書庫に果たして何冊の本が詰め込まれているのかは、誰も知らない。
 読長町は角のまるいひしがたをしている――太い川が分岐し、いったん北と南に分かれ、また合流するちょうどその間、島のように周囲から切り離された地形にできた街である。
 この菱形の真ん中に立つのが“くらかん”だ。床や柱の改修補強工事を繰り返し、嘉市が死ぬ頃には地下二階から地上二階までの巨大な書庫と化したこの御倉館は、かつて「読長に住む者なら幼稚園児から百歳の老人まで一度は入ったことがある」とまで言われるほどの、街の名所だった。
 一九〇〇年に産まれた嘉市が大正時代からこつこつ集め続けたコレクションは、同じく優れた蒐集家だった娘、御倉たまきに引き継がれ、ますます増殖していった。
 そして本のあるところには蒐集家がやってくる。蒐集家にも善人と悪人がいる。
 たまきはある日、御倉館に所蔵されたこうぼんの一部、約二百冊が書架から消えせているのに気づいた。その前から本の盗難はしばしば起きており、一度など、たまきは父の知己である古書商を脅して古本取引所を張り、高額で転売しようとするやからを怒鳴りつけて警察に突き出したこともあった。
 しかし一度に二百冊の稀覯本が失われたのを見てげつこうしたたまきは、ついに御倉館を閉鎖することに決めた。近所の住民たちは、大手の警備会社から来た作業員たちが、たまきの監視下、一日がかりで、建物のあらゆる場所に警報装置をつけているところを目撃した。これ以降、御倉一族以外は誰ひとり、館内に入ることも、本の貸し出しもできなくなった。たとえ父の親友であろうと、名の知られた学者であろうと、頑として拒んだ。
 御倉館は閉ざされた。その結果、これまで盗難が発覚するごとに聞こえていたたまきの叫び声も、二度と聞こえなくなった。やれやれこれで平和になる、御倉館の蔵書に触れられないのは残念だが、今や読長は書物の町、本を読むのに苦労することはない。そう言って街の人々は胸をなで下ろした。
 しかしたまきが息を引き取った後、ある信じがたい噂がひっそりと流れた。
 その噂とは「たまきが仕込んだ警報装置は普通のものだけではない」というものだった。たまきは愛する本を守ろうとするあまりに、読長町と縁の深いきつねがみに頼んで、書物のひとつひとつに、奇妙な魔術をかけたのだという。
 この物語は、たまきの子どもで、現在の御倉館の管理人である御倉あゆむとひるねの兄妹きようだいのうち、あゆむが入院した数日後よりはじまる。
 だが主人公はあゆむとひるねではない。そのさらに下の世代、あゆむの娘、御倉ふゆである。



 深冬は電車に揺られながらうつらうつらと船をいでいた。学校帰り、高校一年生のまだ着慣れない制服姿で、もう少し首を左に傾けると銀のポールに頭をぶつけてしまいそうだ。時刻は午後四時過ぎ、帰宅ラッシュ直前、車内のまばらな乗客は、大半が深冬と同じ高校の生徒だった。
 溶かしたバターのようにとろりと黄色い西日が窓から差し込む。やがて電車はきようりように差しかかり、川を渡りながら、床や座席シート、乗客たちにストライプの影を流していく。ふいにブレーキがかかって停車すると、大きくごとんと揺れたはずみに深冬は起き、手にぶら下げていたコンビニ袋をひざの上に乗せる。無造作に頭をいて、切る暇も金も惜しくて長く伸ばしすぎたと思っている黒髪をぐしき、ぽかっとあくびをひとつする。電車は駅の前で停まったままだ。白黒ストライプ柄のリュックサックから、クラスメイトに“ガラパゴス”とからかわれる二つ折りの携帯電話を出して、時間を確認した。急がないと病院の夕食時間になってしまう。
 デジタル時計の分がひとつ繰り上がったところで電車はのろのろ動き、窓の外の景色はにびいろかわと橋梁の鉄骨から、ドーム型のホームへゆっくり変わる。駅前の衣料品店の看板が大サマーセール開催を告げ、大型書店の道案内がよぎり、電車は並んだ背広姿の人たちの前に停まる。
「読長ー、読長駅に到着です」
 あくびをみ殺しつつ立ち上がったところで、向かいに座っていた同じ学校の女子と目が合った。メガネをかけ、手には文庫本。深冬は(それ知ってる。売れてるやつでしょ)と思う。ただ思うだけだ。深冬は内容を知らないし、知りたくもなかった。本が嫌いだから。
 さっさと電車を降りようとすると、「あの」と声をかけられた。ホームに立つ深冬の後を追いかけて、文庫本の女子生徒も降りる。
「御倉さんだよね?」
 ピンク色の縁のメガネをかけた女子生徒に、まるで覚えがなかった深冬は、制服の襟元の校章をさっと確認した。青色は二年生。一応敬語にしておくか。
「……そうですけど」
「やっぱり! あの一族の人が入学したって聞いたから、いつか会えないかなって思ってたんだけど」
 深冬はうんざりしながら名前も知らない女子生徒に背を向けて、乗降客で混雑するホームをおおまたで突っ切る。
「あ、ねえ待って! 文芸部に入らない? ねえ!」
 聞こえないふり、知らないふり。御倉の人間だと正直に言わなければよかったと後悔しながら、深冬は定期入れをブレザーのポケットから出した。
 夕暮れ、あかね色に溶けそうな色合いの空の下、改札口を出て右手の道を進む。光と影に縁取られたハナミズキの並木道の先に、近隣で最も大きな大学病院があり、深冬は面会受付口から中へ入った。入院棟の三階にある四人部屋はベッドの間を白いカーテンで仕切ってあり、互いの様子は見えない。
「やっほー、お父さん」
 奥のカーテンを開けると、パジャマ姿の父のあゆむが手を振った。頭は包帯で巻かれ、左頰にガーゼ、右頰には大きなあざがあり、右足はギプスで固められている。大柄な体格のせいでベッドがやけに小さく見えた。
「調子はどう?」
「すこぶる元気だよ。頭の具合もいいって」
「でもまだ退院はできないんでしょ?」
 深冬は持ってきたコンビニの袋を突き出す。中身は父の好物であるマックスコーヒーの黄色い缶が二本と、かりんとうの袋。
「あとどのくらいかかるの?」
「どうかなあ、リハビリもあるし。道場はチエ君がやってくれてるだろ? 大丈夫、大丈夫」
「そういう問題じゃなくて」
 さっそくマックスコーヒーのプルタブを開ける父に、深冬はため息をついた。
 御倉館の管理人である一方で、柔道の道場も経営しているあゆむが事故に遭ったのは、先週のことだった。夜、気分良く川沿いの堤防を自転車で走っていたら、物陰から猫が飛び出してきた。無類の猫好きでもあるあゆむは慌ててハンドルを切り、自転車ごと堤防から落下した。
 幸い猫は無事だったし、ちょうど後ろを走っていて始終を目撃していたジョギングランナーが救急車を呼んでくれたが、長い柔道歴ならではの受け身をもってしても、けがは全治一ヶ月と診断された。とはいえ、道場は師範代のチエ・フンに任せておけばいいし、家のこともある程度は自分でできる。しかし大きな問題がひとつ残っていた。
「ひるねちゃんはどうするの」
 父はマックスコーヒーを飲む手をぎくりと止めた。
「……ひるねがまた何かしたのか?」
「何かしたっていうか、してないからやばいっていうか」
 深冬は再びため息をついた――さっきよりも深く、心の底からのため息を。窓の外から豆腐屋のぱあぷう鳴るラッパと、夕刻を告げる夕焼け小焼けのメロディーが流れてくる。
「お父さんが入院してから、もう三回も苦情がきてんの。最初はからの弁当箱がむき出しでゴミ捨て場に捨ててあったって。昨日は、御倉館の警報が三十分ごとに響いて三時間止まらなかったんだってさ。要はひるね叔母ちゃんの管理できてなさすぎ問題。市役所からも電話があったし」
 かりんとうの袋を開け、焦げ茶色の塊を取ってかじる。膝より長いスカートにぼろぼろとかけらが落ち、深冬は顔をしかめ、ひとつずつ拾って口に入れる。
「……俺が入院して何日経ったっけ」
「五日」
「五日で三回か……」
 あゆむは頭を搔きむしった。
「あいつ、俺にはひとりでも平気だと言ったのに」
「平気じゃないから、今までもお父さんが管理人を兼任して、叔母ちゃんの面倒もみてたんでしょ。あたしだってひるね叔母ちゃんのすごさはわかってる。でもいくら頭良くて、御倉館の蔵書の全部を読んだって言っても、誰かが面倒みないとろくに生活できないなんてさ。言っちゃ悪いけど、大人じゃないじゃん。近所迷惑だし」
 深冬は気まずさと罪悪感を感じながらも、まっていた不満があふれ出るのを抑えられず、そのまま父にぶつけた。今年で三十歳になる若い叔母のことが、深冬は子どもの頃から苦手だった。それはあゆむも気づいている。
「……じゃあ、どうしようか。ひるね問題を解決するための深冬の案は?」
「えっ」
 不満をただ聞いてもらいたかっただけの深冬は、しどろもどろで両手を握り合わせた。
「特に思いつかないけど」
「でも俺はすぐに退院できないよ。退院できても、この足じゃ御倉館の仕事はしばらく難しいし」
「……御倉館からひるね叔母ちゃんを出して、御倉館を完全に閉める」
「どこへ出すって? うちで預かるか? たまきばあちゃんが亡くなった時、同居に反対したのは深冬じゃないか。そもそもひるねは絶対に御倉館から出ないよ。あいつは本がないと生きられないんだから」
 父の表情は柔らかいが口調は真剣そのもので、深冬はふっと目をそらすとかりんとうをもうひとつ口に放り込んだ。指先がべたつく。
「ご近所さんに我慢してくださいって言う」
「しばらくはそうした方がいいだろうね。そうだ、ゴミ捨て場にじかに弁当箱が捨ててあった件は、その後も苦情があったのかな」
「聞いてないけど……」
「なるほど。少しは学んだのかな、あいつは」
「そんなわけないと思う」
「だよな。なあ、ひるね叔母ちゃんはよく寝るよな?」
 顔を上げると父と目が合い、深冬は嫌な予感が胸に広がるのを感じる。
「深冬は心配じゃないか? ひるねは飯も食べず水も飲まずで眠り続けているかも」
 御倉ひるねはその名にたがわず、「昼寝をするために生まれてきた」とせせら笑われるほど、放っておけば十二時間でも二十時間でも眠り続けてしまう。若い頃はもっと長い時間起きていたらしいが、深冬が生まれてからはずっとそうなんだという。だからたまきの死後はあゆむが御倉館に通い、ひるねの面倒を見ていた。
 誰かに手伝ってもらえばいいのにと深冬は思うが、御倉館への入館は一族のみ、とたまきが定めたきまりをあゆむは守り続けている。深冬の母は早くに亡くなったし、他の親類とは疎遠だ。
 本を読んでいなければ、食べるか、眠るかして、身の回りのことはろくにできずにいる叔母の世話を、毎日のように焼く父。その姿を見て育った深冬は、以前から「もしお父さんが死んでひるね叔母ちゃんが残ったら、あたしがこのぐうたらな叔母の世話を引き受けなきゃならないの?」と、自分の将来にうんざりしていたのだ。
 まさかこんなに早くその経験をする羽目になるとは。
 御倉の人間に生まれてよかったことなんて、ひとつもない。さっきだって、知りもしない先輩にいきなり話しかけられて文芸部に入れとか言われるし。あたしは本なんか好きじゃない。読みもしない。大嫌いだ。
 深冬はのどもとまで出かかった不満を、まだ開けてなかった方のマックスコーヒーで流し込み、甘ったるいげっぷを吐いた。
「わかったよ、もう。だってあたししかいないじゃん……ご飯とか水とか、そういうのをやるだけでいいんでしょ?」
 父あゆむはにっこりと微笑み、うなずいた。

 病院を後にした深冬は、試しに御倉館へ電話をかけてみたが、いつもどおり通話中のプープーという音が聞こえるばかりだ。仕方なくコンビニのATMで、父と共有している生活費口座から五千円を下ろす。
 駅前は帰宅途中の会社員や学生が行き交い、緑の掲示板の前では、帽子をかぶった中年男性ふたりが、読長神社のづきさいを告知するポスターを貼っている。いわく、「来たれ“本の町”読長町の名物神社へ!」。読長神社は御倉館のすぐ裏手にあり、この時期はいつも混雑する。深冬は足下の空き缶を自動販売機に向かって思い切りり飛ばしたが、ぐつぐつ悩みながら結局拾い上げて、ゴミ箱に捨てた。
 読長町は海抜が低く、駅前から中心部へ進もうとすると、自然に下り坂を下りていく格好になる。とりわけ商店街のあたりはぐっとくぼんでおり、商店街ゲート前の階段は、まるでがけの上に立ったように見晴らしがよく、ちょっとした撮影スポットとしても知られる。今もまさに熱した鉄のような太陽が街の果てに沈むところで、スマートフォンやカメラを構えた人々が、まばゆく輝く夕日の町並みに向かってシャッターを切っていた。
 商店街はしようやソースの焼ける香ばしいにおいと煙でいっぱいだ。精肉店の前にはいつもどおり行列ができ、揚げたてのコロッケやメンチカツを、白いエプロンと白いゴム長靴の店員が、手早く袋に入れていく。鮮魚店の今日の目玉はかつおで、店頭の焼き台では店の次男坊がかなぐしに刺した鰹を手に、色よくあぶってたたきを作っているところだ。青魚の皮と脂が炭火でじゅわっと焼けるにおいは、食欲をそそってしかたがなく、通行人たちが次々と立ち止まって、白猫までもがにゃーんと鳴いて待っている。一パック四百五十円。薬味は別売りで、刻んだ小ネギとシソ、みよう、おろししようを入れたちょこんと小さなカップが五十円。
 しかし一人前で五百円はちょっと。深冬はこみ上げてくるヨダレをごくりと飲み込み、後ろ髪引かれつつ向かいの青果店をのぞいた。店頭には鮮やかな赤いトマトと緑のとう、つやつやした茄子なす、早くも入荷したトウモロコシなどが並んでいる。
「あら深冬ちゃん、お父ちゃんの調子はどう? 具合はいいの?」
 買い物かごにトマト一袋と長茄子一本、パック入りの茗荷を入れてレジへ持って行くと、茶髪の前髪をクリップで無造作に留めた、みの店員にたずねられた。四十歳前後の女性で、いつ見てもせかせかとよく働き、相手の都合の如何いかんにかかわらず要点だけを早口でぱぱっと話す。深冬は具合が悪かったらもっと慌ててる、と思いながら「はい」と答えると、店員は「そう!」と頷いて、もう次の客の相手をはじめた。
 深冬の家事の腕は、必要に迫られればやるという程度で、料理もしるくらいなら作れるが、だしはりゆうですませるし、具材の応用をひらめくほどレパートリーが多くもなければ、増やすほどの興味もない。普段料理を作ってくれる父が不在の今のように、味噌汁を作る理由がある場合は、豆腐とわかめ、あるいはキャベツとにんじん、または茄子と茗荷、の三種類をローテーションで回している。あとは米を炊いて、おかずになるそうざいを買って合わせればいい。
 深冬はうどん店と中華料理店の前を通りすぎ、とりにく専門店がこしらえる、一本九十円のやきとりの短い列に並んだ。ちゆうぼうには大柄な体つきにパンチパーマの店主がいて、長年の汚れで黒ずんだ焼き台に並んだ串を、なめらかな手つきで返していく。
「ねぎま三本、つくね三本、肉三本……それから鶏皮を四本下さい。たれで」
 跳ねた鶏の脂とたれでぎとぎとした窓を覗き込みつつ、注文を言うが、音がうるさいせいか聞こえないらしい。隣で唐揚げを揚げていた店主の娘、が代わりにメモを取る。
「ごめんね、換気扇が壊れちゃって、店の中がうるさくてさ。ねぎま三本と肉三本、あとは何だっけ?」
「つくね三本、それから鶏皮四本」
 深冬は好物の鶏皮を一度に二本は食べることにしている。
「はいよ! 相変わらず皮好きだね深冬ちゃん。混んでるから十分ぐらい待ってね。お父ちゃんに差し入れかい?」
「ううん、崔君とあたしの分と、後はひるね叔母ちゃんに食べさせる……」
 すると由香里は顔をしかめた。
「あらまあ、ひるねちゃんの? ひるねちゃんの分は塩にした方がいいんじゃないかな。一本ずつ塩にしておこうか」
 好みを把握されているのかと、深冬はなんとも言えない恥ずかしさで赤面しながら、「お願いします」と消え入りそうな声で頼む。五分後に焼き上がったやきとりは、気を利かせてくれた由香里のおかげで、三個のパックに分けられ、ビニールの小袋を受け取ると、底がやけどしそうに熱い。
 ブレザーのポケットに片手を突っ込み、猫背であごをやや前に出しながら、商店街を抜ける。年季の入った美容室の白いドアの前に、ひもで束ねられた数冊の本と“奉納”と書かれた札を見かける。駅前で見た水無月祭のポスターを思い出し、深冬はさらに背中を丸めた。
 商店街を抜けるとにぎわいは一変して、静かな、読長町らしい“本の町”に変わる。
 御倉館ができる前の読長町は川沿いの素朴な寺町で、大きな寺と墓地の他は、田んぼや林が多かった。それが“本の町”と呼ばれるようになったのは、やはり御倉館の影響が大きい。とはいえ、平成の不況のあおりはこの街にもおよび、昭和の最盛期に比べると、だいぶ様変わりはしていた。
 ちょうど商店街を出たところを横に走る大通りは、休日になると多種多様の本好きで賑わう。赤色に塗ったドアと青い看板のかわいらしい店は絵本専門店で、その隣はスロープ付きバリアフリーのブックカフェ、横断歩道を渡った先には、大手書店を退職した書店員が開いたしゃれた新刊書店がある。さらに、昔ながらの古書店、翻訳小説を主に扱う古書店、街に住んでいた小説家の書斎を改装した喫茶店、チェーンの新刊書店などなどなどが軒を連ね、十歩歩けば本にまつわるなにがしかの店に行き当たる。
 深冬の父あゆむがよく使っている新刊書店“わかばどう”の店頭で、黒いキノコをかぶったようなマッシュルームカットにメガネの若い男性店員が、泥よけマットの上を掃除していた。深冬が前を通り過ぎようとすると目が合い、ぺこりとあいさつされる。
 大通りの角を曲がり、ゆるくカーブする狭い道を進むと、民家の庭やベランダでうつそうと茂る緑が目に鮮やかで、深く息を吸いたくなる。つるの茂みの下に“BOOKSミステリイ”と書かれた看板が揺れ、隣の雑貨店では、赤いバンダナを巻いた主人が、店頭に並べた安売りのブックカバーや読書灯を片付けているところだった。
 狭い道を抜けるとまた開けた道へ出る。このあたりは車通りが多く、今風の書店は減り、マンションやアパート、クリーニング店や医院などが立ち並び、人々の生活の場らしい雰囲気に変わる。
 やきとりの袋をぶらぶら揺らしながら、ゆるやかな坂道を下ると、やがて畳の上で受け身を取るどすんばたんという音がひっきりなしに聞こえてきて、道場が近いのがわかる。二階建ての鉄筋コンクリート製のがっしりした道場は、りガラスの窓から白い光が溢れ、歩道の隅に停めてある子どもたちの自転車を照らす。隣の昔ながらの古書店はシャッターが閉まり、下のわずかな隙間から、古い紙独特のつんとするかび臭い風が吹いた。
「こんちは!」
 重い鉄の引き戸を開けると、受け身の音がはっきりと大きくなる。道場の照明は白くとても明るい。一面に敷かれた道場用畳の上で、下は小学生から上は中年まで、さまざまな年齢層の生徒たちが、おのおのの相手と乱取りのけい中だった。
「ちぇー君、はいこれ」
 深冬が声をかけると、ちょうど崔がタオルで頭をがしがしときながらこちらにやってきたところで、やきとりの少しべたつくパックをひとつ渡す。こなれて柔らかくなった柔道着に黒帯を締めた師範代の崔は、まだ三十歳を過ぎたばかりで若く、あゆむよりも体つきが細かった。柔道一本で生きてきた彼の両耳はつぶれ、鼻も少し曲がっている。一人っ子の深冬にとっては兄か年若いのような存在で、夕方の小腹がく時間に食べ物を差し入れるのが日課だった。とはいえ、タダではない。
「やったね、やきとりだ。ありがとう。いくらだった?」
「四本で三百六十円。六十円まけて、三百円でいいよ」
「出血大サービスじゃん。あ、師範の具合はどう?」
「退院はまだみたいだけど、具合はよさそう。それより聞いてよ、これからあたし毎日ひるね叔母ちゃんのところへ行くことになっちゃった」
「ひるねさん? そりゃ大変だな」
 崔は小銭入れからやきとりの代金を出しながら、ふいに顔をしかめ、深冬の頭越しに向こうの空を見た。御倉館のある方角だ。
「さっき道場にも、御倉館への苦情の電話が入ったんだ。警報がまた鳴ってるって」
「マジで? もー!」
 深冬はいらちもあらわに叫んで、道場の壁にどんと背中をつけた。あの叔母、今度こそ本気でたたき出すべきではないか? 深冬は叔母にやきとりを買ってやったことが急に恨めしくなり、あの人の分も崔にあげてしまおうかと思った。彼が好意を寄せている事務のはらさんと食べればいい。しかし崔はさらに気になることを言う。
「でもさ、警報がこっちまで聞こえなかったんだ。昨日はそこらじゅうに響いてたけど、今日は何も。ひるねさんは電話に出ないしさ」
「ふうん……? 分館にいて聞こえなかったんじゃない? あそこ、救急車のサイレンも聞こえないし。崔君だってスーパーかどっかに行ってたとか……」
「いや、俺は一日こっちで稽古してたよ。俺だけじゃない、近所の犬たちも静かだったし、原田さんも聞こえなかったって」
 崔は原田への思いを隠しているつもりのようだが、深冬ですら感づくくらいに態度に出ており、公然の秘密と化している。深冬はいつものように崔をからかいたくなったが、それどころではないのはわかる。今すぐ行かなければ。
「でも苦情があったってことは、何かは起きてたってことでしょ。こっちには聞こえなかっただけで、誰かにとってはうるさかったのかも。やっぱり悪いよ」
 深冬はやきとりのパックが袋の中で傾ぐのも気にとめず、憤然と御倉館へ向かった。

 読長町には全部で五十店ほどの、本に関係する店が点在しており、インテリア用にとそうていが美しい本を買いに来る客や、しおりやブックカバーなど雑貨目当ての客から、初版本や希少な帯付き本、稀覯本を探しに来る客まで、あらゆるタイプの本好きを受け入れることができる。その中でも特にマニアックな本の蒐集家にとっての“本の町”の深層、核心は、やはり御倉館周辺の古書店街だった。
 道場を出て来た道を戻り、ゆるやかな坂道をゆっくりと登ると、銀杏いちようの巨木と、御倉館が見えてくる。道はまるで川の水が中州に当たって分かれるかのごとく、二またに分岐し、その並びには灰色に汚れた古い古書店がずらりと、御倉館を囲うように軒を連ねていた。
 二またに分かれた道は、御倉館の敷地を囲み終えると再びつながり、さらにその先にある小高い丘に突き当たると、またまた分かれてT字路になり、一方は住宅地の奥へ、一方は駅方面へと流れていく。この緑茂る丘の上に、読長神社がある。再来月行われる“水無月祭”に備えてか、丘の斜面にのぼりを立てるためのポールがすでに並びはじめていた。
 書物をつかさどるという稲荷いなりしんまつる、読長神社への往来は多い。参拝客がさいせんを投げてがらんがらんと鈴を鳴らし祈る、その時に頭の中にある思いは、それはもうさまざまではあろうが、風に揺れる絵馬の内容はだいたいが書物や読書、書き仕事にまつわるものであった。たとえば、
“八十年に出た『定本蒐書散書』の特装限定三十五部が十万円以下で買える機会がありますように”
“SF作家のとうへんぼくろうのやる気を起こさせて下さい、もう二十年も新刊を待ってるんです”
“文芸新人賞をる! 絶対に絶対に今度こそ獲る! 獲らせて!”
“うちの書店の売り上げが良くなりますように。できればネット書店のイマゾンの経営を悪化させてもしくはスキャンダルが発覚して潰”
 などなど、書物に関するありとあらゆる祈りや願望、じゆの言葉が、青空の下で風にあおられている。この“本の神”を祀るという神社に、書物の悩みを抱える人々が全国津々浦々よりやってくるのだが、読長町図書館の資料室に眠る本を読み、ここがいつから書物の神を祀っているのかを知る者は少ない。知っていたとしても口をつぐむだろう。
 ともあれ深冬は、この神社も、御倉館も、そこへ至る古書店街も、すべて大嫌いだった。神社が祭りで賑わうたび、祖母が非常に不機嫌になり、御倉館に誰か侵入するのではといつも以上に神経を張り詰めさせていた。今でも、死んだはずの祖母がすぐそばで怒っている気がしてしまうのだった。
 日が暮れて、街を包んでいた黄色と赤の光のヴェールが消え、空は濃紺の正体を現し、かすかに星を瞬かせている。御倉館に近づくと、百年前の大震災にも八十年前の戦火にも耐えた大銀杏が電灯の光に照らされて、複雑に影を落とす。吹く風はそこはかとなく古本のにおいがする。大銀杏の裏にはブロック塀に囲まれた緑豊かな庭があり、その向こうに御倉館の屋根が見える。
 御倉館は洋館で、通りすがりに最も目をくのが、三角の切妻屋根を頂いたガラス張りのサンルームだった。どっしりとして角張った印象の館の中央が、一階から二階まで、一面の巨大な窓になっており、白く優雅な細い窓枠で彩られている。
 しかし館の中で陽射しをいっぱいに受け入れているのは、このサンルームだけだった。建物の大部分は極端なほど窓がない。作りは土蔵とほぼ同じで、土にしつくいを塗った壁に、換気用の小さな扉付窓がしつらえられている。なぜなら本は日光と湿気を嫌うからだ。
 人間ではなく本のために建てられた御倉館は、サンルーム以外に人間の居場所を用意していない。後を継いだたまきはより本に忠実で、庭を一部潰して増設した分館は、換気扇を設置したために扉付窓すらなく、まるでろうごくのようだった。
 幼かった頃、父に連れられて御倉館に来るたび、深冬はわんわん声を上げて泣き「もう帰ろう」とせがんだ。漆喰の壁にはびこるつたは不気味だし、いまにも幽霊が出てきそうだ。大銀杏のぼこぼこしたこぶも深冬にとっては気持ち悪く、ここにいていいことなんてひとつもない、と思った。
 ブロック塀越しに覗き込むと、サンルームの一階の窓は暗いが、二階からはかすかにだいだいいろの明かりが漏れ、中に誰かいるらしいのはわかった。
 高校生になった深冬はさすがに泣きはしないものの、庭の鉄扉の錠前を開け、中へ入る時には心臓がばくばくと早鐘を打つ。ひるねの様子を確認したらすぐに家へ帰ろう。早く帰ってバラエティ番組を見て、明日あしたが土曜なのをいいことに夜更かしし、マンガを読むのだ。どうせ遊ぶ約束をしている友達もいない。
 色をつけはじめた紫陽花あじさい、葉の縁が白っぽいイワミツバ、スミレなどの草木でいっぱいの庭を通り、青いタイルを敷き詰めた玄関ポーチに立って、呼び鈴を押す。どうせ反応はないだろうと思っていたが、案の定ひるねは出てこなかった。
 父から預かったかぎをドアに差し込む――軽くひねるのではなく、ぐっともう一段階ひねって、ポーン、という機械音が鳴るのを確かめる。本当にこれで警報は解除されたのだろうか? 見上げれば、大手警備会社のロゴがついた警報装置が、知らぬ顔でドアの上にたたずんでいる。
 しかし深冬は首をひねる。警報装置の隣に、判読できない奇妙な赤い文字を連ねた、金属製の板が貼ってあった。あんなもの、前からあったっけ? いや、そもそも御倉館には近づかないようにしているし、たまに来る時は地面ばかり見ていて、玄関の上を見たことなんてなかった。
 不安で胸をざわつかせながら、深冬はドアをそっと開ける。警報音は鳴らなかった。
「ひるね叔母ちゃん?」
 外は夏日になることもあるというのに、室内はひやっとして、肌があわつ。古本特有のつんとするにおいに、鼻の奥から上顎のあたりがしびれるような感覚がして、くしゃみが出そうになった。
 電気のスイッチを上げると、たちまち室内はオレンジ色に明るくなる。洋館とはいえ日本式には変わりなく、茶色と白のタイル張りの玄関には大きなばこが置いてある。深冬はスニーカーを脱ぎ、スリッパに履き替えようとして「ぎゃっ!」と叫んだ。下駄箱の中にゴキブリがひっくり返って死んでいて、危うく触るところだった。
「……もう帰りたい」
 ゴキブリが晩夏の蟬のように死んだふりしていませんように。いきなり起きて飛んでいったりしませんように。泣きたい気持ちをこらえて祈りながら、深冬はひとつ間を空けた隣の箱から、スリッパをおそるおそる出した。
 じゆうたんきの玄関ホールから廊下が延び、突き当たりの壁の手前で右に折れている。廊下を挟むクリーム色の壁にはそれぞれドアがあって、書庫へ続いている。
 右手の小部屋は御倉館のいわば“創世記”で、嘉市が二十歳頃に創刊から買いそろえた雑誌『新青年』や、大正時代末期に発売された円本の全集、翻訳本の近代名著文庫などの初期コレクションがおさめられている。一方、左手のL字形に長い部屋は、かつて一般公開していた頃の名残で、昭和時代の絵本や児童書、大人向けの娯楽小説や文学などが、棚にぎっしりと並んでいた。御倉嘉市のコレクションは基本的に小説、読み物が中心で、戦前から戦中、戦後にかけてのものがそろっていた。そして多くの蒐集家と同じく、版が変われば買い足し、評論が出ればそれも集める。
 ともあれ、深冬の興味はまるでそそられない。念のため開けてひるねを捜すが、無人だった。
 廊下を進んで右に曲がればサンルームへ着く。敷き詰められた赤い絨毯は何度となく踏みしめられてずいぶん平べったくなり、家具はいずれも上等だが年代物すぎる。すいいろの長椅子には赤い毛布がくしゃくしゃに丸めて置かれ、枕が床に落ちている。便所はあるが出火の恐れがある台所はなく、一ドアの冷蔵庫が部屋の端にぽつんと置いてあるだけ。インターネットも繫がっていない御倉館の、唯一の連絡手段である黒電話は、受話器を外したまま床に置きっぱなしだった。道理で電話が繫がらないはずだ。
 ひるねの姿は、一階にはない。となればあとは二階だ。
 二階への階段はサンルームの左手にあり、その下のひしゃげた段ボール箱に、コンビニ弁当の容器や割りばし、鼻をかんだらしいティッシュなどが無造作に突っ込まれていた。
 部屋中散らかっている。それでも、テーブルの上に積まれた古い本はきっちりと隅をそろえて丁寧に重ねられ、開きっぱなしの本や、ページが折れ曲がった本などは一冊もない。
 本当に本以外に関心がないのだ、ひるね叔母ちゃんは、と深冬はあきれと尊敬が入り交じった複雑な心地で、窓の外を見た。とっぷりと暮れ、真っ黒い影となった家々の向こうに、濃いサファイア色の空が広がっている。
 サンルームを一階から二階へ上がる。サンルームは半分が吹き抜けになっており、壁は一階から二階まで一面が書架、二階の張り出し廊下から階下が見下ろせる。廊下はルーフバルコニーのように広く、この壁すらも本棚として活用されており、ぎっしりと本が詰まっている。ここにある書架以外の家具は、中央の手すり側にぽつんと置かれた革のソファとローテーブルだけだ。そこで、ようやくひるねを見つけた。
 ソファではなく、ローテーブルとの間の床、赤い絨毯の上にあおけで寝そべり、健やかないびきをかいて眠っている。
 大きなメガネをかけ、色素の薄い肌にそばかすが散った顔は、二十代にも三十代にも四十代にも見え、要するに年齢不詳だ。赤い絨毯に明るい茶色の髪が野放図に広がり、何日洗っていないかも不明なボーダーのカットソーと、パジャマのようなゆるいズボンという格好で、まるでひつぎに入れられた死者のように礼儀正しく両足を伸ばし、手をきちんと胸の上に乗せている。その手の中に、メモ用紙のようなものが挟まっていた。
「叔母ちゃん、叔母ちゃんってば」
 深冬はうんざりしながらも、叔母の肩を揺さぶって起こそうと試みた。しかしさすがの名を持つだけあって、ちょっとやそっとで目を覚ますはずもなく、のんきにふがっと鼻を鳴らすのみ。
 ローテーブルの上には分厚い台帳が広げたままになっており、ちようめんそうな小さな字で、蔵書の状態が記録されている。本館と分館を合わせたらおそらく数十万冊にもなる本の一冊一冊が、棚ごとに分類され、修繕の必要があれば補修技師へ送るリストに載せる。
 深冬は台帳にしおりを挟んで閉じ、ため息をついた。
「まあいっか……やきとりを置いておけばいいよね」
 十五歳も年上のこの叔母が自分よりも何倍もすけで頼りないのが、深冬にはまったく解せない。食事を運ぶ程度ならいいが、それ以上の世話を焼くのは絶対に嫌だ。深冬は赤いマジックペンで「塩」と書かれたパックを袋から出し、ローテーブルに置き、少し考えて、床でよだれを垂らしている顔の近くに置き直した。この食欲をそそるにおいが目覚ましになるかもしれない。
 これですぐに御倉館を後にしてしまえば、深冬は三十分後には自宅のアパートに戻り、台所で茄子と茗荷の味噌汁を作り、早炊きした無洗米とやきとりの晩ご飯を食べ、金曜の夜をのんびり過ごせたはずだった。
 しかし深冬は立ち上がる間際に、叔母の手の中の紙に目を留めてしまった。
 はじめ、これは叔母が書いた何かのメモだと思った。しかしよく見ると、それは文字というよりも奇妙な文様で、溢れ出た血のように赤いインクで書かれている。深冬は手を伸ばし、紙の端を指先でつまんで、ゆっくりと引き揚げた。
 メモじゃない。御札だ。あるいは護符とでも言おうか。
 玄関先で見かけた、警報装置のそばにあった不思議な金属製の板を思い出す。あれとよく似ている。細長い真っ白な紙に、妙に横が広く縦に潰れた文字。まるで小さい頃に見た、キョンシーの額に貼られた札のような――深冬ははっとして、紙を裏返し、逆さまにした。
 読める。装飾されているせいで文様に見えたが、これは日本語で書かれた言葉だ。
「えっと……“この本を盗む者は、魔術的現実主義の旗に追われる”?」
 声に出して読み上げたとたん、たちまち背筋を冷たい指先がさかでしたような感覚がして、肌がぞわっと粟立った。
「何これ、気持ち悪っ……」
 得体の知れないものを触ってしまったと、慌てて御札を手放した瞬間、どこからともなく風が吹いて深冬の体にまとわりついた。いったいどこから吹いてるの? と驚き振り返ったが、サンルームの窓はきっちり閉じている。
 風はまるで意志があるかのように深冬から離れると、御札をふわりと宙に吹き上げ、くるくると旋回させて、廊下の壁際にある本棚の前に落とした。
 そこに人の足があった。
 真っ白い運動靴と靴下を履き、深冬と同じ高校の制服を着て、すっくと立っている。あどけない顔をした少女だった。
 声を限りに深冬は叫び、あと退じさってしりもちをついた。少女は幽霊だと思った。何しろ物音も気配もなく突然姿を現したし、肩にかかるくらいの髪は、雪のように真っ白だったから。
「あ、あんた、あんた誰なの?」
 少女は答えずに、ゆっくりと腰をかがめて御札を拾うと、足音も立てずに深冬に近づいてきて、ずいと腕を差し出した。
「……落とし物」
「は、はあ?」
「落とし物。深冬ちゃんのだよ」
 深冬の顔はぐしゃっと握り潰した紙のようになった。
「あ、あたしのじゃない。叔母ちゃんが持ってただけで」
「それでも、深冬ちゃんのだよ」
 かちんときた。意味がわからない。いったい何なんだ? 突然現れて、違うって言ってるのにそうだとか言うし――恐怖よりも苛立ちの方が勝った深冬は、急速に冷静になっていく。帰宅途中に声をかけてきた生徒の顔が記憶の底から湧き上がってくる。
「待って。わかった。あんたひょっとして文芸部? あの先輩に言われて、つけてきたんじゃない?」
 この街で御倉を名乗るということは、大きな看板を背負って歩くようなものだ。深冬が本を読まないとも知らずに、御倉一族の一員だというだけで、同好の士を見つけたとばかりに愛書家たちが近づいてくる。中には御倉館の蔵書目当てで、コネクションを作ろうとする者もいた。今日、電車を降りる時に追いかけてきたあの先輩も、それを狙っているのだろう。
 そう考えると、この少女のどこもおかしくないし、怖がる必要は一ミリたりともない。どうせ髪はブリーチしたか、生まれつきこういう色の髪の人だろう。ここにいるのだって、きっと一階のサンルームの窓に鍵がかかっていなかったか、玄関の鍵をピッキングしたか何かで、先回りして侵入し、二階の書庫に隠れて待っていたに決まっている。ひるねに気を取られている間に、引き戸を開けて出てきたのだ。二階の書庫へ入る引き戸はひとつだけ、本棚と本棚の間。そう、まさに少女が現れた場所だ。
 すると勇気がぐんぐん深冬の体にみなぎって、足にも力が湧いた。床にへたり込んでいた深冬はきっと目つきを鋭くして立ち上がり、胸を張って指を突き出す。
「帰って。あたしは文芸部には入らない。本なんて大嫌いだし、国語の教科書を読むのだって苦痛だし、マンガ以外は一年に一冊たりとも読まない。あたしを入部させたっていいことなんかひとつもないよ。もしあたしを仲間に引き入れて御倉館に入る許可が欲しいってんなら、無駄だからやめなって、あの人に言って」
「ぶんげいぶ?」
 白い髪の少女は首を傾げ、黒目がちな目をぱちぱちと瞬かせた。
「ぶ・ん・げ・い・ぶ……回文じゃないね、惜しい」
「はあ?」
「“ぶんげんぶ”だったら上から読んでも下から読んでも」
「いいからさっさと出て行ってよ。冗談に付き合ってる暇はないの。行かないなら警察を呼ぶからね、不法侵入だよ」
 深冬は少女の背中を押して――ほら、ちゃんと手で触れる、幽霊だったら触れるはずがないんだから――と思いながら、階段の方へ向かわせる。しかし少女は階段の前に来たところで手すりをぐっとつかみ、下りようとしない。
「不法侵入じゃないよ。そこの人に呼ばれたから来たの」
 少女はそう言って、まだ眠り続けているひるねを指した。
「ぶんげいぶのことも知らない。噓じゃないよ」
「……本当に? ひるね叔母ちゃんの知り合いなの?」
「知り合い。広義の意味ではそうかな」
「辞書みたいな話し方するのやめてよ。“変人”っていう意味じゃ、あんたは確かにひるね叔母ちゃんと似てるけど」
 背中を押す手の力を緩め、少女の頭のてっぺんから足のつま先まで、じろじろと観察する。背丈は深冬よりも少し高いくらい。鼻が低く、口がやや大きい顔、改めて見てもやはり見覚えがない。制服は白いブラウスに緑色のネクタイを締め、濃紺のブレザーとスカートの冬服仕様だ。スカート丈は膝が隠れる長さで、深冬と同じくらい真面目に校則を守っている。しかし校章がなく、何年生かは不明だ。
「あんた、名前は?」
 ただ身元調査のために尋ねた質問なのに、なぜか少女はうれしそうに顔を輝かせる。
「ましろ。真剣の真に、白で、しろ
 その時、深冬の頭の奥の方で、何かがちりりと、まるで線香花火からはじける火花のように瞬いた。しかしそれはほんの束の間で、摑むこともできずに消えてしまう。深冬はさっとかぶりを振ると少女の腕を取り、ひるねの傍らに戻った。
「叔母ちゃん、起きて。いい加減起きてってば。この子、いったい誰なの?」
 しかし押せども引けども叔母は目を覚まさない。
 もういい。こんなところで時間がかかるとは思わなかった。晩ご飯を鰹のたたきにしていたら悪くなっていたかもしれない。やきとりはレンジで温め直せばいいし、面倒だから米は炊かないで、コンビニでレトルトを買おう……全身が脱力するのを感じ、深冬は片手にぶら下げたレジ袋を持ち直して、階段を下りようとした。するとその手を真白と名乗る少女に摑まれた。
「……何?」
「帰れないよ」
「どういう意味?」
「そっちからは帰れないの。泥棒が来て、呪いが発動したから」
「泥棒? 呪い? 何言ってんの?」
「信じて。深冬ちゃんは本を読まなくちゃならない」
 じっと見つめてくる真白の黒く大きなひとみに、吸い込まれそうになる。この子、ひるね叔母ちゃんより変だ――深冬は慌てて真白の手を振りほどこうとしたが、存外握力が強く、びくともしない。
「離してよ! あんた怖い」
「ごめん。でも深冬ちゃんはあの本を読まないと」
 そう言うやいなや、真白はつかつかと本棚と本棚の間に歩み寄り、引き戸を勢いよく開けた。
 たちまち古書のかび臭い風が吹き、ほこりが舞い上がり、深冬はき込みながら手で顔を覆い隠す。なんで書庫から風が? 換気中だった? でもその間に寝ちゃうなんて叔母ちゃんらしくなさすぎる。
 顔を上げたその先、目の前に現れたのは一面の書架。天井から床まで作り付けられた本棚が、人を通す隙間も惜しんで、ずらりと奥まで数十列にわたって並んでいる。この書庫だけで本棚は二百以上あり、そのすべての棚にぎっしりと本が詰まっていた。それは壮観というより威圧的で、音もなく、戒律の厳格な神殿のような雰囲気があった。
 足の裏にじわりと汗が滲む。御倉館嫌いの深冬にとって、ここは忌まわしい場所だった。幼い頃に一度だけこの引き戸を開けたことがあるが、記憶に残っているのは鬼の形相をして自分を見下ろしている祖母の顔だけだ。
「こっち」
 ぼうぜんとして反応が遅れた深冬は、真白に手を引かれるまま書庫へ踏み入った。本棚と本棚の間は五十センチほどしかなく、小柄な人間がやっとひとり通れる狭い通路を縫うように進む。天井の電灯はひとつもいていない。それにもかかわらず、書庫はまるでろうそくをともしているかのようなぼんやりとした橙色の明かりに包まれ、書架の陰影を浮かび上がらせていた。
「……蠟燭なんてあるわけないのに」
 たまきの時代から御倉館に火気は厳禁、ひるねもあゆむも絶対に火を持ち込まない。深冬は何度も目をこすってみたが、発光源のわからないともしは一向に消えない。
 深冬にとってはどれも似たようなものに見える書架の間を、真白は右に左に曲がりながら進んでいく。その背中を、ほのぐらく透ける白髪を、深冬は不安げに見つめながら手を引かれるまま進む。
「ここだよ」
 ある書架の前で真白は足を止め、ようやく深冬から手を離した。少し痛む手首をさすりながら顔を上げて、目をみはる。
 いかな本嫌いの深冬でも異変には気づく。他の棚はどこも隙間なく本が詰まっているのに、その一段だけはがらんともぬけの殻だ。つまり二、三十冊の蔵書がごっそりとなくなっている。
「……まさか」
「これを読んで」
 指さされた方を見ると、棚の端に一冊だけ本が取り残されていた。背表紙にあの御札に似た文様が記されている。手に取ってみるとかすかに埃が立ち、表紙の丸い刻印が橙色の灯火にきらりと輝く。全体に絡みつくような細かな蔦模様が施された美しい装幀の本で、『繁茂村の兄弟』というタイトルがみんちようたいで品良く印字されていた。
「読んで、深冬ちゃん」
 真白に促されて深冬はごくりとつばを飲み込む。いつもだったら本を手にしただけで体が引きつり拒絶反応を起こすのに、今の深冬は不思議と落ち着いて、嫌悪感も湧いてこない。『繁茂村の兄弟』。おかしなタイトルだ。表紙を開くと、なぜか懐かしい香りが漂った気がした。
 内容は想像もつかないが、無性に惹かれる。読んでみたい衝動に駆られる。この本の内側に隠された何者かに、優しく名前を呼ばれたような感覚があった。
「国語の教科書以外で本を読むのなんか、小学生の時以来なんだけど」
 深冬は腹を膨らませて深く息を吸い、ゆっくりと吐きながらページを繰った。

    ◆◆◆◆

 物事にははじまりと終わりがある。繁茂村もはじめ、ベイゼルとケイゼルの兄弟が黒い甲虫を追いかけてたどり着くまでは、ただの乾ききった赤茶色の荒野であった。いくら黄ばんだ雲が雨を降らせようと雨粒はしやくねつの大地に触れるや否や蒸発するばかり、人間はおろか昆虫も、水すらも寄りつかぬ。
 ベイゼルはひどい雨男であった。新月の晩、産声を上げたそのせつ、突如として暗雲が現れ、村の上空を覆い、止めどない豪雨が降り注いだ。村は、月が再び膨らむまでに完全に水没し、逃げ延びた住民は、鼻と耳の穴に詰め物をして深く潜り、水底に沈んだ自宅に帰って、忘れ物を取りに戻るほかなかった。
 母がベイゼルを連れて隣村の両親に会いに行くと、雨は止み、帰宅すると再び雨が降る。やがてベイゼルは雨鬼と呼ばれるようになり、新しく立て直された集落には三日三晩しか滞在が許されなくなった。赤子のベイゼルをぶって、母は旅に出た。母が見上げると、もくもくとした黒い雨雲が後からついてくる。足を止めれば、たちまち雨雲が追いつき、ぱらぱら雨粒が落ちたかと思うと肌が痛むほどの豪雨となる。母は歩むことをやめず、雨の降らない土地へ向かうことにした。
 ふたりは乾いた土地に雨を降らし、植物の根が腐らないうちに出て行き、次の村を目指す。
 地の球がめぐりめぐり、着物の生地が薄いものから厚いものへ、厚いものから薄いものへと再び戻った頃、母は次男のケイゼルを産んだ。
 ケイゼルはひどい晴れ男であった。小さなベイゼルをよそに預け、産婆の手でケイゼルを産むと、かんかんと照りつける太陽が村を襲い、母の乳をケイゼルが吸う間もなく、ため池が干上がった。死に絶えた魚やザリガニの魂は天に昇って循環し、怒れる稲妻となって大地を揺るがせ、産婆は悲鳴を上げる。死んだ魂はやがて地中深く潜って種となり、いつか芽を出すその日を待つ。
 灼熱の日照りが続き、畑は見る間に枯れる。そこにベイゼルが連れてこられ、産婆の家に横たわる母を見舞うと、たちまち雨が降り出した。太陽は中天でぎらぎらと輝いているのに、雲から雨粒がごろごろ転がり落ちてあたりをらす。世を呪って死んだ魚とザリガニの魂も芽吹いて、鮮やかな青や赤の双葉を広げる。
 これを見た母は喜び、同時に悲しんだ。自らの胎内で育て、産まれでた子のどちらもが、天から愛されなかったと嘆いた。
 黒雲は太陽の周りをぐるりと囲み、雲が泣いたかと思えば太陽が笑う。あべこべになった天候を恐れた人々は土地を治める首長の元へ押し寄せ、輿こしに乗せるとえっさほいさと担いで、まだ横たわる母と幼い兄弟の元を訪ねた。偉大なる首長は母の嘆きに耳を貸さず、彼女から兄弟を引き離すと、よそ者の旅人に預け、天候庁を作って学者を雇い、黒曜石の板に、兄弟の移動日と滞在日を決めた運行表を定め、そのとおりにした。
 旅人に連れられて、ふたりはともに雨雲を引き、太陽を引き、愛され憎まれながら育った。ひとり残された母の肌は日に日にしわが寄り、髪は白く骨がもろくなり、ある日、黒曜石の運行表を眺めながら息を引き取って、その知らせは黒い花びらに乗って息子たちの元へ届く。成長した息子たちは激しく悲しみ、互いに憎み合った。雨がなければ、晴れがなければ、母が孤独の中で死ぬこともなかったろう。天気雨の中、ベイゼルが巨大な岩を持ち上げ弟を潰そうとし、ケイゼルが鋭利な木の枝で兄を刺し殺そうとした時、旅人がふたつの賽を投げた。ひとつは西を、ひとつは東を示して止まる。
「ここまでだ。ベイゼルは西へ、ケイゼルは東へ向かいなさい。振り返ることも、追いかけることも、互いのことを考えることもしてはいけない。ただひたすら進むのだ。いずれ虫の導きでまた巡り会うだろう。そうして天気雨が降ったら、そこを村にしなさい」
 ふたりは旅人の言葉どおり、西と東に別れて旅に出た。兄弟が離ればなれになると、太陽の周りを黒く囲んでいた雨雲も離れ、ベイゼルの後をついていく。人々はやっとこれで平穏になるとあんで胸をなで下ろしたが、制御のままならない気まぐれな天候に、それはそれで困った。
 十二歳と十一歳でしばしの別れを告げた兄と弟が再び巡り会い、繁茂村を築き上げたのは、成人の儀式をとうに過ぎた頃のことだった。ベイゼルは雨粒をたたえたみずがめの下で、ケイゼルはカンカン照りの市場で、それぞれ黒い甲虫を見つけた。カブトムシは太い腹を仰向けにして眠っていた。
「……真白」
 深冬は本から顔を上げ、不満げに言った。
「まさかこれを全部読めって?」
 すると真白は不思議そうに首を傾げ、「続きを読みたくないの?」と訊ね返す。真白の両耳は頭のてっぺんににょきっとふたつ生えていて、犬のように長い鼻をすんすんと鳴らした。
「だって絶対長いじゃん。ベイゼルとかケイゼルとか何者なの? っていうか、これ支離滅裂で変な話すぎる。雨の呪いとか晴れの呪いとか意味がわかんないし、ついて行けない。虫は気持ち悪いしさ――って、なんであんた犬耳生やして、鼻にマスクつけてるわけ? コスプレとかやめてよ」
 深冬は立て板に水のごとく真白に言い募り、返事も待たずに本を閉じると、書架のがらんとした棚に戻した。真白の頭に生えた犬耳が動いて、本物の犬のようにしゅんと垂れるが、深冬は本を睨んでいて気づかない。
「つまらなかった?」
「つまるとかつまらないとかっていうよりさ。ここ、狭すぎて座れないじゃん。立ちっぱなしで本を読み続けるのはきついし、そもそもあたしみたいに本が嫌いな人間には、活字を追うだけでも苦痛なの。ほんと、こんなに字を読んだの久しぶりすぎて」
 だるくなった首筋に手をあてがい、深冬は大あくびをしながら上下左右へ頭を回した。腕時計を確認すると、もう七時になるところだった。
「ねえ、あたしもう帰るよ。本はいつかまた読むから。それよりその犬コスプレ、帰る前に外しときなよ」
 そして床に置きっぱなしだった、青果店のレジ袋とやきとりのパックを取ろうと手を伸ばす――が、指先に触れたのは、ふわっと、それでいて妙につるりとした、生き物の感触だった。
「コケッ」
 深冬の足下で、一羽のおんどりがかくかく首を動かし、赤いとさかを揺らしている。深冬はあんぐり口を開け、手のひらで包むように雄鶏に触れた。本物だ。雄鶏は黄色い足でやきとりパックを踏み潰し、うろうろと書庫を歩き始めた。
「な……なんで、鶏が、こんなところに」
 潰れたパックを見ると、あったはずのやきとりがない。べたついていた醬油だれもきれいさっぱり消えている。その上、青果店のレジ袋からは三本の芽が出て、上を目指してにょきにょきと伸びていく。
 深冬は後退って本棚に背中をぶつけ、くらくらしながら真白を見た。真白は鶏の登場に驚きもせず、後ろの壁の方を見ていた。雨音がする。壁を叩く雨粒の音、軒から垂れ落ちるぽたぽたというしずくの音。
「天気予報じゃ、今日も明日も晴れだったはずなのに」
 ぽつんとつぶやいてから、深冬は思い出したように「あっ」と声を上げた。突然現れた鶏も何かの芽もどうでもいい、慌ててきびすを返し、狭い通路を小走りに抜けようとする。
「深冬ちゃん、待って。どこへ行くの」
「洗濯物! 学校行く前に干したのを忘れてた!」
 後ろから真白がついてくる気配を感じながら、深冬は心なしかさっきより複雑になった気がする書架の迷路を抜け、出口を目指す。
 ようやく引き戸を開けて廊下に出た深冬の目に飛び込んできたのは、床でなおも眠り続けるひるねの姿だった。けれども先ほどのひるねとは様子が違う。水晶のような透明な石が、ひるねの全身を覆い、蔦がうねうねとまわりを取り囲んでいた。
「おっ……叔母ちゃん?」
 深冬は両手を固く握り合わせながらおそるおそる近づく。まさか石の中で窒息死しているのではと思い背中がぶるりと震えたが、よく見れば腹部がゆっくり上下して、呼吸しているのはわかった。そのまぶたには不気味な深紅の字で“母”と書かれている。
「なにこれ、どういうこと?」
「コケッ」
「わっ」
 足に触れたのは、とさかの小さなめんどりだった。
「こ、今度は雌鶏?」
「やきとりが塩味だったから」
「そんな理由? いや、ていうかあんたの犬耳どうなってんの? めっちゃ動いてんだけど……鼻も長っ」
 明るい廊下に出て改めて見れば、真白の頭の白い耳もどうも本物らしく、長く突出した鼻面にちょこんとついた、湿り気のある黒い鼻はひくひく動いている。目元と髪以外の顔が犬になってしまったようだ。異常事態だが、真白はけろりとして「深冬ちゃんを手伝うのに役立つ」と言う。
「……あたし、やっぱ本を読みながら眠っちゃったみたい」
 深冬は両目を固くつぶり、現実世界で本を読みながら居眠りしているはずの自分に語りかけた。早く目を覚まして。もういい、もう夢は充分。
 起きろ、起きろ、起きろ、起きろ、起きろ……。
 強く念じて、少しずつまぶたを開ける――しかし叔母は相変わらず水晶の中、真白は犬の耳と鼻をつけたままだ。むしろさっきよりも本物っぽい。
「ああ、もういい加減にして……」
 深冬が何を言おうと真白は首をひねるばかり、みるみるうちに床や壁、本棚から植物が生えていく。しゅるしゅると枝を伸ばし、一面に黄色やピンクの花を咲かせる蔓薔薇、鬱蒼とした羊歯しだは細い葉先をそよがせ、あそこの隅に生えているのはわらびだろうか。どこからか水の音がする。サンルームの広い窓を激しい雨が叩いては、滝のように滑り落ちる。その下には池ができていた。ちゃぽん、と音を立てて魚が跳ねる。
 悲鳴を上げ、半狂乱になって階段を駆け下り、針が六時五十分で止まったままの柱時計のそばを走り抜けると、つむじ風が巻き起こった。
 人の声がする。それも複数のおしゃべりが。声はどんどん大きく、雨音すらかき分けて聞こえ、耳をふさぎたくなるくらいに騒がしい。人の気配はない。それなのに、何語ともつかない無数の会話が、幾重にも混ざり合って深冬の鼓膜を震わせる。本棚ががたがたと小刻みに揺れ、一階の書庫のドアがかすかに開き、声の源は本だと気づいた。
 言葉が勝手に侵入してくる!
 深冬はすくみそうな足を奮い立たせ、玄関から外へ出ようと走る。しかし今度は色とりどりの満艦飾の旗、長い紐に飾られた色とりどりの旗が、本という本、書架という書架、あちこちに開いた隙間から伸びてきて、深冬の手足、顔にまとわりついた。
「こんなの絶対におかしい、こんなの絶対に信じない! 夢だ、夢だ!」
 あんな変な本を読んだせいだ。あんなおかしい物語を読んだせいだ。極端な雨男と極端な晴れ男、そんなの存在するはずないのに、物語ってやつは本当に噓ばっかりつく。魚やザリガニが稲妻になって土に潜り、種として発芽するなんて、生物の教師に聞かせたら成績を下げられてしまうだろう。
 ああ、読まなければよかった! これだから本は嫌いなのに!
 体に絡みついた満艦飾の旗をむしり取り、払いのけながら深冬が顔を上げると、玄関ドアの上の明かり取りの窓の向こうを、ザリガニがばらばらと落ちていき、全身が脱力した。
「深冬ちゃん」
 ぎょっとして振り返る。白い犬の頭に髪が生えたようになった真白がすぐ後ろにいて、深冬の体から旗を一枚一枚丁寧に取り除きながら言う。
「これは夢じゃなくて、“呪い”なの。さっき見たでしょ? 御札を。“この本を盗む者は、魔術的現実主義の旗に追われる”っていう」
 深冬は肩で息をしながら真白を見つめ返す。
「やめてよ。呪いだなんて気持ち悪いこと言わないで」
 しかし真白はまるで動じない。
「御倉館の本――現在二十三万九千百二十二冊、そのすべてに、“ブック・カース本の呪い”がかかってるの。盗んだら、御倉一族以外の人間がやかたの外に本を一冊でも持ち出したら、発動する。物語を盗んだ者は、物語のおりに閉じ込められるの。今回選ばれたのは魔術的現実主義のブック・カース。マジック・リアリズムとも呼ばれる、魔術的現実主義の世界に、泥棒が閉じ込められるという呪いだよ」
 真白が説明する間も、廊下から、壁から、赤や青、黄色に緑、茶色に黒、なんとも形容しがたいどどめ色の旗がい寄ってきて、深冬の体にすがりつこうとする。
「これもあれも、マジック・リアリズムの呪いだからこうなる。書物に呪いをかけるという行為は、印刷機がまだなくて、本がとっても貴重だった時代に、本を守るために人々が行ってきたものなんだ。防衛魔術。修道士はアナテマとも呼んだ、破門の呪い」
「……あんた、頭でも打ったの?」
 泣きたい気持ちを堪えながら下駄箱に手を伸ばすと、指先に、腹を出してひっくり返っていたゴキブリが触れる。すっかり忘れていた。深冬が絶叫すると、ゴキブリはちょうどよい目覚ましだったと言わんばかりに起き上がって、黒光りするはねを震わせた。細長く、弓のようにしなった触角であたりを探り、軽々と飛ぶ。
 卒倒しかけた深冬を真白が後ろから支え、座らせると、ドアを開けてゴキブリを逃がす。降りしきる大粒の雨の中、ゴキブリは、暗雲がすさまじい速さで流れていく空へと飛んでいった。
 御倉館のまわりを囲む読長町の古書店街にも、派手な満艦飾の旗が溢れ、道路を覆っていた。緑色だった銀杏の葉は黄金に輝き、風が吹くと金粉のように舞い散って、灰色の街を照らす。葉が舞い散るそばから枝に新芽が生え、いくら散ってもきりがない。
「古来のブック・カースは一冊につきひとつの呪いだったけど、今は本の量が多いから、盗んだ冊数にかかわらずひとつの呪いなんだよ。その分すごく強力で、街全体が変化する――つまり私たちも『繁茂村の兄弟』の世界にいるんだ。呪いは読長町だけに有効で、泥棒はこの街のどこかで物語の檻に閉じ込められている」
 戸口に立った真白の姿が、逆光で白く縁取られるように輝く。
「深冬ちゃん、今から深冬ちゃんは泥棒を捜さなきゃならない。泥棒を捕まえたら、ブック・カースは消えて街も元に戻るから」

 外に出ると、暗い空に稲妻が光り、大粒の雨が降り、たける風はびゅうびゅうと吹きすさぶ。しかし夜空を仰げば中天に満月がかかって、渦巻く分厚い雨雲をはべらせていた。満月は読長町を泰然と見下ろし、ちょうど黄色い目をした黒猫が挨拶するかのように、ぱちり、ぱちりと二、三度まばたきをする。
「……月がウインクしてる。どうなってんの」
 視線を下へ向ければ、館の中と同じく地面のあちこちから植物が芽生え、まるで緑の絨毯を坂の上から転がして広げるように、どんどん生い茂っていく。
 街は猛スピードで変化していた。蔦が蔓延はびこり、家々のがわらが雨音に合わせて踊り出し、犬が歌い、猫が浪曲をうなり、アスファルトの道は泥道のように泥濘ぬかるむ。
 呆然と立ち尽くす深冬の手に、真白がそっと触れる。真白の顔はほとんどが犬と化し、制服の長いスカートのすそから白い尻尾しつぽが覗いていたが、髪と瞳、そして手はまだ人間の少女のものだった。
「さあ、行こう。早く泥棒を捕まえなくちゃ」
「……本を盗んだ泥棒を見つければ、街は元に戻るの?」
 すっかり青ざめた顔で問いかける深冬に、真白は大きく頷いてみせた。
「うん! たぶん」
「たぶんって!」
「実のところ、私もはじめてでよくわからなくて……泥棒を捕まえるというルールの他は知らないの。生まれたばかりだから」
「……どう見ても人間の赤ちゃんには見えませんが」
「確かに、厳密に言えば赤ん坊ではないけれど」
「もー!」
 深冬は地団駄を踏みまくり、恐怖が怒りに変わっていくのを感じる。そうなるとだんだん元気も出てくるのだから不思議だ。
「ゲンミツでもアンミツでも何でもいいよ! あんた、いかにもこの世界に詳しいって顔をして、さっきは自信たっぷりに“元に戻る”って言ったくせに、あいまいすぎるよ! そもそもあんたがあんな本を読ませなければ、こんな変な夢を見ないですんだのに!」
 嚙みつくような口ぶりでたたみかける深冬に、真白はまるで飼い主に𠮟られた犬のように耳をぺたんと垂らして、おろおろする。こうしている最中にも雨はますます激しく、雨粒ひとつひとつが大豆ほどの大きさになり、あられが降るかのごとくばらばら音を立てはじめた。よく見ると雨は水ではなく、輝く白い粒になっている。ひと粒拾い上げてみると、本物の真珠だった。庭も道路も、一面に真珠が転がり、月光が反射して白く光る。
「ちょっともう無理」
 御倉館の中へ深冬が逃げ込もうとしたその時、真白の垂れていた耳がぴんと立った。深冬には何も聞こえなかったが、真白は犬耳を小刻みに動かし、黒くつやのある鼻をひくつかせている。
「……茂みに誰かいる。そこにいるのは誰?」
 すると、庭の紫陽花の茂みがゆらゆら揺れ、ややあって黒い影がひょっこりと顔を出した。満月とまばゆい真珠雨に照らされたその生き物は、とがった耳をした、オレンジ色の狐だった。ひどく野太く不細工な声で「ぐぎゃあ」と鳴く。
 その途端、たちまち真白は猟犬のように駆けて狐に飛びかかり、哀れな狐は飛び上がって逃げるも、真白の素早さに負けて庭の隅に追い詰められた。
「ちょっとあんたねえ」
 動物好きの深冬は慌てて追いかけ、狐をひょいと抱き上げると、真白から遠ざけた。
「いじめるなんて最低。ねえ? 狐ちゃん。可哀想に」
 腕の中の柔らかくて温かな体は、ぶるぶると震えている。深冬が真白をきつくにらみつけると、彼女はまたおろおろとする。
「ご、ごめんなさい。狐を見たら、反射的に体が動いてしまった」
「まさかあんた、中身まで犬になっちゃったんじゃないでしょうね」
 深冬は狐を抱いたまま、大股で真珠雨が降りしきる中をのしのし突き進んだ。
「深冬ちゃん、その狐をどうするの?」
「このおかしな世界に、ひとりぼっちで置いていくわけにもいかないでしょ」
 オレンジ色のふわふわした毛並みを撫でられ、狐は安心したのか、うっとりと目を細めている。真白は嫌そうに鼻面にしわを寄せたが、深冬がそうするならとしぶしぶ同意する。
 御倉館を出て、真珠雨の降る通りを歩いてみる。古書店街にはおぼろげな明かりがともり、会社帰りの人々が店先の百円均一棚を覗いていた。街がこれほどへんぼうしてしまったというのに、誰も慌てていない。それに、てっきり自分は異世界にいると思っていた深冬は、その中に何人か馴染みの顔があったことに驚いた。特に、棚の右側で物色中の小太りの会社員男性は常連客で、深冬を見ると「あっ、御倉の!」と満面の笑みで手を振ってくるような男だった。
「真白、ちょっとそこで待ってて」
 深冬は真白を自販機の前で待たせると、狐を腕に抱いたままおそるおそる近づいて、百円棚から古い文庫本を抜こうとしている彼に声をかけてみた。
「あの、こんばんは」
 生白くでっぷりした顔の男性は、小さな目をぱちぱちと瞬いて深冬を見返す。
「何か用?」
 いつもだったら温かく手を振ってくれる人物から冷たくあしらわれ、ぐっと言葉に詰まりかけるが、勇気を出して食い下がってみる。
「用、っていうか。この雨、どう思います?」
「雨?」中年男性は頭頂部の薄くなりつつある部分を搔きながら空を見上げ、いぶかしげに首を傾げる。「どうって……いつもどおりじゃないか。明日はべいさんの婚礼の儀だし、空も祝ってるんだろう」
「……べいぜるさん?」
「そうだよ。みんな真珠を拾ってるだろ」
 一面に積もった真珠の雨粒で道はきらきらと輝き、小さな子どもたちが集まって、なおも空から降ってくる真珠の雨粒を夢中で集めていた。輪になってしゃがむ子どもたちの真ん中に、とうかごが置いてあり、拾った真珠雨の粒が山と盛られている。
 もうこれはこういう世界だと思って、覚悟するしかないのだろう。深冬は固くこぶしを握り、きっとして男性に向き直る。
「あの、もうひとつ教えてもらっていいですか?」
「はい? まだ何か?」
「怪しい人を見かけませんでしたか? うちの書庫から本が盗まれたんです。棚一段分、ごっそりやられちゃって。だから盗んだ犯人を捜しています」
「知らないね。それよりあんた、大事な本にそのケモノを近づけないでくれよ」
 吐き捨てるようにそう言って、中年男性は棚から三冊本を抜くと、店の重いガラス戸を開けてさっさと中へ入ってしまった。
 昔ながらの古書店の並びは、元の世界と同じように、「めぼしい本はないか」と店頭や店内の棚をあさる愛書家でいっぱいだった。だからこそ全員、御倉館に背を向けている――獲物を前にしてぼんやり後ろを向いている狩人かりゆうどなどいやしない。
「待てよ。それなら、ここに紛れちゃえばいいのでは? ううん、むしろこの人たちの中にいるのかも」
 泥棒はなぜ本を盗むのか? 本を盗む理由は、稀覯本を欲しがる人に高値で売って稼ぎたいか、自分自身で所有したいかのどちらかだと考えた深冬は、愛書家の群れに泥棒が紛れている可能性が高い、と考える。
 しかしこの全員に声をかけるのか。ただでさえ多かった愛書家たちだが、深冬がこうしてまごまごしているうちに、どんどん増えている気がする。百人が二百人、二百人が四百人、四百人が八百人……いったいどこから湧いて出るのかと思うと、どうやら道路の側溝の穴からむにゅりと人が現れ、増殖しているらしい。
「おかしくなりそう」
 お手上げだ。どうにもならない。深冬は腕の中の狐を抱く力を強め、狐は不思議そうに見上げる。
「あたしに泥棒が捕まえられるわけがないし、もっと優秀な誰かに任せてしまえばいい。うん。真白にそう言おう」
 その時、黒い虫おそらくゴキブリがぶうんと翅を震わせて飛んできて、目の前の本棚にとまる。深冬は情けない声を上げ、狐が虫に向かって「ギャッ」と威嚇する。
「よし狐、あのゴキブリを食べて!」
 すると真白が深冬のそでを引いた。
「深冬ちゃん、あの虫について行こう」
「げっ、絶対に嫌だ!」
「そう言わないで。『繁茂村の兄弟』では、甲虫のような黒い虫を“甲羅がある虫”と呼んで、神の使いとしてあがめてるの。西と東、別々の道を歩いた兄弟が再び巡り会ったきっかけの虫だから。そして今の読長町は繁茂村と同じ。ひょっとしたら泥棒の元へ案内してくれるかも」
 ゴキブリは確かに、いつも台所やゴミ捨て場で深冬を驚かせてくる姿よりも、翅が丸く盛り上がって甲羅を背負っているようにも見える。客がやってきて店のドアを開けると、ゴキブリは体を震わせた。そしてつやつやと光る甲羅をすぐに持ち上げ、隠れていた絹のごとく薄いこうを現し、真珠雨の中を満月へ向かって飛び立った。
「……ねえ。本当に読長町はあの本の世界に変わっちゃったわけ? あのおじさん、米是留がどうとかって」
「そう、そう。だから早く泥棒を見つけないと」
 真白は深冬の手を引き、スカートの裾をひるがえしながら風のように軽やかに駆ける。ゴキブリを追って――真白と手を繫いでいると、自分も翅がついたように体が軽くなったと感じ、足が地面に触れたかどうかもわからなくなった。
 夜だが生き物が隠れ眠る闇はもう都会にない。住宅地の家々の明かりやスーパーマーケットの白い照明に、埋没しそうなパブの紫色に淡く光る看板、ぽつぽつと灯った街灯がびゅんびゅん過ぎて、やがて深冬は道場の前を通りかかった。ちょうど師範代の崔が道ばたにいて、事務の原田に話しかけているところだった。茶色く染めた長いワンレングスの髪に、目鼻がすっきりとした顔立ちの原田は、細い煙草をくゆらせながら崔の話に頷いている。一方、彼女に夢中の崔は、耳や後頭部から愛らしい赤やピンクの花を咲かせていた。
「鼻の下を伸ばしすぎ」
 ふたりとも深冬たちには気づかず、ただつむじ風がそばを通ったかのように、なびいた髪を片手で押さえる。
 真白の足は速い。あまりにも速くて、深冬の肩に乗った狐が悲鳴を上げたくらいだ。いつしか真白の手足は犬のそれに変わり、前傾姿勢になって四つ足を大地に着けた。ついに制服を着た大きな犬に変身した真白は、背中に深冬を乗せ、真珠と色とりどりの植物や旗でいっぱいの道を走り抜ける。甲羅をつけたゴキブリは悠然と空を飛び、ひとりと二匹が後ろを追ってこようが、意に介さないようだ。
 深冬は真白の首のあたりにしがみつきながら、声を張り上げて訊ねた。
「ねえ真白。あの『繁茂村の兄弟』ってどんな話なの? 最後はどうなるの?」
 読書嫌いの深冬だが、今さらながら、あれを最後まで読んでおけばよかったかもしれない、と思い始めていた。本に興味が出たのではなく、この奇妙な世界から出るためには内容を知っておくべきではという気持ちになったのだった。真白はちらりと後ろを向くと、静かに話しはじめた。
「雨男のベイゼルと晴れ男のケイゼルは、甲羅のある虫にそれぞれ導かれて、荒れ果てた土地にたどり着く。そこは兄弟の運命の地であった。大人に成長していたふたりは、いくらか天気をなだめすかすことができるようになっており、大地は太陽と雨の恵みをいっぱいに吸収した。川が流れ、湖ができ、花々はけんらんと咲き乱れ、草木がこの世は常春とばかりに育ち、繁茂した。たっぷりの水と繁茂した植物は豊かな土を作り、家畜を太らせ、せていた土地はたちまちよくになった。そうなると次第に人が集まるようになり、家を建て、やがて村となった。
 ベイゼルとケイゼルは力を合わせて村を治め、兄のベイゼルが政治を司る村長に、弟のケイゼルが村の産物を仕切る植物局長になった。しかしある時、ベイゼルは村の女、ハウリに恋をする。すると、雨が真珠に変わってしまった。
 真珠雨は美しかったので高値で売れ、村の財は潤った。けれど繁茂村の売り物だった植物に、真珠雨など害でしかない。村の人々はふたつに分かれてしまった――すなわち真珠で利益を得たい真珠派と、農産物で利益を得ることを継続したい植物派。植物局長のケイゼルは村を守るため、兄にハウリとの恋をやめるように訴える。けれどもベイゼルはケイゼルを追い返し、その上植物局長の役を廃止して、完全に真珠でやっていくと宣言してしまった。
 ケイゼルは怒り狂い、満月を黒猫に封じて空に放ると、どこかへ消えてしまった。それ以来、月が沈まないので夜が続き、太陽が昇らなくなってしまう。いつまでも明けない夜、降り止まない真珠雨の中、ついにベイゼルとハウリの婚礼がはじまる」
「まさか、それが明日?」
「そう」
 いつの間にか真白は空を飛んでおり、深冬は肩の狐が落ちまいと爪を立てているのを感じる。眼下には読長町が広がっている。
 真珠雨は雲の上に昇ることで止み、ひとりと二匹は漆黒の夜空の中へ出た。ゴキブリは相変わらず飛び続けていたが、雲の上に出たあたりから、ふいに、あれほどこうこうと照っていた満月の姿が見えなくなった。それでもゴキブリの後についていくと、雲がぐるぐると渦巻く地点で、銀色に光るさおを見つけた。棹は地上から伸びていて、長さはおよそ数千メートルはあるだろうが、針のような細さでも揺らぐことなくりんと突き立っている。
 ゴキブリがその棹にとまったので後に続くと、頂点に、黒猫が体を丸めて縮こまっているのが見えた。
「今度は猫」真白はうんざりした様子で鼻を鳴らす。「泥棒猫かな」
 他の生き物、特に猫や狐に敵意をむき出しにするのは、完全に犬になった証拠なんだろうかと思いながら、深冬は真白の体をぽんと優しく叩く。
「さすがに違うでしょ。猫がどうやって本を盗むっていうんだよ」
「……そうだね。虫が犯人を教えてくれるんだと思ってしまって」
 真白は気落ちした様子を隠さずに耳を垂れる。
「あの猫はたぶん、ケイゼルが満月を封じて放り投げた“夜の黒猫”だと思う。地上へ降ろしてやればきっと朝が来るよ、深冬ちゃん。そうしたら少し話が動くかも」
 真白はそう言って棹のすぐ横に体を近づける。黒猫の目はきんかんの実のような濃い黄色だ。深冬は、先ほど見た満月を思い出す――そして黒猫を抱き上げてやろうと、立ち上がりかけた。
 しかしここは雲の上、それも足下は犬の背中だ。曲芸師ならまだしもごく普通の少女が動物の背で立ち上がるのは至難の業、膝が震えた。深冬はしゆんじゆんした結果、スニーカーを脱いで裏返しにし、肩から降ろした狐と一緒に真白の背中に置くと、膝を曲げて真白の背中に足の裏を乗せる。
 しゃがんだ体勢からゆっくり腰を上げて膝を伸ばし、足の裏に汗がじわりと湧くのを感じつつ、真白の背中から両手を離す。ゆっくり、大丈夫、下を見るな、ゆっくり――その時、東の方から冷たい夜風がびゅうと吹き、バランスを崩した深冬は息を吞んで、両手をばたばたぐるぐると回した。前に傾いたタイミングで銀の棹に指先が触れ、決死の思いで摑む。深冬の長い黒髪とネクタイが風にはためく。
「下を見ちゃだめ、下を見ちゃだめ」
 自分で自分に言い聞かせながら、深冬は左手で棹を握り、右手を伸ばして黒猫に触ろうとした。しかし黒猫はすっかりおびえて、赤い口を開けて威嚇してくる。
「こっちへおいで、いい子だから」
 片手では無理だ。深冬はきゅっと歯を食いしばって、左手も棹から離す。たちまち体は再び不安定になり、膝が震え、足裏にじわじわと冷や汗をかく。ほんのかすかな風でバランスを崩してしまいそうで、夜のらくへ落下していく自分を想像してしまう。それでも深冬は両手を黒猫に伸ばした。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:この本を盗む者は
著 者:深緑野分
発売日:2023年06月13日

少女たちは本の世界を冒険する! 胸躍るファンタジー。
“本の街”読長町に住み、書物の蒐集家を曾祖父に持つ高校生の深冬。父は巨大な書庫「御倉館」の管理人を務めているが、深冬は本が好きではない。ある日、御倉館から蔵書が盗まれたことで本の呪いが発動し、町は物語の世界に姿を変えてしまう。泥棒を捕まえない限り町が元に戻らないと知った深冬は、不思議な少女・真白とともにさまざまな物語の世界を冒険していくのだが……。初めて物語に没頭したときの喜びが蘇る、胸躍るファンタジー!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322210000688/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら

著者特設サイト:https://kadobun.jp/special/fukamidori-nowaki/


紹介した書籍

関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2026年1月号

12月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2026年1月号

12月5日 発売

怪と幽

最新号
Vol.021

12月23日 発売

ランキング

書籍週間ランキング

1

柴犬ぽんちゃん、今日もわが道を行く2

著者 犬山スケッチ

2

著者 京極夏彦

3

管狐のモナカ

著者 夜風さらら

4

雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら

著者 東畑開人

5

天国での暮らしはどうですか

著者 中山有香里

6

映画ノベライズ(LOVE SONG)

橘もも 原作 吉野主 原作 阿久根知昭 原作 チャンプ・ウィーラチット・トンジラー

2025年12月15日 - 2025年12月21日 紀伊國屋書店調べ

もっとみる

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP