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試し読み

この逮捕劇は、日本の警察史に残るだろう――大藪春彦賞受賞作『未明の砦』試し読み1

太田愛『未明の砦』が、第26回大藪春彦賞を受賞しました。
共謀罪の初の標的となった四人の若者が、逃げ惑いながら組織に反旗を翻す、胸が熱くなる社会派青春小説です。大藪賞受賞を記念して、第一章を丸ごと公開します。



大藪春彦賞受賞作『未明の砦』試し読み1


第一章 事件



 十二月十日午後零時二十分、警視庁組織犯罪対策部の警視・瀬野徹は、吉祥寺駅近くに駐めた特殊移動指揮車両の中に陣取っていた。眼前の三台のモニターはいずれも画面が四分割され、駅周辺に設置された防犯カメラのリアルタイム映像が映し出されている。どの街角も通りもクリスマスツリーやリース、橇に乗ったサンタクロースなどで賑やかに飾り立てられており、まるで同じ柄の包装紙のような風景の中を絶え間なく人が行き交っている。
 瀬野は息をつめてモニターに目を凝らしていた。
 まもなく、この平板な風景の中に三人の非正規工員が姿を現す。
 矢上達也、二十六歳。脇隼人、二十六歳。秋山宏典、三十歳。各人に瀬野の部下三名が尾行についている。
 そして最後の一人、矢上らと当初から行動を共にしている泉原順平は、すでに朝日荘二〇二号室に入っていた。無論、そちらにも捜査員が張りついている。泉原が一足先に部屋に向かったのは、彼の言葉を借りれば、「新しいソフトをちょっといじってみたい」からだったが、二十五歳のこの内気で献身的な工員にはコンピューターのプログラムを本質的にいじるだけのスキルはない。それでも、一般的な大学生程度にパソコンを操作できるのは四人の中では泉原ひとりだった。
「来ました」
 傍らで部下が囁くより早く、瀬野はモニターに三人の男を捉えていた。駅から吐き出される人波に混じって、三人は肩を並べるようにしてゆったりと横断歩道を渡ってくる。
 中央の矢上は黒いダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んでおり、それが癖らしく少し俯きがちに歩いていた。だが、あの不織布のマスクの下には、秀でた繊細な鼻梁と口角の上がったアンバランスなほど意志的な口許が隠されている。
 矢上の右隣、真っ黄色のマフラーを巻いた男が脇だ。それが都会的に見えるかどうかは別にして人目を引くウールの小物は、職場のある陰気な町から都心に出てくる際、脇にとってなくてはならないものらしい。
 左隣を歩く一番年嵩の秋山は、くたびれた膝丈のレザーコートにニットキャップ。キャップの裾から外に跳ね上がった長めの髪が、ひと昔前の映画に出てくる先鋭的でその実あぶくのような男たちを思い出させる。
 リアルタイムで動く彼らの姿を目にしたのは初めてだったが、瀬野は旧知の人間にようやく会えたような感慨を覚えた。
 彼らの行動はこれまでの報告書ですべて頭に入っていた。通りの右側に、赤と白の庇テントが目を引くホットドッグ店がある。モニターでは聞こえないドアベルを鳴らして三人が店に入っていく。たいてい三分半から四分ほどで昼食用のテイクアウトの袋を抱えて出てくるのだが、瀬野は彼らが店で何を注文するのかも知っている。
 矢上と秋山はクラシックドッグ、脇はメニューの表と裏をサイドディッシュまで丹念に見直したあげく、結局クラシックドッグのピクルス抜きを頼むのが常だ。肉が苦手な泉原はフィッシュドッグよりほかに選択肢はないから、誰かが代わりに買っていってやるだろう。店を出たら繁華街を抜けた先のコンビニで四人分のホットコーヒーを調達し、それから七分後に彼らは朝日荘二〇二号室に到着する。矢上、脇、秋山、泉原の四人が部屋に揃った瞬間に逮捕だ。
 今日未明、瀬野は四人の令状を取得していた。
 彼らはこちらの動きに気づいていない。モニターに映し出された三人はまったくといっていいほど無防備で、それなりの場数を踏んだ瀬野の目には、どこか無邪気にはしゃいでいるようにさえ映った。
 逮捕はあっけなく終わるだろう。
 だが瀬野は現場を見届けるつもりだった。なぜなら、この逮捕劇によって瀬野徹の名前は日本の警察史に残るものとなるからだ。胴震いするようなかつてない感覚が畏れからくるものなのか、それとも高揚感からなのか、自分でも判然としないまま瀬野はモニターを凝視していた。
 店の扉が開き、矢上、脇、秋山の三人が紙袋を抱えて出てきた。要した時間は三分五十秒。いつもどおりだ。
 瀬野がひとつ頷くと指揮車両が発進、朝日荘に向かって移動を開始した。矢上ら三人も逮捕の瞬間に向かって歩き始めたかのように見えた。
 その時、モニターの中の人の流れが突如なにかに堰き止められたように滞った。
 イヤフォンをした歩きスマホの若者が秋山の背中にぶつかり、小柄な秋山がつんのめった。若者は秋山のことなどそっちのけで、首を伸ばして不審げに前方をうかがう。矢上も脇も、その一帯の誰もが立ち止まって同じ方向を見ている。瀬野は咄嗟に半ブロック先の防犯カメラのモニターに目をやり、異様な光景に眉を顰めた。
 扉脇に大きなピンク色の象の置物を飾った飲食店から、若い女やカップルたちが走り出てくる。それを追うように店内から煙が吹き出している。初めは白かった煙がたちまち重そうな黒煙となり、路上に座り込んで咳き込む者や、抱えられるようにして風上に逃げる客らで界隈は騒然となった。店内で火災が発生したのだ。
 矢上たちのいた辺りは早くも野次馬が密集し、スマホを頭上に掲げて押し合いへし合いする人々に埋もれて三人の姿は見えなくなっていた。瀬野は無線のマイクを取り、尾行中の部下に命じた。
「各班、被疑者の位置を知らせろ」
 だが、慎重に距離を取るよう指示されていた部下たちは、混乱のうちに被疑者を見失っていた。モニターのリアルタイム映像の中、人を押しのけ搔き分けては周囲を見回す捜査員の姿が目に立った。
「落ち着け」
 瀬野は一喝した。
 この数ヶ月、矢上たちは朝日荘の一室に集まっては計画を練り、準備を重ねてきたのだ。火事を見物するより早く部屋へ行って明日の〈決行〉に備えたいはずだ。
 三人のいた通りはちょうど魚の背骨のように両側にいくつも路地が延びている。彼らは火災でこの先は通れないとみて迂回したに違いない。まだ近くにいるはずだ。
 瀬野が付近の路地を捜索するよう指示を出そうとした時、車内でノートパソコンに向かっていた傍受班員が鋭い声を発した。
「泉原に矢上からメッセージが着信。文面。『飛べ』」
 腹を刺されて初めて相手が凶器を隠し持っていたのを知った。あの時の吐き気がするような悪寒が背筋を走り抜け、瀬野は無線に叫んでいた。
「木村班、ただちに踏み込め」
 戸惑うようなわずかな返答の遅れに、瀬野は思わず怒声を発した。
「今すぐ泉原を押さえるんだ!」



 タイ料理店の火災は半時間ほどで鎮火、煙を吸った客と従業員のタイ人留学生計六名が病院に搬送されたがいずれも軽傷で、治療の後、帰宅。火元は厨房とみられ、失火の原因は現在調査中だった。
 瀬野は朝日荘二〇二号室のすり切れた畳の上に立っていた。開け放たれた窓から、冬の遅い午後の陽光が射し込んでいる。泉原はあの窓から飛び降りて逃走し、現在も行方が摑めない。矢上、脇、秋山の三人も姿を消していた。
 なぜこんなことになったのか。
 畳に残された木村班の夥しい靴跡を、瀬野は茫然と眺めた。無惨に踏みしだかれた小さなクリスマスツリーが、自らの失態を象徴しているように思われた。逮捕失敗を知らせた際の、萩原警視長の対応が嫌でも思い出された。
 一刻も早く見つけ出して逮捕しろと怒鳴られた方がどれほどよかったか。そんなことは言うに及ばぬとばかりに、萩原はスマホ越しにたった一言、「報告書を上げろ」と命じて通話を切った。このような無様な失策は叱責にも値しないと断じられたかのようだった。
 瀬野は鬱屈を断ち切るように踵を返し、今後に傾注すべく部屋を出た。報告書には逮捕失敗の原因を記さなければならない。だが正直、瀬野には見当もつかなかった。自分たちは四人を完全に監視下に置いていたのだ。接触した人間も通信もすべて把握していた。彼らには逮捕を警戒している素振りなど微塵もなかった。ところが、逃亡に際して四人は全員、スマートフォンを捨てている。無論、追跡を逃れるためだ。
 つまりは、自分は彼らに騙されていたのだ。それを認めると、おのずとひとつの疑念が湧いた。そもそも、あのタイ料理店の火災は偶然なのか。

(つづく)

作品紹介



未明の砦
著者 太田 愛
発売日:2023年07月31日

共謀罪、始動。標的とされた若者達は公安と大企業を相手に闘うことを選ぶ。
その日、共謀罪による初めての容疑者が逮捕されようとしていた。動いたのは警視庁組織犯罪対策部。標的は、大手自動車メーカー〈ユシマ〉の若い非正規工員・矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平。四人は完璧な監視下にあり、身柄確保は確実と思われた。ところが突如発生した火災の混乱に乗じて四人は逃亡する。誰かが彼らに警察の動きを伝えたのだ。所轄の刑事・薮下は、この逮捕劇には裏があると読んで独自に捜査を開始。一方、散り散りに逃亡した四人は、ひとつの場所を目指していた。千葉県の笛ヶ浜にある〈夏の家〉だ。そこで過ごした夏期休暇こそが、すべての発端だった――。

自分の生きる社会はもちろん、自分の人生も自分で思うようにはできない。見知らぬ多くの人々の行為や思惑が作用し合って現実が動いていく。だからこそ、それぞれが最善を尽くすほかないのだ。共謀罪始動の真相を追う薮下。この国をもはや沈みゆく船と考え、超法規的な手段で一変させようと試みるキャリア官僚。心を病んだ小学生時代の友人を見舞っては、噛み合わない会話を続ける日夏康章。怒りと欲望、信頼と打算、野心と矜持。それぞれの思いが交錯する。逃亡のさなか、四人が決意した最後の実力行使の手段とは――。
最注目作家・太田愛が描く、瑞々しくも切実な希望と成長の社会派青春群像劇。第26回大藪春彦賞受賞作。

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