ゲーム好き、アニメ好きも必読!
著者・深緑野分、渾身の作中作、スチーム・パンクパートを特別公開
「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行を記念して、深緑さんイチオシの第三章、オイシイところを試し読み!
※「第一話 魔術的現実主義の旗に追われる」の試し読みはコチラ
ここまでのあらすじ
書物の蒐集家を曾祖父に持つ高校生の深冬。父は巨大な書庫「御倉館」の管理人を務めるが、深冬は本が好きではない。ある日、御倉館から蔵書が盗まれ、父の代わりに館を訪れていた深冬は残されたメッセージを目にする。“この本を盗む者は、魔術的現実主義の旗に追われる”。本の呪い(ブックカース)が発動し、街は物語の世界に姿を変えていく。泥棒を捕まえない限り元に戻らないと知った深冬は、真珠の雨が降るマジックレアリスムの世界や、私立探偵が拳銃を手に陰謀に挑むハードボイルド世界を冒険していく。
そんな深冬の前に、本泥棒を名乗る女性が現れ、みたび「ブックカース」が引き起こされた。今回深冬が冒険するのは、スチーム・パンク『銀の獣』の世界――!
〝銀の獣〟──そのおとぎ話をはじめて聞いたのは、いつのことだったろうか。
全身が銀でできている美しい獣で、ここステムホープの街が生まれるずっとずっと前から生きているそうだ。帝国の北方に生息し、銀の毛を震わせ、暑い季節でも息が白く、ナイチンゲールよりも透き通った声で鳴く。その上、世界で最も優しく、強くて、立派な獣なのだと。
じいさんから繰り返し繰り返し聞かされたおとぎ話は、たいてい穏やかで、甘くて、ほんの少しメランコリックだ。蒸気機関車の機関手だったじいさんは、一度だけ、銀の獣を見たことがあると言う。
機関車は僕が想像もできないほどの距離を走る。じいさんは一度仕事に出かけると、長いこと帰ってこなかった。その代わりひとたび帰れば、新月が満月になるまで、家で休んだ。その間に僕や妹におとぎ話を聞かせてくれたというわけだ。
針山と呼ばれる、帝国北方で発見されたばかりの、新しい炭鉱。そこでは蒸気機関の燃料となる石炭を採掘する炭坑夫たちが、坑道の悪い空気を肺に吸い込みながら青白い筋肉を汗で光らせ、ツルハシをふるって石炭を掘る。
その日、集めた石炭をトロッコに積む最中、ひとりの若者が悲鳴を上げた。慌てて駆けつけた仲間たちの目に、若者がツルハシの柄を摑んだままけいれんし、泡を吹き白目をむいている姿が映った。坑道に突き刺さったままのツルハシの先端が、まるで熱した鉄のように赤々と燃えている。仲間たちは急いで若者の手をツルハシから引き剥がそうとしたが、彼の体はすでに触れられないほど熱くなっていて、ほんの数秒後、仲間たちの目の前で全身の水分が蒸発して萎み、死んでしまった。
帝国の官吏に報告をすると、すぐさま調査隊がやって来た。針山は封鎖され、石炭は採れなくなり、たくさんの炭坑夫が思わぬ休職に困窮した。お情けで配られる屑肉のスープがどんどん薄くなって、小さな子どもや病人から倒れはじめた頃、針山から耳をつんざく爆音が轟いた。
何事かと外へ出た人々の前に、荒野が広がっていた。針山はどこにもない。黒々として切り立った峰、どこへいても目につく威圧感たっぷりの存在、見逃しようもないはずの山が、忽然と姿を消していた。開けた荒野に立ちこめる深い靄の中から、幾人もの影がゆらぎ、浮かんで、人々の方へ近づいてくる。それは頭からつま先までを覆う、さなぎに似た防護服に身を包む調査隊だった。
人々が質問や抗議の言葉を投げかける中を、調査隊はひとことも発さずに通り抜け、待っていた馬車に次々乗り込むとどこかへ去った。やがて靄が晴れていく。残された炭坑夫やその家族たちの耳に、透き通るように美しい、鳥の声に似た鳴き声が聞こえた。
次の瞬間、針山があったはずの場所から、巨大な生物が首をもたげた。
長い首、頭は天をつかんばかり、胴は太くて毛が生え、四つ足だが、魚のような尻尾がある。古い神話に登場する竜と、狼と、そして人魚を合わせたような、奇妙な銀の獣だった。
曇天のわずかな隙間から太陽の光が幾重も差し、銀色の体が黄金をまぶしたように輝く。獣はゆっくりと頭を動かすと、尖った口を開いて白い息を吐いた。
呆気にとられて立ち尽くす人々の頭上、体に、息が吹きかけられる。それはすさまじい高温の蒸気で、人々は蒸発してしまった。
かろうじて第一波を免れ逃げようと走り出した人々の背に、第二波の呼気がかかり、体中の水分が熱で弾け、霧散する。
だが銀の獣の動きはここで封じられた。馬車で移動した調査隊が密かに近くの岩場にまわり、針山にめぐらされた坑道に仕込んでいた爆薬に着火して岩盤を崩落させ、獣の足場を崩した。その隙をついて、控えていた軍隊が銀の獣に突撃した。
──以上が、銀の獣にまつわる、じいさんのおとぎ話だ。
僕は工場学校にいて、退屈な授業の合間に羽根ペンを握り、この物語を書いている。先生はイメンスニウムの話をしている。我らが帝国を他国と比べて百年分も二百年分も先に進ませた、偉大なる鉱石。針山の跡地で発掘されるようになった、石炭の実に一千倍ものエネルギーを持つ鉱石。
帝国の科学者たちははじめ、強すぎるエネルギーをコントロールできず、何度となく研究所を爆発させて何人もの犠牲者を出した。しかしイメンスニウムが他の金属と混ぜ合わせることもできるとわかると、研究は大きく動いた。ダイヤモンドよりも硬く強靭なイメンスチールが開発され、イメンスニウムの強大な力にも耐えられる安定した内燃機関を作ることができたのである。
学校で教わるのはイメンスニウムの扱い方で、昔針山に現れた銀の獣の話なんて一切出てこない。けれど僕は、銀の獣とイメンスニウムには関連がある、と思っている。なにしろじいさんが銀の獣を見たのは、ちょうどその災厄の日、針山のある街のそばを機関車で通った時のことだったからだ。
僕は毎朝四時に起きる。工場の労働宿舎の横におできのように作られた学生用の寮、狭い部屋にびっしり並んだ狭い三段ベッドの中にいて、「起床! 起床!」という寮長のがなり声と鳴り響くベルに叩き起こされ、寝ぼけ眼で木の床に降りる。つぎあてだらけの肌着の上に、妙に粉くさいシャツを着ていると、下段のやつから「洗濯室のタグがつきっぱなしだぞ」と笑われる。それから食堂に向かい、僕は
「……ねえ、なんか変なにおいがする」
深冬はふと本から顔を上げ、くんくんとあたりのにおいを嗅いだ。
「どぶ臭い。生臭いし、お風呂に入っていないみたいなにおいもする」
そう言いながら真白を見ると、すでに真白は顔をくしゃくしゃに歪めて、両手で鼻を覆っていた。
「わ、私、犬なので、嗅覚がちょっと……」
「ああ、そりゃ大変だわ」
深冬はショルダーバッグの中をまさぐってポケットティッシュを取ると、一枚を半分にちぎって丸め、真白の鼻の穴にひとつずつ突っ込んでやった。
「ふ、ふが、ふが……ひょ、ひょっと、まひに、なったかは」
涙ぐみながらしゃべる真白がおかしくて深冬はついげらげらと笑ってしまったが、はたと蛍子のことを思い出し、真面目な顔に戻る。
「よし、じゃあ行こう。もう本の中に入れたみたいだし。蛍子さん、もう狐になってるかはわからないけど、とにかく捕まえなくちゃ」
ふたりは書庫を出て、意気揚々と御倉館の玄関を開けた。そしてあんぐりと口を開けた。
読長町が、もはや読長町ではなかった。
御倉館の上を鋼鉄の高架が渡り、ごとごとと音を立てて列車が走る音がする。地上は地上で、道路を走る車は、博物館で見る百年前の車と同じく車体が四角張っていて車輪が細く、まるで馬のいない馬車のような形だが、異様にスピードが速い。小さな車体でびゅんびゅん飛ばして走るので、深冬は目が回りそうだった。どの車も屋根の上に釜のようなものを載せ、銀色味を帯びてきらきら光る蒸気を噴出する。
街の人々の服装も変わっていた。女性の多くは肩が膨らんだ長袖のブラウスに、きゅっとすぼまったウエスト、後ろがやや盛り上がったスカートを穿いている。髪を結い上げ、小さくてしゃれた帽子をちょこんと載せたところなど、うっかり映画の撮影所に紛れ込んでしまったのかと思うほどだった。一方で、ぼろぼろのショールを肩にかけ、いかにも貧しそうな、すりきれたブラウスとスカート姿の人もいる。男性は山高帽やハンチングをかぶり、三つ揃いのスーツを着ているか、薄汚れたジャケットにくたびれたシャツ、毛羽だった継ぎ接ぎだらけのズボン、という格好だ。
深冬は顔の前にもやもやと漂う蒸気を手で払いながら、猛然と行き交う車からクラクションを鳴らされつつ、向こうの通りへ向かって走った。すると妙に視線を感じる。ひそひそ耳打ちする声まで聞こえてきた。
「なあに、あの格好。まるで下着じゃないの」
「北方からの奴隷かもしれないな」
つまり自分たちは浮いている。深冬は急に顔が熱くなってきた。
「走ろう、真白」
深冬は真白の手を取って、人垣をかき分けてどこへともなく走った。こんな感じの風景をテレビで見たことはある──シャーロック・ホームズ。確か学校で、その時代は十九世紀のイギリスだと学んだはずだ。しかしこれほど居心地が悪いとは。
道路はいつものアスファルトではなく、ヨーロッパのような石畳で、下水がひどくにおう。山盛りのゴミ箱に蠅がたかり、深冬は「うぷ」とえずきかけて、口を押さえて逃げ出す。真白はと振り返ると、鼻の穴に栓をしても意味がないのか、顔面が蒼白だった。
「ったく、このブック・カースはやりすぎでしょ。街の名残がかけらもないじゃん。凝りすぎ!」
「ろこまれひくの、ひふゆひゃん」
「何?」
「ろこまれ」
「……ああ、〝どこまで〟? わかんない。とにかく大急ぎで、蛍子さん、泥棒狐を捕まえなくちゃ。具合悪いでしょ、真白」
「れもてがかひがなんひもなひよ」
「何言ってんのか全然わかんないってば」
石畳の道を走り、角を曲がって通りを渡りかけたその時、深冬は前をよく見ていなかった。
黒く大きな車──車輪に歯車がいくつも噛み合わされ、うねる排気パイプから蒸気をもうもうと吐き出している大きな車が、左方向から走ってきて、深冬のすぐそばで急停車した。ため息のような音と共に蒸気が充満し、その熱気を吸い込んだ深冬と真白は咳き込み、車のドアがばたばたと開いたことにも、シャコー帽をかぶった警察官たちが降りてきたことにも気づかなかった。
ふたりはあっという間に捕らえられ、手錠をかけられて車の荷台に押し込められた。
「ちょっと、離してよ!」
「静かにしろこの奴隷めが!」
警察官のひとりが深冬の右頬を平手打ちし、深冬は驚きに目を見開いた。じんじんと痛む右頬に手錠をはめられた手を添える。
怒りに毛を逆立てたのは真白だった。嘲笑いのさざめきが広がりかけた警察官たちに飛びかかり、少女の姿のままで首筋に噛みついたので、深冬をひっぱたいた警察官が「ぎゃっ!」と悲鳴を上げた。
「こいつを捕まえろ! 別の車輛に乗せるんだ!」
「真白!」
いくら不思議な力を持っているとはいえ、大の大人四人がかりで両手足を取り押さえられた真白は、動きを封じられてしまう。深冬は車に乗せられ、真白は路上で警察官に捕まったまま、車のドアは閉まり、発進した。
「真白、真白!」
深冬は叫んだが、真白の悲痛な泣き声しか聞こえず、みるみる遠ざかっていった。
黒塗りの護送車が、変貌した読長町を駆ける。巨大な鉄道橋が道の上を覆うように渡され、太い配管がいくつも地面を這い、大きなボルトで締めた継ぎ目の隙間から蒸気がもうもうと噴き上がっていた。
護送車内部には小さな窓がひとつだけついていたものの、鉄格子と警察官の監視のせいで、深冬はろくに外を観察できない。少し身じろぎしただけで、そばで見張っている黒ずくめの警察官が警棒で壁を叩いて脅してくる。読長町の住民の誰かが演じているはずなのに、さっぱり見当がつかない。
深冬は青ざめた顔で両手に視線を落とした。手首にかけられた手錠は奇妙な形をしていた──中心が空いた歯車が落花生のようにふたつ繋がっており、穴に両手首を入れると、歯車がそれぞれ回転しながら口径が小さくなり、隙間なくがっちりと噛み合う。深冬がどんなに外そうともがいても、びくともしなかった。
運転席との間には仕切りこそないが、近づくことはできない。荷台と運転席の間には大きな炉が口を開け、怪しげな紫色の炎を燃やしている。その炉を動力に、シリンダーのピストンが勢いよく上下して横木が動き、油で鈍色に光る鋼鉄のクランクが車輪を回し、うなり声を上げている。こんな奇妙なエンジンははじめて見た。これをえっちらおっちら乗り越える間に警備に捕まってしまうだろう。
護送車は途中で何度か停まり、その都度大きな音を立ててドアが開かれ、エメラルドグリーン色の作業服を着た男女が警察官の手で乗せられた。どこかで見たことがある顔ぶればかりで、やはりここはまだ読長町に間違いないのだとほんの一瞬安心したが、全員陰気な面持ちで、手には深冬と同じ歯車の手錠をはめられているので、すぐに気は沈んでしまう。壁に作り付けの狭いベンチに浅く腰掛け、誰ひとり口をきかずうつむいている。
乱暴な運転で街中を右に左にくねくねと曲がった後、車は警笛を鳴らし、けたたましい音を立てて停まった。
「降りろ! 降りろ!」
追い立てられるようにして作業服の人々は護送車を降り、深冬もその後に続く。
生まれてこの方、読長町以外で暮らしたことのない深冬だが、自分が今どこにいるのかまるでわからなかった。
駅も、商店街も、書店も、父が入院している病院も、存在しない。その代わりに鉄の塊のような巨大な工場がまとまって屹立していた。煙突から蒸気と煙が混ざった白い気体がもうもうと吐き出される。深冬は呆然となって見上げた。高層ビル並みに背が高い。まるで鉄の砦だ。その中心では護送車のエンジンを何十倍にも大がかりにしたような機械が、歯車を回し、稼働音を轟かせている。
今の読長町は書店ではなく、巨大なゲートを構えた工場街が中心になっていた。工場街はあちこちの方面と道が繋がり、まるで蛸が足を広げるようだった。そのすべての道に作業服姿の工員たちが列を作り、ゲートでタイムカードを押し、少しずつ順番に中へ入っていく。
これまでに経験したブック・カースとは、世界の作り込み具合が段違いだった。深冬は不安に押し潰され、悲鳴を上げて駆け出したい衝動に駆られたが、離れてしまった真白のことを考えてぐっと堪えた。
(つづく)