太田愛『未明の砦』が、第26回大藪春彦賞を受賞しました。
共謀罪の初の標的となった四人の若者が、逃げ惑いながら組織に反旗を翻す、胸が熱くなる社会派青春小説です。大藪賞受賞を記念して、第一章を丸ごと公開します。
大藪春彦賞受賞作『未明の砦』試し読み2
3
同日、午後四時三十分。
日夏康章はコートの左右のポケットから缶珈琲を取り出し、二つ並べてテーブルに置くと、窓際のソファに腰を下ろした。
はめ殺しの巨大な窓の向こう一面に夕焼けが広がっている。いくつもの島影のような雲が朱色の空を滑っていく。夕方になって風が出てきたらしい。だが、この分厚い硝子窓の内側は温室のように常に一定の温度に保たれ、風の唸りも聞こえない。
プルタブを開け、日夏は普段ならとても飲めない甘ったるいミルク珈琲を口に運ぶ。それは、いつからかこの場所を訪れた時の慣例となっていた。ここで飲むと、子供の頃に好きだった珈琲牛乳のように美味しく感じられるのだから不思議だ。
ソファに座って窓外を眺めるうち、おのずと言葉がついて出た。
「俺はたぶん、馬鹿なことをしたんだと思う」
島影からちぎれた雲が、スカイツリーのいただきを掠めていく。
「おまえが『馬鹿なことをした』と言う時は、誰かを庇っている時だ」
静かに寄り添う声が答える。向かい合うソファに座った灰田聡は、中庭の欅の木を見下ろしている。すっかり瘦せて、格子縞のパジャマの襟元からは薄い皮膚が張りついたような鎖骨が覗いていた。日夏のいつもの手土産を、灰田は両の掌で包んで膝の上に置いている。
「俺は、誰を庇ってるんだい?」
辻占に未来を預けるような気持ちで日夏は尋ねていた。
「覚えてないのかい?」
こちらを見た灰田の目は案じているのでもなければ、責めているのでもない。強いて言えば、少し淋しそうだった。灰田はわずかに身を乗り出すと、少年のように熱を帯びた口調で言った。
「あの時、教室にいたのはおまえひとりじゃなかったんだ。写生の時間でみんなてんでに好きな場所に行って描いてたんだ。全員がどこにいたかなんて、本当はわかるはずないだろ」
真っ直ぐな灰田の視線に耐えられず、日夏は残りの缶珈琲を飲み干した。
「そうだな、わかるはずないよな」
そう言うと日夏は立ち上がり、空き缶を手にゴミ箱に向かった。灰田の頑ななまでの変わらなさは、日夏に時に慰めと痛みの双方をもたらす。
──俺はたぶん、馬鹿なことをしたんだと思う。
頭の芯に、行き場のない想念が石ころのように転がっていた。
警察が今日、矢上たち四人の逮捕に動くことはわかっていた。そして、自分は四人の逮捕を手の届かない遠くで起きる出来事として、ちょうどここから窓外の一面の夕焼けを眺めるように黙って見ているのだろう。そう思っていた。ほかのありようなど思い描けなかった。
ところが、逮捕を阻止する方法が頭に浮かんだ途端にもう体は動き出していた。多くを偶然に委ねたその試みは、お世辞にも成功する確率が高いとは言えなかった。だが、運を天に任せるような思いつきだったからこそ、躊躇なく実行できたのかもしれない。何も考えずに、晴れた空に賽を投げるように。そうして運は分のない方に転がり、矢上たち四人は日夏の意図どおり逃亡を果たした。
日夏の手を離れたアルミの空き缶が、ゴミ箱の中に消えて枯葉のような音を立てた。
日夏は思った。
警察が彼らの逃亡と俺を結びつけるには、それこそ運が必要だろう。実際、あの四人は俺を知らない。顔を合わせたこともないのだから。
振り返ると、西日に染まった灰田が缶珈琲を膝に置いたまま、また中庭の欅を眺めていた。
「そろそろ行くよ」
声をかけると、灰田は「じゃあ、そこまで一緒に」と子供の頃から変わらぬ律儀さでソファから立ち上がった。
テーブルに手つかずの缶珈琲がひとつ残されていた。
そういえば、と日夏は初めて気がついた。ほぼ二十年ぶりに灰田と顔を合わせるようになったのは、自分がちょうどあの四人の存在を知った頃だった。そのことが、なぜか不意に重要な符牒であるように思えた。
4
同日、午後六時四十五分。
定年まであと数年となった長身瘦軀の平刑事──南多摩署における昇任試験不合格記録を更新中の薮下哲夫は、会議室の一番後ろ、電気ポットが置かれた壁際の長卓に尻を半分引っかけて同僚たちのいきり立った顔を興味深く眺めていた。
ぼつぼつ晩飯という時分になって突如招集された組織犯罪対策課の捜査員たちは、本庁からの前代未聞の要請に騒然となっていた。
本庁が逮捕をしくじってその尻拭いに駆り出されること自体は所轄の捜査員にとって通常業務といっていい。逮捕状の出た被疑者が逃亡中となれば指名手配案件だ。ところが本庁の組対はなんと、被疑者四名の罪状を明かさずに捜索を要請してきたのだ。
無論、指名手配だからといってすぐに世間一般に被疑者の氏名、罪状等が公表されるわけではないが、警察組織内で捜索対象の罪状をあえて秘匿するなど尋常の沙汰ではない。そのうえ、被疑者を発見しだい監視下に置き、速やかに上司に報告すること、というおまけ付きだ。つまり、見つけてもおまえらは手を出すなとあらかじめ釘を刺されているのだ。
「いくらなんでも課長、そりゃ筋が通らないんじゃないですかねぇ」
デカ長の大沼芳樹が、部下たちの憤懣をひとまとめにしたようにひときわデカいダミ声を張り上げた。
髷さえ結えば力士に見える大沼は、常日頃から部下たちに対して、いやしくも組織犯罪対策課の一員を名乗る者は、末沢課長の命令とあらばキナ臭い脱法的捜査であろうと喜んで、血生臭い前途が脳裏をよぎろうと敢然と、控えめな疑問の言葉さえ差し挟むことなく従うのが務めであると教えを垂れてきたその人である。その大沼が正面から末沢に楯を突いているのだ。この一幕に捜査員たちは俄然勢いづいた。そして次々と、やってられねぇ、ふざけてんのか、と独り言を装った大声で怒りを吐き出した。
瓜実顔の課長・末沢俊文は苦り切った顔で突き放すように言った。
「だったら本庁にそう言え」
そりゃそうだ、と薮下は腹の中で呟いた。言えるものなら末沢もふざけるなと言いたいところだろう。
本庁の要請である以上いずれ従うしかないのだが、大沼がそろそろビールにしたいと思うまでもうしばらく押し問答が続くと読んで、薮下は会議室からそっと抜け出した。
築五十年を迎える南多摩署の階段はやたらと靴音が響く。おかげで性懲りもなく小坂剛が追ってくるのがわかった。組まされてからというもの、何度振り切っても腹を立てることもなければ傷つくこともなく追ってくるこの相方の鈍感さは、そこだけ取ればホシを追う刑事の執念を思わせるものがあった。
小坂はたちまち背中に張りつくように近づくと、押し殺した声で囁いた。
「俺、思うんですけどね」
「思うだけにしとけ」
「聞いて下さいって。薮下さん、これってテロなんじゃないですかね。どこかでもう相当にヤバいことが起こっていて、それで絶対にどこからも漏れないように情報を遮断してるんじゃないですか」
薮下は思わず階段の踊り場で立ち止まった。
「テロなら組対より公安だろ」
「そうですけど、犯行が銃器を用いたものなら、うちも無関係ってわけじゃない」
組織対策犯罪課は主に暴力団等の組織犯罪および銃器、違法薬物の取り締まりにあたっている。薮下は小坂の考えを頭の中で吟味しつつスマートフォンを取り出し、すでに一読した被疑者四人の情報にアクセスした。
矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平に逮捕歴はない。いずれも株式会社ユシマの生方第三工場に勤務する非正規雇用の工員だ。特別な技術もなく雇用の調整弁として使われる、安定や建設的な未来とは生涯縁遠い若者たち……。そこまで考えた時、薮下は不意にみぞおちの辺りがヒヤリとした。
かつてインドのムンバイで起こった同時多発テロでは、そのような若者たちがある種の洗脳によって、あるいは輝かしい死の対価として家族に渡される報酬のために、組織に身を投じて訓練を受け、実働部隊の一部となって犯行に及んだのではなかったか。
いや、もしそんな兆しがあるのなら、それこそ公安マターだ。警視庁ではなく、警察庁警備局が束ねる全国の公安警察が一斉に動く。所轄の組対などお呼びではないはずだ。
本庁の組対はなぜ被疑者の罪状を秘匿するのか。捜索、逮捕の先には当然、起訴、公判が想定されており、そうなれば罪状はおのずと公になる。ということは、逮捕までは罪状を伏せておきたい、どこからも漏れてもらっては困るというわけだ。
理由はなんだ。なぜ本庁はこんな異様な捜査方法を取らなければならないのか。やはり薮下の疑問はひとつの点に回帰する。
この四人はいったい何をやらかしたのか。
「薮下さん、ひょっとして捜索しないで、捜査するつもりじゃないですか」
鈍感な人間の中には、ごくたまに妙に勘だけ鋭いのがいる。薮下は黙ってスマホをポケットにしまうと、踊り場を曲がって靴音の響く階段を駆け下りた。
(つづく)
作品紹介
未明の砦
著者 太田 愛
発売日:2023年07月31日
共謀罪、始動。標的とされた若者達は公安と大企業を相手に闘うことを選ぶ。
その日、共謀罪による初めての容疑者が逮捕されようとしていた。動いたのは警視庁組織犯罪対策部。標的は、大手自動車メーカー〈ユシマ〉の若い非正規工員・矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平。四人は完璧な監視下にあり、身柄確保は確実と思われた。ところが突如発生した火災の混乱に乗じて四人は逃亡する。誰かが彼らに警察の動きを伝えたのだ。所轄の刑事・薮下は、この逮捕劇には裏があると読んで独自に捜査を開始。一方、散り散りに逃亡した四人は、ひとつの場所を目指していた。千葉県の笛ヶ浜にある〈夏の家〉だ。そこで過ごした夏期休暇こそが、すべての発端だった――。
自分の生きる社会はもちろん、自分の人生も自分で思うようにはできない。見知らぬ多くの人々の行為や思惑が作用し合って現実が動いていく。だからこそ、それぞれが最善を尽くすほかないのだ。共謀罪始動の真相を追う薮下。この国をもはや沈みゆく船と考え、超法規的な手段で一変させようと試みるキャリア官僚。心を病んだ小学生時代の友人を見舞っては、噛み合わない会話を続ける日夏康章。怒りと欲望、信頼と打算、野心と矜持。それぞれの思いが交錯する。逃亡のさなか、四人が決意した最後の実力行使の手段とは――。
最注目作家・太田愛が描く、瑞々しくも切実な希望と成長の社会派青春群像劇。第26回大藪春彦賞受賞作。
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