夜道恐怖症のはずの杏子を真っ暗な道で見つけた遼一。だがなぜか杏子は遼一のことを忘れていて――。
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◆ ◆ ◆
杏子だ。間違いない。声も笑い方も。
それは確かなのに、まるで、自分のことを知らないかのような口ぶり。
覚えていない?
鼓動が速くなった。落ち着け、と自分に言い聞かせ、
「…大丈夫なんですか、こんな……暗い道、一人で。もう遅いのに」
おさえた声音で、聞く。不自然にならないように。
「え? ああ、うん。でもここ住宅街だから、何かあったら大声出せばいいし」
平気だよ、と、明るい笑顔を見せた。
「まぁ、そうそう危険なこともないでしょ。あたしそういうとこ運いいし、腕力にも自信あるからもし痴漢にあっても撃退しちゃうって」
(違う)
杏子じゃない。
こんなことを杏子が言うはずがない。
少なくとも、目の前にいるのは、自分の知る彼女ではない。
混乱して、何を言えばいいのかわからなかった。沈黙が続き、杏子の表情が再びいぶかしむものに変わった。
落ち着け。もう一度、呼吸を整える。
「……先輩。俺、先輩を家まで送ったことあるんですけど、覚えてますか」
「え? 噓、ほんとに? なのにあたし忘れてたの? えー……勘違いじゃなくて?」
「先輩の家、この先の、二階建てですよね。門のとこにミントとバジルの鉢植えがあって」
「うっそ、やだ。あたし超失礼だね! ごめん、でも覚えてないかも……それいつ? あたしそんなに酔ってたのかな」
一つはっきりする。杏子は本当に、自分のことを覚えていない。ゆっくり息を吸って、もう一つの確認。
「夜道で、危ない目にあったこととか、ないですか」
遼一があまりに真剣な顔をしていたからかもしれない。
なんでそんなこと聞くの、といわんばかりの、きょとんとした表情を向けられた。
「ないよー。言ったでしょ? あたし運がいいから」
深く、息を吐いた。
忘れている。
彼女が忘れたかったことは、もう、彼女の中にはない。
嫌な記憶と一緒に、警戒心すら消えてしまったらしく、同じ澤田杏子だとは思えないほどだった。
どうして。
「……え、どうしたの? えっと、……吉森くん? だっけ」
困ったような声に、なかなか顔をあげられなかった。
あなたは昔夜道で危ない目にあったことがあってそれで夜道恐怖症になってあなたはそれを治そうとしてて俺とあなたは知り合いなんです家まで送ったのも一回じゃないし昨日だって電話で話したんですでもあなたはそれを全部忘れてるんです、
なんて。
言ったら、確実に変人扱いだ。
おかしいのは先輩のほうなんですと言っても、信じてもらえる可能性はゼロだった。
忘れられたショックや、起こった出来事の異様さに恐怖するよりも、混乱が先に来たせいだろうか。感情がついてこない。頭のどこかに妙に冷静な部分があって、そこだけで思考して行動しているようだ。そこ以外はシャッターが閉じてしまったのかもしれない。
数メートルの距離だったが杏子を家まで送り、そのまま別れた。何も訊けなかった。
広い方の通りを歩いて駅まで歩きながら、一人で考える。そこでようやく、頭が動き出した。
どういうことだ。
あれは演技ではなかった。夜道を一人で歩けていたことが、その証拠だ。杏子は、過去の事件も、遼一のことも、忘れている。忘れられずに苦しんでいたはずの記憶が、消えている。
何があった?
(記憶屋)
頭に浮かんだ名前を打ち消した。ありえない。タイミングがよすぎて、真っ先に浮かんだけれど。
噂の中の怪人に、何ができるはずもない。存在しないものが原因であるわけがない。
安易な結論に飛びつくな、と、自分自身を叱咤した。
考えろ。
架空の怪人探しにのめりこむほど、杏子は思いつめていた。自分を追い詰める思いの強さが、嫌な記憶を閉じ込めたのか? ありえないことではない。少なくとも、記憶屋が消したのだと考えるよりは。
そういうことが、起こるのだ。信じられないけれど、起こる。そう考えるしかない。人の脳は、解明されていない部分が多いというし、素人の自分には想像もできないようなことが起こりうるのだ。きっと。おそらく。
──以前にも、同じことがあった。
(遼ちゃんどうしたの?)
今夜の杏子と同じ、きょとんとした顔で見上げてきた……あれはまだ小学生の頃の、真希だ。
(何のこと?)
彼女が遼一の目の前で、まぶたが真っ赤に腫れるほど泣いた翌日だった。何の話をしているのかわからないと、無邪気に見上げてきた顔を今でも覚えている。
何が起こったのかわからずに、子どもだった遼一はひどく戸惑った。自分の記憶違いなのかとさえ、あのときは思ったのだ。
(誰、……ですか?)
真希。杏子。
自分のまわりだけで二人もの人間が、記憶を失っている。ぽっかりと、一部だけ抜け落ちたかのように。
覚えていたくない現実を、そこだけ都合よく、忘れるなんてことが可能なのか。納得はしていない、しかし納得するしかない。彼女たちは自分で、自分の記憶を消したのだ。
そんな現象が、起こるのだ。
意識しないで電車に乗って、二駅揺られて乗り換えて気がついたら最寄り駅で降りて歩いていた。自分の家より先に、向かいにある真希の家が見えてくる。真希の部屋の電気は、まだついていた。
背を向けて、自宅の鍵を取り出す。鍵の先端が鍵穴にぶつかって、かちかちと鳴った。
いつのまにか汗をかいていて、そのせいで背中が冷たい。震えているのも、きっと、そのせいだった。
(記憶を消す怪人なんて)
馬鹿馬鹿しい。自分に言い聞かせる。
記憶屋なんて、ただの噂だ。
*
次に杏子を見たのは、二日後の講義の席だった。
明るく笑って友達と話している彼女は、別人に見えた。以前から明るい人だったのに、何故そう思うのかはわからない。ただ、彼女の根本にあった何かが消えたことで、彼女自身も変わってしまったような気がしていた。声をかけることが、できなかった。
一言も言葉を交わせないまま、何日かが過ぎた。
「講演会、行く?」
「OBの人呼んで話聞くやつでしょ? 私、前にコラムニストの人が来たとき、聞きに行ったんだよね。けっこうよかったな。今回誰だっけ、弁護士?」
講義が終わり、荷物をまとめながら、杏子が友人と話している。掲示板に貼られていた講演会の報せのことを思い出した。様々な職についている卒業生を招いて、不定期に行われている講演会のことは、杏子から聞いたことがある。遼一は参加したことがなかったが、杏子は一年生のときから毎回参加していると言っていた。
「あたしは行くよ。今回のゲスト、若くてかっこいい弁護士なんだって」
「じゃあ私も出よっかな! 独身?」
「そこまでは知りませんー」
笑いさざめきながら、彼女たちは教室を出ていく。講堂ではなく大教室で行われるらしいから、そう大規模なものではないのだろう。講演会というよりは交流会のような感じだと、杏子が以前言っていた。弁護士という職業に興味はなかったが、杏子と話すきっかけになるかもしれない。手早く荷物をまとめ、後に続いた。
このまま、何もなかったように、杏子との接点がないまま卒業して、うやむやになってしまいそうな予感がしていた。こうして杏子を追いかけてみても、結局いつも、声をかけることはできない。忘れられてしまったという現実に、改めて直面するのが怖い気持ちもある。しかし、それだけではなかった。どうしてだよと、俺のこと思い出してくれと、詰め寄ってもおかしくないはずなのに、そうしようとは思わない。未練がましく近くをうろついてみたりしながら、決定的な一歩を踏み出すことはできずにいた。
講演が行われるという教室に入り、講義のときと同じ、杏子の斜め後ろの席に座る。
この大学には法学部がない。だから、弁護士のOBというのは珍しい。そのせいか、講演が始まる頃には、大教室がほぼ満員になった。
拍手で迎えられた弁護士は随分と若く見える。せいぜい三十代前半だろう。しかも、モデルでも通用しそうなルックス。部屋を埋めている半数以上が女生徒であることに納得した。
「こんにちは。高原智秋です。うわー皆若いなぁ」
弁護士というイメージからは多少外れた外見だと思ったが、口を開いてもどこか軽い印象だった。しかしさすがに舌は滑らかで、学生時代の話から、仕事の話まで、時々ユーモアを交えながらすらすらと話す。退屈そうにしている学生は一人もいなかった。
高原弁護士のテノールをぼんやりと聞きながら、杏子を眺める。
彼女に惹かれていた。好きだった、と思う。それなのに、何故、自分はこんなに冷静でいられるのだろう。
まるで、脳のどこかに、安全装置がかかっているようだった。
耳元で聞こえていた電話越しの、杏子の泣きそうなあの声を、思い出せば今も胸が疼くのに。
「学生さんたちが、俺みたいな弁護士からどんな話を聞きたいかなんてわからないから、ここからは質問を受け付けようかなと思います。弁護士としての俺に、じゃなくてもいいけど、何か聞きたいことはありますか?」
杏子が、隣りの席の友人と顔を見合わせ、どうする? というように笑う。教室内がざわついたが、すぐに手を挙げる学生はいなかった。
やがて、端の席にいた茶髪の生徒が手を挙げる。
「法律の質問とかでもいいですか?」
「実際の事案について軽々しく答えるわけにはいかないんですが、一般的なことでよければ」
「友達が、俺が貸したチャリずっと返さないんですけど、勝手にあいつの家から持ってきちゃっていいですかね?」
「うーん、……勝手に取り戻すっていうのはまずいかな。盗まれたものを取り戻すっていうならともかく、……まぁそれも問題がないわけじゃないんだけど、平穏に貸したものを強硬手段で取り戻すっていうのは、窃盗罪になる可能性がありますね」
えー、窃盗? 自分のものでもそんなんなるんだ、などと、またざわめきが起こる。
「自転車は君の持ち物だから、盗んだことにはならないような気がするだろうけど、その人がその物を今現在持っている、支配している、その状態を害したことになるから……って言えばいいかな? 意外な権利を保護してるものなんですよ、法律って」
今度は、へえー、おおー、と、感嘆の声。遼一も、杏子を見ていた目を高原へ向けた。
興味が湧いた。
「相手が友達なら、やっぱりまず話し合いじゃないかな?」
質問をした男子学生は、素直にうなずいて礼を言う。
高原は教室の中心の方に向き直ったが、いきなり最初に法律関係の質問が出たせいか、他の学生たちは手を挙げ辛いようだ。彼がどんな質問でもいいですよ、と言うと、勢いよく最前列の女学生が手を挙げた。
「はいどうぞ」
「先生、結婚してますか?」
「彼女はいますか?」
間髪いれず、その横にいたもう一人がつけ加える。笑い声があがった。高原は動じず、にこりとして
「独り身です。残念ながら」
と答えた。
きゃー、と歓声。もはやOBの講演会という雰囲気ではない。そこからは、スーツのブランドや年収を尋ねる、俗っぽい質問が続く。
きりがないと思ったのか、さすがに苦笑を隠せない様子の高原が、手をあげて言った。
「はーい、そろそろプライベートに関わる質問は締め切りまーす。他にありませんか? 女性からの質問が目立ちますね。男性の方はー?」
教室をぐるりと見回した高原の視線が、遼一の上を通り過ぎる。
ちらりと杏子を見ると、ひそひそと、何やら友人と話して楽しそうにしていた。振り向かない。こちらを見ない。当たり前だ、彼女は自分を覚えていない。
遼一は再び視線をあげて高原を見た。
彼が言うように、自分のものでなくても、それを持っているという状態ですら、法律に守られる対象になるのなら。
(失われた記憶が、誰かの手によって消されたものだとしたら)
ありえないことだ。わかっているのに、何故こんなことを思うのか、自分でもわからない。わからないけれど。考えるだけ、意味のないことかもしれないけれど。
──ただ、杏子を、振り向かせたかっただけかもしれない。ほんの少しでも、彼女の心に引っかかるものがあったらと思った、自分ひとりこんな風に悩んで、全て忘れて彼女が笑っていることが悔しかったのかもしれない。
右手はジーンズのポケットに入れたまま、左手を挙げた。
〈第7回へつづく〉
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