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シリーズ累計10万部、『隠居すごろく』待望の続編! 西條奈加『隠居おてだま』第1話全文を特別公開

直木賞作家・西條奈加さんの最新作『隠居おてだま』の刊行を記念して、第1話を全文公開します!
本作は、計画通りにはいかない「第二の人生」の悲喜こもごもを描いたヒット作『隠居すごろく』の続編。
2年目に突入した徳兵衛の隠居暮らしは、まだまだ悶着続きです。さらに嶋屋一家にも異変が……。
笑いあり涙ありの人情時代小説をどうぞお楽しみください。



『隠居おてだま』第1話全文を特別公開

1 めでたしの先

「秋深き、隣は何をする人ぞ」
 しようの句を、つぶやいてみる。中秋も過ぎた八月の終わり、秋は確実に深まっている。
 隠居家の縁側から見える田んぼは、黄金色に変わりつつあり、かえでの葉なぞはまだ青いが、銀杏いちようこずえは黄と緑が交じり合う。
 空はすっきりと晴れ、秋のさわやかな空気はさらさらとして心地良い。
「うむ、実にすがすがしい。もっとも隣は、田畑ばかりではあるがな」
 とくが、がも村に隠居家を構えて、一年とふた月余り。本来は、こうして季節の移り変わりをで、風雅な余生を送るためのついすみとなるはずだった。
「まったく、ずいぶんと当てが外れたものよ。いったい、誰のせいやら」
 風流にはまったく向かない己の気性が、いちばんの見当違いであるのだが、ここまで慌しい始末となったのには、他にも理由がある。
「おじいさま、ごきげんよう」
 背中から声がかかり、ぎくりとした。
「おお、か、よう来たな。今日はずいぶんと、早いのではないか?」
「うん、おじいさまに相談があってね、手習いの後、ひるを食べずに来たんだ」
 それだけで、心の臓がどきどきと打ちはじめ、嫌な予感に駆られる。
「まさか、また何か、拾ってきたのではあるまいな? 言っておくが、犬猫は駄目だぞ。うちにはすでに、シロがおるからな。それと、人もいかんぞ。すでにこの家には、二十を数える者が出入りする。これ以上は増やすゆとりなぞ、どこにもないぞ」
「嫌だなあ、おじいさま。千代太はもう九歳です。子供ではありません」
 にこにこと、実に愛らしい笑みを向ける。祖父として、目に入れても痛くないほど可愛い孫であるのだが、あいにくと千代太には悪癖がある。何でも拾ってくる癖である。
 最初は犬のしろまるだった。次いでねこを三匹、こちらはどうにか退けることができた。ほっとしたのも束の間、遂にはとうとう子供を拾ってきた。いや、千代太にしてみれば、友達として連れてきたのだ。
 最初は兄妹二人、それが六人に増え、いまや十七人である。さらにはその親の面倒にまで首を突っ込む羽目になり、優雅な余生の目算は、見事に泡となって消えせた。
 この隠居家では、『ろく』と『』、ふたつの商いを回しており、『まめどう』という手習所も開いている。
 五十六屋は、徳兵衛自身が手掛けるくみひも屋であり、千代太屋は孫たちが営む子供商いであるのだが、相談役として結構な頻度で駆り出される。豆堂は、妻のおに任せているが、費えはやはり徳兵衛が見ている。我ながらなかなかの八面ろつな仕事ぶりで、これ以上のもんちやくが入る隙間などない。
「で、千代太……相談とは?」
 怪談話をきくような面持ちで、孫にたずねる。
かんちゃんがね、このところおかしいんだ」
「なんだ、かんしちの話か。脅かすでないわ」
 思わず、どっと息をつく。勘七は、千代太が最初に拾ってきた子供、もとい親友とも言うべき仲良しである。勘七は千代太よりひとつ上の十歳、妹のなつは六歳になった。
「おかしいとは、浮かれているということか? まあ、三年ぶりに父親が帰ってきたのだからな、無理もあるまいて」
「それなら坊も心配しないよ。最初のうちはね、お父さんが帰ってきてうれしそうにしてたんだ。勘ちゃんは、素直に口にはしないけど、頰がふくふくしてたもの」
 なのにいつからか、だんだんと元気がなくなってきて、いらいらが顔や言動に出るようになった。千代太も薄々は感づいていたが、ここ数日は、あからさまになってきた。
ひようちゃんがね、やっぱりおかしいって。ちょっとしたことでみついてきたり、やたらと怒りっぽくなって勘ちゃんらしくないって」
 勘七を含む十二人の子供たちは、午前のうちはおうごんげんの境内で、さんけい案内をしている。ひようきちは仲間のひとりで、勘七とともに頭分を務めていた。
 王子権現はの名所とされ、桜で名高い飛鳥あすかやまを擁しているだけに、参詣や遊山の客でにぎわっている。自ら稼がねばならない身の上の子供たちは、広い境内を案内し、荷物持ちやら茶店の手配やらをこなし駄賃を稼いでいた。
「あれの父親が戻ったのは、七月の終わりであったから、そろそろひと月ほどが経つか」
「また一家四人で暮らせるようになって、めでたしめでたしって思ってたのに」
「そうだな、昔話のようには、いかぬものかもしれぬな」
 たいがいの昔話は、めでたしめでたしで終わるが、それはあり得ない。どんなに平穏無事に見えても、人が生きていく限り波風は必ず立つものだ。
「勘ちゃんはもしかしたら、怖いんじゃないかな」
「怖いとは、何がだ?」
「お父さんが、またどこかに行っちまうんじゃないかって。坊も父さまが行方知れずになったとき、怖かったもの」
 千代太のまゆが、悲しそうに八の字に下がった。
「たった一日で帰ってきたけれど、その後もね、父さまがいなくなる夢を何度も見たんだ。勘ちゃんは三年もお父さんと離れていたから、きっともっともっと怖いだろうなって」
 なるほどな、とあごをなでた。男の子にしては優しすぎるきらいはあるものの、人を思いやる性質は、孫の長所でもある。
「だからね、おじいさま。勘ちゃんのお父さんを、『五十六屋』で雇ってほしいんだ。お父さんとお母さんが、ここで一緒に働いていたら、勘ちゃんもあんできるでしょ?」
 五十六屋をはじめたきっかけは、勘七の母、おはちだった。夫のえのきちとともに、夫婦そろって組紐師をしていたが、さる悶着から榎吉は家族を置いて家を出た。残されたおはちは組紐仕事すらできなくなって、いっときはずいぶんと荒れていた。酌婦として雇われたものの酒浸りになり、ふたりの子供は放ったらかしだった。
 そのあいだ、小さな肩で一家を支えていたのが勘七だった。妹の面倒を見ながら、参詣案内でわずかな日銭を稼ぎ、それでも暮らしは貧しくなる一方だ。そんな生活が、二年も続いたのだ。一年前、この隠居家で、おはちが再び組紐をはじめてからは、少しずつ暮らし向きは落ち着いたものの、いまだ盤石とは言い難い。
 父親がふいに戻ったからといって、めでたしめでたしで済むはずもない。知らず知らずのうちにめていた恨みつらみがこびりつき、千代太が言うような不安もあろう。それがほんのひと月で、消えるはずもない。
 それともうひとつ、徳兵衛には気掛かりがある。勘七の苛立ちとどうつながっているかはわからないが、多少の関わりはあるかもしれない。
「ねえ、おじいさま、きいてる? 一日でも早く、勘ちゃんのお父さんを五十六屋に……」
「千代太、その話は、しばし待て」
「どうして?」
「どうしてもだ。色々と、事情ことわりがあってな。おいそれと、進められぬがある」
「しばしって、どのくらい待てばいいの?」
「だから、そうくなと言うておる。急いては事を仕損じるというからな」
「遅きに失する、とも言うでしょ? このままじゃ、勘ちゃんがいつかはじけちまいそうで、案じられてならないんだ」
 孫の予見は、見事に当たった。
 勘七が、顔にいくつもあざこしらえてきたのは、わずか半時後のことだった。


「この、ぶわっかもんが!」
 顔を見るなり、徳兵衛は容赦なく声を放った。叱ったのは、勘七ばかりではない。けんの相手は、商い仲間の瓢吉だった。ふたりを正座させ、とっくりと説教する。
「差配役のおまえたちが、よりにもよって境内でいさかいを起こすとは何事か! 墨付をもらったからというて、たるんでいるのではないか? このような不始末が重なれば、商売はおろか、出入りを禁ぜられてもおかしくはないのだぞ」
 子供たちの参詣案内は、商売敵が現れたり、やくざ者から脅されたり、関わった者がお縄になったりと、たっぷりと曲折を経たものの、王子権現の別当を務めるきんりんから、めでたく商いの墨付を得るに至った。
 いまは千代太屋の看板を掲げ、瓢吉と勘七が頭分として境内の商いを差配し、千代太は目付役として、勘定のとりまとめや商いの段取りなぞを手助けしている。
 案内商売を実で回すふたりが、境内でこうも派手な喧嘩をやらかすとは、番頭ふたりが、店先でとっくみ合いをしでかすに等しい。徳兵衛にしてみれば言語道断である。
 徳兵衛の説教は、長い上にしつっこい。あめあられのごとく文句を降らせる。
「まったく、顔に痣まで作りおって。そんな無様な姿では、商売もできんぞ。先に手を出したのは、どちらなのだ?」
「おれです、すんません……」と、瓢吉が肩をすぼめる。
 喧嘩の理由をたずねると、瓢吉は素直に語り出した。
「とびきりの上客を見つけたんだ。札差のだんでよ、しかも、わざわざあちらさんから案内をうてきたんだぜ。王子権現の境内には、評判の子供案内があるとの噂をきいたって。おれたちの名もずいぶんと上がったもんだと、喜んで引き受けたんだが、そのとき別の客もいてさ。親子のふたり連れで、そっちを勘に頼もうとしたんだ」
「そのときはおれにも客がいた。だから断ったんだ」
 畳をにらみつけたまま、むっつりと勘七がこたえる。
「勘の客は、婆さんひとりだろ。ふたり増えたって、構やしねえじゃねえか」
「てめえばかりがいいとこ取りして、余分の客をおれに押しつけようとした。瓢が札差とまとめて案内すりゃ、済む話じゃねえか」
「相手は金持ちだぞ。身を入れて世話をすりゃあ、もうけもぐんと上がるだろうが」
「上客はてめえが取って、余計はおれにふる。いかにも守銭奴らしいやり口だよな」
「勘! その言い草ばかりは、許さねえぞ!」
 はからずも諍いの再現となり、またぞろ殴り合いになりそうなけんのんな空気になる。
「やめんか、ふたりとも!」
 一喝し、ひとまずたしなめてから、勘七と瓢吉を見くらべる。
「喧嘩のわけは、了見した。勘七、何か言うことはないか?」
「何も……おれは本当のことを言ったまでだ」
 ぷい、とかたくなに横を向き、となりから瓢吉が嚙みついた。
「まだ言うか。おれは守銭奴じゃねえぞ! いや……前はちょっと、そういうところもあったけどよ。でも、いまは改心して、皆で千代太屋をはじめたんじゃねえか。だいたい、儲けは皆で分け合うんだ。だったら稼ぎが多いに越したことはねえし、だからおれは……」
 瓢吉の声がしりすぼみになって、ぐしっとはなをすする。威勢はいいが、瓢吉は案外泣き虫だ。対して勘七は強情で、泣き顔を見たのは一度きり。父の榎吉と、再会したときだけだった。
 瓢吉には、悔いと反省が素直に表れているが、勘七には殊勝な風情などじんもない。
 この顔には、覚えがある。ちょうど一年ほど前になろうか。
 懐かしさも交えて、つい視線が張りついたが、当の勘七はいとわしそうにふり払う。
「何だよ、じさま。じろじろ見るなよ」
「まるで出会った頃の、おまえに戻ったようだの、勘七」
 出ていった父親、貧しい暮らし、びんな身の上。その一切が苛立たしく、何をどうすることもできない自分にいちばん腹が立つ。当時の勘七は、とげのついた団子虫のように丸まって、からだ中で怒っていた。
 棘だらけの塊を、そっと両手で大事にすくい上げたのは、千代太だ。
 やがて母のおはちが、組紐師として五十六屋で働きはじめ、ようやく暮らしが落ち着いた矢先、父の榎吉がふいに現れた。芽生えはじめた子供の自我と、衝突を起こしてもおかしくはない。
 榎吉とおはちの夫婦には、別の懸念もある。こればかりは、他人が口を挟めぬ領分だ。
「そろそろ手習いが始まる頃合か。もうよい、行きなさい」
 瓢吉はぺこりと頭を下げたが、勘七は最後まで頑なを崩さなかった。


「まったくこの家も、ずいぶんと騒々しくなりましたねえ」
 ふたりが座敷を去ると、入れ違いにおわさが入ってきた。頰も腰回りも年相応にふくよかな女中は、息子のぜんぞうとともに、徳兵衛の世話をしている。
「ことに昼を過ぎると、このありさまですからね。まあまあ、よく声が響くこと。にぎやかにかけちゃ、りようごくひろこうですらかないませんね」
 ぼやきながら、主人の前に昼餉のぜんを置いた。
 戸口に近いひと間は、午後になると、十七人の子供の手習部屋となる。徳兵衛の座敷からは離れているのだが、かぎ形に曲がった廊下を伝って、声は存分に響いてくる。
 その声が、まるでかき消えるように、ぴたりと静まった。
「おや、お登勢さまが、お見えになったようですね」
 手習師匠は、徳兵衛の妻、お登勢である。
「それにしても、ご隠居さまとお登勢さまが、こんな酔狂をはじめるなんて。『しま』にいた頃は、夢にも思いませんでしたよ」
 徳兵衛は、がもまち上組に店を構える糸問屋、嶋屋の六代目主人であった。
 去年の三月晦日みそかに隠居して、巣鴨町の北に広がる巣鴨村に、この隠居家を構えた。
 気楽なひとり住まいは徳兵衛の望みであったが、妻が嶋屋にとどまったのは、頼りない嫁のかわりに内儀の役目を担うためである。お登勢もまた表向き、大内儀の座は退いたものの、嫁のふつつかが即座に改まるはずもなく、手習指南を終えると嶋屋に帰っていく。
 手習師匠は、若い頃の夢だった──。お登勢はそう言って、指南役を引き受けた。
「さすがはお登勢さまですねえ。野良猫さながらの子供たちが、まるで大人しくなって」
「まあ、あれは、愛想がないからな。あの子らにしてみれば、少々怖いのかもしれんな」
 何かと口うるさい徳兵衛と違って、やみに叱りつけることはしないが、喜怒哀楽のたぐいが顔に出ないだけに、妙に威厳がある。子供らもおのずと背筋がぴんと伸び、お登勢先生の前ではなかなかに気が抜けないと、ぼやく声も耳に入る。
 とはいえ、気移りしやすいのは子供の性分だ。お登勢でさえ、長らく抑えつけてはおけず、ふたたび、わあ、きゃあと、騒々しい模様に逆戻りする。
「今日は、お作法からはじめるそうですよ」
「とても作法を教えておるようにはきこえんが」
「おやつの煮豆を使って、はしの手ほどきをなされると。あの子たちのお行儀ときたら、まったく目も当てられなくて。正しく箸の使える子は、ほんのひと握りですからね」
 この手習所では、昼餉とおやつが出る。満腹にしては手習いに障りが出るからと、お登勢が師匠を始めてからは順を逆にして、昼時におやつを、手習いを終えてから遅い昼餉を出すようにした。家では満足に、晩飯にありつけない子供もいて、早い夕餉の意味もあった。
 おやつは駄菓子も多かったが、いちばん人気はおわさが拵える、舌が溶けそうなほどに甘い煮豆である。大好きな煮豆のために、不慣れな箸と格闘する子供らの姿が浮かび、ついくちもとゆるんだ。おかげで主人の膳にも頻々と煮豆が載り、今日もまた膳の真ん中を陣取っていた。
「せっかくの秋の膳だというに、の姿を見ると、何やら風情ががれるな」
「何かおっしゃいましたか?」
 いいや、といなし、箸をとる。の煮浸しに、豆腐のしめじあんかけ、根深のしると秋らしい彩りだ。おわさは料理上手で、献立も気が利いている。煮豆ごときで機嫌を損ねるつもりはない。
「組場の昼餉は、調えたのか?」
「はい、ご隠居さまのお指図どおり、先に運ばせました」
「よろしい、なにせ大食い娘がおるからの」
「おうねでございましょう。あの子の食いっぷりときたらまあ、うちの善三ですら敵いませんよ」
 組紐の仕事場には、西の座敷と、その隣の納戸をあてている。
 勘七の母、おはちと、じようしゆう桐生きりゆうから呼び寄せた、若い職人がふたり。糸割りやへいじやくなどを担う下働きがふたり。五十六屋の五人は、いずれもおなである。
 さらに今年から、見習いが五人増えた。いずれも参詣案内に関わっていた子供たちで、上の三人は十一歳と十歳、下のふたりは八歳と、職人修業を始めるには早過ぎるのだが、午後は皆と一緒に手習いをさせて、午前のみ修業をさせることにした。
「子供らの面倒は、おうねが見ておるのか?」
「いえ、面倒見のいいのは、むしろ姉のおくにですね。姉さんらしく、目端が利いて世話好きです。妹のおうねは組紐を始めると、まわりが見えない性分で。仕事の速さばかりは折り紙つきですがね」
「まあ、おうね自身、まだまだ子供であるからな。職人として不足がないだけでも、よしとせねばな」
 桐生のふたりは姉妹であり、姉のおくには十七、妹のおうねは十五である。桐生は絹の産地として名高く、機織りをはじめとして絹をあつかう職人も多い。若い姉妹も幼い頃から、組紐師である母や祖母の仕事ぶりをながめ、職人修業と同様に、自ずと技を盗みさばきを真似てきた。歳に似合わず、すでに腕前は申し分ない。
「で、おはちはどうか?」
「どう、と言いますと?」
「ほれ、亭主が帰ってきて浮ついておるとか、あるいは物思いにふけるとか、何か変わったようすはないか?」
 そうですねえ、とふっくらした頰に手を当てて、目玉を上に向ける。
 徳兵衛自身が、組場に足を向けることは滅多にない。相談があるときは、居間に呼びつけるのがもっぱらだった。なにせ十歳の男の子を除けば女ばかりであるから、居心地が悪いとの理由もある。対して話し好きなおわさは、暇を見つけてはまめに顔を出し、女同士のおしゃべりに興じる。組場のことなら、おわさにきくのが早道だった。
「そりゃあ、ご亭主が戻った折は、いかにも嬉しそうで……ですが落ち着いてからは、特には。いつもどおりの、おはちさんに見えますがね」
「そうか、いつもどおりか……」
「何か、気掛かりでもございますか?」
「いや、うん、さほどのことではない。気にせずともよいわ」
 疑うようなまなしが、ちらと注がれたが、年期の長い女中だけに、おわさもその辺はわきまえている。深追いはせず、調子を変えた。
「人を増やすにしても、手狭になりましたからね。新しい仕事場の普請が先になりますかね」
「うむ、そちらは今年のうちに目途をつけねばな」
 商い事なら何らのちゆうちよなく、即座に判じられるというのに、おはち夫婦のことはまことに気が重い。
 他者の気持ちを推し量るのは、徳兵衛にとってもっとも苦手とする領分だった。


 手習いと遅い昼餉を終えると、すでに夕刻で、子供たちは家路につく。
 勘七が隠居家を出ると、千代太と瓢吉が追ってきた。
「勘! ちょっと待て」
「何だ? まだ文句があるのか?」
「そうじゃねえ、あやまろうと思って。殴って、悪かった! すまねえ!」
 かねじやくみたいに直角に腰を折り、深々と頭を下げる。
「瓢ちゃんがこんなにびているのだから、勘ちゃん、許してあげてね」
 千代太がにっこり笑ってとりなす。この顔には、勘七も弱い。ばつが悪そうにしながらも、懸命に虚勢を張る。
「……おれは、あやまらねえぞ」
「別にいいよ。おれももう気にしてねえし」
 さばさばと瓢吉に告げられて、勘七はくしゃりと顔をゆがめた。
「何でだよ、悪いのはおれじゃねえか! 殴られるようなこと、おれが言ったんじゃねえか!」
「やっぱり勘ちゃんも、悪いとわかっていたんだね。これで、おあいこだね」
 勘七の意地と強がりが、春の雪のように溶けていく。雪の下から顔を出したのは、ふきとうのように幾重にも皮をかぶった固いつぼみだった。
 勘七が、下を向く。ごめん、と小さな声がこぼれ出た。
「おめえ、何か悩みがあるんだろ? 無理強いはしねえけどよ、語るだけでもすっきりするぜ」
「内緒事なら、誰にも言わないよ。この三人きりで、外には漏らさないと約束するから」
「本当か? たとえば、じさまとかお師匠さまとか」
「勘ちゃんが口止めするなら、おじいさまやおばあさまにも明かしたりしないよ」
「師匠はともかく、ご隠居に話すと騒ぎがでかくなるからな」
 さもありなんと、三人がうなずき合う。瓢吉と勘七の弟妹は、小さな子たちとともに先に帰して、田んぼをながめるかつこうで、あぜ道の端に腰を下ろした。
「勘ちゃんの悩みって、もしかして、お父さんのこと?」
 真ん中の千代太が、左の勘七に首をまわす。こくりと、勘七がうなずいた。
「お父さんとお母さん、仲良くしてないの?」
「いや、仲はいい。母ちゃんにも優しいし、いままで放ったらかしですまなかったって、おれやなつのことも構ってくれるし」
「じゃあ、何が不満なんだ?」と、右端から瓢吉がのぞき込む。
「不満はねえ。ただ、何ていうか、あんまり優し過ぎて、かえって噓くさくも見えてよ」
 千代太と瓢吉が、思わず顔を見合わせる。
「そりゃあ単に、慣れてねえだけじゃねえか、互いによ。おれも実は、この前、何年ぶりかで母ちゃんに会ったんだ」
「そうなの? 瓢ちゃんのお母さんて、いまどこに?」
「親父と離縁してから、別の奴と所帯をもったそうだ。いまはたかなわにいるってよ」
「おまえの方も、なかなかに難儀だな」
 勘七は気遣わしげな顔を向けたが、この件にかけてはすでに達観しているようだ。瓢吉は、あっけらかんと続けた。
「なにせあの親父だからな、おふくろが愛想をつかすのは無理ねえし、離縁となれば男子は男親につくものだろ。これも仕方がねえや」
 瓢吉の父親は、相応に腕のあるかご職人だが、色街通いの癖が抜けず、稼ぎをみんなつぎ込んでしまう。とうとう女房に見限られ、離縁に至った。
「お母さんと、なかなか会えないんじゃ寂しいね」
「さすがに、もう慣れたよ。かえって久しぶりにおふくろに会ったとき、どんな顔をしていいかわからなくてよ、互いにぎくしゃくしちまった」
 勘七と父親もまた、未だに間合いが測れず、戸惑っているのではないか。瓢吉は、その見当を口にした。
「それも、ある……でも、それだけじゃねんだ。父ちゃんが気味悪いくらい優しくなるのは、決まって『てら』から帰ってきたときなんだ」
「寺野屋って?」と、千代太が問う。
ぞうにある小間物問屋だ。いまはその店から注文を受けて、組紐を拵えてるって」
「じゃあ、お父さんもずっと、組紐師をしていたんだね」
「日雇いなぞもしていたそうだけど、結局はそれしか稼ぎようがねえからな」
 雑司ヶ谷には、職人修業をしていた頃の兄弟子がいて、そので寺野屋から注文を受けるようになったという。
「明日も父ちゃんは、寺野屋に品を届けにいく。だから、おれ、後をけてみようかと」
「雑司ヶ谷に何があるのか、確かめようってわけか。それなら、おれもつき合うぜ」
「参詣案内はいいのか? 瓢までいなくなりゃ、まとめ役がいねえぞ」
「だったら明日は、ふたりの代わりに坊がそのお役を務めるよ」
「おめえは朝から、手習いがあるだろ?」
「実で商いを学びにいくって言えば、母さまは許してくれるよ」
 千代太が言って、話は決まった。明日の約束を交わして、三人は別れた。


「父ちゃん、行ってくら」
 家を出しな、勘七は父に声をかけた。父の榎吉も、朗らかに返す。
「おう、精が出るな。行っといで」
「父ちゃん、今日帰ったら、お猿さんホイしてね」
 勘七に手を引かれた妹のなつが、父にせがむ。お猿さんホイとは、高い高いをしながらホイッと一瞬、子供のからだを宙に浮かせる遊びだ。
「お猿さん──ホイッ!」
 なつは確かに、猿のようにすばしこい。榎吉の掛け声が気に入って、なつの中ではお猿さんホイとして定着した。妹を横目でながめながら、内心ではちょっとうらやましい。
「おまえもやるか?」と声をかけられたが、
「いいよ、もう子供じゃねえから」と意地を張ったことを、ひそかに悔やんでいる。
「気をつけて行っといで。もう喧嘩なんか、しちゃいけないよ」
 奥で出掛ける仕度をしながら、母のおはちがくぎをさす。おはちは子供たちと相前後して、隠居家の仕事場に出掛ける。瓢吉と派手にやり合ったのは、昨日のことだ。
「もうしねえよ」と応じると、四畳半の座敷から、母親が笑顔を返す。何故だか、胸がつきりと痛んだ。
 四畳半の座敷に、台所と土間で、合わせて一畳半ほど。いわゆる九尺二間の長屋に、親子四人が暮らしている。多少窮屈ではあるが、元の住まいにくらべれば夢のようだ。
 以前はこの半分ほどの、立ち腐れたような家だった。今年の四月の火事で、きれいさっぱり燃えてしまい、勘七はなんだか清々した。その家には、つらい思い出ばかりがこびりついていたからだ。焼けてしまった巣鴨町下組と下仲組の東側には、三月もすると小ざっぱりとした長屋がいくつも建てられて、一家はそのひとつに落ち着いた。
 前よりも広い上に、ぴかぴかの新築で、柱や青畳の香がかぐわしい。家賃は前よりも上がったが、ちょうどおはちの拵える組紐が売れてきた頃合と重なって、お金の心配もせずに済んだ。
 母子三人で新居に移り、ようやく落ち着いた頃だった。父の榎吉が、三年ぶりに帰ってきた。もちろん、母もなつも、そして勘七も、喜んで榎吉を迎え入れた。勝手を通してすまない、苦労をかけてないと詫びる父を、誰も責めたりしなかった。
 これでまた、昔のとおり一家四人で暮らせる。めでたし、めでたし──。
 のはずなのに、この胸のもやもやは、落ち着きの悪さは何だろう?
 戸口から一歩外に出て、勘七はもう一度ふり返った。
「父ちゃんも、今日は寺野屋に行く日だろ? 戻りはまた、遅いのか?」
 とたんに父が、勘七から視線をらす。
「いや、そうだな、そんなに遅くはならねえと……おめえたちが戻る、日暮れ時には帰るさ」
「帰ったら、お猿さんホイだよ、父ちゃん」
「わかったわかった、約束するよ」
 妹に向けるとびきりの笑顔すら、噓くさく見えてくる。
「行くぞ、なつ」
 両親に手をふる妹の手を、いつも以上に強く引いた。


「兄ちゃん、なに怒ってんの?」
「別に。怒ってねえ」
「変な顔だから、怒ってんの? 瓢ちゃんと、喧嘩なんかするからだよ」
 妹に言われて、表通りに出る前に立ち止まった。
「痣、まだ目立つか?」
「昨日よりは、だいぶまし。でも、こことここは、まだ紫色」
 勘七の左目の下と左顎を、なつが指さす。家には鏡なぞないから、確かめようがない。いちばん貧乏だった頃、他の家財と一緒に売ってしまった。母は一時、濃化粧をして酒場で働いていたが、化粧は店でしていたし、徳兵衛の隠居家で組紐仕事を始めてからは紅すら差さなくなった。
「鏡……か。っさくてもいいから、買ってやりてえな。おれのもらいで足りるかな。そもそも鏡って、いくらすんだ?」
 ぶつぶつと呟きながら、ひとまずなかせんどうを西に行く。巣鴨町は、上組、上仲組、下仲組、下組の四町からなり、中山道に沿って、西北から東南へと細長く延びていた。
 考えに耽っていたから、巣鴨町のちょうど中程で、どん、と背中をたたかれて驚いた。
「はよ! なんだなんだ、けた顔して」
「なんだ、瓢か。脅かすなよ」
「何べんも声をかけたのに、すたすた行っちまったのは勘じゃねえか。にしても、ひっでえ面だな」
「いや、おまえも、人のこと言えねえぞ」
 妹のなつと、瓢吉の弟のいつろうが、しげしげとふたりの顔を見くらべる。
「兄ちゃんと瓢ちゃん、顔がおそろいだよ」
「ホントだ。痣の場所がおそろいだ」
 瓢吉の顔にも、昨日、勘七がつけた紫色の痣が残っていて、しかも痣の場所は、左目の下と左顎だ。
「……悪いと、思ってる」
「お互いさまだろ、気にすんなって」
 瓢吉が、にっかりと歯を見せる。涙もろくて気のいいところが、瓢吉の長所だ。
「それより、おやっさんは? 今日間違いなく、雑司ヶ谷に出掛けるのか?」
「ああ、ちゃんと確かめてきた。たぶん半時くらい遅れて、家を出るはずだ」
「よし、じゃあ、はず通りに後を尾けるぞ。これって、隠密みてえだな」
 父の榎吉もまた組紐師であり、いまは雑司ヶ谷にある小間物問屋、寺野屋から注文を受けている。榎吉は家で紐を組み、五日に一度ほどの割合で、寺野屋に品を納めにいく。
「そもそも、通いが多過ぎると思うんだ。前に『なが』の仕事をしていた頃は、品納めは月に一度がせいぜいだった」
「罪滅ぼしのために、いっぱい仕事取って、いっぱい稼ごうって腹じゃねえのか?」
「父ちゃんも、そう言ってる。でも五日じゃ、あまりに短い。父ちゃんの行先は、寺野屋ばかりじゃねえのかなって」
「そうか……なら、その行先とやらを突き止めて……」
「兄ちゃあん、兄ちゃあん!」
 突然上がった逸郎の悲鳴が、相談事に水を差す。
「どうした、逸?」
「なつの奴が蟬を……うわあ、嫌だあ、こっち来んな!」
「こわくないよ、可愛いよ! ほら、逸郎、この羽とかきれいだよ」
 蟬をつかんだなつが、逸郎を追いかけまわしている。
「もう秋なのに、まだ蟬がいたのか。めずらしいな」
「秋蟬だろ。境内の林でも声がするからな。逸は、蟬だけは苦手でなあ。小さい頃に、顔の上で蟬に暴れられてな。以来、蟬には寄り付かねえ」
「そういうことか。おい、なつ、やめてやれ。逸郎は蟬が嫌いなんだとよ」
「どうしてえ? 蟬が怖いなんて、変なの。逸ちゃんは弱虫だなあ」
「なつの方こそ、猿女じゃねえか! 猿女! 猿女!」
「弱虫! 弱虫!」
 収拾がつかなくなってきた。兄同士が、やれやれとため息をつく。
「逸はたしかに、男のくせに甘ったれでな。いつまでたっても兄ちゃん兄ちゃんで」
「なつもいい勝負だ。なにせおれより、男勝りなところがあるからな」
 ふたりがぶつかるのは、いつものことだ。最近とみに増えてきたが、喧嘩の種があまりに他愛ないために、止める気もおきない。
「こうしてはたで見ると、喧嘩ってくだらねえな」
「おう、おれたちは、もうやめようぜ」
 同じ場所に痣のついた顔で、うなずき合った。その後もまた、別の件でひと悶着した。
「どうして兄ちゃんは、境内に行かないの?」
「だからおれたちは、用があるんだよ。今日はおまえたちだけで……」
「いやだあ、なつも兄ちゃんと一緒に行く!」
「おれも兄ちゃんと一緒がいい。連れていってよお」
 駄々をこねるときだけ、息を合わせるのだから始末が悪い。道の真ん中で往生していたが、幸い助け船が現れた。
「おはよう、朝からにぎやかだね」
「あ、ちいちゃん!」
「嶋屋で待っていたんだけど、なかなか来ないから迎えにきたんだよ」
 巣鴨町の西の端にあたる上組には、千代太の家である糸問屋、嶋屋がある。
 去年の三月まで、徳兵衛のご隠居が主人を務め、いまは千代太の父、きちの代になっていた。
「来てくれて助かった。こいつらがごねて、始末に負えなくて」と、瓢吉が訴える。
 千代太はにっこりと微笑んでから、なつと逸郎の前でぺこりと頭を下げた。
「今日は参詣商いを、逸ちゃんやなっちゃんに教えてほしいんだ。どうぞよろしくね」
「え、おいらたちが?」
「ちいちゃんに、教えるの?」
「うん、頼めるかな?」
「おう、いいぜ! 任せとけ!」
「なつも! なつもちいちゃんの師匠になる」
 たちまちころりと機嫌が直る。嶋屋で弟妹たちを、千代太に託す手筈になっていた。
「ふたりとも、気をつけてね」
「そっちも、ちびたちの面倒任せたぞ」
「おい、急ごうぜ。だいぶ手間取っちまった」
 中山道を西へと向かう三人を見送って、瓢吉と勘七はきびすを返した。大急ぎで、いま来た道を戻る。中山道を南に折れて、下組と下仲組の境の道に入る。この辺は、ますがた横丁と呼ばれている。横丁が途切れる辺りに、大きな木があって、その陰に身を潜めた。
「親父さんは、本当にこの道を通るんだろうな?」
「うん、前にきいたから間違いないと思う」
 だが、しばらく待っても、父の姿は現れない。子供の常で、待つのは苦手だ。
「おれたちがもたついている間に、先に出ちまったんじゃないか?」
「もしかしたら、別の道を行ったのかな……」
「おれがおまえの長屋に行って、ようすを見てこようか?」
「待て! 来たぞ、父ちゃんだ!」
 しき包みを手にした榎吉が、ふたりが潜む木の前を通り過ぎる。
 垣間見えた横顔が、思い出し笑いをするように弛む。何故だか、嫌な予感を覚えた。
「行くぞ」と、小声で瓢吉に促され、勘七は父の姿をとらえて歩き出した。


 巣鴨町下組の南側は、狭い町屋としようろくの武士の屋敷が、木目込み細工のように入り組んでいる。やがて道の両側は田畑ばかりになり、身を隠す場所がなくて難儀したが、息子に尾けられているとは、夢にも思わないのだろう。榎吉は一度もふり返ることなく、いし川に架かる橋を渡り、田舎道を西南の方角に向かった。
「ちぇ、親父の奴、人の気も知らねえで。のんな風情でいやがって」
 実りを迎えた黄金色の田んぼをながめたり、前を横切った赤トンボをいつまでも見送ったりしながら、のんびりと歩いている。つい、舌打ちが出た。
「なあ、勘、親父さんの行く場所に、何か心当てはねえのか?」
「ねえからこうして、尻にくっついてんじゃねえか」
 苛々と返す勘七を、瓢吉は横目でながめる。
「もしも……あくまでもしもの話だが……行先が女のところだったら、どうする?」
 心配という的の、ど真ん中を貫かれたような気がした。思わず瓢吉をふり向く。
「すまん、そんな顔すんなって。勘は案外、だからよ。心構えさせた方がいいかと」
 嫌味でもからかいでもなく、瓢吉の顔は、本気で勘七を案じている。
「うちの親父みてえなクズではないにせよ、親父さんだって男だろ? 三年のあいだに知り合った女がいても、おかしくねえからよ」
 はっきりと口にされて、ここしばらく胸の中に漂っていた黒いもやもやの正体が、日の下にさらされたような気がした。母の他に、女がいるのではないか。こうも頻々と雑司ヶ谷に通うのは、女と会うためではないか──。その不安が、消えなかった。
「もし、そうだとしても、親父さんをあんまり責めんなよ」
「黙って、見過ごせっていうのか?」
「そうは言ってねえ。騒ぎ過ぎんなってことだ。下手を打てば、泣くのはおまえの母ちゃんなんだぞ」
 思わずひるんだ。母は何も知らないはずだ。ずっと苦労のし通しだった母だけは、これ以上、悲しませたくない。
「……どうすればいい?」
「ここでこのまま引き返すのも、ひとつの手だぞ。真実まことを知っちまえば、見て見ぬふりもできねえし……おい、曲がったぞ」
 榎吉が田舎道を、南に曲がった。町屋を過ぎて、えらく見通しがよくなったから、そのぶん距離をあけている。父の歩く道の向こうに、大きな寺の屋根が見えた。
「あれはたぶん、こくだ。だいぶ前だが、親父に連れられておとちように行ってな」
 ふたりがいるのは護国寺の東の裏手にあたり、寺の正面に長く延びたなりみち沿いに音羽町がある。榎吉は、そちらに向かっているようだ。
「まずい、少し詰めようぜ。寺の門前はえらい人出だからな、このままじゃ見失っちまう」
 引き返すかどうか、じっくり考える間もなかった。瓢吉が言ったとおり、町屋に近づくごとに人波は増え、護国寺前はたいそうな混みようだった。それでも王子権現で慣れており、はしっこさが売りのふたりだ。周囲の大人の陰に隠れて、つかず離れず後を追う。
「おい、店に入ったぞ。あそこが目当ての小間物屋か?」
 榎吉は、護国寺の山門からほど近い、一軒の店に入っていく。そろそろと近づいて、中を覗く。榎吉は店のかまちに腰掛けて、手代らしき男と話をしている。
「おい、あの看板」
「ああ、小間物屋ではなさそうだ」
 少し難しい字で、習ったわけではない。それでも子供なら、誰もが知っている。
 まさか──。その考えが胸をかすめたとき、おぞふんが同時に込み上げた。
 榎吉は、その店でひとつの品を買った。それから少し道を戻って、護国寺前を過ぎてさらに西へ行く。
 雑司ヶ谷は、じんで有名ながらまだまだ田舎地で、田畑の広がる村のあちこちに町屋が点在する。巣鴨の景観も似たようなものだ。後になって知ったが、榎吉が向かっていたのは、しもぞうだった。鬼子母神の堂からは少し離れていて、町屋がいくつか固まっている。
 ほどなく榎吉は路地に入った。ひどく入り組んだ道を、勝手知ったるようすで奥へ進む。榎吉の姿が横に逸れ、長屋の木戸の内に吸い込まれた。
「おーしゃん! おーしゃん!」
 ふいに、高い子供の声がした。中を覗くと、三つくらいの幼い女の子が嬉しそうに駆け寄ってきて、父がその子を抱きとめる。
「はる! いい子にしてたか?」
 父が名を呼んだとき、頭を殴られたような気がした。
 ──。単なる偶然だろうか? ふらふらと足が前に出た。こちらに背を向けているから、父は気づかない。父の肩越しに、はじけるようにまぶしい子供の笑顔が見える。
「今日は土産をもってきたぞ。ほら、はるの大好きなうさぎさんだ」
 父が音羽町で立ち寄ったのは、玩具おもちや屋だった。赤い着物を着た兎の土人形に、のどを鳴らして子供が喜ぶ。
「榎さん、来てくれたのね。まあまあ、お土産まで。よかったわね、はる」
 母よりも若い女が出てきて、傍らにより添う。仲むつまじい親子三人の姿は、絵のようにさまになっていた。
「おーしゃん、ホイちて!」
「ようしよし、ほうれ、お猿さん──ホイ!」
 高く抱き上げた子供を、ホイ、と宙に浮かせる。キャッキャと喜ぶ子供の顔が、妹のなつに重なって、かんにんぶくろが、十本くらいまとめて切れる音がした。
「そういうことかよ……この、クソ親父!」
 父がふり返り、子供を抱いたそのままの形で固まった。驚きで見開かれた目が、悲しげな色をにじませる。
「勘、七……」
「もういい! もう帰ってくんな! おれの父ちゃんは、三年前にいなくなった。それで十分だ」
「勘七、これにはわけが……」
「言い訳なんざ、ききたかねえ! 二度とおれたちの前に現れるな! 今度その面見せたら、ぶん殴ってやるからな!」
 腹に溜まったものを吐き出しても、少しもすっきりしない。黒い霧のようだったもやもやが固まって、鉄の塊みたいにと重くなって喉をふさぐ。
 それ以上、情けなくうろたえる父の姿を見たくなくて、くるりと向きを変えた。
「あ、おい、勘、待てって!」
 瓢吉が、慌てて後ろから駆けてくる。勘七を追ってきたのは、瓢吉だけではなかった。
 大きな子供の泣き声が、いつまでも背中に張りついてがれなかった。


「ええっ! そんな大変なことに?」
「そうなんだ。さすがのおれも、慰めようがなくってよ」
「で、勘ちゃんは、いまどこに?」
「境内までは一緒に来て、いまはボロ堂の縁でふて寝してるよ」
 王子権現の境内に戻った瓢吉は、散々な首尾を千代太に明かす。
 ボロ堂とは、王子権現の広い境内の隅にある古びた堂のことだ。いまは使われておらず、参詣案内の合間に休み処にしたり雨宿りをしたり、徳兵衛の隠居家に集う前は、相談場所として子供たちに重宝されていた。
「いまは声かけない方がいいぞ、よけいに意固地を招くだけだ」
「勘ちゃんたち、これからどうなるのかな?」
「まあ、親父さんしだいだが、案外あっちにとどまるかもしれねえな。幸せそうにんでいたからな」
「おじいさまの、言ったとおりだった。昔話のように、めでたしでは終わらないって」
 千代太の短い眉が、悲しそうに八の字に下がる。
「大人ってのは、つくづく勝手だよなあ。ふりまわされる子供の身にも、なれってんだ」
 生きることに精一杯で、子供が思っているほど、大人には余裕がない。気づくのは、自分たちが大人になってからだ。それまで力のない子供たちは、大人の都合につき合うよりほかにすべがない。
「やっぱり、勘ちゃんのところに行ってくる。瓢ちゃん、商いと小さい皆を頼めるかな?」
「それはいいけどよ、いま行ったって無駄だと思うぞ」
「でも、行ってくる!」
「ああ、ちょっと待て。千代太は滅多に境内に来ねえから、ボロ堂の場所知らねえだろ」
 案内人として、逸郎をつけて送り出す。
「にしても、足遅えな、あいつ。逸郎にも負けてるぞ」
 瓢吉の見当よりだいぶ遅く、ふたりの姿は林の奥に消えた。


 木々の合間に、堂のかわら屋根が見えてきたところで、礼を言って案内人の逸郎を帰した。
 たしかに古びた堂で、いまは使われていないようだが、手入れはなされているらしく、四方の壁に破れはなく、扉は固く閉ざされていた。
 狭い縁から二本の脚がはみ出して、ぶらぶらしている。千代太は正面の階段から上って、勘七から腰ふたつぶんあけて、腰を下ろした。
 勘七は頭のてつぺんを堂の壁にくっつけて、組んだ両手を枕に仰向けに寝転がっている。千代太が顔を覗いても、見向きもしない。勘七の真似をして、仰向けにからだを伸ばし、ひざから下をぶらぶらさせる。
 堂の屋根越しに見える空は、夏にくらべて色が浅く、高く抜けている。そのぶん少し、素っ気なくも見えた。
 千代太から顔を背けるように、勘七は横を向く。
「何しに来た?」
「昼寝だよ」
「瓢吉から、きいたんだろ?」
「きいた。ここひんやりして、気持ちいいね」
 林の中の坂道を上ったり下りたり、千代太にとってはなかなかに難儀なみちのりだった。たっぷりと汗をかいたから、日陰になった縁が背中に心地いい。
「おまえが何と言おうと、おれは親父に頭を下げるつもりはねえぞ」
「うん、わかってるよ」
「詫びるつもりもねえし、帰ってきてくれと頼むつもりもねえ。今度ばかりは、悪いのは向こうだからな」
「そうだね」
「だったら、何しに来た?」
「だから、昼寝だって」
 風が思い出したように梢を揺すり、その合間にチッチと鳴く声がする。鳥の声にも似ているが、秋蟬のようだ。目を閉じて、しばし耳を傾ける。
「今日はね、ずうっと勘ちゃんにつき合うよ」
「何だよそれ、うつとうしい」
「へへえ、そうかなあ」
 いま行っても無駄だと、瓢吉は言った。その無駄にとことんつき合おうと、千代太は決めていた。邪険にされる覚悟もしていたが、追い払う素振りはしない。それだけで、千代太の胸に安堵がわいた。
「ここで一緒に昼寝して、それから遊んで、手習いも怠けてしまおうか。お昼はどうしよう……あっ、そうだ。境内に行くって言ったら、皆で駄菓子でも買いなさいって、母さまが小遣いをもたせてくれたんだ。これでうどんとかおとか、お饅頭まんじゆうやお団子も買えるよね?」
 勘七が、くるりとからだを回し、こちらを向いた。
「悪かねえけど……おまえとふたりで、何して遊ぶんだ? 蛙釣りや蜻蛉とんぼ釣りは……」
「ごめん、蛙や虫は苦手で……双六すごろくや歌留多はどう?」
「字は苦手でなあ。他に遊びといやあ、たがまわし、竹馬、べい、根っ木ってとこか」
「ひとつもやったことない。意外と合わないね」
「まったくだ、おれも初めて気づいた」
 顔を見合わせて、互いに笑いが込み上げた。
「そういや、遊ぶ暇なんて存外なかったしな。商いと手習いで手一杯だった」
 と、勘七は、顔を戻して空を見上げた。
「父ちゃんが帰ってきて、少しは楽ができそうにも思えたのにな。当てが外れた」
「勘ちゃん……」
「別にいいさ、もとの暮らしに戻るだけだ。いまはおまえや瓢や皆がいるから、それも悪くねえと……」
 あいにくと感慨には長く浸れず、瓢吉が息せき切って駆けてきた。一緒にいるのは、てるである。以前は参詣案内の仲間のひとりだったが、今年から隠居家で組紐師の修業をはじめた。門前町に使いに出されたついでに、境内に寄ってみたという。
「いまよ、てるからすげえ話をきいて、知らせに来たんだ」
「別にたいした話じゃないよ。勘七のお父さんが、ご隠居を訪ねてきたってだけで……」
「何だって! 父ちゃんが?」
「それ、本当なの、てるちゃん?」
「な、な、すげえ話だろ?」
「勘ちゃん、とりあえず、おじいさまのところに行ってみようよ」
「そうだよ、勘、大事な話をきけるかもしれねえだろ。もちろん、おれも行くぞ」
 わかった、と勘七がうなずいて、三人がいっせいに走り出す。
「あ、ちょっと、あんたたち!」
「すまねえ、てる姉、ちびたち連れて追いかけてきてくれねえか。頼んだぞ!」
 千代太の手を引っ張りながら、ふり返りざま瓢吉が叫んだ。勘七はすでに先に行っている。
「男って、どうしてああも身勝手なんだろ」
 てるは腰に両手を当てて、大きなため息をついた。


「この、ぶわっかもんが!」
 去年、還暦を迎えた徳兵衛にしてみれば、子供もその親も大差はない。勘七に落とした雷を、父親の榎吉にも容赦なくお見舞いした。
 榎吉は先ほど、ふいに隠居家を訪ねてきた。ひどく深刻な顔で相談事があると告げ、そのくせ座敷に向かい合うと、なかなか切り出そうとしない。
『五十六屋』の組紐商いはどんなあんばいかとか、自分はいまは羽織紐やきんちやく紐を組んで、雑司ヶ谷の寺野屋に納めているとか、とうに知った話ばかりをくり返した挙句、短気な隠居に急かされて、ようやく本題に入った。しかし相談のかなめにかかる前に徳兵衛は頭に血が上り、馬鹿者と怒鳴りつける運びとなった。
「妻子と離れていたあいだ、の女とねんごろになり、それを勘七に知られてしまったと。とどのつまりはそういうことか」
 ずけずけとした物言いは徳兵衛の性分だが、色恋が絡むと嫌悪が先立つだけに、ぜつぽうはいっそう鋭くなる。嫌悪とは苦手の裏返しであり、不得手だからこそやっかみも混じってくる。遠慮会釈なくやり込められて、榎吉は肩をすぼめた。
「まったくもってだらしのない。男の甲斐性なぞとうそぶくやからも多いが、妻子すらまともに養えぬ者が大言を吐くでないわ。言うておくが、養うとは金のことばかりではないのだぞ。どんなお大尽であろうと、妻子の気持ちの安寧も含めて養わねばならんのだ。わしなぞこの歳まで、浮気のうの字もしたためしがなく……」
 しなかったのではなく、できなかったものだから、ついつい恨みがましい調子になる。妻子の気持ちうんぬんに至っては、徳兵衛自身まったくのとんじやくであるのだが、自分のことはひとまず横に置くのが年寄りの厚かましさである。
 長々と説教を垂れてから、肝心要のところを確かめた。
「三つになるというその幼子は、榎吉、おまえの子か?」
「いや、違いやす! それっぱかりは神仏に誓って。はるの、あの子の父親は……」
「その子の名は、はるというのか。なつとはまるで、姉妹のようではないか」
「そいつも、たまたまなんでさ。逆に、はるを見てるとなつを思い出しちまって、ついつい放っておけず、何かと構うように……」
 ちらちらとまたたく木漏れ日のように、ひどく複雑な光と影が、うつむいた顔の上によぎる。この手の込み入った話は、徳兵衛には荷が重い。それでも話だけはきかねばなるまいと、初手から語るよう促した。
と出会ったのは、寺野屋です。おきをは袋物を縫っていて、たまたま品納めの折に鉢合わせしたのが始まりでやした」
 榎吉の組んだ紐を寺野屋から受けとって、おきをは巾着に仕上げていた。その縁で話が弾んだが、榎吉の目を引いたのは、背中に負ぶわれた赤ん坊だった。
「生まれて半年ほどでしたが、女の子ときいて、どうにもなつに重なって……以来、たまに店で顔を合わせやしたが、ただそれだけで」
「仲が深まったのは、いつ頃からだ?」
「翌年、おきをの亭主が病で亡くなったんでさ。三月ばかり顔を見ないなと気になっていやしたが、亭主が患っていたようで。久方ぶりに顔を合わせたときには、えらくやつれていて驚きやした」
 おきをの亭主はりで菜売りをしていたが、病を得て三月後に他界した。看病疲れと亭主の死で、げっそりとしたおきをを放っておけず、また幼くして父親を失った赤ん坊も気がかりだった。
 最初は親切のつもりで、困ったことがあれば何でも言ってくれと告げて、おきをもやがて榎吉を頼るようになった。男女の仲になったのは、半年ほど前だという。赤ん坊だったはるは、実の父親を覚えていない。榎吉を父のように慕い、数え三つを迎えた。
「そのまま、その親子のもとに留まろうかと、そんな心積もりもあったのではないか?」
「なかったと言えば、噓になりやす。おきをには、別の心安さもありやしたから」
「その女子は、組紐職人ではないからな」
 図星を指されて、ひどく情けなさそうに輪郭をゆがめた。
「ご隠居さまは、すべてご承知だと、長門屋の旦那さんから伺いやした。お察しのとおりでさ。女房の腕がてめえより上だと認めるのがしやくで、おれは逃げ出しやした」
「組紐の腕は、おまえの方が勝っておろう」
「色の合わせや模様の妙では、おはちに敵いやせん。それがもう、どうにも収まりがつかなくて」
 同業というのは、厄介なものだ。親子、兄弟、そして夫婦。いずれも親や兄や夫の方が上であれば悶着も少ないが、立場が逆さになると、とたんにぎすぎすしてくる。中でも夫婦は最たるものだ。男はおしなべて、女房より上に立とうとするからだ。
 同じ仕事で、女房の下に甘んじる。その苛立ちや不甲斐なさがいかに激しいものか、徳兵衛とて理解できる。ほかならぬ女房のお登勢が、皆に頼りにされるしっかり者であるからだ。ふいと浮かんだやきもちを払うように、ごほん、とひとつせきばらいする。
「それで、榎吉、おまえはどうするつもりなのだ? 言うておくが、半端は許さぬぞ。どちらかひとつ、えらばねばならない」
 榎吉の中では、すでに決まっているはずだ。おきをとはるを忘れ難いからこそ、雑司ヶ谷に足が向き、それがこたえではないか。後に残していく勘七となつ、そしておはちを、どうかよろしく頼む。とは、つまりは後顧の憂いを断つためだろうか。
「あっしも、腹を決めやした。いや、とうに決まってた。これからは……」
 と、ふいに、高い鳥の声が、さえぎるように響いた。鳥ではなく、人の泣き声だと悟るのに、しばしかかった。腰を上げ、声が漏れてくるふすまを開けた。
「おはち……きいておったのか」
 畳に突っ伏すようにして激しく泣きじゃくる、おはちの姿があった。その横でお登勢が、なだめるようにその背をでる。
「お登勢、盗み聞きとはいただけないな」と、つい顔がしかまる。
「すみません、本当は、一緒に話をきくために座敷に赴いたのですが……」
 中の話が漏れきこえて、声をかけるのをためらってしまったと言い訳する。
 榎吉の来訪を、女房に知らせたのは女中のおわさであり、おはちはちょうど隠居家を訪れたお登勢に断りを入れて、ともに徳兵衛の居室に来た。
「おい、そう泣くでない。まずは榎吉の話を……」
「きかなくとも、わかります。そのひとのもとへ行くと言うのでしょ? あたしには、止められない。だってあたしも、裏切っていたのは同じだから!」
 え、と榎吉の表情がこわばった。泣き伏す妻の姿を、まじまじと見詰める。
「おまえ、男がいたのか……?」
「いや、榎吉、そうではない。おはちは決して浮気なぞ……」
「ならば、本気でれた男がいたってことですかい? 参ったな……そんなこと、露ほども疑わなかった」
 この手の修羅場や愁嘆場は、もっとも不得手な領分だ。徳兵衛のよけいな一言で、ますます話がややこしくなる。しっかり者の妻ですら、この場は如何いかんともしがたい。おはちが言う裏切りの正体を、何も知らないからだ。
 しかし当のおはちが、ゆっくりと身を起こした。たもとで涙をぬぐい、夫の方に顔を向ける。
 さっきとは打って変わって落ち着いていたが、その目にあるのは、悲しいまでのあきらめだった。
「浮気なら、まだ可愛らしかった。あたしはいっとき、酌婦として色を売っていたの」
「な……!」
「いままで言い出せなくて、ごめんなさい。告げたらきっと、また幸せが壊れてしまう。勘七やなつを、また悲しませてしまう……だから、言えなかった」
 榎吉は、がくぜんとしたまま、何も返せない。まるで空気に鉄が交じっているような、重苦しい沈黙が座敷に立ち込める。
「本当は、少し前から気づいていたんです。雑司ヶ谷に足繁く通うのは、品納めのためだけではないと……もしかしたら、いい人がいるのかもしれないって」
「おはち……」
「どうぞ、心置きなくその女のところへ行ってください。それより他に、詫びる手立てがないから……」
 ふたたび涙があふれ、袂に顔をうずめる。まずいことに、その折に勘七が現れた。
 外から走ってきたようで、息を切らして縁の外から中を覗き込む。たちまち頰が、怒りで紅潮した。
「母ちゃんを、泣かせるな!」
「これ、勘七!」
 大人の話に首を突っ込むなとたしなめるつもりが、まるで聞く耳をもたない。かんしやくだまが弾けるように、存分に父に向かって怒りをぶつける。
「母ちゃんはずうっと泣き通しだったんだ! 母ちゃんのせいで、父ちゃんが出ていったって、ずっとずっと泣いてたんだぞ! これ以上泣かせるなら、親父なんていらねえ! どこへでも、行っちまえ!」
 理由は違えど、しくも妻と子から、同じ処しようを告げられた。
 何も考えられぬまま、からだが勝手に動いたように、榎吉はふらりと立ち上がった。下手な操り師の人形のように、ぎこちなく頭を下げて座敷を出ていく。
 入れ替わりに、外から千代太と瓢吉が走ってくる。孫の手が、縁にかかると同時に、ふたたび高い鳥の声に似た、おはちの泣き声が響いた。


「ねえ、おじいさまあ、ねえったら、ねえ」
 あの修羅場から五日が過ぎて、暦は九月に変わった。
 あれ以来、榎吉は妻子のもとには戻らず、おはちは辛うじて組場には通ってくるものの、
「心ここにあらずだで、組んではほどきのくり返しで、ちっとんべえ進まね」
 職人のおうねからは、困り顔で告げられた。仕事の滞りも頭の痛い話だが、それ以上の難題を、毎日、千代太に迫られるのには、ほとほと困り果てた。
「いい加減にせぬか。夫婦のことばかりは、わしにもどうにもできぬと言うたであろうが」
「でもこのままじゃ、勘ちゃんとお父さんは、二度と一緒に住めないんだよ。そんなの嫌だよ」
「父を追い出したのは、当の勘七であろうが」
「本当は勘ちゃんも、悔いているんだよ。だってあれからずっと、機嫌が悪いもの」
 おはちは抜け殻のようなありさまで、なつは父恋しさに駄々をこねる。家の中は散々だと、さすがの勘七もこぼしているという。
「だからといって、どうにもしようがなかろう。ここまでこじれてしまっては、打つ手がないわ」
「おじいさま、坊はね、妙案を思いついたんだ」
 千代太に笑顔を向けられたとたん、ざわりと寒気がした。孫の妙案のおかげで、どれほどの骨折りを強いられたか、思い出すだけで恐ろしい。耳を塞ぎたい衝動を抑えて、精一杯の威厳をもって、妙案とやらをたずねた。
「とっても容易たやすいことだよ。勘ちゃんのお父さんを、雑司ヶ谷まで迎えに行くんだ」
「迎えにというても、誰が?」
「もちろん、おじいさまと千代太だよ」
「どうして、わしとおまえが? 赤の他人であろうが」
「おじいさまは、世話役で相談役だもの。長屋で言えば、大家さんと同じでしょ? 悶着が起きたら、出張っていって事を収めるのが役目だときいたよ」
「ならば、千代太の役目は?」
「おじいさまのつきそいと、勘ちゃんの代わりを務めようと。行先もね、瓢ちゃんにちゃんと確かめてあるんだ。だから、ねえねえ、おじいさま、行ってくれるでしょ?」
 千代太のは、にかわなみにしつっこい。諾とこたえるまで、十日でも二十日でもひと月でも、同じが延々と続くのだ。五日目で腰を上げたのは、英断と言えよう。
 その日の昼餉を終えると、徳兵衛は孫とともに雑司ヶ谷へと向かった。
「本当は、勘七を伴いたいところだが、そればかりはかなわぬな」
 あぜみちを行きながら、ついぼやきがこぼれた。意地っ張りで強情な勘七は、素直な気持ちを口にできない。徳兵衛もまた同じ性分だけに、手にとるようにわかり、よけいに胸が痛んだ。しかし千代太は、にこにこと祖父を仰ぐ。
「大丈夫、お父さんの声は、きっと勘ちゃんにも届くよ」
 徳兵衛にはさっぱりみ込めなかったが、上機嫌な孫とともに田畑の中の道を歩いた。


「おじいさま、早くう。もうすぐ長屋に着くよ」
 田畑を抜けて、護国寺の前を過ぎると、とたんに足が重くなった。向こうには、相手の女がいる。またぞろ修羅場と化すのではないかと、気がる。
 けれども、徳兵衛の見当は、大きく外れた。
 下雑司ヶ谷の、おきをとはるが住まうという長屋に行ってみると、木戸の外に大八車がとまっていた。ふたりの男が家財道具らしき荷を積んで、縄をかける。男のひとりが、木戸の内に向けて怒鳴った。
「おきをさーん、これでしまいかね?」
 声に応じて、長屋の一軒から、ほこりよけの姉さん被りをした女が出てくる。
「はい、終いです。ご苦労ですが、みのまでお願いします」
 女は大八車を見送って、また長屋に戻ろうとする。その折に、声をかけた。
「おきをさんというのは、あんたかね?」
「はい、そうですが……」
「わしは巣鴨の糸問屋、嶋屋の隠居で、徳兵衛と申す。いきなり訪ねてすまなかったが、そのう、榎吉と少し話をしたくてな」
「榎吉さんと……」
 女が、丸い目を大きく広げて、徳兵衛を見詰める。
「引っ越しとお見受けしたが……もしや榎吉と、どこかで所帯を持つつもりか?」
「え? ああ、いえ……ここでは何ですから、どうぞお上がりください」
 長屋の中程にある一軒に、招じ入れる。中には何もなく、きれいさっぱり片付いていた。四畳半の座敷に、小さな風呂敷包みがひとつと、女の子がちょこんと座っている。
 なつと似ているところはどこにもなく、大人しそうな子供だ。
「はる、こっちにいらっしゃいな。狭いところですが、どうぞ……あら、どうしましょ、の仕度もできなくて」
 構いは無用と告げたが、近所の者に頼んでくるからと、いったん戸口から出ていった。
「千代太、この子としばし、外で遊んできなさい」
「はい、おじいさま。はるちゃん、お兄ちゃんと遊んでくれる?」
「うん!」
 相手の安堵を生む穏やかな笑みは、孫の才のひとつだろう。初見にもかかわらず、はるは嬉しそうに千代太の手を握る。子供たちが出ていくと、入れ違いにおきをが、盆の上にちやわんを載せて戻ってきた。白湯ですが、と断って、徳兵衛の前に茶碗を置いた。
 結構な道程を歩いてきたから、湯が心地よく喉を通る。
「して、引っ越しの話だが……」と、気短に話を促す。
「あたし、再縁するんです。相手は、榎吉さんではありません」
 勇んで来てみれば、肩透かしを食らった格好だ。これには徳兵衛も、あんぐりと口を開いた。
「榎さんとは、とうにお別れしました。すまないと、詫びられて……」
 いまは巣鴨にいる妻子のもとに戻ると、榎吉は決心し、別れを告げた。少し切なそうに、おきをがまぶたを伏せる。
「あんたは、それでいいのかね? 得心はいったのか?」
「榎さんは、いちばん辛い頃に、あたしを支えてくれました。亭主の死を、乗り越えることができたのは、榎さんのおかげです」
 感謝こそすれ、恨むつもりはないと、有難そうに語った。いつか別れが来ることも、薄々感づいていたとつけ加える。
「榎さんは、ふたりの子供のことを、片時も忘れたことはありません。はるを可愛がってくれたのも、下の娘さんに重ねていたのでしょう」
 はるを通して思い出話がこぼれ、今年でいくつになった、どれほど背丈が伸びたろうかと、会えない我が子の姿を思い浮かべていたという。
「でも、それ以上に、おかみさんへの思いが強かった。単に女房恋しさではなく、もっと強いきずながあった」
「絆、だと?」
「組紐です。榎吉さんはずっと、組紐を通しておかみさんを追いかけていた……あたしには、そう思えます」
 組紐が、夫婦に別れをもたらし、一方で、ふたたび縁付くための赤い糸となった。
「職人の、ごうだな……」
 徳兵衛の呟きに、ええ、とおきをはうなずいた。それから問われるまま、の世話で箕輪に縁付くことになったと語る。さっき大八車を引いていったのも、従兄いとこである伯父の息子たちだった。
「本当は、亭主を亡くしてまもなく、伯父から再縁話をもちかけられました。でも、しばらくは、どうしてもそんな気になれなくて……」
 榎吉と別れたことでふんぎりがつき、話がまとまった。相手にも男の子がひとりいて、これからは四人暮らしだと、笑顔になった。
「ひとつきくが、榎吉は巣鴨に移ってから、ここには……?」
「一度も……いえ、何日か前に訪ねてきたのが、最初で最後です」
 寺野屋を通して、おきをの再縁や引っ越しをきいて、はるに土産を携えてきた。運の悪いことに、その一度きりに勘七は出くわしたのだ。
「そういえば、榎さんの息子が勘違いをしたようで……榎さんは大丈夫だと言ってましたが、もしかしてめたのですか?」
 いまさらおきをに、悶着を担わせるつもりはない。案じることはないと、話を収めた。
「それより、榎吉の行先に、心当たりはないか? 巣鴨に越してからも、足繁く雑司ヶ谷に通っていたそうだが」
「ああ、それなら、きっとあそこです」
 鬼子母神に近い、ぞうまちへの道筋を、徳兵衛に説いた。


「じゃあ、勘ちゃんのお父さんが、たびたび雑司ヶ谷に来ていたのは、そのためだったんだね?」
 鬼子母神の堂は、畑の真ん中にあり、その周辺にぽつりぽつりと町屋が点在している。雑司ヶ谷町はそのひとつで、下雑司ヶ谷よりもさらに田舎に思えた。
 教えられたとおりに道を辿たどり、一軒のもたに着いた。ここも裏長屋だが、二階屋で間口が広い。障子戸には、『組紐ぞう』と書かれている。榎吉の兄弟子にあたる、組紐師の家だった。戸の一枚は開け放されていて、中のようすが見通せる。
「ほう、これは……思った以上に立派な組場ではないか」
 一階がすべて仕事場になっているようで、広い板間に、四、五人の職人がいて、いずれも手を動かしている。糸玉のぶつかる音がいくつも重なって、少々騒々しいほどだ。
 しかし徳兵衛が何よりかれたのは、奥に据えられた二台の高台だった。
 紐の組台としてはもっとも大きく、畳半分ほどもある。布を織る織機を小ぶりにしたような代物で、玉数が多いだけに、より多くの色と複雑な模様に加えて、高台でしかかなわない組み方もあった。
 二台が並んだ左手に、榎吉の姿があった。戸口で名を呼ぶと、榎吉が顔を上げる。驚いてみせたが、となりの台の職人に声をかけ、すぐに腰を上げた。おそらく親方の万知蔵であろう。
「まさか、こんなところまで、ご隠居さまがお出掛けくださるとは」
「いや、仕事の邪魔をしてすまなんだな。話をしたいのだが、少し構わぬか」
 榎吉は承知して、戸口の脇に据えられた腰掛けを勧めたが、何故だか千代太が口を出す。
「あっちの、木戸脇の腰掛けの方がいいと思うな。ほら、ここは糸玉の音が大きいし、おじいさまがきこえないかもしれないから」
「わしの耳は、まだ衰えてはおらんぞ」
 むっつりと返しながらも、ひとまず木戸脇へと場所を移して、榎吉と並んで腰掛ける。
「坊はちょっと、近所を見てくるね。さっき面白そうな店があったんだ」
 気を利かせたつもりだろうか。遠くに行くでないぞ、と声をかけ、孫を送り出した。
 それから改めて、榎吉をながめた。
「おまえはずっと、高台の修業をしておったのだな。いましがた、下雑司ヶ谷できいた」
「おきをに、お会いになったんですかい」
「ああ、ちょうど引っ越しのなかでな。今日のうちに、箕輪に移るそうだ」
「さいですか……」
 懐かしむような、遠い目をした。いっときは男女の仲になったのだ。物思いはあろうが、すでに過去になっている。榎吉の横顔から、徳兵衛はそう判じた。
「いまさらだが、よく戻ってきたな。雑司ヶ谷で暮らしていた方が、楽だったのではないか?」
「おれを引き戻したのは、あのすみきり紐でさ」
 ふり向いて、徳兵衛の視線を捉える。紛れもない職人の顔だった。
「あれを見たときは、からだが震えた。おはちの色柄だと、すぐにわかった。おれには女房からつきつけられた、果たし状のように思えやした」
 雑司ヶ谷で新しい所帯をもって、安穏と暮らす。榎吉にはその道もあったはずだ。日当たりのいい池に、ぬくぬくとかっていたところに、いきなり冷や水をぶっかけられた。そんなところだろうか。
 三年のあいだに女房は──、いや、おはちという職人は、さらに腕を上げていた。色柄はいっそう派手を増し、役者の帯締めとして売り出され、たいそうな評判をとっていた。自分が棲んでいた池がどんなに小さいか思い知り、負けるものかとの意地と誇りが、おはちの許へと引き寄せた。いわば職人としてのきようが、逃げ続けることを拒んだのだ。
「それで高台の修業を始めたのか?」
「いや、始めたのは、二年ほど前になりやすか。兄弟子の万知蔵親方を訪ねたときに、高台で組んだ紐を見せられて、これだ! と思いやした。おれがおはちと並んで歩くには、これしかねえと」
 色柄の趣向では、女房におよばない。榎吉が誇れるものは技であり、高台でさらに磨きをかけて、もう一度、妻子のもとに帰ろうとしたのだ。本当は、修業を終えてから戻るつもりでいたのだが、角切紐が一足早く、榎吉を妻子のもとに走らせた。
「この前は言いそびれやしたが、今年の内に修業を終えやす。来春から、あっしを五十六屋で雇ってもらえやせんか?」
「では、榎吉、おまえはおはちの許に、戻るつもりでおるのか。ああ、なんだ、その、おはちの来し方については……いいのか?」
「応えてねえと言や、噓になりやす。ですが、この五日ばかりずっと考えて……仮におはちに好いた男がいたとしたら、おれはそっちの方が耐えられねえ」
 自分はその過ちを犯しておきながら、我ながら身勝手な話だとちようした。
「おはちや勘七が許してくれるなら、また一緒に巣鴨で暮らしてえと……ご隠居さまから、そう伝えてもらえやせんか」
 承知した、と告げるつもりが、それより早くこたえる声があった。
「おれは、許さねえぞ」
 ぎょっとして、ふり返る。声は背中側、そして何故だか上から降ってきた。
「勘七、おまえ、いつからそこに!」
 長屋の塀の上からにょっきりと、勘七の顔が覗いていた。
「もう、勘ちゃんたら、こっそりって言ったのに」
「これ、千代太、おまえもそこにおるのか?」
 声を張ると、木戸の陰からぴょこりと千代太が頭を出した。
「ごめんなさい、おじいさま。でも勘ちゃんに、お父さんのホントの気持ちを伝えるなら、これしかないって」
「盗み聞きしていたのは、いまだけか?」
「下雑司ヶ谷の長屋でも……えへへえ」
 徳兵衛とおきをの会話も、やはり家の外で勘七が聞き耳を立てていたと、千代太が白状する。徳兵衛は、塀の上から覗く顔に、下りてくるよう促した。
「勘七、すまなかったな。もういっぺんだけ、父ちゃんを許してくれねえか」
 父親からあからさまに視線を逸らし、勘七はむくれた顔で告げた。
「おれは、許さねえ……でも、母ちゃんが許すなら、大目に見てやる」
「ああ、十分だ。ありがとう……ありがとうな、勘七」
「うおっ、やめろよ! もう子供じゃねえんだから」
 榎吉が息子を強く抱きしめ、大きな腕の中で勘七がジタバタする。
 そのようすをながめて、うふふう、と千代太が嬉しそうに笑った。
「よかったね、おじいさま。これでまた、めでたしめでたしだね」
「わからんぞ。明日にも悶着の芽が、また吹くかもしれん」
 と、孫に向かって嫌味を吐く。家族とはそういうものだ。日常のそこかしこに諍いの種は落ちていて、隙があればたちまち芽吹く。ひとつずつ丹念に摘みとっていくのが、長く営む唯一のけつかもしれない。
「ところでな、千代太。勘七をこっそり連れてくるとの策は、おまえの思案か?」
「え? えーっと、えーっと……」
 実にわかりやすく、千代太があわあわする。それだけで、徳兵衛には察しがついた。
「おまえではなく、他の誰かが思案したのだな?」
「はい、でも……」
 ちらりと祖父を見て、もじもじする。どうやら口止めされているようだ。
 もしも悪い方向にころがれば、よけいに勘七を傷つけることになる。前もって榎吉やおきをの事情を摑み、そうはならぬと踏んだ上で、千代太を通して徳兵衛を担ぎ出した。
 こんな周到な真似ができるのは、ひとりしかいない。
「やれやれ、してやられたわ。まったく、我が女房ながら食えぬ女だ」
 頭に浮かんだ、能面のような妻の顔が、かすかに唇の片端を上げた。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



隠居おてだま
著者 西條 奈加
定価: 1,760円 (本体1,600円+税)
発売日:2023年05月31日

優雅な余生を送るはずの隠居家は、今日も子供たちで大にぎわい。
老舗糸問屋・嶋屋元当主の徳兵衛は、還暦を機に隠居暮らしを始めた。
風雅な余生を送るはずが、巣鴨の隠居家は孫の千代太が連れてきた子供たちで大にぎわい。
子供たちとその親の面倒にまで首を突っ込むうち、新たに組紐商いも始めることとなった。
商いに夢中の徳兵衛は、自分の家族に芽吹いた悶着の種に気が付かない。
やがて訪れた親子と夫婦の危機に、嶋屋一家はどう向き合う?
笑いあり涙ありの人情時代小説『隠居すごろく』、待望の続編!

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322106000339/
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