『名画と建造物』よりゴッホ「アルルの跳ね橋」

ベストセラー「怖い絵」の著者・中野京子による絵画鑑賞本!『名画と建造物』よりゴッホ「アルルの跳ね橋」試し読み
ベストセラー「怖い絵」の著者の最新刊『名画と建造物』が10月12日に発売!
映画「サイコ」に登場する家、スフィンクスに登る侍、印象派のエッフェル塔嫌い――。20の名画が伝える時代の息吹きを読む、絵画鑑賞本です。
過去と現在の比較ができるよう、写真も掲載!歴史を学べることはもちろん、観光案内にもおすすめです!
発売を記念して、フィンセント・ファン・ゴッホ『アルルの跳ね橋』の章を特別に試し読み公開します!
『名画と建造物』よりゴッホ「アルルの跳ね橋」試し読み
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)は故郷のオランダでは何をやってもうまくゆかず、画商をしていた弟のテオを頼ってパリへ出た。もうすぐ三十三歳の誕生日を迎える頃だ。
余命はそこからわずか五年足らずとは知る由もなかった。
パリは印象派の画家が意気
ゴッホは借りておいた一軒家「黄色い家」の内装を整え、各部屋用に花瓶に盛りつけたひまわりの絵を何点も描き、来るはずの仲間たちを迎える準備をした。結局ポール・ゴーギャン以外は誰も来ないことになり、彼に対する期待感があまりに膨らみすぎたせいで、その後のなりゆきに対するショックも激烈だった。
ゴーギャンは共同生活わずか二カ月後、ふり返りもせず大股に立ち去ったのだ。その短い期間における、個性の強すぎる二人の画家のドラマは世界中でさまざまな解釈を生み、事実究明がなされ、映画化、小説化され、知らぬ者はいないほどだ。
終わりは奇妙なものだった。
荷物をまとめて出てゆくゴーギャンを追ったゴッホが、夜の路上で彼に切りつけようとして果たせず(
ゴーギャンに見捨てられた絶望は深く、ゴッホの精神錯乱は急速に深刻化した。住民らから追放も同然にアルルを追われ、入退院を繰り返し、緩解期はあったが、ついにピストル自殺。短く、幸薄い人生だった。だからいっそうアルルでの希望に満ちた当初の八カ月間(ゴーギャンが来るまでの一人暮らし)が輝いて見える。ゴッホの絶頂期と言っていいほどに。
色彩の乏しい低地の国に生まれたゴッホにとって、アルルは陽光あふれる理想郷だった。テオに送らせた高価な絵の具をふんだんに使い、青に黄といった対照的な色づかいの、つまり後世の我々がゴッホ的と感じる鮮やかな作品を、次から次に生み出した。
アルルは歴史の古い町で、古代ローマ帝国の遺跡(円形闘技場や浴場、墓地など)が残っていたが、ゴッホはそこにはさほど関心を示さず、ひまわり畑、果樹園、水辺、橋、舟、カフェ、室内、当地の人々を描いた。アルルの美しさしか目に入らなかった。
一方、ゴーギャンは容赦ない。自伝でアルルをフランス一汚い町と罵っているほどだ。フランス一かどうかは別として、当時の住民が家庭ゴミを道路や水路や町を流れるローヌ川へ捨てていたのは事実だ。ミストラル(フランス南東部に吹く強風)に襲われれば道路のゴミは渦巻いて舞い上がった。
また多くの家庭に水道は設置されていたが、それは単なるローヌ川の水を引いていただけで、
パリのような都会と違い、公衆衛生設備も住民の衛生観念も乏しい。浴室はもちろんのこと、トイレさえ無い家が多かった。そのことはゴッホ自身がテオへの手紙に書いているのだが、「黄色い家」にトイレが無いため隣家(オーナーが同じ)のを借りていた。夜間はオマルを使用したのだろう。朝はそれを道に捨てたかもしれない。
いずれにせよ、ゴッホはそうしたことを南フランスではよくあることと、気にしなかった。片思いの男のように、恋する相手の良い点しか見ず、良いところだけを描いたから、どの作品も
『アルルの跳ね橋』はそんな高揚期の作品。しかもアルル到着の翌月三月に描かれたので、張り切り方もひとしおだ。
──ここはアルル中心部から三キロほど離れた運河。ラングロワ橋という名の二重
五作品は少しずつ細部が異なっている。跳ね橋に誰もいない、あるいは黒いドレスに黒い傘の女性が通っている。背景に家が建つ、あるいは大きな糸杉が屹立している。運河にボートが浮かんでいる、あるいはボートは一
中でももっとも有名なのが、オランダのクレラー・ミュラー美術館所蔵の本作。澄んだ青空に、木製の黄色がかった短い跳ね橋が堂々たる主役を張る(背景に家などがあると、橋自体の存在感が薄まる)。
運河の水は清流のごとく描写される。だが先述したように実際はかなり汚れていたし、そこへ洗濯物や
その冷たい水でずっしり重くなった衣類を手洗いするのがどれほど過酷な労働か、ゴッホがどこまで理解していたかはわからない。
デンマークの児童文学者ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、母親がアルコール中毒だったことを
跳ね橋にもどろう。
ゴッホに描かれたラングロワ橋は、今はもう存在しない。一九三〇年にコンクリート橋に架け替えられたからだ。ただし世界的なゴッホ人気に後押しされ、かつての跳ね橋が観光用に別の場所に復元された。

場所を変えて再建された現在のラングロワ橋。ゴッホの絵とは違い、橋が開かれた状態だ。同時に吊り上げる装置も高く広がっているのがわかる。またここには写っていないが、手前にゴッホ作品についての説明看板も立っており、観光地の雰囲気が漂う。(写真提供 ユニフォトプレス)
さて、跳ね橋には二種類ある。
一つはもっぱら城塞の入り口に設置された橋(拙著『怖い橋の物語』〈河出文庫〉参照)で、アルルのものとは全く違う。成り立ちはこうだ。城が宮殿としての性格を濃くする前の古城は要塞を兼ね、ぐるりを堀で囲んで敵を防いでいた。必然的に橋を渡した入り口が弱点となる。そこで、いざという時にロープを切り落とせば、滑車が回転して重りがシーソーのように下がり、橋は瞬時にバタンと上がって門扉に早変わりする仕組みが作られた。今もヨーロッパの古城の外壁には、かつての跳ね橋の名残たる深い縦溝の跡を見ることができる。
もう一つの跳ね橋は、別名、開閉橋と言い、船を通す時だけ中央部を開ける方式だ。アルルのような小規模の橋の場合、橋守りとか橋管理人と呼ばれる開閉作業員が、橋のそばの小屋で寝起きして、帆船のマストが橋にぶつからないよう、ワイヤーで吊り上げ作業を行った。
現代はがらりと様相を変えている。航行船が多い上に橋は怪物のように巨大だ。ロンドンのタワーブリッジと素朴で単純な跳ね橋では、大砲と輪ゴムパチンコほどの差がある。開閉操作は力仕事ではなくなり、ブリッジ・オペレーターと呼ばれる高度な専門家が、複雑な構造の跳ね橋をコンピューターで管理している。
ゴッホなら決して描かないだろう。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)
オランダ南部に生まれた、ポスト印象派の画家。生前はほぼ無名だったが、死後作品が高く評価された。当時流行していた日本趣味に関心を寄せ、浮世絵版画を収集した。一八八八年、南フランス・アルルへ移住。代表作『星月夜』『糸杉』。
(他の章は本書でお楽しみください)
作品紹介
名画と建造物
著者 中野 京子
発売日:2023年10月12日
ベストセラー「怖い絵」の著者が、名画に描かれた建造物を解説!
映画「サイコ」の家、スフィンクスに登る侍、印象派のエッフェル塔嫌い――。
20の名画が伝える時代の息吹きを読む、絵画鑑賞本!
過去と現在の比較ができるよう、写真も掲載。
歴史を学び、観光案内にもおすすめです!
目次
作品1 エドワード・ホッパー『線路脇の家』
作品2 クロード・モネ『サン・ラザール駅』
作品3 ワシーリー・スリコフ『銃兵処刑の朝』
作品4 アントニオ・ダ・カナレット『カナル・グランデの入り口』
作品5 ジャン=レオン・ジェローム『差し下ろされた親指』
作品6 マルク・シャガール『七本指の自画像』
作品7 カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒ『エルデナ修道院の廃墟』
作品8 シャルル・メニエ『ナポレオンのベルリン入城』
作品9 グスタフ・クリムト『旧ブルク劇場の観客席』
作品10 フィンセント・ファン・ゴッホ『アルルの跳ね橋』
作品11 エドワード・ポインター『エジプトのイスラエル人』
作品12 ウジェーヌ・シベルト『ヴァルトブルク城で聖書を翻訳するルター』
作品13 ギュスターヴ・ドレ「風車に突進するドン・キホーテ」
『ドン・キホーテ』挿絵より
作品14 エドワード・モラン『自由の女神の除幕式』
作品15 デヴィッド・ロバーツ『熱風の接近』
作品16 ジョン・コンスタブル『主教の庭から見たソールズベリー大聖堂』
作品17 ランブール兄弟「十月の図」
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より
作品18 ウィリアム・ハルソール『プリマス港に到着したメイフラワー号』
作品19 ジャン・アントワーヌ・ヴァトー『ジェルサンの看板』
作品20 ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』
あとがき
詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322102000161/
amazonページはこちら