この本を盗む者は_第3章

スチームパンクな世界を支えるのは、銀の獣? 深緑野分『この本を盗む者は』はここを読め! 特別試し読み#2
「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行を記念して、深緑さんイチオシの第三章、オイシイところを試し読み!
※「第一話 魔術的現実主義の旗に追われる」の試し読みはコチラ
>>前話を読む
「さあ並べ!」
警棒に突かれながら工員たちの列の後ろに並ばされ、エメラルドグリーン色ののろのろした動きに加わりながら、周囲の様子を窺う。工員も、見張りの警備員も、おそらくは全員読長町の住民なのだ。前方の列には中学校の同級生がいたし、深冬を警棒で突いた警備員は読書雑貨店の店長だ。しかし何もかもが違いすぎ、深冬の心には懐かしいという気持ちすら湧いてこない。
急いで真白を助けなければ。いや、その前にあの憎たらしい泥棒狐を捕まえるべきだろうか? ブック・カースが仕掛けた世界がどんな状態になろうと、泥棒を捕まえて本を取り戻しさえすれば元の世界に戻れるとわかっている。
しかしとても列から離れられそうにない。他は全員作業服なのに深冬だけ私服な上、後ろには誰もおらず、目立ってしまう。深冬は手錠をはめられたままの手を強く握って生唾を飲み込み、奥歯を噛みしめて涙腺を閉ざし、大人しく足並みを揃えるしかなかった。やがてゲートを越えると、工員の列は分岐する道のとおりにそれぞれ分かれて、何棟も並ぶ工場に吸い込まれていく。深冬が入ったのは、中央にそそり立つ、最も大きな工場だった。
工場の入口は観音開きの鉄扉で、高さが深冬の背丈の三倍はあり、打ち付けられた鉄鋲のひとつが深冬の拳ほどもある。ぞろぞろ動く列に続いて中へ一歩入ると、その先は暗褐色の床が続く廊下になっており、進めば進むほど蒸気が濃くなっていく。熱気と汗の臭気で息が詰まりそうだ。背後で鉄扉は閉まり、錠がかかる鈍い音がする。
蒸気がこもる廊下の先、ベランダ状の張り出し廊下に出ると、一気に視界が開けた。ここは吹き抜けで、地下も地上も見渡せる。しかし底も頂も遥か遠く、無数のドーナツ型のフロアが上下に連なり、強い風が吹き上がってくる。警告灯が等間隔に灯る柵から、もし誤って落ちたらと想像して、背筋が凍った。
午前中に『BLACK BOOK』で見た印刷所とは大違いだ──この工場に比べたら、あの印刷機は極小のミニチュアだ。ここはいったい何の工場なのか? フロアとフロアの間にはいくつもの歯車や、滑車とベルト、クランクが、それぞれ轟音を響かせながら働いている。
ドーナツ型の張り出し廊下の壁には、十個ほどのトンネルが口を開け、工員たちは蟻が巣に帰るように整然と列を作ったまま、トンネルに呑まれていく。入口の上には「螺子」「飴状」「棒状」「硝子」などの意味のわからない表札が掲げられている。
後ろに張り付いていた警備員が誰かに呼ばれ、その隙に深冬は、そっと列から離れてみる。誰も気づいていないようだ。
入口はすでに閉ざされ、大きな錠が下りている。深冬は素早く壁際を移動し、近くのトンネルに入ってみた。急に廊下は細く狭まり、ライトは赤く不穏げで、工員たちの姿が蒸気の向こうに消えて見えなくなる。深冬はせめて手錠を外せないか、どこかに鍵はないかと、足音を忍ばせて先へ進む。その途中、作業場を見かけた──油でべとべとに汚れた金属製の機械のまわりを、連結した滑車で動くベルトコンベアーがぐるりと囲み、目出し頭巾をかぶった工員たちが並んで作業にあたっている。一定間隔で機械の口が開き、そこから小さな部品が吐き出されては、ベルトコンベアーに乗って流れていく。
呆気にとられたのは、エメラルドグリーン一色だった工員たちに交ざった、黒い作業服の者たちだった。彼らは金属製の丸いゴーグルで目元を覆い、同じく金属製の箱をランドセルのように背負っているのだが、箱から噴出する蒸気で宙を飛んでいるのだ。彼らはどうやら機械の上部のメンテナンスを行っているようで、ぎとぎとと光る油差しを手に、歯車やクランクに細い管を差し入れ、動きを確認している。
「そこのあなた」
声をかけられて深冬ははっと我に返った。しまった、すぐ移動すればよかったのに。振り返ると深冬とあまり変わらない年頃の少女がいた。そのショートボブヘアと顔立ちには見覚えがあった。メガネは金縁のチェーン付きに変わってはいたが。
つい先日、電車で「文芸部に入らない?」と声をかけてきた先輩だった。しかし今の姿は、襟が高く肩の膨らんだ緑色のブラウスに、革のコルセットを付け、臙脂色の長いスカートを穿いている。他の人々と同じく、百年以上前の時代からタイムスリップしたかのような格好だった。
「……文芸部の」
「はい?」
「い、いえ。何でも」
「……装いもおかしければ、言動も奇妙な人ね。とにかくついてきて。あなたは着替えなきゃならないから」
機械たちの重たげな音を聞きながら、深冬は文芸部員の後をついていく。来た道を戻り、トンネルを出て再び張り出し廊下のフロアに出ると、別のトンネルに入った。
ここでも赤色のライトが明滅する。金属のにおいが充満する薄暗い廊下にはいくつも扉があり、それぞれに文字が刻まれたプレートがはまっていた。いわく、「小部品調整室」「大部品調整室」「革バンドなめし室」「各種油・研磨剤調合室」などなど。
そのうちの一室に通され、文芸部員は棒状の鍵を深冬の手錠に差し込むと、外した。解放された手首にはぐるりと赤い痕がついている。それをこすっていると、作業服を与えられた。他の工員たちと同じ緑色のつなぎで、黒いくるみボタンが立ち襟の襟元からへそのあたりまで並んでいる。深冬はちらりと部員に視線を送ったが、睨み返されたので大急ぎで作業服を着た。肩口がごわつき、着心地は悪い。
服さえ着替えてしまえばもう放っておいてもらえるかも、というほのかな期待はあっさり裏切られ、部員はまた「ついて来なさい」と命じてくる。深冬は早く真白か泥棒狐を見つけなければという焦りに駆られるが、命令を聞くほかない。
「あの……ここって、何の工場なんですか?」
「知らないの? まあ北方から来たのなら無理ないかもね」
部員は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ここはイメンスチールの加工工場」
「イメンスチール?」
「イメンスニウムと金属類を混ぜ合わせて強度を増した素材のこと。私たちが使う燃料、奇跡のイメンスニウムは発熱量が大きすぎて、エンジンに使うにも普通の鉄では壊れてしまう。だからイメンスニウムを混ぜた特殊なスチールで部品や容器を作らなければならないの。ここではそのイメンスチールを曲げたり伸ばしたりして、たくさんの部品を作っている」
そういえばそんな言葉をここに来る前に目にした気がする。この世界の元である『銀の獣』の冒頭を思い出し、あれもよくわからない本だったな、と小さくため息をついた。少なくとも学校の国語の教科書では読まないタイプの物語だ。誰がこんなものを書くんだろうか。そもそもブック・カースは誰の仕業で、どんな仕組みなのかもわからない。そう考えたところで、深冬ははたと気がついた。
作者の名前を覚えていない。
表紙にあったろうか? 本とは、普通書いた人の名前が、表紙か背表紙か、どこかに必ず記載されているものだ。しかしこれまでブック・カースの元になった本の記憶を引っ張り出してみても、肝心の作者の名前は見当たらない。作者がわかれば、どうしてこんな世界を作ってしまったのか、巻き込まれる自分が大迷惑を被っているのだと、抗議することもできたろうが。
そうだ──蔵書記録にも記載がなかった。今日、『BLACK BOOK』の世界に入ってしまう前、居眠りするひるねが顔の下に敷いていた蔵書記録を調べたのだ。『繁茂村の兄弟』の名前はそこになかった。
廊下は十字路に差しかかり、部員の後に続いて右に折れると、小さなホールに出た。やけに明るい。人工の光ではない、太陽の光だ。深冬が見上げると、ホールの中央部分だけ天井がなく、代わりに鋼鉄の太い支柱が四本、突き立っていた。ここもまた吹き抜けになっており、まわりはフェンスで囲まれている。ここは何かの装置らしい。ホールの壁から幾本ものコードが這い、ヘビのように支柱に絡んで、側面の歯車や車輪、黒ベルトに繋がっている。
文芸部員がフェンスの手前の丸いボタンを押すと、歯車と車輪が高速で回転してベルトが勢いよく滑り、鈍い音と共に下から何かが上がってくる。金属とガラスでできた箱──それはエレベーターだった。がたんと大きな音を立てて深冬の目の前で止まり、蒸気を吐く。水蒸気で濡れた濃い緑色のドアには把手がついていて、部員がスライドさせて開ける。
「すごいでしょう。これは自動昇降機。イメンスニウムがもたらした、文明の利器のひとつなの」
「はあ……」
すごい、といえば確かにすごいと深冬は思った。エレベーターにはこれまで何度も、数え切れないほど当たり前に乗ってきたが、これほど珍妙だと新鮮に感じる。まさかベルトがちぎれて落ちたりしないだろうな……深冬はおっかなびっくりエレベーターに乗り、文芸部員がドアを閉めて階下へのボタンを押すのを待った。
エレベーターは遊園地のフリーフォール並にほとんど垂直落下で下へ向かったものの、ベルトはちぎれることなく無事に地階へ着いた。しばしの間無重力を味わいすっかり青ざめた顔の深冬は、口を押さえてよろよろと外へ出る。
地階の様子は上の作業場とは打って変わり、岩盤をくりぬいた赤茶色の洞窟に設備を取り付けただけの、地下水がしみ出してくるような場所だった。足下から冷気が漂ってきて、深冬は粟立った両腕をさすった。もはやここは読長町と呼べないのではないだろうか。
「新入りには必ずやらせる仕事があるの。あのドアの先へ行って」
部員はそう素っ気なく言い放つと、深冬を置いてエレベーターへ戻ってしまう。
「あなたは?」
「私は行かない。あなただけ。がんばってね」
再び勢いよく蒸気が噴き出し、エレベーターはロケットが発射するように上昇して、すぐに見えなくなった。
深冬は両腕をさすりながら、ドアの向こうはせめて暖かくありますようにと祈りつつ、把手を押した。
ドアの向こうは確かに暖かかった。暖かいどころか、毛穴という毛穴から一気に汗が噴き出すほどの高温だった。しかもひどく騒がしい。
「おおい、そっち早く持って行けよ!」
「急かすな馬鹿野郎! お前らが乱暴に扱うから後が大変なんだぞ!」
「いいからどっちも動け、明日の仕事を増やしたいのか!」
仄暗い中に大勢の人々がうごめく影が見える。数え切れないほど多くのランプがあちこちで懸命に光っているのに、ろくに明るくならないのは、部屋が巨大すぎるからだ。その一方で地面だけは妙に薄明るく、紫色の光の粉があちこちで妖しく輝いていた。空気には形容しがたいにおいが溢れている。むわっとして、それでいて不思議と香ばしいような。深冬は、キノコを墨汁と一緒に煮て砕いたナッツをトッピングしたら、こんなにおいに違いない、と思った。
おそるおそる中へ入り、あたりを窺う。見える範囲だけでも作業員は五十人以上はいて、土のようなものが積み上がった小山を崩しては、どこかへ運んでいる。小山に登った十数人の作業員がツルハシやシャベルを使ってそれを削り落とし、下で待ち構えている車輪付きのコンテナに載せると、小型の牽引車が警告灯を回転させながら運び出すのだ。牽引車も他の車と同じように、紫色の火が燃える炉を備え、歯車で動く。
誰もが大騒ぎしながら作業に没頭しており、新入りなどに関心を払う暇はなさそうだ。この隙に逃げて、蛍子、あの憎たらしい泥棒狐を見つけねば。深冬はそう決めて、どこかに出入り口はないかと小走りに探しはじめた。この場所はいわば洞窟で、壁は地下水でぬらぬら濡れた岩盤がむき出しになっている。
しかしその時、恐ろしい咆哮が地面を揺らし、地下洞窟を震わせた。
「なっ、何?」
強い地震のような揺れに、深冬は岩壁にしがみついた。近くで咆哮は二、三度繰り返し轟き、そのたび地面は激しく震動する。作業員たちの声が一層大きく、慌ただしくなり、「急げ!」「ぐずぐずするな!」と喚き合っている。深冬は恐怖で膝が笑うのを懸命に抑えながら、咆哮がした方角を見上げた。
さっきまでただの闇だった空中に、ふたつの並んだ光が見える。まるで青く染まった月がふたつに分かれ、三日月となって空に逆さまにかかったかのようだ。『繁茂村の兄弟』の夜の黒猫を思い出したが、雰囲気が明らかに違う。こちらには畏怖を感じる。
「〝獣〟が起きたぞ!」
小山ほどもありそうなその生き物が首を振って、上のランプに当たり、哀れなランプは地面に叩きつけられて油に引火し、たちまち炎の絨毯が広がる。その炎に照らされた生き物は、確かに〝獣〟としか喩えようのない姿をしていた。
いつか絵本で見た、お城を襲う竜のように長い首、胴には柔らかそうな毛が生え、四本の太い足で立ち、尻尾は魚に似ている。顔は鼻面が長く、竜とも狼とも言えない。その上、ところどころに鱗が鈍く光るので、魚から爬虫類までもが合体したような、奇妙な獣だった。色合いは全体が白っぽく、美しい。
「これが〝銀の獣〟?」
『銀の獣』を読みながら深冬が想像した、鉱山から現れたという設定の生き物と、目の前の獣は少し似ていた。深冬の想像の方がいくらか平凡で、動物園にいそうではあったものの。
獣は檻に囲まれてはいるが、材料が足りなかったのか、鉄の柵は天井まで届かず、長い首の三分の一以上がはみ出している。しかしよく見ると首と胴に革の固定具を着せられ、鎖で繋がれて、これ以上暴れることはできないようだった。
獣がランプを落とすのは日常茶飯事なのか、消火活動にあたる作業員たちは手慣れていて、背中に背負った消火器からホースで霧を吹きかけた。冷気が深冬のところまで漂い、火事は収まる。
一方の獣は、ぐっすり眠っていたところを妨害された赤ん坊のように、激しい鳴き声を上げる。
「……あれって、鳥みたいにきれいな声なんじゃなかったっけ」
深冬は原作を思い出しながら、獣を繋いでいる首輪の鎖を引こうと檻に登る、作業員たちを見守った。どうか制御できますように……。しかしそう簡単にはいかず、何人もの作業員たちが、暴れる獣の鎖を摑むや否や、振り落とされていく。
その時、ブザーが鳴った。岩壁に取り付けられていた警告灯がぐるぐる回り、赤い光がミラーボールのように洞窟を照らす。すると獣は急に暴れるのをやめ、青い眼を大きく見開いて首をもたげ、鼻の穴をスンスンひくつかせながら天井付近のにおいを嗅ぎはじめた。作業員たちは慌てた様子で檻から飛び降りる。
暗さと獣の首の長さのせいで、地上にいた深冬はこの警告灯が光るまで気がつかなかったが、岩をくりぬいて作られたこの地階の上部には、赤銅色の鉄扉があった。
「〝トマソン〟じゃん。なんであんなところに」
鉄扉は位置が高すぎる上、階段も梯子もないため、このままでは外から入れず、中からも出られない。どこにも通じていない扉や階段──建物の改修や取り壊しの最中になぜか残され、用途が無意味に思えるようになってしまったもの。
洞窟の岩壁にある〝トマソン〟、無意味に思われた鉄扉は、軋みながらゆっくり開いていく。同時に歯車がごてごてとついた短い板が一枚、内部からぱたんと飛び出て、白い頭巾をかぶった作業員がふたり現れると、歯車と連結するハンドルをぐるぐる回しはじめた。すると板からアームが伸び、獣の頭のあたりでぴたりと止まる。するとアームの下から何枚もの板が瞬時に飛び出しながら互いに噛み合い、細長い空中回廊が姿を現した。鉄扉は無用の長物などではなかったようだ。
作業員たちは向き合って右手を額に当てて敬礼する。扉の内側で人影が揺らぐ。
現れたのは赤いトレンチコートのような制服を着た人物だった。その人物は腰に鍵束をじゃらつかせ、右手に鎖を持っている。回転する警告灯に浮かび上がる空中回廊へ向かって歩き出し、その後ろを鎖に繋がれた動物たちがついていく。黄色い狐、白い犬、そして茶色い馬。
「真白!」
(つづく)