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試し読み

極上の「現実逃避」保証します!ミステリから怪談まで、本の世界を大冒険。深緑野分『この本を盗む者は』刊行直前特別試し読み#4

「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に変わっちゃう? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険することに――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行に先駆けて、特別に第一章をまるごと試し読み!



>>前話を読む

 読長町には全部で五十店ほどの、本に関係する店が点在しており、インテリア用にと装幀そうていが美しい本を買いに来る客や、しおりやブックカバーなど雑貨目当ての客から、初版本や希少な帯付き本、稀覯本を探しに来る客まで、あらゆるタイプの本好きを受け入れることができる。その中でも特にマニアックな本の蒐集家にとっての〝本の町〟の深層、核心は、やはり御倉館周辺の書店街だった。
 道場を出て来た道を戻り、ゆるやかな坂道をゆっくりと登ると、銀杏いちようの巨木と、御倉館が見えてくる。道はまるで川の水が中州に当たって分かれるかのごとく、二またに分岐し、その並びには灰色に汚れた古い古書店がずらりと、御倉館を囲うように軒を連ねていた。
 二またに分かれた道は、御倉館の敷地を囲み終えると再びつながり、さらにその先にある小高い丘に突き当たると、またまた分かれてT字路になり、一方は住宅地の奥へ、一方は駅方面へと流れていく。この緑茂る丘の上に、読長神社がある。再来月行われる〝水無月祭〟に備えてか、丘の斜面にのぼりを立てるためのポールがすでに並びはじめていた。
 書物をつかさどるという稲荷いなりしんまつる、読長神社への往来は多い。参拝客が賽銭さいせんを投げてがらんがらんと鈴を鳴らし祈る、その時に頭の中にある思いは、それはもうさまざまではあろうが、風に揺れる絵馬の内容はだいたいが書物や読書、書き仕事にまつわるものであった。たとえば、
〝八十年に出た『定本蒐書散書』の特装限定三十五部が十万円以下で買える機会がありますように〟
〝SF作家の陶片朴とうへんぼく太郎たろうのやる気を起こさせて下さい、もう二十年も新刊を待ってるんです〟
〝文芸新人賞をる! 絶対に絶対に今度こそ獲る! 獲らせて!〟
〝うちの書店の売り上げが良くなりますように。できればネット書店のイマゾンの経営を悪化させてもしくはスキャンダルが発覚して潰〟
 などなど、書物に関するありとあらゆる祈りや願望、呪詛じゅその言葉が、青空の下で風にあおられている。この〝本の神〟を祀るという神社に、書物の悩みを抱える人々が全国津々浦々よりやってくるのだが、読長町図書館の資料室に眠る本を読み、ここがいつから書物の神を祀っているのかを知る者は少ない。知っていたとしても口をつぐむだろう。
 ともあれ深冬は、この神社も、御倉館も、そこへ至る古本通りも、すべて大嫌いだった。神社が祭りで賑わうたび、祖母が非常に不機嫌になり、御倉館に誰か侵入するのではといつも以上に神経を張り詰める。今でも、死んだはずの祖母がすぐそばで怒っている気がしてしまうのだった。
 日が暮れて、街を包んでいた黄色と赤の光のヴェールが消え、空は濃紺の正体を現し、かすかに星を瞬かせている。御倉館に近づくと、大震災にも戦火にも耐えた大銀杏が電灯の光に照らされて、複雑に影を落とす。吹く風はそこはかとなく古本のにおいがする。大銀杏の裏にはブロック塀に囲まれた緑豊かな庭があり、その向こうに御倉館の屋根が見える。
 御倉館は洋館で、通りすがりに最も目をくのが、三角の切妻屋根を頂いたガラス張りのサンルームだった。どっしりとして角張った印象の館の中央が、一階から二階まで、一面の巨大な窓になっており、白く優雅な細い窓枠で彩られている。
 しかし館の中で陽射しをいっぱいに受け入れているのは、このサンルームだけだった。建物の大部分は極端なほど窓がない。作りは土蔵とほぼ同じで、土に漆喰しっくいを塗った壁に、換気用の小さな扉付窓がしつらえられている。なぜなら本は日光と湿気を嫌うからだ。
 人間ではなく本のために建てられた御倉館は、サンルーム以外に人間の居場所を用意していない。後を継いだたまきはより本に忠実で、庭を一部潰して増設した分館は、換気扇を設置したために扉付窓すらなく、まるで牢獄ろうごくのようだった。
 幼かった頃、父に連れられて御倉館に来るたび、深冬はわんわん声を上げて泣き「もう帰ろう」とせがんだ。漆喰の壁にはびこるつたは不気味だし、いまにも幽霊が出てきそうだ。大銀杏のぼこぼこしたこぶも深冬にとっては気持ち悪く、ここにいていいことなんてひとつもない、と思った。
 ブロック塀越しに覗き込むと、サンルームの一階の窓は暗いが、二階からはかすかに橙色だいだいいろの明かりが漏れ、中に誰かいるらしいのはわかった。
 高校生になった深冬はさすがに泣きはしないものの、庭の鉄門の錠前を開け、中へ入る時には心臓がばくばくと早鐘を打つ。ひるねの様子を確認したらすぐに家へ帰ろう。早く帰ってバラエティ番組を見て、明日あしたが土曜なのをいいことに夜更かしし、マンガを読むのだ。どうせ遊ぶ約束をしている友達もいない。
 色をつけはじめた紫陽花あじさい、葉の縁が白っぽいイワミツバ、スミレなどの草木でいっぱいの庭を通り、青いタイルを敷き詰めた玄関ポーチに立って、呼び鈴を押す。どうせ反応はないだろうと思っていたが、案の定ひるねは出てこなかった。
 父から預かったかぎをドアに差し込む──軽くひねるのではなく、ぐっともう一段階ひねって、ポーン、という機械音が鳴るのを確かめる。本当にこれで警報は解除されたのだろうか? 見上げれば、大手警備会社のロゴがついた警報装置が、知らぬ顔でドアの上にたたずんでいる。
 しかし深冬は首をひねる。警報装置の隣に、判読できない奇妙な赤い文字を連ねた、金属製の板が貼ってあった。あんなもの、前からあったっけ? いや、そもそも御倉館には近づかないようにしているし、たまに来る時は地面ばかり見ていて、玄関の上を見たことなんてなかった。
 不安で胸をざわつかせながら、深冬はドアをそっと開ける。警報音は鳴らなかった。
「ひるね叔母ちゃん?」
 外は夏日になることもあるというのに、室内はひやっとして、肌が粟立あわだつ。古本特有のつんとするにおいに、鼻の奥から上顎のあたりがしびれるような感覚がして、くしゃみが出そうになった。
 電気のスイッチを上げると、たちまち室内はオレンジ色に明るくなる。洋館とはいえ日本式には変わりなく、茶色と白のタイル張りの玄関には大きな下駄箱げたばこが置いてある。深冬はスニーカーを脱ぎ、スリッパに履き替えようとして「ぎゃっ!」と叫んだ。下駄箱の中にゴキブリがひっくり返って死んでいて、危うく触るところだった。
「……もう帰りたい」
 ゴキブリが晩夏の蝉のように死んだふりしていませんように。いきなり起きて飛んでいったりしませんように。泣きたい気持ちをこらえて祈りながら、深冬はひとつ間を空けた隣の箱から、スリッパをおそるおそる出した。
 絨毯敷じゅうたんじきの玄関ホールから廊下が延び、突き当たりの壁の手前で右に折れている。廊下を挟むクリーム色の壁にはそれぞれドアがあって、書庫へ続いている。
 右手の小部屋は御倉館のいわば〝創世記〟で、嘉市が二十歳頃に創刊から買いそろえた雑誌『新青年』や、大正時代末期に発売された円本の全集、翻訳本の近代名著文庫などの初期コレクションがおさめられている。一方、左手のL字型に長い部屋は、かつて一般公開していた頃の名残で、昭和時代の絵本や児童書、大人向けの娯楽小説や文学などが、棚にぎっしりと並んでいた。御倉嘉市のコレクションは基本的に小説、読み物が中心で、戦前から戦中、戦後にかけてのものがそろっていた。そして多くの蒐集家と同じく、版が変われば書い足し、評論が出ればそれも集める。
 ともあれ、深冬の興味はまるでそそられない。念のため開けてひるねを捜すが、無人だった。
 廊下を進んで右に曲がればサンルームへ着く。敷き詰められた赤い絨毯は何度となく踏みしめられてずいぶん平べったくなり、家具はいずれも上等だが年代物すぎる。翡翠色ひすいいろの長椅子には赤い毛布がくしゃくしゃに丸めて置かれ、枕が床に落ちている。便所はあるが出火の恐れがある台所はなく、一ドアの冷蔵庫が部屋の端にぽつんと置いてあるだけ。インターネットも繋がっていない御倉館の、唯一の連絡手段である黒電話は、受話器を外したまま床に置きっぱなしだった。道理で電話が繋がらないはずだ。
 ひるねの姿は、一階にはない。となればあとは二階だ。
 二階への階段はサンルームの左手にあり、その下のひしゃげた段ボール箱に、コンビニ弁当の容器や割りばし、鼻をかんだらしいティッシュなどが無造作に突っ込まれていた。
 部屋中散らかっている。それでも、テーブルの上に積まれた古い本はきっちりと隅をそろえて丁寧に重ねられ、開きっぱなしの本や、ページが折れ曲がった本などは一冊もない。
 本当に本以外に関心がないのだ、ひるね叔母ちゃんは、と深冬はあきれと尊敬が入り交じった複雑な心地で、窓の外を見た。とっぷりと暮れ、真っ黒い影となった家々の向こうに、濃いサファイア色の空が広がっている。
 サンルームを一階から二階へ上がる。サンルームは半分が吹き抜けになっており、壁は一階から二階まで一面が書架、二階の張り出し廊下から階下が見下ろせる。廊下はルーフバルコニーのように広く、この壁すらも本棚として活用されており、ぎっしりと本が詰まっている。ここにある書架以外の家具は、中央の手すり側にぽつんと置かれた革のソファとローテーブルだけだ。そこで、ようやくひるねを見つけた。

(つづく)

深緑野分『この本を盗む者は』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000257/


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