「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行を記念して、深緑さんイチオシの第三章、オイシイところを試し読み!
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白い犬は真白に間違いなかった。しかし周囲の騒音が激しく、声が届いた気配はまるでない。深冬は夢中で駆け出し、獣の檻に近づきつつもう一度叫んだ。
「真白! 聞こえないの? 真白!」
すると真白はぴくりと耳を動かし、顔を上げた──しかし様子がおかしい。いつもの真白ならば声の主が深冬だと気づくはずなのに、くたびれ果てたようにがっくりとうなだれてしまう。
あともう少しで深冬の手が獣の檻に触れる、その時、ふいにブザーが鳴り止んだ。先頭の赤い制服の人間が体をかがめ、連れ添っていた狐の首輪から鎖を外した。
「ちょ、ちょっと! 何してるの?」
深冬は動揺のあまり、近くにいた作業員の腕を摑んで、上で何が起きているのかと訊ねた。
「ああ、あんた新入りかい? ありゃ餌だよ、獣の食事の時間なのさ」
それを聞いて深冬の顔から血の気が引く。
「まさか。餌って、動物を食べるの?」
「おかしなことを言うね。あんただって動物は食べるだろうに」
すると獣が、透き通る美しい声で鳴いた。さっきまでの怒りに満ちた鈍い声とはまるで違う、小鳥が囀るような声で。そして獣は、犬が飼い主にそうするように、嬉しそうに前足を上げて檻のふちにかける。
次の瞬間、空中回廊の狐が立っていた場所の床が抜け、黄色く小さな体が真っ逆さまに落ちた。獣は鳴くのをやめて口を大きく開ける。
深冬は悲鳴を上げ、柱ほども太い柵を拳で叩いた。あの狐は泥棒狐、蛍子ではないか? ブック・カースの世界とはいえ、死んだら現実でも死んでしまうのかもしれない。
しかし狐は、ぬらぬらと光る獣の舌の上に落ちる直前、くるりと身を回転させて体勢を整えると、後ろ足で獣の太い牙を蹴り、飛び上がった。
「蛍子さん!」
狐は獣の牙から鼻、眉間を次々足場にし、ひらりと宙に舞ったかと思うと、檻を越えて地面に着地、全速力で逃げていった。深冬がいる場所とは反対方向、コンテナの牽引車を追い越し、洞窟の奥へと姿を消す。
たちまち獣は怒りの咆哮を上げた。餌を逃がして癇癪を起こし、尻尾を激しく振って檻を壊さんばかりに叩く。柵が震え、手を触れていた深冬も弾き飛ばされた。後ろの小山にぶつかり、口の中に入った土塊を吐き出していると、すぐそばを大勢の作業員たちが駆けていく。
「麻酔銃隊はどこだ!」
「ここです! 出動! 出動!」
麻酔銃の羽根付き針が何本も胴や首に刺さり、暴れ狂っていた獣は力を抜かれて、崩れ落ちるように檻の中で横たわり、青い眼が閉じ、そのまま眠りにつく。あれほど凶暴に見えた姿とは裏腹に、寝息はまるでハープの音色だ。作業員たちはやれやれと首を振りながら仕事に戻り、作業場は再び正常に動きはじめる。
「ま、真白は」
見上げると、空中回廊はいつの間にか消えていて、真白も、赤い制服の人物も、茶色い馬も、いなくなっていた。鉄扉は再び閉ざされている。
あそこへは、どうやって行けば良いのか。建物内に入って回り込むのが正解だろうが、あの複雑な構造の工場に戻ったところで、扉の裏側へたどり着ける保証もない。それではここでまたあの扉が開くのを待つか?
深冬は、土砂を積んだコンテナを運ぶ牽引車を目で追った。あの先には何があるのだろう。そういえばさっき逃げた狐は、あちらの方角へ行ったようだった。
真白を助けなければ、次に獣が起きた時、餌食になってしまうのはわかっている。だからこそ深冬はスニーカーの紐を結び直すと、コンテナの後を追った。真白の居場所へたどり着く道を闇雲に探すより、狐を追った方がいい。
牽引車はゴルフのカートに少し似ていると深冬は思った。コンテナに乗ってしまえば楽だろうが、黒々とした土砂が山と積まれた上に座る気は起こらず、諦めて後をつけることにした。洞窟は相変わらず暗いが、牽引車はくるくると回る警告灯が目印になるし、そもそも速度が自転車よりも遅いので、深冬の足でも見失わずに追いつける。それよりも困るのは空気の悪さとにおいである。キノコと墨汁とナッツを合わせたようなおかしなにおいは、ずっと嗅いでいると吐き気がこみ上げてくる。さらに人間の汗臭さも問題だった。
袖口で鼻と口を塞ぎ、空気をなるべく口から吸うようにしながら、深冬はコンテナの陰に身を隠しつつ駆け足する。牽引車はやがて作業場を出たが、そこはまだ終点ではなく、道幅の狭い通路を進む。ゲートを越えるとそこは上り坂で、すでに息を切らしはじめていた深冬の脇腹が鋭く痛んだ。それでも歯を食いしばって坂道を上る。何しろ、上の方から白い光、明らかに太陽の光が照っていたから、どうしてもあそこへ行かねばという気になっていた。
予想は当たった。傾斜した廊下の先、牽引車とコンテナの目的地は、地上だった。出口だ。
もう疲労で足が動かず、深冬は最後尾のコンテナの後ろに倒れ込んだ。工場からは出られたものの、ここは黒っぽい色の土が一面を埋め尽くしている荒野で、身を隠せそうな物陰もない。作業服に着替えさせられて良かった、と深冬は仰向けになりながら思う。今は読長町のどのあたりにいるのだろう。空に雲はひとつもなく、鳥も飛んでいなかった。
開けた場所に出た牽引車は、大きな動物のあばら骨のような鉄のケージの中に入ると停止し、連結されていたコンテナもごとんと音を立てて玉突きしながら停まる。牽引車の運転席から作業員がひとり出てきて、ゲートのスイッチを入れると、あばら骨状のケージの地面が震えながら傾き、コンテナ列全体が斜めになった。続いて作業員が先頭のコンテナの側あおりを開けると、土が外へ排出された。
あの作業員が最後尾に着く前に移動しなければ、と深冬が疲れた体に鞭打って起き上がりかけたその時、黒い面をかぶった小さな人物が、牽引車の陰から現れた。
「えっ?」
その黒面の人物、おそらく十歳前後の子どもは、あばら骨ケージのすぐそばに近づいてボタンを押すと、素早く裏側へ逃げ込んだ。ケージはぎぎっと鈍く軋み、コンテナごと元の位置に戻っていく。
「おいおい、困ったな」
ひとりで排出にあたっていた作業員がボタンの元に向かうと、その背後にこんもりと盛り上がった土の向こうから、黒面がぴょこぴょこと覗いた。全員華奢で、すばしっこく、あっという間にコンテナに乗り込んでいく。そのうちのひとりが牽引車の運転席に入ってしまうが、作業員は操作に集中していて気づかない。
「うーん、故障か? ……あっ、お前たち!」
作業員がやっと気づいて叱りつけたと同時に、牽引車は土塊をまき散らしながら出発し、コンテナも後に続いた。黒面たちはからからころころと笑っている。深冬は咄嗟にコンテナのへりを摑み、さっきまで嫌がっていた土砂の上に飛び乗った。突然走り出したコンテナに呆然とする作業員も、はっとして深冬の後に続こうとするが、深冬がその手を素早く叩き、作業員は転んで頭から土砂に突っ込む。
「止まれ! 降りろ!」
顔を土まみれにしながら作業員が叫ぶ声は、どんどん遠ざかっていった。
「お客さんがひとりいるよ!」
「蹴っ飛ばしちまえ! 落っことせ!」
「でも可哀想だよ。僕のお姉ちゃんと同じくらいだし」
面を上げて頭のてっぺんに乗せ、顔があらわになる。やはりみな十歳前後の子どもばかりだった。
子どもたちは十人いて、牽引車にふたり、コンテナには八人乗っている。頭からつま先まで土で汚れ、奇妙な格好をしていた。小さな歯車やネジをあしらった布を額に巻いたり、底の抜けたバケツをかぶったり、地肌の上からサスペンダー付きのズボンを穿いて袖のないジャケットを着ていたり。羽根をたくさん縫い付けたガウンや、大人用のシャツをワンピースのようにしてまとっていたり。
「あなたたちは誰なの?」
子どもたちの顔をよく見ると、全員見覚えがあった。父の道場の生徒たちだ。深冬の心を固めていた警戒がたちまちほどけていき、涙がぽろぽろとこぼれる。
「おい泣いてるぞ!」
「泣いてる! なんで?」
「けがをしたんじゃない?」
「俺たちが怖いんだよ!」
子どもたちは互いの脇腹や肩を突っつき合い、早く慰めに行けよ、あんたこそ、と口々に言う。しかし見知らぬ年上の少女を慰めるのは照れくさいのか、もじもじするばかりだ。
すると牽引車の屋根に乗っていた少年が振り返り、面倒くさそうに首を振りながらコンテナの列を乗り越え、騒いでいる子どもたちのところへやってきた。彼も現実世界では道場の生徒だった。他の子どもの名前はいちいち覚えてない深冬だが、彼のことは知っている。リーダー格の少年で柔道も強く、あゆむからも崔からもかわいがられていた。確か、カッキー、と呼ばれていたはずだ。髪が短く、負けん気の強そうな顔立ち、袖を脇のところで裁断したシャツから、力こぶがうっすら盛り上がった腕がにゅっと突き出している。
「うるせえぞ、お前ら」
「だって兄貴、この女が泣くんだもん」
「はあ? そんなの放っておけよ。勝手に泣かせておけばいいだろ」
カッキーはこの世界でもリーダー格らしい。子どもたちの中心に立ち、深冬をじっと見下ろしてくる。深冬は頬が汚れるのもかまわず手で涙を拭い、「狐を捜してるの」と打ち明けた。
「狐がここに来なかった? こっちに走って逃げたところは見たんだけど」
子どもたちは顔を見合わせる。
「ここらにいる動物? でもそれって、銀の獣の餌だろ?」
「やばいんじゃない?」
子どもたちはゆっくりゆっくり後退り、コンテナのへりを越えて、前方のコンテナへ逃げてしまう。深冬の前に残ったのは、カッキーと、両のレンズの色が違うメガネをかけた少年のふたりだけだった。
両腕を組んでふんぞり返るカッキーの態度はどこまでも尊大で、深冬の方が三つか四つ年上だが、対等に見える。
「あんた、ここがどこかわかってんのか?」
不機嫌そうに言われ、深冬はおそるおそるあたりを見回す。
「どこって……」
空は晴れているが、あちこちから溢れる蒸気で、周囲の工場群のシルエットが霞んで見える。ここはとてつもなく広い。現実世界のテレビではよく広さを「〝東京ドーム〟何個分」と表現するが、東京ドームに行ったことのない深冬には喩えられなかった。強いて言うなら、高校の校庭が公園の砂場に感じられる広さだ。あたり一面、黒っぽい土がこんもりと無造作に積まれ、地下で嗅いだのと同じあのにおいがまだ漂っていた。
「畑、かなあ」
土に有機的なにおいとくれば、肥料を撒いた畑を思い出す。しかしカッキーは「はっ」と笑う。
「ハズレ! 正解は銀の獣のうんこ処理場だ」
「……う、嘘でしょ?」
「嘘なんかついてどうすんだよ。あんたも地下から来たなら見ただろ、銀の獣の飼育所をさ。餌を食わせたら出るもんが出る。そいつをここに運んで処理をする」
深冬はこみ上げてくる酸っぱいものにおえっとえずき、唾液を吐いたり顔や体についたものをはたき落としたりした。するとメガネの少年の方が「あー、あー」と同情的な声を出す。
「ちょっと、可哀想だってば。正しくは代謝物って言った方がいいよ。銀の獣の内臓や器官は特殊だしそもそも肛門がない」
「は、お前は細かすぎるんだよ。とにかく、そんなに気味悪がらなくても大丈夫だ。害はねえから」
「気休めはよしてよ!」
深冬が叫ぶと、メガネの方がぐっと首をすくめ、カメのようになった。
「こええー。バトンタッチ」
「はいよ。本当だっての。銀の獣のうんこ、タイシャブツはな、何の役にも立たないんだ。変なにおいがするってだけで肥料にもなりゃしない。本物の土にも混ざらないし水にも溶けないから処分に困ってる。増えるばっかりさ」
「……そんな生き物、どうして飼育してるの?」
「イメンスニウムが出るからさ」
(つづく)