この本を盗む者は_第3章

森見登美彦推薦!この秋話題の一冊! 深緑野分『この本を盗む者は』はここを読め! 特別試し読み#4
「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行を記念して、深緑さんイチオシの第三章、オイシイところを試し読み!
※「第一話 魔術的現実主義の旗に追われる」の試し読みはコチラ
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イメンスニウム──物語に出てきた鉱石。護送車のエンジン炉や警告灯、エレベーターを見た今、紫色に光るあの炎がイメンスニウムの炎なのだと、深冬も気がついた。この世界のあらゆる機械たちの動力源だ。首をすくめていたメガネの少年がえへんと咳払いをひとつして、胸を張って前に出る。
「イメンスニウムとは、銀の獣の代謝物のひとつなのです。鱗の隙間や体中から四散する代謝物に交じっている」
「要するに地下の作業員の連中は毎日毎日汗水垂らして、銀の獣のうんこに埋もれたイメンスニウムを探しているのさ。でもみんなやりたがらないから、新入りや北方奴隷や俺たちみたいな孤児にその仕事をさせてるってわけ」
「……あんたたちもあそこにいたの?」
「そうさ。俺たちはあの作業場から逃げ出したんだ。工場の生活は最悪なんだよ」
今度は深冬が鼻を鳴らす番だった。
「せっかく逃げたのに戻ってくるなんて変なの。下手したら捕まっちゃうでしょ」
「まあね。だけど俺たちだって金がいるからさ」
カッキーがそう答えたところで、牽引車はブレーキをかけ、深冬がいる最後尾のコンテナもゆっくりと停まった。目の前には、横に長い二階建ての、校舎のような建物が建っている。出入り口の開きっぱなしのドアの前には、子どもたちと同じくらい薄汚れて奇抜な格好をした大人たちが、一台の機械を取り囲んでいた。軽トラックにどことなく似ていて、歯車や用途のわからないダクトがついているのはこの世界らしいが、イメンスニウムの特徴的な紫の炎が燃える炉はなく、若い男が汗みずくになりながらハンドルを回している。音を立てながら機械は動き、小刻みに震え、右のダクトから大量の黒い砂が、左のダクトからは紫色のきらきら輝く小石が、たった一粒ころんと転がって落ちた。排気口から溢れる煙は煤けていて、深冬にも嗅ぎ慣れた炭のにおいがした。
「変なの、こんなにおいを懐かしいと思うなんて」
ひとりごとのつもりが、そばにいたカッキーの耳にも届いたようで、彼はおかしそうに笑った。
「面白いな、炭が懐かしいだって? やっぱあんたはよそから来たんだな。イメンスニウムを知らないって本当か?」
「知らないね。はじめて見たもの。この機械で何をしてるの?」
「残ったイメンスニウムのカスを採ってんのさ。燃料になるほどの量じゃないから、工場や業者には売れない。でも宝石としての価値があんの。あんたみたいな外国の連中に売るんだ」
子どもたちはすでに家の外や中でくつろいでいる。カッキーは、ここは家なのだと深冬に教えた。
「大人も子どもも、赤ん坊や爺さん婆さんもいる。血は繋がってない。脱走したものの行き場がないみんなで、一緒に暮らしてるんだ。あんたもここで暮らすか?」
振り返ったカッキーを見て、深冬は「あっ」と声を出した。
耳だ。狐の柔らかくて尖った耳が、カッキーの頭からふたつ、育ちたてのタケノコのようににょっきりと生えている。深冬は慌てて自分の頭をまさぐり、ふにゅっとした感触を指先に感じて、がっかりした。
しっかりしろ、あたし。深冬は自分にそう言い聞かせる。物語は魔力だ。すっかりこの世界に興味を惹かれて、当初の目的を忘れかけていた。真白を救わなければ、銀の獣が麻酔の眠りから覚めた後、餌にされてしまう。その前に狐、蛍子を見つけて元の世界に戻さなければ。
「ねえ、さっきの話だけど。本当に狐を知らない? 急いで捜さないと、大変なことになっちゃう」
「狐ねえ」カッキーは腕組みをして考えるポーズをとった。「誰かが食っちまったかもな」
「食った? 冗談でしょ?」
「冗談じゃないって。俺たちはみんな飢えてる。食い物に困ってるんだ。イメンスニウムの買い手から仲介業者を通して受け取る報酬は、そんなに多くない。ここの存在を知ってる工場のやつがこっそり運んでくれる冷たい粥だのじゃがいもだの、腐りかけの魚だので食いつないでるのが現状でね。だから時々銀の獣の餌が逃げて迷い込んできたら、とっ捕まえて食っちまうんだ。あちこちに罠がしかけてあるんだぜ」
急に、こちらをじっと見つめてくる子どもたちや大人たちの表情が、ひどく冷たく、恐ろしいものに感じられた。狐の耳と尻尾が生えた今は特に、本当の捕食者のように見える。両目を光らせ、数秒後には視線で射すくめられた獲物に飛びかかる。
深冬は踵を返して駆け出した。「あ、おい!」カッキーの声が追いかけてくるが、耳を塞いで走り続ける。その最中にも深冬は自分の手足が天鵞絨のようになめらかになり、しなやかで、筋肉が動かしやすくなっているのを感じた。
──体が狐になっていく──
もしこのまま狐になってしまったら、どうなるのだろう。しかし泥棒狐を捕まえようにも、何の手がかりもなく、銀の獣の代謝物処理場は巨大すぎ、深冬の足ではとても探しきれそうにない。牽引車でここまでやってきて、蒸気の向こうに見える工場は小さく、遠い。もう銀の獣は目を覚まして、食事の催促をしているかもしれない。
真白の顔が脳裏をよぎる。ついさっき、『BLACK BOOK』の暗く危険な世界の、喫茶店の前に腰掛けて話をしたばかりなのに。
負けるものか。
次第に二本の足で走るより、手をついた方が走りやすいと思うようになり、靡かせていた長い髪の感覚も消え、尾てい骨の周辺に力を入れると、さっきまで感じていなかった尻尾の先まで神経が行き届いているのがわかった。深冬はこれまでの何倍もの速度で、黒い代謝物の荒野を走る。
走れ、走れ、走れ。息をしろ、手足を動かせ、休みなく。耳の奥で激しい鼓動の音が聞こえる。進め、もし心臓が破裂しようとも、走れ。
靄を切り裂き、出てきた時と同じ地下との連絡通路を見つけ、四本足で滑り込む。尻尾でバランスをとりながら勢いよく坂を下り、深冬は銀の獣の飼育場に戻った。
作業場は先ほどとはずいぶん様子が違っていた。作業員たちも狐に変化しつつあり、毛並みの豊かな耳や尻尾を生やし、牽引車を操縦したり、発掘されたイメンスニウムの塊を取り囲んで輝き具合を確かめたりしている。
銀の獣はまだ檻の中で眠っている。
次の食事を終えたばかりじゃありませんように、そう願いながら深冬は、岩壁と自分の手を見比べた。爪はピッケルのように鋭く、体重もずいぶん軽くなっている。
深冬は急いで檻の脇を走り、靴下とスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てると、岩壁に両手足の爪を立てた。
「いける」
尻尾でバランスをとりながら、ごつごつした岩壁を登る。誰かが見ているかもしれないなどと考える暇はなかった。早く、早く、早く。気が急いてしかたがない。どんどん手足を動かし、あっという間に檻を越え、岩壁の上、〝トマソン〟風の鉄扉のそばまでやってきた。
錆びた赤銅色の鉄扉は閉ざされ、把手が存在しない。しかし上部にいくらか隙間があり、そこから風が吹いてくる。深冬は左手で岩壁を摑み、両足の爪も岩壁に引っかけ踏ん張りつつ、右手の爪を隙間に差し込み、どうにかして扉をこじ開けようとした。しかし、うまくいかない。まるで手にミトンをはめられているようだ。岩を登るには適しているが、細かい作業には不向きだった。
深冬は夢中だった。足場にひびが入っていることにも気づかなかった。苛立ちながらもう一度手を入れて爪をかけようとしたその瞬間、体を支えていた右の足がずるりと滑り、岩がひとかたまり落ちてしまった。
「あっ」
体勢を崩しかけた深冬は慌てて鉄扉の隙間を摑み、どうにか落下は免れる。しかしすぐに恐ろしい声が響き渡った。岩が当たって、銀の獣が目を覚ましたのだ。
どっと冷や汗が噴き出す。深冬の全身の毛は逆立ち、震えが止まらない。後ろに気配がある。うなり声と生暖かい風を感じる。怯えながら肩口を振り返ると、大きな中華鍋ほどもあるつるりとした青い目が、すぐそばにあり、心臓が止まりそうになった。
獣が起きたことが合図になったのか、再びブザーが鳴り、警告灯がくるくると回転する。深冬は間近に迫った獣の巨大な顔に気を取られて、扉が開くことをすっかり忘れていた。
「しまった」
扉が開いた弾みに深冬はバランスを崩し、そのまま真っ逆さまに落ちた。
空中回廊が出現し、先頭には真白がいる。前回と何の変化もなく、真白は白い犬の姿のまま、赤い制服を着た人物に付き添われ、うなだれている。
深冬は落下しながらどこか他人事の心地で、獣が長い首を動かして自分の方へ向かってこようとするのを見ながら、「真白」と呟いた。それはとても小さな囁きだったが、真白は耳を動かし、顔を上げた。
わずかな間にこれまでのことが走馬灯のようにぐるぐると深冬の頭の中を回転する。夜の黒猫の子を助けようとして落ちた時、真白が飛んできて救ってくれた。あたしは真白に助けられてばかりだった。
その時、真白の横にいる赤い制服の人物の顔が見えた。
蛍子だ。
狐化が相当進んでいたが、まだ人間の顔つきは残っている。蛍子に間違いなかった。
「どういうこと?」
口をぱっくり開けて迫り来る獣の息が顔に吹きかかるのと、地面にぶつかる気配を感じるのと同時に、深冬はかっと目を見開き、体を思い切りひねった。俊敏な狐の肉体を持った深冬は、体育が苦手だった現実が嘘のように、回転しながら軽々と獣の牙をよけ、体勢を整える。最後に尻尾の先だけ牙の先にかすめられ、痛みが走ったが、奥歯を噛んで耐えた。
深冬は獣の体に着地すると、後ろ足をばねにして飛び、檻の柵を足場にして、再び高く跳躍した。
紙飛行機にでもなったような気分だった。空に向けて放たれ、風を切って宙をゆく紙飛行機に。目指すは空中回廊だ。その最中、鼻のあたりがむずがゆくなり、鼻が狐と同じく伸びていくのを悟る。しかし世界はまだ続いている。まだ間に合う。
深冬は自分を紙飛行機だと思ったが、傍から見れば弾丸のようだと思っただろう。弾丸と化した深冬はそのまま赤い制服を着た、ほとんど狐になったものめがけて突っ込んだ。蛍子狐は後ろに倒れ、丸い手から鎖が外れた。
「真白!」
「うぉん!」
深冬は懸命に腕を伸ばして真白の首に抱きついた。ふわりとした長い毛足、知っているにおい。鎖が外れて自由になった真白は、深冬を背中に乗せ、空中回廊から宙へ舞った。銀の獣は猛烈に怒り、耳を聾する咆哮を上げ、檻が破れんばかりに暴れている。
「真白、蛍子さんは泥棒じゃなかった。あたしには〝本を盗む〟って言ったのに、嘘だったんだ。ううん、ひょっとすると蛍子さんが本を盗む前に、別の誰かが忍び込んで、蛍子さんの計画を邪魔したのかもしれない。どっちにしても、今回の泥棒狐は別にいる」
真白は返事をするように「がう」とひと声吠え、暴れ狂う獣の足の間をすり抜け、檻から脱出した。
滑空する白い犬の背中に、小麦色の狐がへばりつき、びゅうびゅう吹き付ける風に両目をぎゅっとつぶっていた。檻の中の怪物、狼と竜が合体したような姿の銀の獣は、餌を逃して悔しげに地団駄を踏み、部屋全体が大きく揺れる。
「真白、どこかで降ろして! ふ、吹き飛ばされそう!」
「うおん!」
すでに人間ではなく狐になってしまった深冬が叫ぶと、犬の真白は威勢良く吠えて返事をした。
銀の獣の世話をしていた作業員たちも、全員狐に変わっている。人間だった時でさえ銀の獣の暴れぶりには手を焼いていたのに、みんな体が十分の一ほどのサイズに縮んでしまったことで、ますます世話が困難になったようだ。獣の首輪に繋がる鎖に何十匹と群がり、よいしょこらしょと引っ張ってその巨体を押さえ込もうとするが、獣が少し首を振っただけで、まるで強風にあおられた万国旗のようにぷらぷら揺れてしまう。
真白はいったん着地すると後ろ足で力強く地面を蹴り、再び宙に舞い上がって、右往左往する狐たちの頭上を飛び越えた。そして最初に入って来た入口を通り、ひと気のない暗い廊下でようやく歩みをゆるやかにすると、壁のくぼんだところで立ち止まった。エレベーターのランプが明滅している。
深冬は真白の長い毛をロープ代わりにして摑まり、すっかり小麦色のなめらかな毛皮になった自分の全身に改めてぎょっとしながら、短い足をぶらつかせて下を探る。人間だった時にはすぐつま先が地面に触れたのに、いくらつま先を伸ばしても空を切るばかりだ。仕方なく、意を決して真白の毛から手を離す──「んぎゃっ」。安心したせいか、先ほどの勇敢さや身のこなしがまるで嘘のように、深冬は変な声を出しつつ、地面に降りた。
「もう最悪……完全に狐になっちゃったよ」
うつむけば白っぽい毛むくじゃらの腹が見える。腕や尻、全身を不満げに確かめていると、真白が体を震わせる。白い毛が羽のように舞い、少女の姿に戻った。
「……なんであんただけ人間のままなの」
深冬がじろりと睨んだせいか、真白は寂しげな顔をした。
「だって私は……深冬ちゃん、本当に覚えてないの?」
「は? どういう意味?」
イライラが最高潮とばかりに乱暴に聞き返したその時、銀の獣がいる部屋の方からどおんとすさまじい音が響いて、たちまち、狐たちが一斉に逃げてきた。
「逃げろ、逃げろ!」
「もうだめだ、銀の獣が鎖を引きちぎった!」
地面は脈打つように震動している。深冬と真白は顔を見合わせ、慌てて逃げだそうとした。しかし狐たちの数が多く、エレベーターはすぐに満員になり、乗れなかった狐たちは箱にしがみつくか、柱をよじ登りはじめた。我先にと上階へ上がろうとするその鈴なりぶりはまるで植物にたかるアブラムシのようで、とても割り込めない。その間にも銀の獣の咆哮が聞こえ、「檻を壊したぞ!」と叫びながら逃げてきた最後の狐が、鋼鉄の入口扉を閉めて閂をかけた。
「他の連中は?」
「運搬口から逃げたよ! やつはこっちに来る!」
足音はどんどん大きくなり、震動も強まり、獣は確実にこちらに近づいている。深冬はがっくりと肩を落とした。
「こっちじゃなくて、反対側に出ればよかった」
「反対側?」
「そう。あっちは運搬口だから、幅がうんと広いし、みんな逃げやすいはずだったんだけど」
まさか銀の獣が鎖を引きちぎって檻を壊し、脱走するとは思わなかったのだ。このままではみんな獣に食べられてしまうだろう。
鉄の扉がすさまじい音を立てて歪み、狐たちは一斉に悲鳴を上げる。獣が体当たりをしているのだ。深冬の足もすくむ。しかしひしゃげた扉の隙間から獣の鼻面が覗くのを見て、決心を固めた。
「真白、変身して!」
真白は命じられたとおり犬の姿に変身する。イチかバチか、やってみるしかない。深冬は真白の背中によじ登ると、耳打ちした。
「あいつが入って来たら、顔の前で飛んで。気を引きつけたらここから遠ざけるの」
真白が返事をする間もなく、扉が真っ二つに裂けて、蝶番で繋がっていた岩壁ごとちぎれた。降り注ぐ岩の粉、銀の獣の長い首が伸びてきて、開いた赤い口から蒸気が溢れる。
「今!」
(つづく)